西伯の冤罪

 中華文化圏において皇帝の下で政治を司る最高位の官職を三公さんこうと言いますが、このいんの時代から三公は存在しました。


 その三公を務めていた内の二人、九侯きゅうこう鄂侯がくこうが謀反を企んだとして死罪となりました。

 そんな三公の残る一人、西伯せいはく姫昌きしょう)は冤罪によって幽閉されています。これについても「九侯と鄂侯の処刑を知った彼が溜息をついたので、それは殷に対する逆心の表れである」と、政敵である崇侯虎すうこうこに讒言されたからという些細な理由が取り上げられていますが、仔細は違ったとしても冤罪、あるいは微罪であるのは間違いなかったでしょう。

 ちなみに殷周革命を題材とした小説『封神演義ほうしんえんぎ』においても、崇侯虎は紂王に媚びへつらう佞臣ねいしんとして描かれています。


 そんな幽閉された姫昌は、ある時に突然に釈放される事となります。当然ながら釈放に当たっては賛否両論の議論が白熱したであろう事は確実でしょう。


 西伯が冤罪である事は誰の目にも明らか。ここは西伯を許すべきではないか。そう思う者もいたでしょうが、幽閉して苦しめてしまった以上は殷に恨みを抱いているのも確か。ここは処刑してしまった方が後顧の憂いが断てるのではないか。そんな議論が想定されます。

 臣下の議論は拮抗しており、決定権を持つ王である紂王も悩んでいた所、決め手となったのが王妃・妲己だっきだったのではないでしょうか。


 かつて紂王が有蘇ゆうそ氏を攻め滅ぼして屈服させた時に有蘇氏から美しい娘を献上されました。紂王はその娘を見初めて王妃としました。それが妲己です。

 彼は妲己に対して、贅の限りを尽くした宮殿や財宝を与えたと言われますが、妲己はそもそも敗戦国出身であり、その身を献上品として売られた娘です。ほんの少し運命が違えば奴隷として悲惨な人生を歩む事も覚悟していたでしょう。

 周辺国から暴虐と言われていた殷の王が、そんな自分の為ならここまでやる。しかも紂王は元々は決して無能なわけではない。この王を、そして殷の悪習を変えられるのは自分しかいない。若い娘がそう思い立ったとしても不思議ではないでしょう。



   *****



「罪なき者を幽閉したのは大いなる過ち。ましてやその過ちを隠す為に死罪にするなどあってはならない事です。投獄は過ちであった事を認めて釈放とすれば、我が君の徳に西伯もきっと心服してくれましょう」


 そんな妲己の心からの笑顔を信じ、子受も決意を固めて姫昌の釈放に踏み切った。しかし姫昌を逃がせば必ず災いとなると思っている臣下の怒りは妲己へと集中する事となる。


「王妃を娶ってから、殷王は王妃の言う事なら何でも聞く」

「王の心を惑わす女狐」

「あの女こそ国を滅ぼす」


 そうした殷の臣下たちの怨嗟の声は、王妃は悪女であるという風聞が先に立って諸国へと伝わっていったのである。



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 ちなみにこの時、姫昌の長男である伯邑考はくゆうこうが殷に処刑された後にあつもの(スープ)にされ、姫昌が食べさせられたという非道な逸話が残っています。小説『封神演義』でも採用された有名な話ですが、これは後世の創作というのが一般的です。


 というのも、この記述が最初に出てくるのが、西晋せいしん時代に編纂された『帝王世紀ていおうせいき』であり、そもそも同書は「信憑性の如何を問わず、俗説や伝承も広く収録する」と最初から謳っている書物なのです。そしてそれより以前に編纂された『史記しき』等には、一切出てこない話です。


 ちなみに『史記』には「姫昌の子は、次男の姫発きはつ、四男の姫旦きたん周公旦しゅうこうたん)が優れており、長男を差し置いて姫発が太子に立てられた。姫発が王となった時、長男は既に亡くなっていた」という、殷王朝に関係ない部分での後継者争いの匂いがしますし、『礼記れいき』に至っては「姫昌は次男を太子にするために、長男を捨てた」とまで書かれています。


 要するに長男・伯邑考の死を紂王のせいにして、殷を貶め周の権威も挙げるという一石二鳥な後付け伝承だったと見るべきですね。






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