【八.事件解決の糸口】

「ふぅ~っ」

「あれ、警部。確か健康診断で引っ掛かったからって、タバコは辞めたはずですよね? いいんですか、そんなパカパカ吸っちゃっても。ま~た、奥さんに怒られちゃいますよ」

「うるへーっ。こうして煙を吸っていねぇと、考えがまとまらねーんだよ、俺は」

 若い刑事から『警部』の愛称で呼ばれた見た目、五十過ぎの男性は部下である彼が止めるのも一切耳を傾けず、口から真ん中がポッカリと開いていたドーナツ状の煙を吐き出し、そんな苦言を呈した。

 彼は東京都に本部を置く、警視庁公安部公安第二課の警部だった。

 警部を一般の会社における役職で言い表すならば、係長クラスといったところに値する。

 今、彼の乱雑に散らかった机の上に、一つの捜査ファイルが上げられている。

 その内容は、とある未成年の少年が原因で引き起こってしまった連続殺人事件について、まとめられたファイルである。

 本来、こうした書類仕事やファイリング作業は下っ端の仕事であると相場が決まっていたが、それでも彼は事件を担当する自分の手でまとめなければ、詳細な要領を得ないと、当事者として自らの仕事としてしていたのであった。

「警部のようなベテランでも、今回のような事件だと、手こずるものなんですか?」

「おめーだって、俺に付いて回っているんだから事の詳細は知っているだろうに。上層部みたく、野暮なことを改めて聞きやがるんじゃねーよ。ふぅーっ」

「うわっぷ。ごほっごほっ。や、止めてくださいよ、俺、タバコは煙でも苦手なんっすからっ!!」

 まるで嫌味を口にするのが仕事の上司のように言われてしまい、警部と呼ばれた男性は若い部下に煙を吐きかけた。

 彼は口にしたとおり、タバコの煙自体が苦手なのか、咳き込んでしまっている。

 さすがにこれ以上してしまえば、パワーハラスメントに該当してしまうかも、とタバコを灰皿に押し付け火を消した。

 それと同じく、彼は本題へ戻そうと、こう話しかけてくる。

「先週も、あの小説に感化されて、事件が起こったんですよね。ほんと、実の親を殺すとかって、今の若者は一体何を考えているんでしょうね?」

「しらねーよ、おりゃ。ただ、俺たちゃ公安だ。事件があれば、次の事件を防ぐよう仕事をする……ただそれだけだ。それ以上でも以下でもねー。給料分の仕事をするだけのことさ」

 愚痴を零す部下を叱責するわけでもなく、ただあるがままの事実として自分に与えられた仕事を全うする。

 それこそ給料分だけ働けば、それで良いはずの公務員でありながら、彼らは就業時間を過ぎてもなお、こうして部署の机で書類と睨めっこをしていた。

 些か彼が先程まで口にしていた事と矛盾していたが、それでも世の中は矛盾ありきで成り立っていると言える。

 また彼らの所属する公安とは、一般人が口にするような『刑事警察』とは違い、『思想警察』と呼ばれることもある。

 その理由は、警察が既に起こってしまった事件を解決することに留まる一方、公安はこれから起きるであろう事件を未然に防ぐのが目的なのだ。

 つまり社会性において彼らは、誰の目にも触れないよう人知れず、暗躍して事件を未然に防ぐのが仕事なのである。

 それは通常の傷害事件や殺人事件などとは違い、人が心の中で抱いた思想――つまりそれが指し示すところは、宗教や政治的活動、または何らかの思想により、国家国民に仇名す存在を排除する目的のもと組織された、言わば海外で言うところのスパイとも言い換えることができる。

 1990年代半ば、とある宗教団体が国家転覆を目論見、そして日本国内における毒物テロを計画、そして遂行に至ることになった。

 その結果が犠牲者数十人、負傷者やその後の後遺症患者まで含めると、数千人規模にも及ぶ国内最大のテロへと発展する。公安はその事件以前より、その宗教団体を注視していたにも関わらず、事件を未然に防ぐことができず、いまなお計画に参加した一部の者は逃亡中のままである。

