第3話

 家に帰ると結城は早速書斎に向かった。机の上のパソコンを立ち上げ、鞄からメモを取り出す。掲示板を利用するのは初めてだった。少し緊張しながらMichaelが利用しているQ&Aサイトに登録をする。

 ハンドルネームは、佐竹が考えた〈杞憂きゆうの人〉。結城のフルネーム〈結城仁ゆうきじん〉をもじって作ったものだが、自分の性格ずばりそのもので驚いた。何か宿命的なものを感じ、余計に落ち込みそうになる。

 気が重くなる中、結城は掲示板に佐竹と二人で考えた文章を打ち込んだ。


 小遣いのやり繰りについて

 はじめまして。

 毎月三万円の小遣いで過ごしている杞憂の人と申します。

 みなさんの小遣いのやり繰り方法を教えていただけませんか?

 ちなみに私の小遣いの内訳は、

 コーヒー代

 昼飯代

 交際費

 雑費

 煙草は結婚を機に止めました。頑張ってやり繰りしているのですが毎月厳しい日々を送っています。

 妻は専業主婦で、昔は弁当を作ってくれましたが今はほとんど食堂やコンビニ弁当の日々です。今年、中学生になる息子が一人おり、色々と物入りになるので今の小遣いの範囲内でやり繰りをしたいと考えています。

 よろしくお願いします。


 改めて読むと、あまりの中身のない文章に気恥ずかしくなった。家の内情を曝け出すようで書き込むのを躊躇ちゅうちょする。

 あの少年のものよりひどいではないか。よくこんなのを考えついたな、と結城は自分に呆れた。

 こんなふざけた書き込みにMichaelはコメントしてくるだろうか。逡巡しながらも結局、結城は書き込みをする。

 どうせ誰からのコメントもつかないだろう。結城はアホらしくなって立ち上がり、隣のリビングでテレビを観ている妻の許へ向かった。

「遅かったわね、ご飯は?」

「食ってきた」結城はソファに腰を下ろし、ひと息つく。「隆也は?」

「塾」

 壁の時計に目をやると午後十時半を回っていた。

「遅くないか?」

「いつもこれくらいの時間よ」

 妻は気にする様子もなくテレビ画面を観ている。

「そう、か。――迎えに行こうか?」

「友達も一緒だから大丈夫よ」

「でも今は物騒だし」

 先月、隣の区で女子高生が通り魔に襲われた事件があったばかりだ。

「大丈夫よ」

 妻の返事に被さるように「ただいまぁ」と玄関から息子の声が聞こえた。

「ね、大丈夫だったでしょ?」妻はちらりと結城を見てから、「隆也! 部屋に行く前にお風呂に入りなさい」

「はーい」

 元気な声が返ってくると、妻は再びテレビ画面に視線を移した。画面の中では、イケメンと呼ばれている若手俳優が殺人事件を颯爽と解決しているところだった。新聞を見ると〈警備員の事件簿5―施錠されたビルの屋上で殺人事件発生! ―〉とあった。

 くだらない……実際に民間人が事件捜査なんてできやしないのに。しかもシリーズ化しているのか、コレ。

 結城はご都合主義のドラマに辟易し、新聞をテーブルの上に投げ置いた。ひと息つき、隣の妻に話しかける。

「なぁ」

「何?」

「小遣い上げてくれって言ったら上げてくれるか?」

「五百円くらいなら」

 あまりの少額に冗談かと思ったが、彼女は何事もなかったようにテレビ画面を観ている。

 ――本気なのか。

「お前な……俺は小学生か」

「だって今年は隆也だって中学に上がるし、出費が多いからお父さんに回せないのよ」

 不満そうな顔で結城を睨み、家計の苦しさを訴えてきた。いつもこれだ。

「それにしても五百円は少な過ぎるだろ」

「五百円でも上がるだけ感謝してよ。あなた、隆也のことが大事じゃないの?」

「――わかったよ」

 結城は撫然としてソファから立ち上がる。まだ何か言いたげな妻の前を通り過ぎ、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。

 いつも子供のことを出されて話は有耶無耶うやむやになって終わるのだ。そんなに生活が苦しいのならお前だって働けばいいのに――そう思うが言わない。自分の収入の少なさについてグダグダ言われるのがオチだからだ。

 リビングに戻る気もしなかったので、もやもやした気持ちを抱えたまま結城は再び書斎に向かった。

 パソコンの前に乱暴に腰を下ろし、ビールを一気に呷る。そして目の前の壁を見つめながら結城は佐竹の言葉を思い出す。

「切ない、か」

 解ったようなことを言っていたが、アイツにこの気持ちは解りはしない。結城は自嘲気味に笑った。

 家族の為――その一心で、朝から晩まで働いてきた。結婚してからは家族との時間を確保する為に趣味の釣りを止めた。煙草も止めさせられた。毎日遅くまで残業し、休日は疲れた体にむち打って家族サービスに専念する。少ない小遣いで毎日やり繰りしながら、時々、佐竹と飲みに行くのが唯一の楽しみだった。

