その間際、彼の唇から漏れた音

つるよしの

その間際

 気がつけば、俺は見知らぬ地下室に乱暴に転がされていた。

 

 つい先ほどまで喰らっていた尋問――いや、拷問による腹部の傷がずきずきと疼く。そんな俺の手をこれまた乱暴に引き起こすべく、複数の人間の腕が伸びて来る。奴らの顔は俺には見えない。俺の目に映ったのは、血に汚れた友軍の軍服を身に纏い目の前に伏していたひとりの人間の身体だ。


 おそらく彼も俺と同じような拷問を受けたのだろう。その身を染める血は彼自身のものに他ならないと、俺は本能で悟った。だが、奴らはただぼんやりと俺が彼を眺めているような時間は与えてくれなかった。奴らは彼をもまた、その後ろ手に縛られた手を引きずり起こし、俺の前に後ろ向きに跪かせる。

 それから、奴らは俺の手に何か冷たいものを握らせた。

 それは、捕縛時に奴らによって取り上げられた、俺の短銃だった。

 そしてその銃口を、俺に背を向けて跪いている彼の後頭部に押し付けるよう、奴らは嗤いながら俺に命じた。


「こいつを殺せ。そうすればお前の命ぐらいは、助けてやろう」


 奴らのひとりがそう俺に語を放つ。俺の掌はいつのまにか汗ばんだ。こんなに冷えた空気が満ちるコンクリート造りの地下室だというのに。腕が震える。それを見て奴らはまたも声高に嗤い声を上げる。


「おやおや、怖がってるぞ」

「そりゃそうだ。仲間を殺せば、生きて還っても、軍法会議送りだからなぁ」


 口々に俺をそう嘲る奴らの声が耳に飛び込んでくる。不意に俺は奴らのひとりから背中を蹴られ、よろめいた。ぐっ、と息が詰まる。そのとき、俺は目の前の自分が銃を突きつけている相手の正体に気がついた。

 この血に汚れた赤毛は、同じ部隊に属する、若い兵士のものだ。たしか新兵で、この戦争の開戦直前に俺の部隊に配属された若者ではなかったか。


「早く撃て。生き延びるチャンスをむざむざ無にする気か?」


 俺の背を再び奴らが強く蹴る。それから、二度、三度、いや数え切れぬほどの回数、俺の身体はまたしても奴らにやんやと嬲られ、口の中に血の味が滲んだ。絶え間ない暴行を経て、奴らに抵抗する気力が、時間とともに萎え、崩れていくのを俺は意識の向こう側で感じとる。それはどこか別世界での出来事のようで、こうして身体に苦痛を感じていても、なぜだか現実味が無い。


 そのとき、不意に目の前の赤毛の若者がなにか呟いて、俺は、はっ、と意識を彼に戻した。

 よく聞けば、それは言葉では無かった。歌だった。

 彼は掠れたちいさな声で、微かな旋律を漏らしていた。後ろを向き目隠しされた彼の表情を窺い知ることは俺には叶わない。さぞかしその歌を口ずさむ唇も、赤くただれ、腫れ上がっていることであろう。

 だが、彼は微かな声であったが、歌い続けていた。どこか聞き覚えのある旋律だと俺は記憶を探る。そうだ、俺の故郷に程近い海辺の地方に伝わる古い歌だ。それも、確か婚姻の儀において歌われる歌曲ではなかったか。


「……おお、ハンナ。ハンナ。俺の灯火、日日を照らす光よ。心を満たす豊かな海よ。これから永久の時を共に過ごすお前と、俺はいま、契りを結ぼう……」

「五月蝿え! 早くっちまえ!」


 奴らが彼のハミングを遮って罵声を上げる。この汚れきった、醜い場に似つかわしくない彼の歌声は、奴らの心情を逆撫でするに十分だったようだ。

 そして、そのとき、俺の心の中でも、何かが、爆ぜた。


 俺は次の瞬間、自分でも訳のわからぬ意味不明の咆哮を口から上げながら、手にした銃の引金を引いていた。



 俺が味方の部隊に救出されたのは、それから5日ほど後の早朝だった。


 俺が囚われていた敵の拠点は、電撃的な味方の襲撃によって完膚なきまでに叩きのめされ、俺は九死に一生を得た。連日の拷問により身体のあちこちを痛めつけられていた俺はすぐに野戦病院に送られ、治療を受けた。そして数日後、俺の傷が癒えてきた頃を見計らって、俺は上官に捕虜になっていた間のことについて聴取を受けた。


 俺は答えられることを率直に上官に告げたが、ただ一点、同じように虜囚になっていた仲間がいなかったかと聞かれたときは、短く、知らない、そのような者は見かけなかった、とだけ答えた。


 上官はなにか言いたげな視線を、ちらり、と俺の顔に投げかけながらも、ただ、そうか、とだけ静かに頷きながら、呟いた。

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その間際、彼の唇から漏れた音 つるよしの @tsuru_yoshino

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