 ドラマや小説などで派手に活躍する彼らの姿とは違い、実際問題、彼らの仕事は情報収集が主なので、大変に地味なものと言えよう。

 だがそれこそ近い将来、起こり得るであろう事件を未然に防ぐためには、仕方のないことなのかもしれない。

 なんせ事件が起こる前というのは、起承転結で言えば、最初の『起』に値する前段階なのだ。

 通常であれば、見つけることすら困難な事件になる前の事件を見つけ解決する……それが公安である彼らの主な仕事だった。

「まったく、上も毎度毎度面倒事を押し付けやがるぜ。へんっ! そんなにガミガミ言いてんなら、自分で解決すりゃいいんだよ!」

「け、警部っ! そんな大きな声だと聞こえますよ」

「あーっあーっ、分かってるよそんなことくらい。むしろ聞かせてやれってんだ!」

 次々舞い込んでくる終わり無き事件に嫌気が差したのか、警部である男性は愚痴を零すように遥か前方に座っている自分よりも年下の男性目掛け、そう言い放った。

 自分よりも学歴があるからと、年下である若い連中が上司としているのが彼は気に食わなかったのである。

 そして愚痴ばかり零す性格のためか、上司である彼からは疎まれ、他の人間が嫌がる事件ばかりを優先的に宛がわられていた。

「ったく。こんなものどうやって防げってんだ? 日本にいる未成年の連中を全員逮捕でもしろってんのか」

「さすがにそれはちょっと過激な考えというか、警部のほうがよっぽど犯罪を起こす側になってますよね。はははっ」

 先輩であり、年も自分の親ほどの年齢である警部に逆らえるはずもなく、若い刑事は彼を嗜める言葉とともに、乾いた笑みを浮かべるだけに留まった。

 もちろん警部である彼も冗談でそんなことを口にはしていたが、事件を任されてから早一年以上、未だ解決の糸口すら見つけられなかったのだ。

 彼らが今担当している事件は、十七・十八歳の未成年の少年達がとある推理小説に影響され、次々に親や周りの人々を襲う殺人事件であった。

 一年ほど前、既にその本の著作者である少年は捕まり、裁判へとかけられ、事件は急速な展開を見せつつ解決するかのように思えた。

 しかし、精神的疾患を患い、また彼がまだ未成年だということもあってか、経過観察処分が下された程度で保釈されてしまったのだ。

 その後、彼は新たに別の本を出版する。

 その結果、更に事件は混乱を極め、新たな事件が次々と引き起こされていたのである。

「本の作者が一度は捕まってるってのに、ま~だ次々と事件が起きやがるんだぞ。ほんっと、訳が分からねぇ」

「……ですね。著作者と同じ年齢であり、また性別も男性のみ。主立って共通することと言えば、それくらいですもんね。あとはその本を読んだことくらい……」

「そんなことは、今更言われなくても疾うの昔に分かってるんってんだ」

 彼らは事件を引き起こした少年達の共通項を口にすることで、事件の糸口を見つけようとしていた。

 ここまで分かっていることは、『年齢は十七か十八歳の未成年』『性別は男性』、あとは『彼の著作本を読んでいること』くらいなものであった。

「もし仮に他にも共通することがあるってんなら、所轄の連中がとっくに見つけてやがるだろうよ」

「それもそうですねぇ~。公安に回ってくる案件が、簡単なわけがないですもんね」

 二人は目的地見えぬ道をただ只管に走らされ、どことも定められていないゴールを探し求めていた。

 それは刑事という職業柄、強いられた苦行にも近しいものだったのかもしれない。

「そういえば、お前、本二冊とも読んだんだよな? 何かヒントというか、見つけられなかったのか?」

「ヒントって、そんな簡単に見つかるものじゃないですよ。確かに推理ものではありましたが、そこには意図して犯人を作り上げるだけの動機というか、何の切っ掛けすらなく、ただ親や社会に対する不満、それに自分の将来が閉ざされたってことくらいしか読み取れませんでしたよ」

 若い刑事は、彼の著作本を読むことで潜在的に犯人を作り上げる動機やきっかけを探ろうとしていた。

 けれども、読んでみてもただつまらない叙述トリックの応用や、動機と言えないような動機が文字として構成されているにすぎなかったのである。

 著作者であり、事件の当事者である少年の本を読めば何かしら得られるものがあるかと期待していたが、それは何の収穫もなしという裏切られる形となってしまう。

「もしかすると、未成年……それも十七歳か十八歳の年齢でしか、得られないものがあるとか? 例えばそう……青春とか、言葉では言い表せない感情とも言うもの」

「……いや、それだとあまりにも事件を引き起こす加害者が広範囲になりすぎちまう。そのくらいの年齢の未成年がこの国にどれくらい居やがると思ってるんだ? 軽く数十万人、下手すりゃ数百万に手が届くほどになっちまう。それだけの人間がほぼ同時期に事件を起こそうとするか?」

