3頁~~雨の日、ハレの日~~

 雨粒が地面に触れて、音を立てて弾けて消える。色とりどりの傘が左へ右へ行き交うのを私は、バス停の雨避けの下でベンチに腰を掛けたまま眺めている。


 (雨、止みそうもないな)


 普段は歩いて帰るこの道を、たった1本の傘を忘れただけでバスを待つはめになった私は、そんな自分の失態をなげいてかすかに息を漏らす。

 口から吐き出された白いもやがうっすらと宙に立ち昇り糸が解れるようにして消えていく。その先にこっちをジッと見つめているらしい子供の姿があった。

 時代錯誤な紺色の着物姿。傘も差さずに雨の中に立っているその様子。どれをとっても普通とは言えないそんな子供に対し、道行く人々は不思議と誰一人として反応を示さない。

 まるで夢を視るかのように茫然ぼうぜんと雨と非現実に滲む世界の虜になっていると、いつの間にかその子供は私の目の前にまで近づいていた。

 微睡まどろみのような世界はとたんに鮮明になり、思わず私は目の前の子供の顔を食い入るように見つめていた。


 ???


 可笑しい。手を伸ばせば触れられそうな距離で、正面から子供の顔を見ているにも関わらず、子供の顔が分からなかった。見えないのではない、滲むように、ぼやけるようにしか認識が出来なかった。


 「時分、珍しいな人の子。おれの姿を望める事、光栄に思え」


 子供の奇妙な言葉にまるで足元がすっかり消え失せて体がふわりと宙に浮かんだかのような心持ちになる。

 その奇妙な言葉だけが原因ではない。女なのか男なのか。大人なのか子供なのか。人間の声なのか雨音なのか。全てが曖昧で掴みどころのない声色だったからだ。心に直接呼び掛けるようなそれは不思議と気分を落ち着かせた。


 「キミは一体?」


 戸惑う気持ちを押さえて問いかける。ソレはニヤリと笑う……そんな気配を感じさせた。


 「やっぱり人の子は鈍いの、なんとなく察せられるじゃろ。この威厳に満ち溢れた姿。神以外の何者でもなかろうが」

 「神……?」

 

 突拍子もない、到底信じがたい話ではあったが、ソレが漂わせていた雰囲気は妙に抗いがたい力があった。

 兎に角、私はソレに魅いられたのかどうかは定かではなかったが、好奇心を抱き対話を試みようとする。


 「確かに奇妙だとは思うけど、本当に神様なのか?」

 「失敬な奴じゃな。現におれの姿はお主以外見えておらんかったであろう。それをなんと説明するつもりじゃ」

 「幽霊とか?」

 「ああ言えばこう言う奴じゃな! お主がなんと思っていようとおれが神である事実は変わらん! 黙って受け入れろ!」

 

 にわかに雨足が強まり雨粒が地面を叩く音が激しくなる。弾けた水が無邪気に辺りを跳ね回っている。

 ソレの表情は分からなかったが、その口振りから察するに機嫌を損ねたのかも知れない。


 「わ、分かった分かった。だけど、どうして私に神様の姿が見えているんだ? あいにくそういった類とは縁はないぞ」


 私は幽霊だのそういうものは見たことがない。故にそういう存在には懐疑的かいぎてきだった。もちろん、神様という存在についても同じだ。だからこそ目の前のソレに戸惑っている。


 「それはお主がおれの神威を受け入れているからじゃ。そういう者は神通力を帯び、おれら神の姿を見る資格を得られるのじゃ。だからと言って易々と姿を見せる訳じゃないぞ? 此度の事も資格を得た者が久方ぶりであったからこそ特別に姿を見せてやったのだ。感謝するんだぞ?」

 「神威を受け入れる? つまりどういう事なんだ?」

 「雨じゃ」

 「雨?」


 私の座るベンチの前を横切る通行人が怪訝けげんな表情を浮かべながらこちらを一瞥いちべつしていく。それも当然のことだ。ソレの言い分通りならソレと会話している自分は、傍から見れば空虚な空間に向かって独り言を言っているように見えているのだから。

 その事実に気が付き、顔が熱くなるような私を雨音がなだめた。


 「おれは雨を司る神じゃからな。最近の人の子はどいつもこいつも雨を邪険に扱うから堪らん。その点、お主は素直に雨を受け入れているようで感心感心」

 「いや、でも雨が好きという人間はそれなりにいると思うけど。それに私だってどちらかと言えば雨は苦手な方だし」


 するとソレはくるりと体を翻し腕を伸ばして指先で何かを指し示した。


 「アレじゃ」

 「傘?」

 「そうだ、いつからか人の子はあんな道具を作り出し、雨を拒絶し始めた。雨が好きだと豪語している人の子も雨の日はあの道具を欠かさず持ち歩いているだろう? もはや人の子は無意識に雨を避けるようになってしまったという訳じゃな」


