第三十八話 交渉決裂


「そうか。もう五年も待たせたか」

「は、はい……」

「待ち切れないから、あのダンピールに鞍替えか?」

「いえ……決してそんなつも……ぐっ」

 震える赤い唇に、ドルーが自分のそれを重ねる。聖夜は力なく壁にもたれたまま見ていた。


 ドルーの口づけは麗を狂わせる。

 巧みに快楽を引き出す吸血鬼のキスに、人間の女がひれ伏す。欲情を刺激され、身体を震わせる。唇の隙間からうめき声と、熱い吐息をはく。麗は、かつて夢の中で見た女たちと同じ姿で、快楽を逃すまいと必死だった。


 これがヴァンパイアの口づけだった。刺激的で官能的だ。

 半分残された人間の本能は、魔性の行為に恐怖を覚える。残りの半分は、目の前で繰り広げられる行為に、胸の鼓動を高め、歓喜に身を震わせようとしていた。

 ドルーは麗の首筋まで唇をはわせた。目が妖しく光り、鋭い牙が伸びた。


「ああっ」

 ドルーの牙が皮膚を切り裂くと、麗が喜びの悲鳴を上げた。恍惚とした表情をうかべ、ドルーのあたえる快楽に酔いしれる。

「あ……う……」

 麗の顔から血の気が引く。そのころになってようやくドルーは唇を離した。そして耳元で囁く。


「生死も意志も、マスターに支配される。それでもよいか?」

「……ええ」

「日の光と決別し、闇の世界で、生きることも死ぬことも自分では選べない。未来永劫それが続いてもよいか?」


「若くて輝ける時間なんて、まばたきほどの瞬間しかない。それを永遠にできるなら、すべてを捨てたっていい」

 身体をドルーにささえられながら、麗の弱々しい声がつぶやくように語った。

「そうか……」


 瞬間、ドルーがなにかを思い出すように、遠い目をする。過ぎ去ったときの彼方においてきたなにかが、とうに忘れたはずの感情を呼び覚ます。

「ならば、飲むがいい」


 ドルーは自分の胸元をはだけ、鋭い爪で皮膚を切り裂く。傷口からブラッディ・マスターの血がにじみ出た。


「闇の世界への、片道切符だ」


 麗の顔を傷口に近づけ、唇に流れる血を含ませる。赤子が乳を飲むように、麗はドルーの血をすすった。やがて飲み疲れたのか、麗は唇を離して、ドルーに身体をもたれかけた。

「始まったか」


 ドルーは麗を抱き上げて、すぐそばのゲストルームに入り、ベッドに横たえた。

「次に目覚めたときは、麗もヴァンバイアの仲間だ。おまえもこちらにこないか」

 ドルーは聖夜をふりかえった。


「おまえはブラッディ・マスターだ。わたしの血を飲んだとて、スレーブになるわけではない。自分の意志で行動できる。だれからも支配されない。数少ない、自由なヴァンバイアになれる」

 聖夜に手を差し出す。

「ともに、永遠の時間を生きようではないか」


「断る」

 聖夜はドルーの手を払いのけた。

「ぼくがここにきたのは、吸血鬼になるためじゃない。おまえの命を貰い、母さんを解放するためだ」

「命を貰う、だと?」

 ドルーはしばらく言葉をなくし、やがて大声で笑い始めた。


「ぼくはダンピールだ。吸血鬼を倒す能力を持った者だ。それを忘れたのか?」

「だれにそんな話を吹きこまれたのか知らないが、愚かな思いちがいをしているな。昨日までただの人間だったおまえに、その力が操れるか? 自分の能力を過信していることすら解らないのか」

 ドルーがいきなり聖夜の頬を殴った。吸血鬼の力は強く、その勢いでドアを破り、廊下に投げ出された。


「もう一度聞く。我らの世界にこないか? 一度知った血の味は、なにがあっても忘れられない。おまえはもう、人間社会では生きられないのだぞ。家畜の中で、家畜と対等に生きるなどできるわけがない」

 壁に打ちつけられて、全身が痺れている。目を開けると、そばにドルーが立ち、見下ろしていた。


 人間には戻れない。人間社会では生きていけない。

 夜に息づく魔物たちの世界。聖夜はその扉を開け、足を踏み入れてしまった。もう二度と引き返せない。

 ドルーは動けないでいる聖夜に手を伸ばした。


「父として、おまえをこちらの世界に導いてやろう。新たなるブラッディ・マスターの誕生だ」

 一度は命を奪おうとしながら、血のつながりで縛ろうとするのか。今になって父親面するつもりか。


「あなたは父じゃない。ぼくを育ててくれた父さんが、本当の父だ」

 ——心配しないで。今夜は無事に帰ってくるよ。

 月島と交わした約束は忘れていない。なにがあってもドルーの手は取りたくない。

 ——無事で帰ってこいよ。おまえは我々の希望だからな。

 不意にレンの言葉が脳裏をよぎる。

 夜の世界に半分身をおいた自分を、待っている人たちがいる。


「ぼくの生きる場所は、夜の世界じゃない」

 聖夜はドルーの手を取らず、自力で立ち上がった。全身の痛みと痺れは短時間で消え、なにごともなかったかのように、普通の状態に戻っている。これがダンピール、そして吸血鬼の回復能力なのか。

「交渉決裂か」

 抑揚のない声が響き、聖夜は首に手をかけられた。


「軽く力を入れるだけで、すべてが終わる。ダンピールといっても、あっけないものだな」

 力を入れようとしたそのとき、聖夜は胸元を飾る十字架のネックレスを引きちぎり、ドルーの手にあてる。ヴァンパイアの皮膚が焼け、聖夜の喉にかけられた手が引っ込められた。


 間入れず杭を手にし、胸に突き立てる。ドルーは一歩下がってかわし、聖夜をおいて走り去る。飛び込んだ部屋には、壁にかけられた剣があった。聖夜の頬を傷つけた刃だった。ドルーはそれを手にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る