「ぐっ。そ、それはそうなんですけどね……じゃ、じゃあこれ以上、事件を引き起こす犯人を食い止めようがありませんよ! それこそ、推理小説家やミステリー作家にでも探偵役を頼み込んで、この事件を解決してもらうしか道はないですってばっ!!」

 頭から否定否定とされてしまえば、若い彼でなくとも起こるのは当たり前だった。

 刑事である一方、彼らも等しく人間なのだ。

 人を人とも思われない仕事人間ではあったが、そこには刑事としての生活、それと人生という物語が確かに存在し得る。

 創作物である小説のように、実際に起きる事件とは必ずしも答えが用意されているわけでもない。

 それこそ、加害者本人にでもならない限り、解決しない事件は山ほど存在している。

 その一つが彼らが担当しているA-17事件である。

「推理小説家……それにミステリー作家……」

「警部?」

 何かきっかけを掴んだかのように、彼の言葉を繰り返し呟いている。

「……そ、そうか! その可能性もあったのかっ!!」

「えっ? な、何か分かったんですか? も、もしかして本当に推理小説家やミステリー作家に事件の解決を依頼しに行くわけじゃないですよね? ね?」

 自分よりも二回り以上は年上の先輩警部に対し、若い刑事はあまりにも事件への真相が煮詰まってしまい、ついそんなことを口走ってしまったことを後悔していた。

 まさか本当に依頼しに行くわけではないと思いつつも、心の中でひょっとしたら……と、不安になっていた。

「例の事件を起こした犯人達の経歴を……いや、趣味を調べろっ!」

「えっ? しゅ、趣味……ですか?」

「ああ、そうだ。奴らは全員、読書家だったに違いない。そんな連中が最後に辿り着く先は、一体どこになると思う? きっと普通に小説を読むだけじゃ満足できず、自分でも小説を書いてみようと思っていたに違いない。つまりはそれが……」

「あっ、そ、そうか。彼らが全員、小説家希望だったということも、あるんですね!」

 最初のきっかけさえ掴めば、あとはそこから少しずつ周りを固め、虱潰しに手元にある情報を総当りするだけだった。

 結論から言って、事件を引き起こした未成年の少年達は、全員が全員、熱心な読書家であり、そして将来の夢として小説家を希望していたのである。

 これはあまりにも盲点だった。

 なんせ未成年ということは、就職もしていない学生の身なのだ。

 だから書類上の文字だけを眺めても、その裏側にある将来の夢などという、プロフィールに書かれない物事に関していえば、表には出ることはない。

 これまで警察も、そして公安組織の誰も、この事実に辿り着けなかったのである。

 奇しくも、それは事件を引き起こすきっかけとなった、二冊の本の著者である『カシワギハヤヒト』と同じ将来の夢だった。

 これが偶然ではなく、むしろ必然なのだと彼らは思っていた。

 つまり彼らはカシワギハヤヒトのような有名人に――平たく言えば、ベストセラー作家になりたかったのである。

 そこには金を得たいなどという願望も存在しているだろうが、金では決して買うことのできない名誉というものが存在している。

 それらが動機となり、また序でに自分の将来を閉ざすべき存在の両親を殺害することで、成就できるものだと本気で思い込んでいたはずである。

 それこそ、これまで欠けていたピースであり、事件を解決へと導く糸口でもあった。

 またあの二冊の本と、事件として成り立ってしまった自分達が引き起こした事件により、ただのどこにでもある推理小説から本当の事件へと、現実のものとして具現化されたのと同じく、自分達も彼と同じ道を歩もうとしていたのだ。

 それは推理小説という媒体を通すことにより、事件としての実体を得る。虚実からの現実化、だからこそ感化されやすいとされる未成年の十七歳から十八歳の少年達が、次々に事件を起こすようになっていたのだろう。

 だが、問題は他にもある。

 一体誰が意図して、このようなことを彼らにさせたのか・・・・・という点だ。

 世間から精神異常者というレッテルを貼られ、実の両親までも自殺へと追い込まれた十八歳の少年。

 端的に考えれば、二冊の本である『ただ一人だけの完全犯罪者』『完全犯罪者の作り方』の著作者である彼、カシワギハヤヒトを置いて主だった人物はいないように見える。

 確かに推理小説という商業作品を通し、世間への復讐劇だと考えれば、すべての点と点が繋がり、一本の線と成り得るのだが、それではあまりにも『偶然』という不安定なものに頼りすぎている嫌いが見受けられた。

