episode9

 秋山たちと別れ、足は自然と図書館に向かっていた。

 今朝、柊のことを無視して教室に向かったことを謝らなければ。それに、顔色が悪かったのもずっと気になっていた。体調が悪いのかもしれない。病気が、悪化しているのかもしれない。

 焦り。不安。恐怖。そういった負の感情がふくれ上がり、息がつまりそうになる。自然と歩く速度が早くなる。さっきまで感じていた身体のだるさも、じわりじわりと広がり始めていた太ももの筋肉の痛みも、今はまったく気にならない。

 目指す場所へ、一心不乱に向かった。

 レンガ造りの建物の前に立ち止まり、息を整えながら静かに見上げる。

 ――会いたい。

 柊に会いたい。

 話ができなくてもいい。

 ただ、柊に会いたかった。

 久し振りに柊と会えたあの時、嬉しさのあまり思わず柊のもとへ駆けて行きそうになった。試験なんて、どうでもよくなっていた。

 けれど、結局、俺は秋山と堺の好意を優先した。勿論、後悔はないし、それが正しかったとも思う。でも、そのことが気になって試験中、ずっと柊のことが頭から離れなかった。これ以上、嫌われたくない。ただ、その一心で。

 今日のことだけでなく、これまでのことを柊に謝りたい。そして今度こそ、自分の本当の気持ちを伝えたい。

 俺ははやる気持ちを押さえきれず、足早に図書館の中へと向かう。

 館内では、多くの学生たちが試験勉強に勤しんでいた。俺はいつもより人の出入りの多い館内で柊の姿を探し回る。

「……いない」

 フロア中をくまなく探したが、柊の姿を見つけることはできなかった。探している時に限って柊は見つからない。これまでもそうだった。それなのに、いつも気づくと傍にいた。そして笑いかけてくれたのだ。

 やはり、嫌われてしまったのだろうか。

 そう思った途端、胸が苦しくなり、涙が出そうになる。唇を噛んで泣くのをこらえながらカウンターの奥にある事務所を覗き込むが、パーティションが邪魔で奥に柊がいるのかどうか分からない。じわりと涙が溢れた。

 ――お願いだから、姿を見せて。

 すがるような思いでもう一度館内を探したが、やはり、柊の姿を見つけることができなかった。

 諦めきれず、二階へ向かう。探していない場所はもうここしかなかった。

 階段を上り終えると、暗めの照明にひんやりとした空気が漂う空間が目の前に広がっていた。俺は興味深げに周りを見渡す。

 二階にくるのは初めてだった。専門書がぎっしりと詰まった棚が林立りんりつし、机や椅子などもないためか人の姿は見られない。俺は、棚の本には目もくれず柊を探し始める。手前から棚と棚の間をひとつひとつ覗いていくが柊の姿は見つからない。

 ――ダメか。

 やっぱり事務所にいるのかもしれない。落胆しながら一番奥の棚を覗き込むと、思わず声を上げそうになる。

 眼鏡をかけた柊が壁に寄りかかりながら立っていた。

「こんなところで時間潰していていいのか? 明日も試験だろう」

 やっと、柊に会えた――。

 その嬉しさのあまり、思わず顔がほころぶ。

「柊さん」

 言いたいことがたくさんあったはずなのに、言葉が出てこない。久し振りに聞いた柊の声に身体が熱くなり、彼に会えたことの喜びで胸がいっぱいになる。

「あの、今朝は」

 朝のことを謝ろうとすると、「ここには、もう来ない方がいい」と静かな口調で柊が言った。眼鏡の奥の冷めた瞳に俺は一歩後ずさる。

「……迷惑、ですか?」

 震える声で尋ねる俺を、柊は無表情のまま見ているだけだった。

「迷惑なら、そう言って下さい。……そしたら俺、あきらめますから」

 胸がめ付けられる思いでそう言うと、柊は目を細め、おもむろに眼鏡を外して棚の上に置いた。そして、なにも言わず俺の方に歩いてくると手首を掴んで強引に唇を重ねてきた。

 舌を絡ませながら今までになく乱暴に唇を押しつけられ、意識が遠のきそうになる。柊は俺の身体を壁に押しつけ「あきらめられるのか?」と耳元で絞り出すような声でささやくと耳たぶを噛んだ。

「あ……」

「祐一」

 柊は乱暴に唇を重ねながら、俺の身体に硬くなった下半身を押しつけてきた。今までに味わったことのない感覚が全身に駆け巡る。

「ん、あっ」

「どうして欲しい?」

 柊が耳に唇を押しつけながらささやいた。

「そのためにここに来たんだろう?」

 ゾクリと身体が反応し、とろけそうなほど気持ちがよくなり声をらす。

「もっと声を出していいんだよ」

 首筋に舌をわせながら、柊がポロシャツの中に右手をすべり込ませた。

「やっ」

「いいだろ? もう限界だ」

 柊の右手がすべるようにデニムへと下りていき、優しい手つきでさすり始めた。

「身体は正直だね。こんなに硬くなってる」

 俺は恥ずかしくなり顔をそむけると、柊はベルトの金具を手際よく外し、デニムのボタンに手をかけた。が、すぐにその動きを止めた。

 その理由はすぐに理解できた。学生たちの笑い声とともに足音が近付いてくるのが聞こえてきたからだ。

「残念」

 柊は耳元でささやくと眼鏡を手に取り、ひとり先に行ってしまった。残された俺は、力が抜けてズルズルと壁に寄りかかったままへたり込んだ。そして両手で顔を覆うと深い溜め息をついた。

「柊さん」

 男性である柊を拒むことをしなかった時点で、俺は一線を越えてしまった気がする。そんな自分に戸惑いを覚える。伊集院の言う『覚悟』ができたとでもいうのだろうか。

 俺はそのまま頭を抱える。

 もしそれを否定すれば、俺は快楽にただ流されただけになってしまう。そうは思いたくないが、『覚悟』ができていたとも思えなかった。いや、分からない。それは今の俺の考えだ。今の俺は、認めるのが、まだ怖かった。


 さっきの学生たちが、手前の本棚の辺りで楽しそうに談笑だんしょうしているようだった。なにを話しているかは聞こえないが、笑い声がわずかに届く。

 少し前の俺と柊も、彼らのように過ごしていたのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。

 俺を置いて、先に行ってしまった柊のことを考える。

 やっぱり、俺は柊に嫌われているのかもしれない。さっきのも、柊に近寄ろうとする俺への嫌がらせなのかもしれない。そう思うと立ち上がる気力すらなくなり、俺は天を仰いだ。

 どれくらいそうしていただろう。座り込んだまましばらくぼんやりとしていた俺は、慌てて立ち上がる。

 次第に大きくなっていくあえぎ声に、俺は右往左往うおうさおうしながら狼狽うろたえた。

 ……マズイ!

 まさか、手前の本棚にいた彼らなのか。すぐさま俺はここから出ていった方がいいと判断し、慌ててベルトの金具をはめ直すと、足音をたてないように階段へと急いだ。

「三澤?」

「え?」

 いきなり名前を呼ばれ、声のした方を思わず振り向くと、堺があの柊の家に入っていった学生のベルトに手をかけているところだった。

「ええっ?!」

 俺は目を見開き、「し、失礼しましたぁ」と階段めがけて駆け出した。

 どうして堺があの学生と、いや、それよりも堺って--

 さっきまでラウンジで話していた堺の魔のドライブ談義だんぎが鮮明に頭に蘇る。

「そういうことだったのかぁ!」

 俺は図書館を飛び出すと思わず叫んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る