第6話

 名古屋市緑区にある緑警察署の講堂に設置された捜査本部。

 入口には[ピアニスト殺人事件捜査本部]と筆書きされた看板が取りつけられ、緑署の職員たちが準備のため忙しなく動き回っていた。

 俺は手許てもとの捜査資料を見ながら、「なぁ、そんなに有名なピアニストだったのか?」と田村に尋ねた。

 母親がピアニストで田村自身もピアノが趣味だと前に言っていたから、知っているかもしれない。

「数年前の浜松国際ピアノコンクールの入賞を皮切かわきりに、国内外のコンクールで上位入賞を果たしていた実力派だ。遅咲きのピアニストとも言われていた。少し前に大きな国際ピアノコンクールで金賞を取って凱旋がいせん帰国したニュースがあっただろ。年齢も年齢だったから大きく取り上げられていたじゃないか」

 捜査資料に目を通しながら田村は言った。やっぱり知っていたか。でも、そんなん言われてもさっぱり解らんよ。

「あー、そういえば、あったな。そんなニュースが。確か、コンクール後のコンサートチケットが数秒で完売とかなんとか。けど彼女が名古屋に住んでいたとは知らなかった」

 ちょうどその頃、大きな事件を抱えていてニュースを観ている暇などなかった。田村は観ていたみたいだが、そこは深く考えるのはよそう。

「演奏する時くらいしか表に出てこなかったからな」

「へぇ。気難しい人だったのか?」

 住宅街から離れた一軒家に住んでいたと聞いている。ピアノの音を気にしてのことだと勝手に想像していたが違ったのか。考えてみれば防音設備くらい整えているか。口に出さなくてよかった。

「さぁな。それに――」

 急に田村が言葉を止めた。もう会議が始まるのかと思ったが、まだデスク席では篠原たちが頭を寄せ合っていた。

「それになんだよ」

 肘をつきながら田村はちらりと俺の顔を見た。

「数年前に左耳の聴力を失っていたから、それもあるかもな」

「……それで演奏なんてできるのか?」

「努力したんだろうな」

 田村は短く答えた。

「そうか。――と、始まるようだな」

 捜査本部の指揮官である篠原が正面の席に座るのが見えた。その隣に小林課長、そして緑警察署長ら幹部が並ぶ。ようやく捜査会議が始まるようだ。

 篠原から任務編成が呼び上げられる。俺と田村は地取じどり班――現場周辺の聞き込み担当――になった。

 次に、緑署の刑事課長である笹島ささじま警部から事件の概要が説明された。

 殺害されたのは、佐伯美奈。三十二歳。彼女は全焼した家に一人で暮らしていた。他に家族は、瑞穂区柏木町みずほくかしわぎちょうに住む祖母の佐伯馨さえきかおると失踪中の双子の妹である美和の二人だけ。両親は二十年前に交通事故で亡くなっていた。

「消防本部の通信指令室に最初に通報が入ったのは、二月十六日の午前一時十四分。火災原因は、窓際に置かれた石油ストーブからカーテンに引火したものと思われる。死亡推定時刻は、二月十五日の午後九時から午前十二時の間。司法解剖の結果、気管部分に煤の付着は見られず、鈍器で殴られたことによる脳挫傷が直接の死因だと判明した。凶器については未だ特定できておらず、現場周辺の捜索も行ったがそれらしいものは今のところ見つかっていない」

 今回の事件は、駆けつけた消防隊員が焼け跡から頭部に不審な傷のある焼死体を発見したことから始まった。

 検視では、床に接していた為、炭化をわずかに免れていた皮膚に紅斑こうはんがなかったことから、火災前に頭部の裂傷れっしょうにより死亡したと判断された。しかし遺体の損傷が激しく、ピアノの横で倒れていたこともあり、事故か殺人かどうかの判断が難しかった為、司法解剖に回された。そして解剖の結果、殺人と断定されたのだ。

 続いて、初動捜査にあたった機動捜査隊から報告が始まる。

「火災発生の二時間ほど前に現場付近で物損事故が起きていました。運転手から二月十五日午後十一時十分に通信指令室に通報があり、緑署の交通課員が現場で事故処理をしています。担当した警官が佐伯家の明かりが点いていたのを覚えていました。事故処理は三十分ほどで終わり、その間、付近で不審な人間は確認していないそうです」

「偶然にしてはタイミングが良過ぎじゃないか? 被害者との接点はないのか?」

 篠原がいぶかしそうに尋ねる。

「今のところありません。運転手は豊明市とよあけし在住の会社員で納車されたばかりの車を運転中、ハンドル操作を誤ってガードレールに衝突したそうです」

「そりゃ災難だ。そんなに見通しの悪い道なのか?」

「緩やかな上り坂になっていますが、まっすぐに伸びた一本道です。ただ辺りは竹林に囲まれているので夜になると視界はかなり悪いです」

「そうか」篠原は隣の笹島に顔を向け、「ところで失踪中の妹からまだ連絡はないのか?」

 笹島は頷き、「ニュースを見て連絡してきてもよさそうなんだが」

「そうだな。殺されたとなれば普通は連絡くらい寄こすもんだ。――国外にいる可能性も視野に入れて動いてくれ」

「現在、美和の出入国記録を確認中だ」

 篠原は頷き、その後も所轄の捜査員からの報告が続けられた。

 捜査会議が終わり、捜査員たちが続々と講堂から出ていく中、一人の警察官が血相を変えて駆け込んできた。

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