嬌声に沈む

天ケ谷 遼太郎

嬌声に沈む

 暗がりの通りに提灯が灯る。一つひとつはほのかな光でも、延々と続く置屋の前に並べられると、廓を夜に浮かび上がらせるには十分だった。

 部屋の中にも明かりがつき始め、廓は徐々に夜の色を取り戻していく。人々が寝静まる刻限に粛々と、けれど深まる夜に誘われるように活気づき、どこか浮世離れしたそこは特殊な熱を孕んでいった。

 重々しい響きと共に、東の門が開かれる。東の門は、俗世と隔離され、閉鎖されたこの場所を外界と繋ぐ唯一の出入り口だ。よそから来た男はそこを通って、この夜の街へと足を運び、並べられた置屋の中で一夜の夢を買う。

 置屋は女の蔓延る夜の舞台。情欲渦湧く淫婦のもとで、男は欲を焚き付け淫靡に励む。それはさながら盛りのついた獣のごとく。夜の匂いはそれだけ人を狂わせる。

 そして、そんな置屋の中で今日も知らぬ男に身体を赦す。


 外を見れば、提灯の灯りに魅せられるように男がふらりとやって来る。蝶のように舞う男はやがて一つの光に留まり、手を引かれて取り込まれていった。

「ちょいと、そこの主さん」

 女は周りの色香に負けないように、提灯の色に霞まないように、惑わすように男の手を引いた。

「わっちの夢に興味はないかい?」

 その男にだけ聞こえる声音で、囁くように、言葉で体を包み込んで己の内に閉じ込めるように、魅了していく。

「そうかい。後悔はさせないよ。思うがままに身を委ねてくれなんし」

 少し上気した顔色で頷く男は女の手を取り、店の中へ入って行く。そしてゆっくりと歩みを進めていくと、ある小部屋に通された。

 部屋の真ん中にある布団の上に男が立つと、女は静かに襖を閉じる。すれば、二人の短い夜が始まる合図だった。

「楽にしておくんなし」

 女は男に声を掛けると、鮮やかな着物をするすると脱ぎ始める。女を隠す衣装が暴かれ、男の視線はその胸元に釘付けとなった。

 やがて、薄絹になった女は胸元に伸びる男の呆けた視線を遮ることなく、一歩ずつ近づいていく。男の前まで来ると、その肩に小さな手を置き、ゆっくりと男を座らせていった。

「さて、どのようにいたしんしょう」

 耳元で囁いた。すると男は勢いよく女の肩を掴み、布団に押し倒した。

 鼻息を荒くする男の下で、それでも女は妖艶に微笑んだ。

「優しくしてくんなまし」

 そして、また夢が始まった。限りなく理性を捨てた理性を持った獣に可憐な女が貪り食われる、そんなような夢が。


 夢が終われば、現実が待っている。暑い夜の一片を共にした男は安くはない夢を買い、その店を後にした。

「どうかしたかい? 主さん」

 最後に男は女の名前を聞いた。きっと、夢の記憶と共に脳裏に焼き付けるためだろう。

 名を聞かれた女は小さく微笑んだ。そして、はっきりと己の名を名乗った。

「わっちは綾姫。綾姫でありんす」

 それを聞いた男は満足そうに綾姫の名を呼ぶと、最後に数枚の金貨を握らせ、夜の街へと舞って行った。

「また夢が見たくなったら、わっちのところへ」

 夜に繰り出すその背中に甘えるように添えた一言は、提灯の明かりに霞んでいくのだった。



 外は一段と賑やかだ。提灯の明かりとはまた違う明かりが通りを練り歩く。

 花魁道中。男の視線をも見事に装飾品に変える花魁が道行く男の欲望に火をつけていき、優雅に歩いていた。後ろにはたくさんの新造や禿が続き、それは大名行列さながらの光景だった。

