第13話 雨の日

 終業式の日。谷口先生と一緒に祖父母の家を出る頃には、曇り空が広がっていた。谷口先生には、俺が早退した次の日の放課後に祖父母の家でしばらく生活することを伝えたため、こうやってこの家まで迎えに来てくれていた。先生と肩を並べて歩いていると、ジメジメとした空気のせいで制服が肌に張り付いてくる。梅雨はとうに過ぎてたが、日本特有の夏の空気はいまだ慣れる気配はない。


 学校に着き先生と別れて教室の中に入った。教室の中はエアコンがついているため、さっきまでかいていた汗も引いていく。汗の影響で、肌はべたついていた。汗臭くはないだろうか。自分の席で小型の扇風機を使い涼んでいると、前の入り口から八雲さんがリュックを背負って入ってきた。八雲さんは自分の席に荷物を置き、俺と目が合うと鞄から何かを取り出してこちらにやってきた。


「おはよう、日月くん! 今日も蒸し暑いね。あ、もしよかったら汗拭きシート使う? 背中、汗ですごい濡れてるよ」

「おはよう、八雲さん。貰ってもいい?」

「もちろん。はい、どーぞ」


 椅子に座っている俺の周りをぐるりと一周してから、持っていた汗拭きシートをご機嫌な様子で差し出してくる八雲さんに戸惑いながら、それを受け取った。シートを使って汗をかいた個所を拭いていくと、フルーツのような香りが鼻腔をくすぐり思わず手を止めた。


「これいい匂いだよね。私こういう香りが好きだから、昨日ドラッグストアで見つけて衝動買いしちゃったんだ」

「......そうだったんだ。確かにいい香りだね」


 俺の席の前で楽しそうに話す八雲さんから、本当にこの香りが気に入っていることが分かった。俺はこの懐かしい香りに顔を背けて、八雲さんにお礼を伝えた。この香りは去年の夏、紫崎さんが好きだと言っていたものと同じ香りだった。


『日月くんと鎗本くん、すごい汗......私の汗拭きシート使う? これすごくいい香りだから、匂いも気にならなくて結構おすすめだよ』


 そう言って優しい笑顔を浮かべ、体育館の床に座り込む俺と水影にシートを差し出してくれる紫崎さん。その時、何も知らなかった俺は、その笑顔に惹かれたんだったな。俺は思い出しても意味のない記憶に蓋をして、八雲さんにお礼を伝えた。使ったシートは教室のごみ箱に捨て、他のシートの匂いに混ざって香りを見失った。


 一学期最後のHRが終わろうとする頃、雨が降り出していることに気が付いた。窓には無数の雨粒が当たり、次第に雨音が教室の中に届いていた。鞄の中に傘、入ってたかな。そう思い、鞄を机の上に置き中を探してみるも傘は見つからなかった。でも、別に徒歩通学だしこのまま帰ってもいいだろう。明日からは夏休みだし、風邪を引いても問題ないからな。


 HRが終わり、廊下の窓から雨の様子を観察しながら昇降口に行き、靴に履き替えてそのまま外に出ようとした。


「日月くん、何やってるの?」


 名前を呼ばれ振り向くと、傘を持って驚いた顔をした八雲さんがそこに立っていた。傘も持たずに外に出ようとしたのが気になったのだろう。俺は傘を忘れたことをそのまま伝えると、八雲さんはなぜか嬉しそうに顔を輝かせた。


「じゃあ、私の傘に一緒に入る? 日月くんの家、意外と私たちの家と近いから送るよ」

「え、いいの?」

「もちろん! 雨に濡れて風邪ひいちゃったら大変だしね」

「あ、でも今俺、じいちゃんの家から通ってるから八雲さん家とは方向違うと思うけど」

「え、そうなの? んー、でも傘もささずに帰って風邪ひいちゃったら大変だし......あ!」


 八雲さんは何か思いついたように、手を合わせると自分が持っていた傘を俺に握らせた。


「日月くん、悪いんだけど、ここでちょっと待っててくれる? すぐに戻ってくるから!」


 そう言って、八雲さんは駆け足でどこかに行ってしまった。俺は言われた通りここで少し待つことにしたが、俺が立っているのは出口のど真ん中だった。そのため、俺は靴を脱いでそれを持ったまま壁際に移動し寄りかかった。教室の方から人がぞろぞろと出てくるのを静かに見送る。鞄からスマホを取り出して通知を確認すると、ばあちゃんから帰りが遅くなると連絡が来ていた。俺はそれに返信し、そのままスマホを鞄の中に戻す。また人混みを眺めながらぼーっとしていると、流れてくる人の中から八雲さんが誰かの腕を引きながら飛び出してきた。八雲さんは連れてきた男の人の腕を離し、自分の髪と息を整える。


「ごめん日月くん、お待たせ」


 八雲さんが連れてきたその人は、八雲さんが転校してきた日のように綺麗な顔を不機嫌に歪めていた。どこか見覚えのある顔だった。俺はこの人と一致する特徴を今までの記憶の中から探り出し、思い出す。


「あ、スーパーの八雲さん......」

「あ?」


 そのまま声に出して言うと思い切り睨まれてしまった。そういえば、転校初日の八雲さんにもこんな風に睨まれたな。俺たちの様子に八雲さんは不思議そうに頭を傾げる。


「日月くん、この人のこと知ってるの?」

「いや、前にスーパーで会計をしてもらったことがあるだけで、初対面だよ」

「そうだったんだ。この人、私の兄の柊真とうま。私この人の傘に入れてもらうから、日月くんはこの傘使っていいよ。あ、でも私の傘じゃ女の子っぽいし日月くん嫌だよね。この人の傘使っていいよ」


 そう言って、俺が持っていた八雲さんの傘と柊真先輩の傘を入れ替えられた。


「え、でも夏休み入っちゃうしいつ返せば......」

「それなら夏休み中に一緒にどこか遊びに行かない? その時に返してくれればいいよ! どうせ家に傘はまだあるし」

「......わ、分かった。ありがとう、八雲さん。先輩もありがとうございます」

「別に......」


 先輩の目を見てお礼を言うと、そっぽを向かれてしまった。もしかして嫌だったのだろうか。それなら、今すぐ返した方がいいよな。


「あの」

「じゃあ、またね日月くん。後で連絡するから」


 俺の言葉を遮って八雲さんは柊真先輩の腕をまた引っ張りながら、そのまま帰ってしまった。水色の地にふちが白い蝶で彩られた傘をくるくる回し、人の波に溶け込んでいく。俺は完全に姿が見えなくなるまで、その後姿を意味もなく見つめていた。

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