 もちろんそこには、自分の手を敢えて汚すことなく、世の中に対して復讐を遂げるという確実的なメリットも存在している。

 仮に、警察ないし公安が彼の元に辿り着くことができたとしても、自分では事件を起こしておらず、また明確な指示を出してもいないため、結果として罪には問われない。

 それはA-17事件における裁判の結果がそうであると、世間にも知らしめていた。

 実際問題、今の彼は月に一度精神科へ通院はしているが、身柄を拘留されているわけでもなかった。

 ただ観察処分であるため、様子伺いという体裁で身辺にあった出来事などの報告義務が毎日あり、また許可なく県外へ出ることも許されていない。

 しかし、逆を言ってしまえば、県内は自由に行動することができ、彼の行動を縛り付ける拘束力はないに等しいことを証明してもいた。

 もしもそれすらも偶然ではなくて、むしろ必然だった場合、彼こそがすべての元凶であり、一番の加害者であったと言える。

 それは未だに事件及び著作物である、二冊の本の物語を模倣する少年達が出ていることからも証明されていた。

「だが……これだけじゃ、所詮は状況証拠にすぎない。たとえ俺達が法を無視して動いたとしても、結局は裁判に対する責任能力がないってことで、有耶無耶にされちまう。何か、明確な証拠さえ得られれば……」

「あっ、これはどうっすかね? 関係者の資料をザッと眺めてみたら、みんな同じ出版社に作品を応募していたみたいなんですよ。もし、その応募したっていう作品を見ることができれば……」

「……何かしら、糸口があるってか?」

「ハイっす!」

 まだまだ若いなとは思いつつも、何ら手掛かりが無いよりはマシだと、警部は彼を連れて、さっそくその出版社に出向くことにした。

 幸いにも、東京都心部に本社がある出版社だったため、移動するのに時間はかからなかった。

「あーっ、もしもし。私達は先程、電話連絡を入れた公安第二課の……」

 もう夜も遅いということで、生憎と受付けには誰もおらず、入口近くにある警備員室で待機していた警備員へ、事前の連絡を入れていたことを告げると、難なく編集部のある二階へと通された。

 編集部の部屋は仕切りが一切ないワンフロアの広々として一室で、既に午後十時を過ぎているというのに、人が大勢仕事をしていた。

 そのほとんどが机に置いてある一人一台のパソコンに向かい、黙々と作業をしている。

「あのーっ、すいませんが……」

 いつまでも自分達が来たことに気付いてくれないと業を煮やした警部が近くにいた男性社員に声をかけ、カシワギハヤヒトの担当を連れて来てもらった。

「夜も遅いってのに、このような騒々しいとこで、すみませんね~」

 見た目三十手前の男性が、二人のことを応接用のソファーへと案内してくれた。

「もう夜も遅いってのに、ここは随分と人が多いようですな」

「ええ、まぁ……職業柄、朝よりも夜のほうが確実に人は多くいるでしょうね。朝までに原稿やらの仕事を終え、始発が動き出した頃家路に着き、午後の一時を過ぎた頃から出社するんですよ。ま、見た目楽そうに見えるかもしれませんが、これでも意外と大変なんですよ」

 どうやら出版社という仕事は夜行性のようだ。

 パソコンのキーボードの音や電話口での話し声が鳴りやむことがなかった。

 そこには自分達と同じく、仕事場という戦争に赴く人々の姿あった。

「で、私に用というのは、もしや……柏木速人先生について、ですかね?」

 これまで何度となく事情を聞かれたのか、担当だと名乗る彼は聞かれるよりも先にその名を口にする。

「そうですな……あまり回りくどいのは、性に合わないので、率直に聞きますが、アンタら、模倣犯が出てるってのに、あんな本出して平気なのかよ?」

「け、警部っ!!」

 あまりに率直な言葉に若い刑事が彼を諫めようとする。

「ははっ。いえ、大丈夫ですよ。まぁ確かに手厳しいというか、実際そう言われてしまうと、ウチとしても困ってるんですよね」

 担当の男は言葉とは裏腹に、どこか軽く口調と態度を取っていた。

 目の前に公安の刑事が二人も居るにも関わらず、である。

「この間も、未成年の少年が殺人事件を起こしてる。しかもこれまでと同じ親殺しだ。これもお宅の出版社が本なんか発行するからなんじゃねぇのか?」

「ま、否定はしませんけどね。ですが、小説はあくまでも小説。実際に起こる事件の責任を取れと言われても、どうしようもないと思うんですよね。それに……うぐっ」

「貴様、舐めてんのかコラッ!! てめえらのせいで、人が大勢死んでんだぞ! それでも自分には関係ねぇってのか、ああん!」

 男の態度と言葉が癇に障ってしまったのか、警部は乱暴にも彼の胸倉を掴み取ると、自分の眼前まで引き寄せ、荒い口調で恫喝してみせた。

 それは無神経にも数多くの死者が事件によって生まれているのに、自分達がその原因の一端を担っているにも関わらず、どこか他人事のような態度と軽い口調に対し、我慢できなかったのである。

