第9話

 

 むかしは象牙だった気がするが、そこは時代で、帯巻きの竹箸になっていた。カチカチ音がする象牙よりいっそ扱いやすい。アンチエイジング薬膳とかいう名前がついて女性向けの仕立ては普段なら少し物足りなかったかもしれない。

 前菜の盛り合わせ、海老、山芋、茄子の塩炒め、青菜と塩卵とキノコの和え物、くずきり甘辛肉みそあんかけ。デザートのプリン。胃が小さくなっているいま、全部食べきれる自信がなかったから行儀が悪いのを承知で目当ての壺蒸しスープから手をつける。連れはチラリと視線を寄越したが何も言わなかった。

 材料は季節で変わるが今回はスッポン、花旗参、冬瓜、山伏茸。澄んだ上湯と乾物を握りこぶしくらいの素焼きの壺に入れて調味料を使わずに長時間蒸したスープはむかしむかし縁のあった女性のお気に入り。

「ご体調のご回復にお慶び申し上げます」

 祝福されて、俺は少しだけ笑う。鼻先で笑い飛ばしたのでも笑わされたには違いない。『本部』の独房に拘留されていた頃は食事どころか水さえ嚥下を拒否して、全点滴の中心静脈栄養状態だった。それに比べれば今はたしかに回復おめでとう状態。

「あなたに食事を誘われたことは所長に報告しています。お酒をお好きと伺っております。どうぞお召し上がりください」

 勧められたが今日やめておく。すきっ腹にビールを流し込んでいたのはあくまでも応急処置。体調がよろしくないときに飲むものではない。

「こちらの店を所長も懐かしがっておられました。横浜の本店でしょうが、何度か一緒に来たことがあるとか」

 それはずいぶんむかしのはなし。陸士卒業後にはバラバラに配属されるが、俺は東京で高志は横浜で、休みがあえば他の同期とも時々集まった。俺たちが本当に若くて

将来を嘱望されて、怖いものなしだった頃。

「毎回、あなたの奢りだったとか。けれど支払いの様子はなく支配人が挨拶に来ては芳名帳に署名サインをするばかり、あれはなんだったのだろうかとも仰っていました」

「よく覚えてるな」

「あなたが近衛師団から憲兵隊に転籍された理由は、内親王に恋慕されたからという噂が同期の間では囁かれたとか。本当ですか?自分は内親王のお手元金で飲み食いしたのだろうと所長は仰っていました」

「ガセだ。おそろしいことを言うな」

 俺の『曽祖父』は明治30年生まれ。ほぼ同年から十歳近く年上の内親王は4名ほどいらっしゃったけれど陸士を卒業したばかりの新任が先帝の直宮の視界に入るようなことはなかった。近衛は通常師団とは編成が違っていたが、それでも俺が配属された当時、輜重や砲術・騎兵含めて総数は2万近い。内親王に直におめもじの機会など滅多にありはしない。

「気に入っていただいたのは宮家の妃殿下に、だ」

「どちらの?」

「言っても分からないだろう。ちなみに、浮気の情夫のというお齢じゃなかった」

 母親よりも祖母の年齢に近い方とご縁があったのは、参内のお供をした侍女が急病になったのを医務室まで担いだから。侍女といっても宮中にお供するようなのは士族の娘の行儀見習いで、おせっかいな妃殿下に見合いを仕掛けられたのが仲良しになったきっかけ。俺は若い娘より妃殿下くらいの齢の人が好きでずっとそっちと喋ってた。バアチャンっこというよりばあやっこ。

「あなたを気に入ったやんごとない方の夫があなたを煙たがって、そのせいで東京から地方に出されたと聞きましたが」

「外地に転任する前に故郷近くに一度戻すのはあの頃の定例人事だ。戦死する前に故郷に錦を飾って来い、ナンなら結婚して子孫残して来い、ってな」

 青春時代ベル・エポックのことを話していると懐かしさに顔が緩む。喋らされてる自覚はあったがノセられておいた。

「俺や高志のメシ代を払ってくれてたのは夫の殿下だ。初見は用心棒連れで喧嘩腰だったがすぐに、次の非番は屋敷に遊びにおいで、ってな」

 じいやっこでもある寂しがりの新任少尉は時々お屋敷に伺って、飯を食わせて貰ったり番犬として飼われていたシェパードたちと庭で遊んでいたりした。徳川親藩の大名屋敷をほとんどそのまま流用した宮家のお庭は快適で、当時既に住宅難の大都会だった帝都のせせこましさとは無縁の心地よさだった。

