ある日幽霊になりまして。

谷地雪@悪役令嬢アンソロ発売中

ある日幽霊になりまして。

「……嘘だ……」


 私は『私』を見下ろしていた。何を言っているか分からないと思うが、私も何が起きているのか分からない。ただ今の私は宙にふわふわと浮いていて、その私の下には『私』の体がある。


 ――まさか、私は、死んだのだろうか。


 ぞっとする考えを、頭を振って消そうとする。意識を失う前のことを思い出そうとするが、ぼんやりとしか覚えていない。

 最近ずっと仕事が忙しかった。床で寝落ちすることもしばしば。昨日もそう。帰宅した時には当然のように日付が変わっていて、重い体を引きずってなんとか玄関から居間まで辿り着いたところで床に倒れこんで、せめてお風呂に入らないと、と思いながら寝落ちした。寝落ちした、だけのはずだ。

 しかし『私』の体は床に倒れ伏したまま微動だにせず、顔は色を失っている。それを見ている私は地に足をつけることも出来ず、半透明な体で宙を漂っている。実体がないせいか、この体はものに触れることが出来ず、『私』の呼吸も脈も確かめることが敵わない。


 ――どうしよう、どうしよう。


 パニックで泣きそうな気持ちになるが、それは感情だけで、この体は涙を流すことはないようだ。目が熱くなることも心音が速くなることもない。

 とにかく、誰かに気づいてもらわなければならない。一人暮らしで家族とも疎遠な私は、このままだと死体が腐り溶けるまで、誰にも気づいてもらえない可能性がある。それは何としても避けたい。というか、そうなるまでここで自分の体を眺めていたら間違いなく発狂する。

 霊感のある人間なら気づいてもらえるんじゃないだろうか。神社か寺に行けば、なんとかなるかもしれない。

 そう考えて、部屋を飛び出した。歩けないのにどうやって移動したら、という心配は一瞬で、何故かそうするのが当たり前のように、私は体を動かせた。ものに当たらないので、扉はすり抜ける。通路に出て、手すりを飛び越えようとして――


「えっ!?」


 何かにバチン、と当たった。恐る恐る手を伸ばすと、まるで透明な壁でもあるかのように阻まれて、その先へ指先すら出すことが出来ない。状況が飲み込めなくて、迷った末に通路を通り、階段を降りて、マンションの出入り口から出ようとした。


「そんな……」


 やはり、ダメだった。どういうわけか、マンションより外には出ることが出来ないらしい。


 ――詰んだ。


 ここに来るまですれ違う人は、誰一人私に気づかなかった。こうして立ち尽くしている今も(正確には立っていないで浮いているけれど)、何人かが出入りしているというのに、誰も私に視線を向けない。一縷の望みをかけて、悪いとは思いつつ管理人室に入って管理人に声をかけてみたが、ダメだった。

 途方に暮れた私は、仕方なく自分の部屋へと戻った。しかし、部屋の中に入れば動かない『私』の体が嫌でも目に入る。それが怖くて、部屋の前で膝を抱えてうずくまった。

 ぎぃ、と扉の開く音がすぐ近くでした。お隣さんだ。そういえば、お隣さんを見たことがない。私が朝早くに出て夜遅くに帰ってくるせいなのかもしれないけれど、もう昼近くなる今の時間を考えると、お隣さんは会社員ではないのかもしれない。どんな人だろう、と気になって、ちらりと視線をやった。


 目が、合った。


 瞬間、その人はばっと顔を背けて、早足でエレベーターへと向かった。


「ま、待ってください!!」


 私は必死で追いかけた。初めてだ。この姿になって、初めて人と目が合った。きっと、あの人は私が見えている。


「お願いします! 助けてください!」


 聞こえているのかいないのか、その人は足を止めることをしない。


「わ、私、隣の部屋で! 死んじゃったかも、しれなくて! 一人で、誰もいなくて!」


 止まってくれなくても、聞こえているかもしれないと言葉を続ける。


「家族とも疎遠で、尋ねてくるような友人もいなくて、仕事先だって……様子を見に来るようなところじゃ、なくて……」


 言ってて悲しくなってくる。それなのに、涙の一つも流すことが出来ない。


「このままじゃ、私……一人で、腐るのを、待つだけです……」


 エレベーターの前で、その人の足が止まる。下へ降りるボタンを押して、エレベーターが来るのを待っている。


「お願いします……。管理人さんに頼んで、中を確認してもらうだけでいいんです。あのまま、放っておかれなければ、それだけでいいんです。お願いします……」


 それ以上言葉を続けることが出来なくて、頭を下げたまま動けなくなってしまう。この人を逃せば、もう後がないかもしれない。どうか、どうか。

 祈るような気持ちで目をぎゅっと瞑ると、重苦しいため息が降ってきた。


「…………管理人に、頼むだけでいいんだな」

「っ!」


 ぱっと顔を上げれば、ものすごく嫌そうに歪められたその人の顔が見えた。


「はい……っ! よろしくお願いします!」


 再度頭を下げると、先ほどよりも一段大きなため息が聞こえた。




 管理人室は一階にあるので、お隣さんと一緒にエレベーターに乗り込む。下手に世間話が出来る空気でもないので、黙ったまま盗み見るようにしてお隣さんを窺う。

 ぼさぼさの黒髪に、顔を隠すような太い黒縁の眼鏡。だぼったいTシャツとパンツ、それに大きめのロングカーディガンを羽織っている。足元は履き潰したスニーカーで、鞄は持っていない。全体的にとてもラフな格好をした男性だった。歳の頃はおそらく二十代後半、三十歳には満たないように見える。何をしている人なんだろう、とぼんやり考えていると、エレベーターが一階に到着した。お隣さんは迷うことなくスタスタと管理人室に直行して、管理人さんに声をかけた。