 ソレの表情は分からない。ソレの声色も分からない。私はソレの感情を読み解く事が出来ない。それがなんだかいじらしく感じられて堪らなかった。

 いつの間にか勢いを弱めて、シトシトと降り注ぐ雨は憂いを帯びているような気すら感じさせた。

 ソレの話した内容を聞いて私はなんとなく察しが付いた。つまり私が傘を持っていなかった事がどうもソレに気に入られたらしい。ただ偶然忘れてしまっただけのことなのだが、その事は口にしないでおくことにした。


 「それでありがたく姿を見せて貰った訳だけど……それで私は一体なにをすればいいんだ?」

 「そんなものは必要ないぞ。ただのおれの気まぐれじゃ」


 その時、小さな水飛沫を上げながら市営バスがやってくる。それは私の目の前で停車し、私を迎えるかのように扉が開く。

 私はベンチから立ち上がった。


 「なんじゃ、もう行ってしまうのか。つまらんの……そうじゃ、おれはいつも雨の日は此処にいるからまた来るがいいぞ。暇で暇で堪らんからの」


 そんなソレの言葉に手を振って返事をすると、私はそのままバスへと乗り込んだ。


 それからというもの、私は雨が降る度に傘を忘れてしまっていた。そうしてあのバス停で待っていると、どこからともなくソレが現れた。

 ソレは毎回逢うたびに偉そうにいろんな事を私に話してくれた。雨の成り立ちについて。神という存在について。人間への不満について。その内容の殆どは正直理解できなかった上、いつの間にか唯々、ソレの愚痴を聞かされる羽目になってはいたがそれはそれで不思議と嫌という訳ではなかった。

 そのうちに私自身もソレにいろいろ話をするようになっていた。ソレは物珍しそうに私の話に耳を傾け、なんとなく私も気分が良かった。

 いつの間にかソレとの会話は、私の日常の一部へとすっかり変わっていた。


 ある日、私は著しく体調を崩してしまった。その理由については分かっている。元々あまり体が強い方ではないにも関わらず、雨の度に傘も差さずに体を濡らしていたからだろう。

 意識がぼんやりとするなか、いつものようにバス停のベンチの腰を掛けていると、いつものようにソレが声を掛けてくる。


 「人の子よ。随分と苦しそうじゃの」

 「あ……ああ、ちょっと風邪を引いたみたいだ。まぁ……大した事じゃないよ」

 「やれやれ、人の子は脆くて敵わんな。雨に打たれ続けたのが原因じゃろう? 人の子がおれの神威に耐え切れぬのは分かっておった。だからこそあの道具を作った事もな。ほれ、これに懲りたら今後はあの道具を使う事じゃな」


 その言葉を聞いた時、まるで頭を金づちで殴られたかのような衝撃が襲う。それがどうしてなのかは自分自身良く分かっていない。しかし、その言葉が意味する事だけはハッキリと分かっていた。


 「いや……大丈夫だ。それに傘を使ってしまうと神を見る権利を失ってしまうんだろう?」

 「まぁ、そういう事になるな」

 「そうなるとこうして会話をする事も出来なくなるんだろう?」

 「そうじゃが仕方ない事だろう」

 「本当にそれでお前はいいのか?」

 「何が言いたい人の子よ」


 ザァと雨足が強まって、地面から跳ね上がる飛沫が霧のように宙に舞う。世界に満ち溢れた様々な音を雨が綺麗に洗い流していく。その瞬間、まるで世界から切り離された時の止まった空間にいるかのように感じた。


 「ずっと寂しかったんだろう?」


 返事は帰ってこない。ただ、雨の音だけが世界を包んでいた。

 永遠に続くかのような沈黙をやがてソレが破る。


 「おれ虚仮こけにされたものじゃのう。こんなもの唯の暇つぶしと言っておろう。こともあろうにお主は自分が特別だとでも勘違いしておったのか? 人の子の分際でありながら何たる傲慢よ。興が削がれたわ。もう二度とお主と逢う事はないであろうな」


 ソレはそう言い放つと私に背を向けて歩き出した。その後ろ姿はどんどんと小さくなっていく。その間、やはり行き交う人々がソレに気が付く事など一度たりとも無かった。私はそんな背中をただ見つめている事しか出来なかった。


 それからすっかり体調は良くなった。雨の降る日、いつものように傘を忘れた私はバス停のベンチに腰かけている。しかし、雨の音が絶え間なく響くだけでソレは姿を現す事は無かった。

 何度も雨の日を迎え、その度にあのバス停に通い詰めたが相変わらずにソレの姿は無い。やがていつからか私は傘を忘れる事は無くなり、あのバス停に立ち寄る事も無くなった。

 

 あの時の事は遠い過去のように思えて、あれは夢だったのだと自分に言い聞かせる。そんなある日の事、雨が降ると知っていながら私は傘を忘れてしまった。一本の傘を忘れた為に私はバス停で足止めされる羽目になった。

 ベンチに腰掛け、ボーッとしながら行き交う色とりどりの傘を眺めている。やがて、それも途切れて人の姿はすっかり消え失せて雨が弾ける音だけが残る。耳を澄ませていると、不思議とバシャバシャと水を跳ね上げるような、まるで子供がはしゃいで走り回っているような音が聞こえたような気がした。


 やはり雨の日は、私にとって特別な日だったのだ。

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