エピローグ

「あの少尉さん。ちゃんとやってくれていますかね大尉殿?」


 少尉に逃げるよう勧めた兵士が大尉に尋ねた。

 脚に怪我はない、ズボンに厚い布と血糊の入った袋、鉄板を仕込んであった。手裏剣が刺さっても血糊が出て大けがをしたように見えるが怪我をしないようにしていた。


「大丈夫だ。米軍の基地に入るのを確認した。殺されていない」


 仕掛けナイフで大尉に刺された兵士が答えた。刺した瞬間にナイフの刃が柄に収まり、仕込まれた血糊が噴き出す仕組みだ。

 こんな状況のため服の血糊は落とせないが身体に障害はない。


「私の部下は全員優秀だ。任務を全うしてくれると信じている」


 黙っていた大尉が答えた。

 大尉は少尉が任務を果たすと心から信じていた。

 米軍に偽情報を流すという、少尉本人さえ知らない真の任務を。

 少尉の心根は大尉は最初に会ったときに見抜いていた。

 自分の為になる事、生き残るためにはどんなことも辞さない奴であり助かるため必要な事は一心にやるだろう、と。

 米軍の捕虜になれば自分を売り込むために捕虜としての価値を高める為に米軍に自分の知っていることを出来る限り正確に話し、時に米軍に押し付ける程に言う。

 彼はそうすると信じたからこそ、中村大尉は彼を中野に入れて、手の込んだ事をした。

 少尉がやってくれると確信したのは、学校の古武道の後の答えだ。

 大尉自身でさえ無意味だと考えた授業を内心同じ評価をしているのに、まるで愛国者、国粋主義者のように「古来の叡知を役に立てたい」と言ったのだ。

 自分の評価通りの返答が返ってきたため中野の者にあるまじき心からの笑いが顔に出てしまった程だ。

 中野にあるまじき行為だが、同時に任務遂行に不可欠な人材だと判断していた。

 敵に捕まり偽情報を伝える毒、いや情報爆弾の候補として。

 中野であれば単独で潜入し捨て石となることもありえるため、徹底的に精神教育を行い誠の精神を養う。そして、どんなに苛酷な任務を成功させても秘守義務を守り、死んでも沈黙を貫くのが中野の戦士だ。