「ま、不味いですって警部っ!!」

「ちっ」

 若い刑事がすぐさま止めに入ると、周囲に目を配り、自分の頭に血が上っていたと、すぐに胸倉を掴んでいた右手を離した。

「ごほっごほっ。あ、ああ、大丈夫大丈夫。ちょっとした行き違いみたいなものだから、心配しないでくれよ」

 担当の若い男も周囲の目が気になったのか、周りに居る同僚達に向け、何でもないと口にした。

 これまでこういった荒事にも見慣れていたのか、他の社員達は、まるで何事もなかったかのように、各々の仕事へと戻っていった。

「前触れなく、いきなり首を締め上げられるとは思いもしませんでしたよ。でも現役の警部さんにされるってのは、なんだか貴重な体験でしたね」

「何だったら、ウチのとこにある特別な部屋で、もっと持て成してやってもいいんだぜ」

「ま、機会があったら、是非お願いしますよ」

 両社とも一歩も引かないと、嫌みを交互に口にし、牽制し合っていた。

 彼らは公安なため、さすがにこれくらいで訴えられることはないだろうが、それでも裁判にでもなれば不利になることは確かだ。

 それを承知してもなお、警部の男性は怒りが抑えられなかった。

「それで今日こんな時間に入らしたのは、他に理由があるのでしょう?」

 別の仕事が押しているのか、担当の男は話を本題へ戻した。

「え、え~っと、実は私達、カシワギハヤヒトや事件を引き起こした少年達が、この出版社で公募していた小説について、詳細を聞きに来たわけなんです。もし資料か当時応募していた作品のコピーでもあれば、お願いできませんか?」

「ウチの公募……ですか? あーっ、なるほど。そうでしたか」

 今度は警部の代わりに若い刑事が、担当の男へ尋ねるように自分達がここを訪ねてきた理由を述べる。

「残念ですが、ご協力できそうにもありません」

「……それは一体、どういうことですかね? 我々に対して非協力的な態度を取るのならば、それなりに対処させてもらいますよ」

 自分達が公安の人間だというのに、担当の男はきっぱりとした態度と、たった一言だけでそれを拒絶する。

 さすがにこれには若い刑事と言えども、顔を顰めさせている。

「ああ、失礼。説明不足で、言葉が分かりにくかったですね。変に誤解しないでくださいよ。公募で応募された作品については、その都度、すべて廃棄しているんです」

「それはまた、どうして……あっ、相手のプライバシーを守る……そういった理由なんですか?」

「えぇ、まぁ、もちろん応募してきてくれた方のプライバシーを守るためでもあるのですがね、基本的にウチの方でコピーを取って置くということもしていないんです。これは別に作品が受賞するしないに関わらず、開催している賞が終わればすべて破棄する……そのようにウチの社内では取り決められているんです。だから刑事さん達に協力しようにも、応募された作品どころかプロフィールなどもすべて破棄しているため、いくら公安の方々といえども捜査令状をお持ちでないと会社組織として協力できないんですよ」

