早朝、オートロックのマンションにて

惟風

早朝、オートロックのマンションにて


「おはようございまーす」


 ゴミ捨てから戻る途中、EVの前で知らないおばさんに挨拶をされた。

 小柄で小太り、猫柄のエプロンを着けているその中年女性は、どこにでもいる典型的な“買物帰りのおばちゃん”といった風体をしている。

 見覚えの無い顔だったが、最近は高齢者世帯も増えてきている。このマンションに住む誰かの部屋に通う家政婦かヘルパーなのだろう。


「……おはようございます」


 愛想の良さにつられて、自分も挨拶を返す。

 言い終わってすぐEVが来たので、順番に乗り込んだ。

 おばさんは10階のボタンを、自分は15階を押し、鉄の箱の中は沈黙が訪れた。


 自分が居心地の悪い静けさを持て余している中、おばさんは「えーっと」と呟きながら呑気にエコバッグをゴソゴソとしている。部屋の鍵なのか、彼女の右手の中で何かの金属がキラリと光を反射した。


 落ち着かなさを感じているのは自分だけらしい。このおばさんはそんなもの、どこ吹く風である。

 自分のように身体の大きな男だと、子供や若い女性は二人きりで乗り合わせるのはまず嫌がる。

 この気まずさは久し振りだった。

 きっとこの女は、歩いているだけで不審者として警戒されたり職務質問されたりしたことなどないだろう。

 堂々と見知らぬ他人に挨拶できる、それが許される存在でいられるこの女がふと羨ましくなり、同時に強烈にねたましくなった。

 言いようのない苛立ちを感じて思わず舌打ちが漏れる。

 さすがにおばさんは顔を上げた。別に怖がられようがどうでも良い。少しは恐怖を味あわせてやりたいとすら思う。

 EVが10階に到着した。

 扉が開く寸前、おばさんが振り向いた。

 どこにでもある眼鏡をかけ、人の良さそうな笑みを浮かべている。


「失礼します」


 彼女が軽く会釈をすると、一つにまとめている白髪混じりの髪が揺れた。

 下げた頭を上げるところまでぼんやり眺めていると、おばさんの右手が動き、首の辺りに風圧を感じた。

 何が起きたか直ぐにはわからなかった。

 おばさんの地味な眼鏡に、赤い斑点がついている。

 違和感を感じて首に手を当てると、ぬるりと液体が触れた。

 それが自分の頸動脈から噴き出している血だと理解するのと、身体が倒れるのとはほぼ同時だった。


「そういう態度だからねえ、恨みを買っちゃうのよお」


 頭の上で、ため息混じりに話す声が聞こえた。

 まるで、世間話でもするように。


 EVの扉が、ゆっくりと閉まった。


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早朝、オートロックのマンションにて 惟風 @ifuw

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