 だが、情報戦の本質は相手に対する宣伝戦、相手に祖国である日本への印象が日本にとって有利になる印象を与えることが重要だ。

 その方法は意外と簡単で相手も秘密戦をしているため、相手の情報収集手段で送る。

 例えば通信諜報なら偽通信、写真偵察なら偽装建築物、そして捕虜尋問なら捕虜だ。

 少尉には捕虜となって自分の知る情報を伝えたい中野の情報を話して貰い、印象を与えるのが目的だ。

 丁種はそのための人員――偽情報を持ち込む情報員を養成するために作られ、身分を偽装した中村大尉はその実行要員だった。

 そして大尉は作戦実行の命令を受けて準備に入った。その過程であの少尉と会った。

 彼だけでなく少尉と同じような考えを持つ者を集め、訓練して追い詰める。

 追い詰めるために学生に紛れ込ませたサクラの部下を脱落させたり、死んだように装うために訓練中の事故を演じたりして彼らを心理的に揺さぶる。

 また、お調子者には選抜と言って別の校舎へ移動させる。

 そうして自分は特別と思い込ませ訓練を受けさせた。

 訓練の内容も米軍に伝えるための偽情報だ。

 中野がどのような部隊でどのような訓練をさせどんな人員を送り込んでいるか誤認させるために受けさせた。

 だから古武術やその他もろもろの精神訓話も誇大気味に教えている。

 そして少尉は教官や同期の顔も覚えているだろう。

 何人かは潜入のために出発したと言うだろうし同様の任務の為に自分の他に数名が潜入していることも話すだろう。

 そもそも丁種第一二期というのも嘘だ。

 丁種自体は、表向き情報収集要員の育成に見せかけた情報爆弾用の要員育成課程で実在する。だが、一二期というのは嘘で、本当は四期程度しか卒業していない。

 アメリカ軍に想像以上に要員が育成され後方へ潜入していると錯覚させるための偽情報だ。

 ソロモン各地の情報をラバウル出発前に少尉に教えたのも重要な部分、ラバウルへ転戦してきた部隊の大半は偽の情報だ。

 この島で会った日本兵は全て少尉を騙すためにやって来た大尉の部下であり、全ての兵員は海軍の水雷戦隊により脱出に成功している。

 結果、残置兵に偽装した大尉の部下から聞いた偽の配属先、原隊を少尉から聞き出した米軍はソロモンに来た部隊数を誤るだろう。

 そして幾度も分かれた部下が遊撃戦に出ていると思い込ませる。

 実際は既に潜水艦で脱出済みだ。

 混乱させるために米軍相手に多少破壊工作を行ってから離脱した。自分たちも間もなく来る呂号潜で離れ、この島から日本兵はいなくなる。

 だが、アメリカは少尉の情報によって多数の残置日本兵がいると思い捜索の兵を配置し続けるだろう。

 本来なら他の戦場に投入出来る兵が何も無い島に留まり、存在しない日本兵を探してジャングルを歩き回る。

 たった一人の士官と一寸した芝居で何百人、もしかしたら何千人もの米軍を数日、数週間、上手くいけば数ヶ月、無意味な島に拘束できる。

 アメリカと国力差のある日本にとって有意義なことだ。

 それをソロモンの至る所で行い、合わせて数万人の米兵を長期間に渡って張り付けさせる。

 これこそ情報戦だ。

 百人近い同期を見せたのも少尉の話に信憑性を持たせるためと、潜入工作要員が多数いることを米軍に知らせるためだ。

 知ったからには米軍も警戒の為の兵士をソロモンの各島に張り付けるだろう。そして存在しない潜入工作員、残置日本兵を探しに行くという無駄なことをソロモン各所で行い疲弊するのだ。

 米軍は信じるだろう。

 何しろ少尉があちこちの島に潜入工作要員が居ると米軍に言いふらすからだ。自分の捕虜としての価値を上げるために多少の嘘を盛り込んで言うはず。

 そして米軍を信じ込ませ無駄に兵を張り付かせ捜索に向かわせる。

 もしかしたらその過程で、少尉の同期、同じ任務に就いた同期を見て中野の仲間と米軍に通報しますます信頼され、少尉の情報は本物と米軍は考えるだろう。

 本物の爆弾より、こうした情報爆弾の方が遥かに効果がある。

 そもそも中野学校は情報戦の学校だが、予算獲得のための表看板に過ぎない。

 宣伝も工作要員を得やすくするためのの小道具で本当の中枢は別の場所に分散している。

 少尉に見せたのは偽情報用のプロパガンダだ。訓練も宣伝用のものであり通報されても問題は無い。

 少尉は中野が教えたいことをアメリカに広く伝えてくれるだろう。

 そしてアメリカは中野の影に大きく怯えて過ちを犯す。

 あるいは中野の訓練を知って逆用しようとする。罠に掛かる少尉の同類もいるが毒を含んだ罠だ。本命の中野の人間は引っかからずに本来の任務を果たせる。

 偽の情報に立脚するアメリカに対して中野は、日本は優位に立てるわけだ。

 これこそ情報戦、秘密戦の勝利だ。

 大尉はそれ以降は黙り込み、やって来た呂号潜の中でも話さなかった。少尉の話は二度と口にしない。中野の要員は必要以上の事は話さない。

 大尉も戦中戦後を通じて上官に口頭で報告したとき以外は、終生沈黙を貫き通した。

 そのため、中野の真相を知る者は少ない。


 大尉の計画は成功し少尉はアメリカに中野の事で知っていることを全て話した。

 これにより米軍は奪回した地域に多数の兵士を張り付け、対日戦の兵力を大きく浪費することとなる。

 また、各地に派遣された中野の要員――少尉の同類を見つけ出す作戦に参加し多数の仲間を発見している。

 捕虜として捕まった要員の面割りにも協力し少尉の話の信憑性は更に高まり、アメリカ軍情報部隊の貴重な協力者として重責を担うことになる。

 そして少尉から得られた情報を本物だと信じ、米軍は中野の侵入を警戒して各地で様々な警戒、そのための労力を、本来ならば侵攻に使う兵力と時間をアメリカは浪費することになる。

 少尉は部隊指揮官などに中野の装備を教えていたため、特に特徴的な苦無や手裏剣を見つけると大騒ぎになった。

 航空偵察のついでに、手裏剣や苦無を偵察機から投げ落としたら発見した米軍が中野に入られたと誤認し、周辺から部隊を呼び寄せ山狩りをしたこともある。実際に潜入していた事実がないにも関わらずだ。

 米軍が全ての真相を知ったのは終戦後であり、真相を知った米軍情報部門は自らの敗北に天を仰いだ。

 だが同時に日本の情報収集能力の高さに着目しGHQのG2などで活用されることになる。


 なお少尉は戦後中野出身者として中野にいたことを少し誇張しながら語り有名人となって中野を戦後の世に知らせることになるが、その大戦果は大尉も予想外だった。

 お陰で中野という言葉が浸透し、戦後も工作活動に一定の効果を得ることができた。

 特に左翼系、ソ連と通じていた報道関係者がソ連内部や日本海、オホーツク沿岸に浸透しているであろう中野の手口を知ろうとして接触、KGPやGRU――赤軍情報本部に通報し一部がマニュアルに記載された事も後に判明している。

 そして少尉は生涯、自分の真の任務と成果を知ることはなかった。

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中野 陸軍秘密情報戦の断片 葉山 宗次郎 @hayamasoujirou

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