 漫然と日々を過ごし、平穏ながらも安定した生活を送ってきた。けれど、時折思うのだ。

 家族にとって自分は何なのだろう――。

 そう思うたび、結城は呼吸するのが苦しくなるほど胸が締めつけられた。ブリザードのような淋しさが心に吹きすさび、訳もなく泣き叫びそうになることもあった。

 昔のように息子と会話をすることもなくなった。最近では顔を合わさない日もある。妻とも会話をすれば喧嘩ばかり。それでも一緒に暮らし、毎日が過ぎていく。

 いったい家族とはなんだ。自分はなんの為に――

「くそっ!」

 結城は苦しげに顔を歪め、乱暴に髪を掻きむしった。

 小遣いが少ないから切ないんじゃない。恐妻家だから切ないのでもない。なんの為に自分が今ここに存在しているのか、判らなくなることが――切ないのだ。

「独身のお前が羨ましいよ、佐竹」

 結城は手許の缶ビールに視線を落とした。ぼんやりと空っぽになった缶を見つめ、気怠そうに顔を上げると諦めたように首を振った。考えることを放棄する。これ以上、虚しい気持ちになるのは嫌だった。それに、何より考えるのが怖かった。

「……怖い?」

 一瞬考えるが、すぐに首を振る。そして気を取り直す為にさっき書き込んだ画面を開いた。

「あっ」

 思わず声が出る。自分の書き込みにいくつかのコメントがついていたのだ。

 まだ書き込んで三十分も経っていないのに。不安になりながら、おそるおそる書き込まれたコメントに目を通す。

 そこに書き込まれていたのは、同じように少ない小遣いで苦しんでいる人たちからのやり繰りの方法や励ましの言葉だった。その中には自分よりも少ない小遣いでやり繰りをしている人からの励ましもあった。

 何より驚いたのは、妻の立場である女性からの意見がいくつもあったことだ。しかも批判的なものではなく、主婦としての節約方法、自分の亭主のやり繰りの方法などを紹介してくれていた。

 結城はしばらくの間、黙ってそれらのコメントに見入っていた。そして、おもむろに目頭を押さえ、「情けない」と呟いた。

 彼らの言葉が有難かった。救われたと言ってもいい。たとえ気休めだと解っていても、彼らの言葉を素直に受け入れることで折れかけていた心が楽になることができたのだから。

 結城は気合いを入れるように頬を数回叩き、再び画面に目を向ける。すると新しいコメントがついていた。

 ――Michaelだ。

 結城は画面に顔を突き出し、Michaelのコメントに目を通す。他のコメントより分かりやすく、小遣いの振り分けについて書かれていた。

「なるほど」

 結城は思わず呟く。これならば実行できそうだ。他の人もそうだが、皆色々と工夫をしていることに感嘆する。何もしないで文句を言っていただけの自分が、恥ずかしく思えた。

「みんな、頑張ってんだな」

 ポツリと呟き、結城は天を仰いだ。何を考える訳でもなく、ただぼんやりと黄ばみがかった天井を見つめた。そして深く息を吐き出すとパソコン画面に視線を戻した。すると、Michaelからコメントがついていることに気付いた。


 #9です。再度失礼します。

 小遣いを増やしたい、ではなく家族の為に今の小遣いで上手くやり繰りしようとしている杞憂の人さんは優しいお父さんなのでしょうね。弁当のこと、奥さんにもう一度頼んでみてはいかがですか?


 Michaelのコメントに目を通した結城は目を伏せ、口許を歪ませる。

 ――やはり、彼にも無理だったようだ。自分のこの苦しみは、誰にも分かってはもらえないのか。

 突如、襲ってきた孤独感に押し潰されそうになった結城は、乱暴に髪を掻きむしると机に思い切り拳を叩きつけた。

 自分ばかりがどうしてこんな思いをしなきゃいけないんだ。アイツは主婦連中とランチやなんやで好き勝手しているのに。

 結城は苦々しげに舌打ちをする。


 今度、頼んでみます。でも無理だと思います。うちは恐妻家なので、私の意見はなかなか聞き入れてもらえません。なので、私は優しい訳ではありません。

 ありがとう。


 また、もやもやとしたものが腹の底に溜まり始めていた。自虐的な文章をMichaelに返信し、結城は椅子の背に深くもたれ掛かる。

 もう何も考えたくない。今日はここまでにしよう。画面を閉じようとした時、再びMichaelからコメントがついた。


 #9です。何度も失礼します。

 夫は家庭を支える為に外で働き、妻は家を守る為に強くなると言いますよね。けれど夫婦が対等の関係でなくなれば、その強さは〈暴力〉になると思いませんか?

 〈鬼嫁〉〈恐妻(家)〉は普通に世間に定着しているけれど、夫が同じ行為をすれば〈DV〉という犯罪として扱われかねない。

 それがどうも納得できないのです。男であれ、女であれ、傷つかない人はいないはずです。家族といえど〈思いやり〉を忘れてしまえば関係は破綻はたんしてしまいます。

 奥さんと話し合ってみてはいかがですか? 逃げ腰になるのは得策とは思えません。

 生意気なことを言って、すみません。


 結城はパソコン画面をじっと見つめ、噛みしめるように何度もMichaelのコメントに目を通す。腹の底に溜まっていたもやもやとしたものが、雪が解けるようにじんわりと消えていくのを感じた。

 結城はキーを叩いた。Michaelに返信する為に――。

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