第2話 不機嫌な転校生

 翌日、学校に辞めることを伝えるため固定電話の受話器を手に取った。しかし、いざ電話をかけようとボタンに指を伸ばしてみるものの思うように動かすことが出来ない。身体が震え、呼吸が浅くなり、初めて父さんから事故を起こしたこと告げられた時のような感覚が俺を襲った。大丈夫、俺が辞めたところで誰も責めはしないはずだ。大丈夫、母さんなら俺のこと分かってくれるはず。何度も何度も、自分にそう言い聞かせて、どれぐらい電話の前に佇んでいたのだろう。変に気が焦っているようだ。電話は少し落ち着いてからにしようと受話器を置いた。その時、置いたばかりの電話が突然鳴り響く。慌てて受話器を手に取り、耳に当てると担任の先生の声が聞こえてきた。どうやら、一週間後の定期試験についての連絡のようだ。


『もしもし、担任の谷口です。日月たちもり昌くんのお宅でお間違いないですか?』

「はい、間違いないです」

『日月くん、来週には定期試験が始まるので試験範囲の連絡です。それと、明日クラスに転校生がやってきます。せっかくなので、学校に来て直接会ってみませんか?』


 そう明るく話す先生に俺は、試験範囲だけを聞き適当に気が向いたら行くとだけ伝え強引に電話を切った。辞めることは伝えられず、ただ学校に来る口実を無理やり作ったような話に気が乗らなかったのだ。正直言って、俺がクラスにいるだけで空気が重くなっているような気がするのに、わざわざ行って心を傷つける必要なんてあるのだろうか。静まり返っている教室が気まずくて、行く当てもないまま廊下に出ると、途端に教室が騒がしくなるんだ。一回二回の勘違いではない。そんな場所に居ても、俺の気分も悪くなるだけだ。だから明日も行くつもりはないし、俺は辞めるつもりでいるんだ。それなのに......


 朝目が覚めると家のインターホンが何回も鳴らされていた。おばあちゃんが朝から様子を見に来たのかと思い、寝起きの姿のまま階段を下りて玄関を開ける。そこにいたのは少し体格のいいメガネをかけた谷口先生、俺の担任だった。先生は服装に厳しい人で、化粧をしていたりネクタイをしていなかったりするとうざったいぐらいに説教をしてくる。だらしない恰好をし、寝癖が付いたままの俺は自分の頭をほぼ反射的に腕で覆い隠した。


「日月くん、おはようございます。今日はいい天気ですので、僕と一緒に歩いて学校に行きませんか?」


 額に汗をかきながら先生が言ってきた。いつも通勤時に使っている鞄を持っていない。どうやら学校からわざわざ迎えに来たらしい。炎天下と言っていいほど、外の空気は蒸し暑く俺の体を湿らせた。さすがにこの暑さの中外で待たせるわけにはいかないため、一先ず谷口先生をリビングへと通した。あの暑さの中外で待っていたのなら喉も乾いていただろう。冷蔵庫にお茶が入っていたので、それを紙コップに注ぎローテーブルの前に座っている先生の前に置いた。


「ああ、わざわざありがとうございます。先生はここで待っているので、日月くんは速く制服に着替えてきてください」

「いや、先生、俺行くなんてまだ一言も言ってないですよ......」

「そんなこと言わずに、行ってみれば案外楽しいかもしれないでしょう。それに転校生さんは日月くんのことは何も知らないわけですし、案外気が合うかもしれませんよ?」


 悪気無くそう話す先生にどんな対抗の仕方をしても面倒なだけだろう。そうだ、今学校を辞める話をしてしまうのはどうだろうか。ここで言ってしまえば、今日も学校に行かずに済むかもしれない。そう思って口を開こうとした途端震えはじめた手を強く握りしめ、俺の目を見て話をしてくれる先生を見つめる。


「......先生、俺学校辞めます。もう何もかも嫌になったんです。クラスに居ても居心地は悪いし、俺がいるだけでクラスのみんなは気まずそうに静かになるんです。そんなクラスに居ても何も楽しくないですし、自分がつらいだけじゃないですか。自分を傷つけてまで、無理をしてまで、学校に行きたくないです」


 そう言い切ると、俺は先生の顔を見るのが怖くなって視線を下に背けた。こんなことを言っても先生には伝わらないかもしれない。しばらく静寂に包まれていると、先生が大きく息を吐く音が聞こえてゆっくりと顔を上げる。怒られるだろうか。


「日月くんの言いたいことは分かりました。別に、無理してクラスに馴染めとは言いません。ですが、この話ちゃんとお母さんとは話しましたか? 家族の方はなんて?」

「......母さんにはまだ言ってません。余計な心配をかけたくないので」

「そうですか。日月くんの気持ちは分かりますが、今日は学校に行きましょう。事情を知らない転校生に今の現状を見せましょう。もし日月くんがお母さんに連絡をしないのなら、僕が連絡をさせていただきます」

「分かり、ました......」


 妙に転校生を話に持ってくることへの違和感はあるが、言いたいことが言えた開放感のようなものを感じた。自分の考えを否定されたらどうしようという不安が拭い去り、気分がほんの少しだが軽くなったような気がした。よくよく考えれば、先生が俺をこうやって学校に連れ出そうとしたのは初めてかもしれない。きっと転校生に何かあるのだろう。明日も来いと言われている訳ではないから、今日行ってまた明日休めばいい。母さんには俺が心の準備ができたら話そう。できれば今月中がいいだろうか。先生から人伝に話されるより、少し遅くはなるかもしれないが自分から話した方がいいだろう。そう持ち直して、先生に声をかけてから制服に着替えるために自分の部屋へと向かった。