 赦せなかった。綾姫にはそれが妬ましくてたまらなかった。

 綾姫の視線の先には一人の男が立っている。綾姫が恋焦がれてやまない男。ずっと前に綾姫の夢を買い、それ以降交わっていない良い男。

 そんな男の視線は当然のように花魁に向いている。遠くからでも分かる。男の目には情欲の炎が揺らめいていた。男の身体は決して手の届かぬ女を求めていた。

「わっちが」

 あの一夜で、男を魅了しようと思った。己の虜にして、新たなおゆかり様を手にしてやろうと思った。しかし、魅了されたのは女の方だった。

 男の声が女の耳朶を撫でると、女の股はゆっくりと湿っていった。男がこぼす言葉の数々は女の柔らかい部分に突き刺さった。暗がりに沈む男の顔を見れば、叫びたい思いで胸が満たされた。

「わっちが」

 綾姫の前を花魁が通り過ぎていく。あと少しなのに、花魁を追いかけるその視線を捉えることは出来ない。綾姫にはそれがたまらなく悔しく、嫉妬でどうにかなりそうだった。

「わっちも」

 いつか、男の視線を奪いたい。自分が求めるのではく、男から求められたい。

 そんな夢を、いつかは見たいと思う。


 綾姫は今日も、永い夜を知らぬ男の中で過ごしていく。その頭にあるのは、あの男のことだ。

「ちょいと、そこの主さん」

 あの花魁道中以降、しばらくは押さえていた恋慕の嵐が蘇り、女の心を荒らしていた。女は常にその顔を探し、人混みに見つければ晴れやかな気分になっていた。でも、そんな男は女の事なぞ覚えてはいないことを女は分かっていた。一夜のうちの、たったのひと時交わっただけの無像の女の一人。男にとって女はその程度の相手だった。

「なぁ、そこの旦那」

 男を呼ぶ間隔が短くなっていく。男の事を考えて、男ではない知らぬ男にその身を鬻ぐ。

 何かを求める様に乾いた体を満たしていくのは、飽きるほどに煽いできた男の体液。

 そろそろ、違う刺激が欲しかった。

「ねぇ、主さん。わっちの夢を買わないかい?」

 そうして捕まえた名も知らぬ男。

「後悔はさせないよ。わっちに身を委ねておくんなし」

 綾姫は今宵も嬌声を響かせる。

 彼を思って、声を響かせた。


                  *


 かくして、女の人生は正しくつまらないものだった。

 女の恋は正しく酷いものだった。

 綾姫の身体は、毒に侵されていた。


 男に焦がれて四年が経った。焦がれるだけで四年が経った。あの人が迎えに来てくれるという妄想を始めて四年が経った。

 四年の内に女の体は使い物にならなくなっていた。時間の流れは末恐ろしいものなのだと、女は薄暗い小屋の中で一人笑う。

 今一度、男に会って誘惑したい。そんな思いに駆られるも、やせ細ったこの体では大した勝率は見込めなかった。


 女は少し前に男に会っていた。二年ぶりの再会だった。

「ちょいと、そこの主さん」

 いつものように声を掛けると男は立ち止まってくれた。

「わっちの一生を買わないかい?」

 気持ちが先走って思わず聞いてしまった。今まで胸に秘めていた想いをぶつけてしまった。

 だが結局、男はその夜を買わなかった。綾姫の手を取ることは無かった。そして、綾姫を買うことはなかった。

「わっちも、とんだ阿呆だねぇ」

 綾姫は静かに呟く。

「こんなところに来なければ、わっちも」

 賊に攫われ、売り飛ばされて、あれよあれよとたどり着いた廓の中。こんなところにさえ来なければ、わっちの人生ももう少し華やかだったのだろうか。


 東の門が閉じられた。

 永い夜も、もうじき終わる。


「結局わっちは、最後まで言えなかった」

 あの男にこの想いを伝えられなかった。心残りがあるとすればそれだった。でも、

「だからかねぇ。今だに夢を見られる気がしてるよ」

 徐々に女の瞼が落ちていく。思い浮かべるのは男と自分とが結ばれる世界。今までは見ることも許されていなかったその夢も、今だけは求めさせてほしい。

 そんなことを想いながら、綾姫は永い夜と引き換えに永い眠りについていくのだった。


 揺らぐ提灯が消えていく。

 響いていた嬌声が鳴りを潜める。

 夜が空けた。太陽が昇り、色欲にまみれた空気が浄化され始めた。


 そして、綾姫の恋は二度と戻らぬ夜の嬌声へと沈んでいった。












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