「あなたのようだと生きることが楽しいでしょうね」

 あの頃はまあ、多少。なにせ二十歳だ。世界を思い通りに出来ると勘違いしがちな時期。

「それを所長にお話してもかまいませんか?」

「好きにしろ」

 明治維新で僧籍から還俗されたという殿下も、お若い頃は大変お美しかっただろう妃殿下も永眠されて久しい。子孫は絶えて宮家も戦後を待たず断絶してしまった。むかし来たことのある店はいまに続いてるが連れて来てくれた人はとおに居ない。

 百年ぶりの帝都に、少し感傷的になりながらむかしを思い出しているうちに食欲も出て、デザート以外は胃の中に収めた。

「召し上がらないならいただいても?」

 尋ねられて頷き、手をつけていない器を受け皿ごと交換する。高志もそういえば甘党で、胡麻団子だの馬拉糕蒸しパンだのは代わりに食べてくれた。

「土産を持って帰ってもらっても、高志は食べられないんだろうな」

 体に繋がれた管はそういうことだろう。

「固形物は難しいですね」

 予想していた返答だが少し落ち込む。魅鬼でも生餌でもないのに生きていること事態がおかしいんだが。

「所長についてご質問があればどうぞ。知っている限りのことは答えるように言われています」

「高志のことは本人に聞く。あの坊やは組織の中でどういう位置づけなんだ?」

「主観で申し上げるなら人質です。魅鬼からでなく、競合組織からの」

「なるほど」

 賞金稼ぎも一団体じゃなく、同族同士で反発しあうのは魅鬼だけじゃない。旧日本軍が陸軍と海軍で足を引っ張り合っていたことを知っている俺に現代の内ゲバを笑う資格はない。俺が作った旧陸軍系の組織は『殲滅は現実的ではない。政治経済の中枢に触れさせなければよし』っていう現実主義路線だが、それを甘いと思う連中もいるだろう。もちろん、を単純に欲しいやつも居る。

「魅鬼なんざそんないいモンじゃないと思うが。強くて生き残った固体の長寿が目立つだけで平均寿命は人間のほうがずっと長い」

「失礼ですが拝見する限りでは、いつまでも青春時代アドレスンスなのはすばらしいように見えます」

「俺のことなら魅鬼じゃないし、見目がすばらしいのは生まれつきだ」

「差し支えなければ寿命に関する知見をおかりしたく」

「100年間で国内国外あわせて80体くらいと遭遇したが生き残ってるのは10体も居ない。大抵は1年ももたずにいなくなる。縄張りと餌とりあって同族に殺されることが一番多いが見境なく餌に食いつきすぎて狩られることもある。とくに、東京ここでは」

 地方都市には魅鬼の数も少なく排除組織の目も届きにくい。

「そもそも、生餌に寄生しないと生きていけないってのが生物として致命的だ」

「若くて美しい男女を隷属させて養ってもらうのは、なかなか効率がいい生き方のように思えますが」

「生餌は齢をとらなくても疲れてやつれてガタがくる。あんまり長くはもたない。俺が知ってる男も五年続いたのは居ないって言ってた。そのへんはホステスのヒモと苦労は変わらない。安定的な専属契約には合意が必要だし、次々に上玉を乗り換えられる器量の持ち主はそうそう居ないだろう」