 先生は校舎に入ると、職員室にある日誌やら名簿やらを持ってくると言って、途中で別れて俺だけが教室に向かった。学校に着いた頃には始業時間ギリギリだったため、急ぎ足で教室に駆け込んだ。やはりクラス中の視線がものすごく痛かった。始業のチャイムが鳴ると副担の先生が教室に入ってくるが、谷口先生の姿は見えなかった。周りから意識を遮断するために、家から持ってきた本を開き読み始める。朝学習の時間が始まり、静まりきった教室の中から視線に似たようなものを感じ取れると、居心地の悪さが俺を襲ってくる。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら本に意識を向けた。地獄のような時間は、谷口先生がやってくるまで止まることはなかった。


 SHR開始のチャイムが鳴ると教室のドアが開き、谷口先生の後に続いてセーラー服を身に着けた一人の女子生徒が入ってきた。前の学校の物だろう。この学校は男女ともブレザーなため、セーラー服を着た彼女は異様な雰囲気を放っていた。さらに、少し眉間に皺を寄せていて、不機嫌な様子が垣間見えたためどこか近寄りずらい印象を受けた。


「おはようございます。前から予告していた通り、今日は転校生がやってきました。まずは自己紹介をお願いします」

「はい。八雲朝葵やくもあさぎです。制服をまだ受け取れていないため、今日一日だけ前の学校の制服で過ごします。よろしくお願いします」

「それじゃあ八雲さんはあそこの空いている席にお願いします」

「分かりました」


 そう言って八雲さんは先生に指示された窓際の一番後ろの席に座ると、荷物を音もたてずに置き、前と右隣の人と挨拶を交わしていく。様子が落ち着くのを待ってから、今日の連絡事項を聞いてSHRは終わった。クラス委員の号令で終わりの挨拶が行われると、みんなは同時に八雲さんの方へと集まっていく。俺はそれに構わず教科書を取り出した後、本の続きを読みだした。周りが騒がしいおかげで、俺に意識が向けられていないことが分かり、いつの間にかこわばっていた肩の力を抜いた。今日は一日この調子だろう。そうなってくれれば、無意味に教室を出る必要がなくなる。自分に意識が向いていなければ、人目を気にせずゆっくり過ごせるだろう。谷口先生が異様に俺を連れ出そうとした理由は引っかかるが、いちいち考えても無駄だ。言ってこないってことは知る必要はないってことだろう。一日我慢して、明日は家でゆっくりすればいい。自分に言い聞かせるようにそう考えていると、さっき教室を出ていったはずの谷口先生に教室の入り口から呼び出された。


 俺の名前が呼ばれると途端に静まり返る教室内。気にしていないふりをして、本にしおりを挟み立ち上がると我に返ったように騒がしくなるクラスメイトたち。一瞬で空気が変わるこの様に転校生は何を思うだろうか。俺がクラス内で暴動でも起こした奴に見えただろうか。それともなにとは言わないが、被害者に見えただろうか。それはないか。なんてくだらないことを考えているんだ俺は。席が後ろのドアに近い俺は、そこから谷口先生のいるところまで歩いていった。先生は申し訳なさそうな顔をしながら、俺と一緒に職員室の方へ歩いていった。俺が休んでいた間、ため込んでいたプリントを渡すためだそうだ。そういえば前に来たときは机の中を整理しないまま帰ったなと思い出す。廊下を歩いていても同学年、主に同じ中学出身の友達だった奴らは、俺を見るなり声を潜めて友達と何かを話す。それに不快感を覚えながら、俺は傷のついた床を見つめた。


 職員室でクリアファイルに纏められたプリントを受け取り、一時間目の授業を担当する先生と共に教室へ戻っていった。プリントはテストの後に提出するものがあれば、提出期限が明後日のプリントもあり俺の足取りは重くなる。プリントの山を見つめながら、ため息をついた。嫌でも学校に来いと、間接的に言われているようだった。特に何の面白みもない授業を聞きながら、お昼をどうしようかと考える。先生に急かされて家を出たためにお弁当を用意するのを忘れてしまった。最悪なことに財布も家に置いてきてしまったため、購買で何かを買うことも出来ない。財布に関しては忘れてしまった俺が悪いので、昼休みはどこかで課題でもやっていよう。さすが皆がお昼を食べている中で課題をやる気はない。まじめだと思われるのも嫌だし、教室で少しでも皆と違うことをしているとどうしようもない不安に駆られるのだ。自分だけが世間から取り残されているようなそんな感覚。まあ実際、俺は世間からは取り残された存在なのだが。


 時々板書をしながら授業を聞いていると、俺とは反対側の席からスマホの通知を知らせる音が鳴った。幸いにも前の席の生徒が騒いでいるため、先生は通知に気付いていない。通知がなったスマホの持ち主である八雲さんは慌てて持ってきた鞄に手を突っ込み、スマホは出さずに鞄の中で器用に操作をしているようだった。それを見ていたのは俺だけではなかったが、八雲さんは俺と目が合うなり苛立ったように顔を歪ませた。俺はすぐに視線を外し、ごめん、と心の中で謝った。どうやら彼女は俺のことが嫌いらしい。特に何かをした覚えもないし、なんなら初対面だ。いきなり目の敵にされる筋合いはない。そう言ってやりたいところだが、そんなことを口にする勇気を俺は持ち合わせていなかった。


 何事も無く授業は進み、お昼は空き教室で課題をし、また午後の授業が行われた。今日は身体と精神、両方の疲労が激しい一日だった。家に帰ると着ていた制服を脱ぎ捨てて、急いで風呂に入り布団の中にもぐりこんだのだった。

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