第9話 決意を胸に

 ピクリ…と、三角の耳を立てたシェパード犬が主人の顔を見上げた。


 ジャーマン・シェパードは、ドイツ原産の犬種だが、日本国内ではシェパードと呼称されることも多い。 かなり大きな大型犬だ。


「…どうした? ケルベロス」


 犬の飼い主は、黒い艷やかな長い髪を一つでまとめた少年である。


 ケルベロスが小さな少年に鼻を鳴らした。

 ケルベロスの黒い目を覗き込んだ少年が、いたずらっぽく笑う。


「…そうかぁ。深海の牢獄となると、ゼウスでも、そう簡単には抜け出せないんだろうなぁ」


 潮風にのって届いた匂いと音を、ケルベロスが正確に少年に伝えたようだ。


 ケルベロス…。

 ギリシャ神話では、冥界の王ハデスに使えた番犬。 伝承はさまざまだが、三つの頭を持ち、 尾は蛇、首の周りにものたうつ蛇が生えているなどと言われるが、それだけケルベロスの牙が恐れられていたのだろう。


 このケルベロスは頭は一つだが、大きな牙を持つ。


 そんな巨大な犬に、少年は自分の顔をうずめた。


 知らない人がみたら、子供が大型犬に襲われているように見えるだろう。


 だが、少年に抱きつかれたケルベロスは大人しくおすわりをして、愛嬌のある丸い目を遥か眼下に向ける。少年を守るべく警戒を怠らない。


「ねえ、ケルベロス。ゼウスは、必ず僕の前に現れるよ。昔から、ねちっこいからね。あーあ。僕は…どうしようかなぁ。戦いとか、めんどうなんだよねー。関わりたくないなぁ」


 ケルベロスはピンクの舌で、少年の顔をぺろりとなめた。


「なに? ケルベロス。大丈夫だよ…。僕は何も心配してない。もう暫くは、傍観者でいるつもりだし…。どうせ黙っていても、そのうち誰かが接触してくるんでしょ? それまでは…おまえも、気を抜いていいんだからね」


 少年の言葉に耳を傾けていたケルベロスが、前足をおって緑の草むらに伏せる。


「さあ、誰が最初に現れるんだろうねぇ」

 

 少年の大人びた瞳が、朝の陽射しを抱いた丘を見つめた。


 辺り一帯、丘の上に咲くカノコユリが風に揺れている。

 紅色の斑点模様が、鹿の背のまだら模様に似ていて美しいというより、可愛らしい。

 絞り染めの一種である「鹿かの子絞こしぼりり」の模様に似ていることから名付けられたとも言われているが、緑の丘に揺れる白と光沢のある赤の花びらは鮮やかに映え、冥界に入るステュクス河のように揺れていた。

 その先にいる少年とケルベロスの元にたどり着くには、渡し守の水先案内が必要だったりするのだろうか…。

 

「戦は…嫌いなんだよなぁ…」


 その呟きが、激闘を終えたばかりの彼等の耳に届く事はなかった。



 *  *  *



 遥か彼方、神々の時代、海王ポセイドンはいくどとなくゼウスにいくさを仕掛けたと言われている。しかしその伝承が偽りだと、市ノ瀬を見ていてわかった。


 ギリシャにあるマタパン岬沖の灯台には、今でもポセイドンの神殿と、冥界の王ハデスの居住に繋がる洞窟がある。

 この先のエーゲ海に…、神代の時代、ポセイドンが沈めたゼウスの帝国があるのだとしたら…。

 ゼウスの復活をいち早く阻止する為の監視場所が、ポセイドンの神殿だったのではないだろうか? 


 だから今回も…、市ノ瀬は海の牢獄を監視する為に病院を離れようとしてたのか…。


 ゼウスの復活。

 …できれば、自分達が生きている間はやめてほしい。

 全能神と言われたゼウス。

 風をいのままに操り、驕り高ぶる心に反省の文字はない。


 …きっと又現れ、世界を混乱に貶めるのだろう。

 

 槇村は市ノ瀬に過去のしがらみで、また力を使わせたくなかった。


 怖いとか…、恐ろしいとかではない。


 神の力を誰よりも嫌悪しているのが、市ノ瀬だと知ってしまったから。


 あいつも、そうとう頑固者だな…。


 しかし彼が黙って消えようとした事を許せなかった槇村も、頑固者なのかもしれない。


 …同じ頑固者で、人の為に身を削る不器用者。


 …だが今は、市ノ瀬と出会えた奇跡を感謝したい。


 たった一人で、世界の運命を抱えこめるほどの男に、いつか自分もなれた時、海王の親友だと言わせてもらおう!


 槇村の強い決意は、海の上を渡る風が優しく抱きとめる。

 知らずして使った槇村のいのりは、市ノ瀬の心を暖めていた。


われは、ティターンの一族の名を継ぐものなり…。全能神ゼウスを深海の牢獄に捉えた。いかなるものも、この牢獄を開ける事を禁ず。海の揺りかごが、いつかこの男の野心をも和ぎる事を願って…」


 さざなみが煌めく。風が動いた。


『……承知』


 潮風に紛れ、微かに甘い花の匂いが届いた。

 それは、カノコユリの気配…。

 優しい印象のまま、あどけなさが残る声だった。



 菜々アテナは思う。

 今の世でも大きな戦が絶えない。その度に建物は壊れ、子供は傷つき、尊い命が失われていく。 


 なぜ人間は、これほどまで愚かなことを繰り返すのか…。戦うことなく解決する道こそ、人にしか出来ない未来への道筋のはず。


 血を流して倒れている者に、目を背けてはならない。命と引き換えに守るべきものがあるのだとしたら、それはただ一つ。

 その胸に抱きとめたい人の命が、脅かされた時。


 あなたが愛するものの為に、命をかけると言うのならば、私は力を貸そう…。



           おわり








 



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