 そういって担当の男は、提示された過去に事件を引き起こしたとされる少年達の名が記載された書類を、スッと音もなく若い刑事へと突き返した。

 それはあくまでも丁寧な態度と口調ではあったが、真に彼の本心なのかまでは分からない。

 だが捜査令状もなく、彼らが出来ることといえば、捜査協力をお願いするだけなのだ。それを断られてしまった今、無理強いすることはできなかった。

「なんだか、すみませんね~。わざわざこんな夜中にご足労いただいたというのに、何も協力することができなくて……」

「……いえ、仕方ありません。こちらこそ、お仕事中に失礼しました。帰りましょう、警部」

 もう用済みだと言わんばかりに、担当の男がソファーから立ち上がり、彼らのことを見送ろうと言葉をかけた。

 それに抗うわけにもいかず、若い刑事と警部はここから立ち去ろうとする。

 そして去り際、警部がこう彼に声をかけた。

「なぁ……帰る前に一つだけ、聞いていいか?」

「……なんでしょう?」

 まだ何かあるのかと、少し面倒くさそうな顔をされたが、次の言葉でそれも崩れてしまう。

「もしかしてアンタ、最初から“こうなること”が分かっていやがったのか?」

「…………」

 警部のその言葉に、担当の男は感情なき表情のまま、何も口を開くことはなかった。


「一体どういうつもりなんっすかね? 自分のところの本が事件に関係しているかもしれないってのに、我関せずな、傲慢な態度を取りやがって!」

 若い刑事は、車に戻ると憤りを隠しきれないと、怒りを露にしていた。

 先程までの冷静な彼とは違い、そこには年齢相応の若者が社会に対する行き場のない不満に対し、怒っているようでもあった。

「言っただろ。出版社なんて連中は、得てしてああいうもんなんだよ。つまり何か文句を言いてぇなら、正式に捜査令状を持って来い……口調こそ、襟を正していたかもしれねぇけど、根本的にいけ好かねぇ連中なんだよ」

「はぁーっ。ほんっと、嫌な世の中ですね~」

 警部の男性がそう世の中の摂理を若い彼に説いてみせると、彼は疲労とともに不満を吐き出す形で、大きな溜め息をついてみせた。

「それに奴は言ってやがっただろ。所詮、小説は小説だと。読んでいた人間がその後に何をしようが、空想フィクションという体裁整えておけば、どうとでも言い訳が付く。それは著作者だった、カシワギハヤヒトも裁判で証言する際、言ってやがっただろ。『創作物はあくまでも創作物に過ぎない』ってな」

「……エイプリルフールと一緒ですね。信じるほうが悪い。その結果、事件が起ころうとも自分達とは何ら関係がない。ま~るで、新興宗教の教祖みたいですね。信じる者は足元を掬われる……っすね」

 若い彼の言いえて妙な造語に、どこか可笑しさを覚えた警部だったが、敢えて口を挟むことはなかった。

 自分でさえも愚痴を零しているのだから、彼にもその権利はある。

 だがそれでも、何も得られなかったわけではなかった。

 出版社では一見、空振りのように思えたが、担当だと名乗る男の態度と言葉の端々から考えてみても、どこか自信があるようにも感じ取ることができた。

 相手は自分達が何も具体的な証拠を挙げられないからと、状況証拠に頼っている。

 だからこそ、自分達の元を訪ねて来たと思っているに違いない。

 確かにその推測は半分は当たっていた。

 事件を引き起こした少年達、それとその少年達が事件を引き起こすようなきっかけを生んだ本の著作者。

 それらの人物達が応募した作品を読めば何かしら得られるものがあるかもしれないと、出版社に赴くまでは思っていた。

 だが、それも作品は愚か彼らのプロフィールまでプライバシー保護により破棄されてしまった今では、無に帰してしまったに等しいかもしれない。

 しかし、担当の男の言葉が、もう半分の推測の裏付けとなっているようで、ならなかったのだ。

 彼らは小説という創作物において、読者がそれによって感受性を刺激され、事件を引き起こしても、裁判における客観的証拠にはならないだろうと高を括っているに違いない。

 またそれと同時に事件が有名になればなるほど、新聞・テレビが話題に取り上げれば取り上げるほど、本の売り上げは鰻登りになるはずなのだ。

 つまり、仮に事件がどちらに転ぼうが、自分達の利益となる。

 そのためには、多少の犠牲は問わないことを暗に示唆していたのである。

(結局どいつもこいつも、また何の事件においても、最後の最後には金が原因に辿り着くのかよ……。人間が金を使うはずなのに、逆に金に人間が使われていたんじゃ世話がねぇってもんだ。でもまあ、やっぱりいつの世も金がすべてなのかねぇ~。俺だって特別公務員とはいえ、一介の給料取りサラリーマンなんだから、その例外じゃねえわけだしな。まったく嫌な世の中だ)

 警部はタバコの煙を吐き出しながら、そのように黄昏るしかなかった。


 ――その数日後。

「課長、それは一体どういうことなんですかっ! 今頃になって私をこの事件から外すってのはっ!!」

 警部の男は上司である部の課長から、A-17事件に関する事件から外れるよう正式に通達されていた。

 尤も、部下である彼がいくら不平不満を上司にぶつけたところで、決定が覆ることはない。

 それは上司で、この部屋の主である彼が自分の言葉に何も口にしないことからも、容易に見て取れることであった。

「警部……」

「……何も言うな」

 バンッ!

