episode2

「もちろんだよ」

 伊集院はキッパリと言い切った。

「でも……」

「切るだけが医者の仕事ではない。この仕事に就いてそれが分かったからね。俺を信頼して通ってきている患者を放り出すことはできないし、俺だからこそできることがあると思っている。だから、この仕事をやめるつもりはないよ。――それに、外科には末期のケアがあるし、君の目指す弁護士だって冤罪から無辜の人を守らなくてはならない。どの仕事を選んでも、それぞれの重責があるはずだ。そうだろう?」

 そう言うと、伊集院は穏やかな笑みを浮かべた。

「……そうですね。すみません、変な質問をして」

 俺は膝の上に組んだ手に視線を落とした。

 なんの躊躇ためらいもなく伊集院は言い切ったが、簡単にその答えに行きついたとは思えない。きっと、長い時間考え抜いてのことだろう。それを、俺がどうこう言うことはできない。

 ――では、伊集院は何から解放されるというのか。

「まだ他に聞きたいことがありそうだね」

 顔を上げると、「なんでもどうぞ」とティーカップを口に運びながら伊集院が言った。逡巡しゅんじゅんした末、俺は伊集院に彼の言う解放とは何かを尋ねた。

 ハーブティを飲む手を止めると伊集院はフッと笑い、「隼人の悪夢の原因、君は気付いたんだろう?」

 俺は答えず、ただ頷く。

「君なら気付くと思っていたよ」

 伊集院はティーカップをテーブルに置くと、静かに語り始めた。

「俺がそれに気付いたのは、アイツを診初めて半年ほど経った頃だ。……失敗したと思ったよ。当事者である俺がアイツを診るべきではなかった、とね。軽く考えていたのかもしれない。アイツの奥深くに押さえ込まれたものに気付かず、表面的なアイツの苦しみしか見えていなかった。かといって、アイツの担当から降りることもできなかった。治療の途中で担当から降りれば、アイツは裏切られたと思うだろう。もしかしたら、俺がアイツを恨んでいると誤解するかもしれない。――俺は身動きが取れないまま、アイツを治療し続けた。いや、治療なんて聞こえはいいが薬を処方するくらいしかできなかった。アイツを救うためにこの仕事に就いたはずなのに、結局アイツの苦しみを伸ばしていただけなんだ、俺は」

 目を伏せながら、まるで懺悔ざんげでもするように語る伊集院に俺は居た堪れなくなった。

「そんなこと、ありませんよ。だって、柊さんと一緒にいたじゃないですか。この十年。ずっと、柊さんのそばにいたじゃないですか。それって柊さんにとって、すごく支えになっていたと思います。だから――」

 伊集院は眼鏡を外すと目元を隠すように手で覆いながら、「……俺の口からは、言えなかった。春菜を信じろと強要しているようなものじゃないか。アイツを追い詰め、今まで以上に責め苦を与えることになる。――始めから、俺にはアイツを救うことなんてできなかったんだ」と苦しそうにうめいた。

「そんな言い方、やめてくださいっ」

 俺は思わず叫んだ。

「どうしてそんなに自分を責めるんですか! 柊さんといい、伊集院さんといい、自分をもっと大切にしてください。伊集院さんたちは、ぜんぜん悪くないじゃないですか。――そうですよ、悪くない。何も責められるようなことしてないじゃないですか! だから……そんな風に自分を追い込むのはやめてください!」

 これまでに俺は何度も伊集院の存在に、彼のかける言葉に、救われてきた。彼がいなければ、今の俺はなかったとも思う。そんな伊集院の苦しむ姿を俺は見ていられなかった。

 すると俺の視線を避けるように伊集院は目を伏せ、「……そうだな。アイツは前を進み始めた。――それで、十分だ」と呟いた。

 どことなく寂しげな伊集院に気になって声をかけようとした時、「隼人を、頼むな」と静かな口調で伊集院が言った。

「……伊集院さん」

 なんだか、伊集院がどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして俺は急に心細くなった。いつもの伊集院ではない感じがした。

 そんな俺の胸の内を察したのか、「なんて顔してるんだ」と伊集院は手を伸ばして俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でくり回した。

「だって……」

 頭の上の伊集院の大きな手を両手で掴む俺に彼は目を細めた。

「どこにも行きはしないさ」

「ほんと、ですね?」

「ああ。約束する」

 伊集院のその言葉にホッと胸を撫で下ろす俺に彼は、「もうすぐ、夏休みも終わりだね」と窓の方に視線を向けながら言った。

「そうですね。だいぶ、外も涼しくなりました」

 俺も窓の方に視線を向ける。オーガンジーのシェードが下りた窓から、外の喧騒けんそうがわずかに漏れ聞こえていた。

「本当?」

 伊集院が意地悪く聞いてきた。

「嘘です。今日も暑かったです」

 肩をすくめる俺に、伊集院が笑った。

「家まで送るよ。ついでに、隼人の家で飯でも食べていこうかな」

「夏休み中は、俺が夕飯作ることになってるんです。何がいいですか?」

 数少ないレパートリーを頭に思い浮かべながら、伊集院に尋ねた。

「何が作れるの?」

 若干、苦笑しながら尋ね返す伊集院に俺は腕を組みながら、「うーん。今のところ自信があるのは秋山から教わったキムチ炒飯に大根サラダと野菜炒め、くらいです。あ、でも料理の本があるんで大丈夫ですよ」と答えた。

 今のところ、失敗はない。味が少し薄いだけで。

「その野菜炒めは肉入ってる?」

「もちろんです。ひだまり荘仕様じゃないんで」

 俺はにっこりと笑顔を返した。

 伊集院は顎をさすりながら、「へぇ。秋山くんの住んでるとこ、ひだまり荘っていうのか。ピッタリだね、太陽みたいな秋山くんに」と笑顔を浮かべながら言うと、「ちょっと待ってて」とティーカップののったトレーを持って奥へと消えていった。

 奥から戻ってきた伊集院とともに部屋を出ようとした時、壁時計が追憶を奏で始めた。俺たちは振り返って壁時計を見上げ、そしてそのまま部屋をあとにした。

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月宮館 haruka/杏 @haruka_ombrage

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