欠片の物語

八雲 鏡華

1頁~~いつか隠したあの日の記憶~~

 重い足取りで玄関の扉を開けて、逃げ込むように部屋に入ると度重なる残業にもはや何をする気力も湧かずに、足元もふらついたまま寝室のベッドへ倒れ込むようにして横になる。

 そうして目をつむれば少しはなんだか体が軽くなるような感覚さえしたが、次の瞬間には再び体は重力に支配される。何も考えずに眠ろうとすれば様々な後悔の念が頭の中に渦巻いた。私は何をしているのだろう。どうしてこんな生活を送らないといけないのだろう。私は何を間違えたのだろう。自分自身を、その人生を恨むようにうわごとを繰り返す。


 「こんなの私は望んでなんかない……こんな筈じゃ無かった……」


 そんな言葉を最後に私の意識はまるで色が解け落ちていくように真っ白に染まっていった。




 気が付けば私は真っ白な世界に立っていた。

 空は灰色で、地面は遥か彼方まで白く、辛うじて所々こんもりと盛り上がっているのが見て取れて、意外にも起伏に富んでいるらしいことだけはなんとなく分かった。

 足を動かしてみれば嘘みたいに体が軽く、また、踏みしめた地面にはくっきりと足跡が残っていた。どうやら雪が降り積もっているらしい。ここはどこまでも雪原が広がっているようだった。

 よく見てみれば自分の周りがキラキラと輝いて、光の粒が宙を舞っていることに気が付いた。いや、灰色の空と真っ白な雪原のせいで分かりずらいけれど、どうやら雪が降っているらしい。気が付けばしんしんと雪は勢いよく雪原へと降り注いでいた。

 そんな状況なのに私は全く寒さを感じていない。ようやく私はこれがきっと夢なのだと理解することができた。


 「真っ白な雪の世界……てっきり、私じゃもっと薄気味悪い悪夢でも見るのかと思ってたけれど」


 そんな風に皮肉交じりに呟いていると、自分以外誰もいなかった筈のこの世界に人影があることに気が付いた。背丈せたけ随分ずいぶんと低くどうやら子供らしかった。服装は雪が降っているこの状況に似つかわしくない軽装だけど、夢ならそんなものかと納得する。だけど、不思議と私には引っかかるものがあった。何故だか知らないけれど、その子供の服装に懐かしさを覚えていた。


 「ねぇ、キミ。こんなところで一体なにをしているの?」


 そう声を掛けてみると、子供は声に反応したのか私の方へ顔を向けてきた。興味本位でその子供の顔を見返してみると私は思わずぎょっとしてしまった。

 なにもその筈、その子供は実家のアルバムで見たことのある幼い頃の私そのものだったからだ。

 そんな私の様子を見て、幼い私は屈託のない笑顔を浮かべてみせた。今の私はとうの昔に忘れてしまったものだろう。無邪気に笑いながら幼い私はその小さな手を私に向けて振っていた。


 「ね、遊ぼ」


 それだけ言うと幼い私は小さい体をくるりと反転させて、足元の雪を蹴飛ばしながら走り去っていく。少しの間、そんな光景に呆気あっけに取られていた私は、ハッとして幼い私が走っていった方向へ駆け出していた。どうして追いかけようとしたのか私自身、理由は分からなかった。


 雪が降り続ける真っ白な世界を私は駆けていく。足元にはそれなりに雪が積もっていたけれど、その足取りは不思議と軽かった。

 背の小さな幼い私は随分ずいぶんと先を元気に駆けていて、しんしんと降り続けながら時折ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く雪に姿を紛らわされ、見失いそうになるけれど、その足跡がくっきりと雪原に刻まれていたからその後を追いかけるのは苦ではなかった。

 降り積もった綿のように柔らかい雪を軽快な足取りで蹴飛ばしながら進むのは、まるで子供の頃に無邪気なまま駆け回ったのを思い出すかのようだった。降り続ける雪がキラキラとまるで流れ星のように私の頬を掠めて流れていく。

 しばらく進むと雪しかなかった真っ白な世界に別の色が浮かんできた。それはすっかり雪が積もってはいるが、壁には茶色の木肌が覗いている。どうやらログハウスのようだった。


 「これは家? 今までなにもなかったのにどうして急に……」


 白銀の海原に浮かぶログハウスに気をとられ、歩む速度が緩んでいく。建物の側面には雪の結晶が張り付いた窓から橙色の柔らかな灯りが漏れている。

 興味本位で窓を覗いて見れば、二人の男女が大切そうに赤ん坊を抱いて幸せそうに笑っていた。


 「お母さん……お父さん……」


 白い息と一緒にそんな言葉がポツリと零れた。

 ハッとして辺りを見渡すと既に幼い私は雪に紛れて消えていた。だけど、その足跡はまるで私を誘うかのようにクッキリと続いている。

 