 ――と、不満と鬱憤を表す感じで課長室のドアを荒っぽく閉めると、自分の部下である若い刑事が自分のことを待っていてくれた。

 どうやら自分がこの事件の担当を外されることは、彼には事前に聞かされていたのかもしれない。

 どうやら知らなかったのは、自分だけのようだ。

「すぅーっ、はぁーっ」

「喫煙所じゃないところで吸ってると、課長に怒られますよ」

「はんっ。今更なんだってんだ」

 気分を落ち着かせるため、タバコを吹かすが、ここはまだ廊下だった。

 床にタバコの灰が落ちるのも構わずに、彼は近場にある休憩所へと向かい歩いて行く。

 その隣には若い彼が付き添う形で、くっ付き歩いていたが、何も口を開くことはなかった。

 彼もまだ赴任してきてから数ヶ月程度の新米刑事とはいえ、誰もが自由に行き来できる廊下で、重要な何かことを話すような愚作はしない。

 休憩所に設置してある自動販売機にポケットの中の小銭を入れ、適当に二本ばかし見繕いボタンを押した。

 ガコン、ガコンっと、続けざまに缶がぶつかる音がし、その一本を先にソファーに腰掛けている彼に手渡す。

「んっ……お前、確かカフェラテでよかったんだよな? ほらよ」

「あっ警部、覚えててくれたんですね! ありがとうございます」

 彼がよく好んでいたのは、砂糖とミルクたっぷりのカフェラテだと思っていたが、どうやら当たりだったようだ。

 自分にはあんな甘ったるい飲み物ではなく、いつもと同じブラックのコーヒーだった。

 普段なら、若い彼に小銭を渡し、好き勝手に買わせるのだが、何故だか今日は自分の手で彼に直接渡したいと思ってしまった。

 きっと、今日で彼と共に仕事ができるのが、最後であるという感情が手伝ったのかもしれない。

「あーあーっ、結局、数十年も身を粉にして働いてこの様かよ……」

「警部……」

 目の前に座っている若い彼にではなく、自分自身に言い聞かせる形で大きな独り言をそう呟いた。

 彼は心配そうに顔を曇らせていたが、それでもただ事件を外されただけで、降格されたわけでも減俸処分を言い渡されたわけでもない。

 けれども、事件を担当していた刑事にとって、解決に到らないにも関わらず、事件を外されるという行為は、長年刑事としてやってきた自尊心プライドを傷つけるのは確かであった。

 またそれが仕事に対する熱意にも繋がり、結果に結びつく。

 なのに……自分は事件から担当を外されてしまったのだ。

 一体何が原因で、自分は何か上司から目を付けられるような、失敗事を起こす真似をしたのだろうか?