 800年、不自由なく暮らし続けてる規格外を知ってはいるけれど。

「使えば古びる。当たり前のことだ」

「まったく古びた容子のない方が目の前にいらっしゃるのですが」

変異体バリアントの理由は訊くな。わからない」

 香りのいい茶を飲みながら物騒な会話を終わらせて店を出る。運転は秘書の男、見送りにきた店員が恭しく助手席に提げた包みを置く。非接触型じゃなく、わざわざレザーのキーホルダーに包み込んだ鍵が廻されてエンジンがかかる。地下駐車場から地上に出た途端、眩しさに後部座席で目を細める。

「お住まいに戻りますが途中で寄りたいところがあります。二・三分で、車から降りられなくてけっこうです」

「かまわない」

 見えない腰紐つきでも久しぶりの外だ。帰り道が遠回りになるのはむしろ歓迎。乗り心地のいい高級車から眺める東京の街はむかしよりずいぶん賑やかだが、道行く住人の表情は少し余裕がないようにも見える。華やかな時代と場所に生まれあわせた幸運に感謝しつつ浮かれていた頃の、ふわふわとした幸福感が薄い。

「左手の麦の穂を描いた壁のビル、お分かりですか?ある飲食店のグループの本社です。いまどきらしくすぐ分かるチェーン店ではなく、一つ一つ店名を変えて独立店っぽくしていますが資本は共通です」

 言い方に思い当たることがあった。平日の昼下がり交通量は少なく、歩道を塞いで洒落たエントランスのまん前にどかりとマセラティのでかい図体を乗り付ける。

「正体不明のオーナーは外国人という噂で、雀荘や飲食店を手広くやっています。クラブラウンジやホストクラブには見目麗しい従業員を揃えてグループ内で循環し鮮度を保っている。なかに相当数、魅鬼が混じっていることは分かっています」

 生血を吸うのは魅鬼ばかりじゃない。ネオンの隙間で《人間の》ホストやホステスたちも客の生気を狙ってる。吸われて悦ぶバカが居るのも同様。

「繁華街の水商売でも、まともに働いている存在には排除の手を伸ばしにくい。泳がしているうちにそれなりの規模の複業企業コングロマリットだ。あなたの基準で、これは財界に地歩を築かれたことになりませんか」

 挑発的な駐車にガラス戸の内側で受付がざわめく。監視カメラの画像が社内で迅速に共有化されているだろう。たいして間をおかず一階に姿を現したのは警備員ではなかった。

「ご本尊を初めて見ました」

 背の高いゲルマン系の外国人。年のころは四十代の半ばごろ。バーのマスターとしては経験と研鑽を積んだ信頼が増す頃。ベスト・蝶ネクタイのバーテンダースタイルではなくノーネクタイのスーツ姿は知っている頃より若く見える。

 普通に歩くぶんには分からないが、走ると左足を引きずるのが少し痛々しい。思わず車から降りて支えたくなるが、ドアをロックされていることは分かっていた。

 車が無常に発車する。むかしのマスターが腕を伸ばすがもちろん届かない。伸ばし返してやれないからせめて流し目で笑った。ビルからわらわらと従業員が駆け出してくる。転んで助け起こされるのをバックミラーで痛々しく眺めた。

「……傷痍軍人だぞ」

 先達に対する尊敬と気配りが足りないことを責める。

「敗戦国の捕虜でしょう」

「貴殿のことをいま、少し嫌いになった」

「本部の襲撃ではずいぶん被害を蒙りました。ドローンとラジコンヘリの波状攻撃、沸点範囲の広い航空ガソリンに電池の発火装置つきです。電波干渉しようにも個体ごとに電波帯を変えているし、GPSを利用した自動飛行には本当にまいりました」

 思い出すのも辛いという声で、俺がほとんど覚えていない時期のことを話す。

「あのガキがあなたの旧邸を欲しがったせいであちらの軍資金は億単位、こちらは捜索されては困るので警察に被害届けも出せない。夜間はずっと起きていましたし昼間の仮眠中に飛行機やヘリの音がすると飛び起きてしまう。プロペラ音のトラウマは今も続いています。あちらも自暴自棄というか破れかぶれというか、心中上等の覚悟でのテロ行為を防ぐのは本当に難しい」