 その足跡を辿りながら、さっき見た光景について考えてみた。あの窓から見えた二人の男女はどうも自分の両親だった気がしてならない。

 そうしているうちにまた白銀の海原に浮かぶ建物の姿が見えてきた。さっきのログハウスと同じ造りで、もしかしてと近寄るとやはり雪の結晶が張り付いてまるで一種の額縁のような窓があった。

 覗き込んでみれば先ほどの男女がランドセルを背負った小さな女の子に対してどうやら撮影会を開いているようだった。

 あの女の子には見覚えがあった。なぜならそれはさっきまで私がその後を追っていた幼い頃の私だったからだ。

 だとすればあの男女はやはり私の両親だ。これは私の追憶なのだろうか。これが私の見ている夢だとして、今の辛い現実に耐えかね心の奥でこの古き良き日を求めていたのだろうか。

 気が付けば足跡が続くその先にもはや見慣れたログハウスがずらりと並んでちょっとした街通りのようになっていた。

 私は足跡を辿っていく。その途中で覗き込んだ窓の中にはやっぱり私の思い出があった。友達と外を駆け回った小学生の私。甘酸っぱい恋をして、顔も朧げなあの子の背中を見つめていた中学生の私。母親と大喧嘩をして外に飛び出し、両親が迎えに来てくれるまで途方に暮れていた高校生の私。

 歩き続ける私の頬に雪が張り付き体温で溶けだしていく。私の頬にキラリと光る一筋の水が流れた。

 その後はなんだっけ……ああそうだ、大学に進んで明るい未来の訪れを信じていた私は就職という運命の分かれ道で致命的な間違いを犯し、ガラリと私の運命を変えてしまったんだった。


――ああ、こんな筈じゃなかったんだけどな


 いつの間にかログハウスは消え失せて、足跡もそこから途絶えていた。再び真っ白な雪以外何もない世界に放り出され、夢だと分かっていてもなんだか心細くなりながら辺りを見渡すと、人影が雪に紛れてポツンと立っていることに気が付いた。近寄ってみればそれはずっと追いかけ続けていた幼い頃の私。

 私は「私」に声を掛ける。


 「ねぇ、貴女は私なんでしょう?」


 すると、今までずっと私に背を向けたまま立ち竦んでいた幼い私がクルリと振り返って、そのまま夢の世界に溶けて消えてしまいそうな笑みを浮かべた。私はそんな彼女の笑顔にすっかり目を奪われて、雪がまつ毛に積もって白く染めていくのにも気に留めずしばらくく瞬きを忘れていた。その時の私の感情はきっと、親にとがめられ一抹の罪悪感を心に咲かせた子供のようだったに違いない。


 「うん、そうだよ。私は貴女。ねぇ、一つだけお願いを聞いてくれる?」


 無邪気で儚い笑みを浮かべる彼女は目を細めて私を見つめる。


 「お願い? うん、別に構わないけど」

 「ああ、良かった……じゃあ」


 彼女は一旦言葉を区切って浅く息を吸った。


 「私の事を忘れないで」


 そんな言葉が聞こえたかと思うと、降り続けていた雪は勢いを増してまるで吹雪のようになる。パチパチとシャボン玉が弾けるように視界が白く塗りつぶされていく。そんな中で幼い私が雪に解けるように消えていくのを見た。そこで私の意識も弾けて消えた。


 目が覚めるとそこは自室のベッドの上だった。カーテンの閉め切った薄暗い部屋の中で私はゆっくりとベッドから起き上がった、

 やっぱりさっきのは夢だった。とても奇妙でなんだか優しい夢だった。……あの私は一体何を私に伝えたかったんだろう。彼女の言葉を思い返していると、テーブルの上に置かれたスマートフォンに一通のメッセージが入っていることに気が付いた。いつもの習慣で自然とそれに手を伸ばし内容を確認する。

 それは母からのメッセージで内容は「調子はどう? 夢は叶えられそう? お母さんとお父さんは貴女の事、応援してるから頑張ってね」というものだった。

 そうだ、私は夢を叶える為にこの道を選んだんだった。今の生活が望んでいたものから程遠いのには間違いない。私の今の人生は惨めなものだとも思う。だけど、それはいつかの私が選んだものなのだ。その私を否定する事はいつかの私を忘れ、なかったことにしてしまうという事なのだろう。いつかの私を否定してしまっては今の私がもうなんなのかすら分からなくなってしまうに違いない。

 認めがたい出来事も、間違いだったと思う選択も、すべて今の私を構成するものなのだ。だから私は、私自身の事は否定しない。いつかの私を忘れない。

 カーテンを開けると、窓の外では雪が降り始めていた。

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