第8話「俺をお兄ちゃんと呼んでくれていた頃」

 夢を見る。

 遠い、遠い昔の夢。


 まだ、父さんが生きていた頃。

 これはちょうど父さんが再婚した頃の夢だ。


 再婚が決まったのは突然のことだった。

 というより、俺が父さんから伝えられたのが急だった。

 息子にそういった話をするのは照れくさかったのかもしれない。

 累さんとの進展はもっと前からあったのだろうけど、不器用な父は言い出せなかったに違いない。


 俺はちょっと嬉しかったのだ。

 実の母は俺が幼い頃に病気で亡くなってしまって、それから父さんは一人で頑張ってくれていた。決してそれを俺に伝えることはなかったけれど、父さんはずっと悲しみの中にいた。


 だから、父さんが幸せになろうと一歩踏み出したことが嬉しかった。

 これで少しでも父さんが楽になればと、新しい母が心の支えになればと思った。


 新しいお母さん――累さんはとても優しい人だ。

 少しだけ父さんと似ているとも思った。


 累さんには一人の娘がいた。

 璃亜だ。当時俺は中学一年生。璃亜は小学六年生だった。


 璃亜は端的に言えば人見知りだった。

 かく言う俺も、今まできょうだいなんていたことがないから、新しくできた妹への接し方なんて分からなかった。


「今日から俺がお兄ちゃんらしいんだけど……よろしく」


 これでも、俺なりに精一杯歩み寄ったつもりだった。

 俺が握手を求めて手を伸ばすと、璃亜はさっと累さんの後ろに隠れてしまった。


 昨日まで赤の他人だった女の子がいきなり妹になると言われても、なんだかピンとこなかった。

 きっと璃亜も同じように思っていたはずだ。

 俺たちの間には、しばらく何とも言えない気まずい空気が流れていたように思う。


「ゲームとか一緒にするか?」


 コントローラーを持って璃亜に声をかける。

 彼女は右へ左へ視線をさ迷わせた後、こくりと小さく頷いて、コントローラーを受け取った。


 なんと話を広げたらいいのか分からなくて、互いに無言でレースゲームに興じる。

 コントローラーのボタンのかちかちとした音と、妙に陽気なゲーム音だけが響いていた。


 それからも、何とか璃亜と仲良くなろうと、頑張って話しかけたのを覚えている。


 俺と璃亜が仲良くなったきっかけは明確にあった。

 累さんに聞いて、璃亜がにゃんすけを好きなのは知っていた。

 にゃんすけとは、大人から子供まで幅広い層の女性に大人気のマスコットキャラクターである。デフォルメされた可愛らしいフォルムと、極道のような目つきの悪さが妙にマッチしていた可愛らしい……らしい。


 俺は小学生の頃から絵画教室に通っていて、絵を描くのは得意だったから、璃亜のためににゃんすけを描こうと思った。


 柄にもなく張り切って、何枚も描き直したのをよく覚えている。

 そして、やっと納得いく一枚が完成して、それを璃亜に見せに行くことにした。


「じゃーん! ……どうかな?」


 璃亜は手に取ると、穴が開くかと思うほどジッと絵を見つめた。

 彼女のそれがどういった感情か分からなかったから、俺は訪ねた。


「どう……かな?」


「私にくれるのですか?」


「うん、そのつもりで描いたんだ。にゃんすけが好きって累さんに聞いてさ」


 なんだか照れくさくて、璃亜の顔を直視できなかった。

 すごく勇気を出して、頑張って絞り出した言葉だった。


 璃亜はにゃんすけの絵を掲げると、ぱあと顔を華やかせた。

 感情表現に乏しいと思っていた彼女が、今までにないくらいの笑顔を浮かべたのだ。


「とっても嬉しいです! ありがとうございます、お兄ちゃん!」


 俺から貰った絵を宝物のように抱え、璃亜は初めて俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれた。

 璃亜との距離が一気に縮まったのはこの時だった。

 これを気に璃亜から積極的に話しかけてくれるようになったし、懐かれていたというのも自惚れではないだろうと思えるほどには、俺に心を開いてくれていたと思う。


 そうだ、それからしばらく璃亜は、俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれていた。


 家に帰ると楽しそうに学校での出来事を話くれたし、ゲームも璃亜から誘ってくるようになったし、何をするわけでもなく俺の部屋に来るようになった。


 更にしばらくすると、璃亜から俺への好感度はマイナスへと転じ、兄どころか人としても扱ってくれないほどになるのだが、それはまた別の話だ。


 そう、これは昔の夢だ。

 ここから俺らの兄妹仲は険悪な物へなっていき、現在、二人の関係は更に違ったものへ変わろうとしている。


 それが吉と出るか凶と出るか、いい変化だと言えるのかはわからないけれど、もし、また俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれるのなら、それ以上に嬉しいことは、きっとないだろう。

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