 マスターは第一次世界大戦時の砲兵だったと、むかし話を聞いた。遠距離からの間接攻撃は専門家だ。つるんでる玲一も夜討ち焼討ち市街戦の経験に不足はない。実戦を知らないで相手をするのは辛かっただろう。

「あなたの生存を我々はあちら側に知らせたくはなかった。けれども本当に焼き払われそうになって仕方なく情報解除しました。途端にぱたりと攻撃は止んだ。さっきの様子といい、あなたのことがよほど大切らしい。想われ人ですか?」

「爆撃で埋まってたのを戦後に掘りだした」

 第二次世界大戦末期の本土爆撃、麹室を利用した地下のバーは瓦礫で入り口が塞がれてそのまま、俺が帰国して落ち着くまで十年近く、放置されていた。

「生きているのですね、それでも」

「飢えの耐性は個体差が激しい。半月で死ぬのも居れば何十年単位で耐え忍ぶのも居る」

 それは食事というより性交の欲求と似ている。一週間で気が狂いそうになるやつも居れば何年しなくても平気なのもいる。吸血行為は性行為でもある。

「雛女で実験してたんだろ」

「ご明察です。泣き喚いてはいましたがたいして乾かず、死にもしなかった」

「……」

「ご不満ですか。意外と人道的だ」

「はっきり人道的だ俺は。ただ、魅鬼が人間じゃないから人道の範囲外って解釈は一理あると思う」

 俺が雛女を可哀想だと感じるのはあれが人間だった頃を知っているから。ふっと意識に、別の魅鬼が浮かぶ。あの意地っ張りはどうしているだろう。監禁されてるわけじゃないから好きにしているだろうが。

「申し訳ありませんが遠回りして首都高にのります」

 頷く。尾行を気にしているならムダだと教えてやらなかった。雛女とマスターのことで少し腹を立てていたから。GPSつきの酒瓶を住処に持ち帰ったガキを庇った要素もある。

 首都高をぐるりとまわって車は俺の監禁場所に戻ってくる。外から見るのは初めてだが見上げるばかりの巨大なタワーマンション。贅沢だとか豪華だとかの前に、直下型地震が来たらどうやって逃げるつもりだという不安が先行する。倒壊しなきゃいいってものでもない。

「神林氏をお連れした。開錠を」

 ナンバー自動読み取り式のシャッターが開いた地下駐車場に車を停めてから、秘書が家主に電話連絡。

「ここでいい」

 包みを持って部屋まで付いてこようとするのを断ってみたが、ご冗談をという顔をされただけ。エレベータで最上階へ、エントランスを経て玄関のドアを開けるとパタパタ、軽い足音。

「お帰りなさい。もしかしてお土産買ってきてくれた?すっごくいいにお……」

 俺の外出を羨ましがっていた雛女が飛び出してきて、俺の後ろに居る秘書に気づいて全身を強張らせる。ずいぶん酷いことをされたらしい。ついて来なくていいと言ったのは逃亡を画策したんじゃない。怖がるだろうから会わせたくなかった。

「それではこれで。明日も昼食のお誘いをお待ちしております。点心は今夜中にお召し上がりください」

 頷く。秘書が出て行って、また家主に連絡をとったんだろう、やがて電子鍵の動作音。スマホからの遠隔操作だ。

 逃げ込んだリビングに閉じ込められた雛女に声もかけてやれないまま自室へ。ジャケットを脱いでソファに腰掛ける。久々の外出は少し疲れた。うとうとしかかったところにドア横の端末から呼び出し音が鳴る。

「帰りに紹興酒買ってきてくれ」

 立ち上がりもせず、ソファに横になりながら言った。外出したことの文句や、何処に行ったかとか何を話したかとか、尋ねられるのが面倒だったから。

「少し眠る。おやすみ」

『ベッドで寝ないと風邪ひくよ』

 監視カメラの画像を見て連絡してきたらしい家主は可愛くないでもない。むかしのことを色々と思い出して感傷的になりかけた気分を振り切って、シャツを脱ぎながらベッドに移動する。絹毛布を頭から被って夢も見ずに眠った。

 




 

 

 

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