 ――いや、違う。原因は明らかだった。

 最近、行動に移し思い当たることといえば、一つしかない。

「ちっ……あの野郎か」

「えっ? あ、あの野郎?」

「ああ、そうだ。俺達がこの数日、何をしていたか言わなくても解かるだろ?」

「あっ……」

 皆まで言わずとも、刑事という本質からすぐに何を言いたいのかを理解する。

「直接上に圧力をかけられる……ってことですかね? もしくはそれなりの人脈コネクションを持っていたとか?」

「……だろうな。それしか考えられねぇよ」

 休憩所には二人以外に誰も居なかったが、それでも敢えてそのことを口にはしない。

 彼を事件の担当から外した相手、それは出版社のあの男に違いなかった。自信があるように見えたのも、このためだったのかもしれない。

 いつでも自分の意のままに、事件の担当を変えるだけの権力を持ち合わせている。

 それは公安という日本における独立した組織においてもなお、イチ公務員である彼らにとってみれば、天の声に逆らうわけにはいかなかったのだ。

 それが担当を外すという刑事にとっては、犯人の前に膝を屈するにも等しい侮辱的な行為である。

「それで……警部はこれからどうするんですか? まさか、このまま公安を辞めたり……」

「ばーか。最初から上が腐ってるのは、百も承知していたよ。お前だって、口にはしねぇが、本当はそう思ってるんだろ? 違うか?」

「…………」

 その問いかけに、若い刑事は答えることはなかった。

 答えずとも、沈黙が肯定を意味し、そして自分達が身を置いている組織がいかに内部の力に弱いか、身を持って知ることになった。

 またそれは公安へ移るその前から、理解し、納得したうえで公安としての刑事職を拝命したのである。

 だからこそ不満があったとしても、口をついて愚痴など零せなかったのだ。

 もし口が滑り愚痴を零してしまえば、過去の自分が下した判断すらも間違いだったと認める形となってしまう。

 傍から見れば、つまらない意地のようにも感じてしまうだろうが、それでも刑事として、また男として弱音を吐くつもりは彼にはなかったのだろう。

「俺もカミさんと来年にゃ~大学受験を控えた息子がいるからよぉ~、仕事が気に食わないからって、はいそうですかーって辞めるわけにもいかねぇんだ」

「確か、長男の方は十七歳……でしたよね? いやぁ~、思春期真っ盛りって年頃で、警部も案外、手を焼いているんじゃないですか?」

「はん。そのとおりだよ。それに仕事柄、休暇もロクに取れねぇだろ? 家族揃って旅行に行ったのも、今じゃ遥か昔話になっちまってる。それにここんとこ、仕事仕事で家族も省みず働いてきたから、家にも帰っていねぇし、有休も溜りにも溜まっていやがる。ここいらで、ドーンと、それを消化するのも悪くはねぇだろう。どっちみち、今の俺には担当できる事件はねぇ……」

 彼はこれまで張り詰めていた緊張の糸が突如として解けてしまい、有休休暇を申請しようとしていた。

 どれだけ身を粉に懸命に事件を解決しようとしても、天の声一つで、それまでの努力が泡となって消えてしまう。

 これまでも幾度となく邪魔が入り、その度に公安として、また刑事として、そして妻と子を持つ父親として、自分がどうあるべきなのかと悩みに悩んできた。

 それでも養う家族がいるからと、我慢に我慢を重ね、今日という日を迎えるまで努力し続けてきた。

 その結果が事件の担当を外されるという刑事としての屈辱的行為ならば、もうその答えは彼の中で出ていたのである。

 もしも歳が若く、大切な家族を持たなかったら、どれだけ身軽に今の公安という仕事をすることができたであろうか?

 そしてこの仕事を選んでいなければ、もっと違う人生を歩めたかもしれないと、ふと自分の人生を振り返ってみたとき、思い悩んでしまうこともあった。

 だが、公安の刑事として、国家国民に仇名す犯人を未然に捕まえるという仕事に誇りを持っていた。

 だからこそ、これまで家族のことを省みずに突っ走ってきた。

 家族もそんな自分のことを夫として、また父親として理解してくれていたと思ったのだが、内実では違っていたようだ。

 自分が仕事に熱を入れれば入れるほど、家族は自分の元を離れていってしまう。

 それは家族という名の絆が、解かれてしまった糸のように簡単に離れていってしまう。

 もしかすると息子だけじゃなく、それは妻も同じ気持ちなのかもしれない。

 仕事を退職するまで、それこそ年金を貰えるようになる歳まで一緒に居てくれるかもしれないが、その後は最近流行の熟年離婚なんて未来が待ち受けているのかもしれない。

 そうなってしまえば、これまで自分は何のために働いてきたのか?

 また家族を犠牲にしてまで、仕事をしてきた理由やその意義、何より自分を自分へと至らしめる存在価値を失ってしまうことが何よりも怖かったのだ。

 だからこそ、仕事に打ち込むということで、その不安を払拭しようとしたのだが、それも今では取り上げられてしまい、後に残されたのは、ただの中年の男である。

 ああ、なんとも惨めなことなのか。仕事もなく、家族もいない孤独こそが死ぬよりも怖いとさえ、思ってしまう。

 そしてそれは人知れず、誰の目にも触れず、密かに死んでいく――孤独死の未来が自分を待ち受けているようでならない。

 自分は今ならば、人生をやり直すことができるのであろうか?

 仕事を適当に放り出し、家族に尽くせば、また妻や子供が自分の元に戻ってきてくれるのだろうか?

 それは実際にしてみるまで、誰にも分からない。

「警部? どうしたんですか?」

「あ? ああ……なんでもねぇよ」

 ここが職場の休憩所だったことも忘れ、つい自分の老後である、未来の自分の姿を思い描いてしまった。

 頭に浮かんだそれを払拭しようと、既に冷えたブラックコーヒーを無理無理にでも胃へと流し込む。

「ふぅーっ……相変わらず、マズイ味だ」

 胃の感じる痛みと共に、口の中に残る苦味だけが、今自分がここに居るという存在定義を現実の世界へと繋ぎ止めてくれているようでもあった。

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