「すみません、608号室の堺ですけど」

「はいはい、どうかしましたか?」

「隣の609号室から、何か大きい音がして。気になってチャイムを鳴らしたんですけど、出てこないんですよ。何かあったんじゃないかと」

「ええ? うーん……そうですか……」

「念のため、中の様子を確認してもらうことは出来ますか?」

「でもねぇ、あそこは女性の一人暮らしだから……あまり簡単に入るわけには……」


 管理人さんは歳のいった男性なので、本人に無許可で立ち入ることには抵抗があるのだろう。


「警察に連絡してみます?」

「……それは……」


 ちら、とお隣さんがこちらに視線を寄越した。どうする、というより、それは面倒くさい、と訴えられているように感じる。確かに、警察に連絡して、部屋に死体があるとなれば、お隣さんは事情聴取など面倒ごとに巻き込まれるだろう。それは大変申し訳ないが、このまま放置されるわけにはいかない。思い切り頭を下げる。


「……それしか、ないのなら」


 嫌そうな声で、お隣さんが管理人さんに頼んだ。ちょっと待ってね、と言って管理人さんが電話を手にして、暫く話した後にお隣さんに向き直った。


「物音だけだと何とも言えないから、一回こっちで確認してくれってさ。やだねぇ、お役所仕事は腰が重くって」


 やれやれ、とため息をつきながら、管理人さんが鍵を手にした。


「何日も姿を見せないとかならともかく、今日の話でしょ? 大丈夫だとは思うけど」


 よほど嫌なのか、ぶつくさと文句を言う管理人さんに、なんだか悲しい気持ちになってくる。孤独死って、こうやって起きるんだな。別に心配してもらえるような間柄じゃないけど、どうでもいいと言われているようで傷つく。


「それで死んでたら、あんた責任取れるんですか」


 思ったより強い口調でお隣さんが発言したので、びっくりして顔を見た。怒っている風ではないが、さきほどまでの面倒そうな顔でもない。


「し、死んでたらって、大げさな……」


 管理人さんは怯んだようで、大人しく私の部屋へと向かった。




「安本さーん。いますかー」


 チャイムを鳴らしても応答がないので、扉をどんどんと叩いて管理人さんが呼びかける。『私』の意識はないので、当然返事はない。


「安本さーん。開けますよー」


 声をかけてから、管理人さんが鍵を開ける。扉を開いて、中の様子を窺う。


「安本さ……えっ!?」


 飛び込んだ光景に、管理人さんが声をもらした。『私』は昨晩、玄関から直進した先にある居間に辿り着いた時点で床に倒れた。そのため、居間の扉は開け放しとなっている。つまり、玄関の扉を開けた時点で、倒れている『私』の姿を確認することが出来た。


「安本さん! 大丈夫ですか!?」


 管理人さんが玄関から大声で呼びかけるが、返答がない。一言断って部屋に入り、『私』の様子を確認すると、慌てて携帯でどこかへ連絡をした。


「これで、俺の役目は終わりだな」


 玄関から中の様子を眺めていたお隣さんは、小さな声で私にそう言った。


「は、はい。すみません、ありがとうございました」


 頭を下げた私をちらりと見て、お隣さんは管理人さんに声をかけた。


「じゃぁ、俺はこれで」

「堺さん、これから救急車が来るので、私は下で待機してここまで案内をします。それまで、安本さんの様子を見ていてくれますか」

「は? いや、俺は」

「お願いします」


 そう言って、管理人さんは足早にその場を去ってしまった。


「……救急車?」


 お隣さんは訝し気にそう言うと、部屋に上がって『私』の横に腰を下ろした。口元にそっと手を当てて、一言。


「……生きてるじゃねぇか」

「えっ!?」




 そこからの展開は早かった。救急車が到着し、搬送先の病院で『私』は意識不明の重体として入院が決まった、らしい。らしいというのは、私はマンションから出ることが出来ないので、管理人さんがお隣さんに話しているのを聞いたからだ。


「で、何であんたは未だ俺につきまとってるわけ」

「いや……その……ごめんなさい」


 しゅんとして正座の姿勢を取る私を、お隣さんはジト目で見つめた。

 私は今、お隣さんの部屋にいた。最初は、てっきり自分は死んだものだと思っていて、体が発見されてちゃんと処理されれば、成仏するものだと思っていたのだ。それが、実際は生きていた。だというのに私の意識はここにある。どうすればいいのか分からなくて、つい唯一話の出来るお隣さんについて部屋にまで上がり込んでしまった。悪いとは思っているのだが、正直今はお隣さんしか頼れる人がいない。


「私のこと見えるの、お隣さんしかいなくて……。今、私、自分がどういう状態なのかもよく分からなくて、大変申し訳ないのですが、お力になっていただけたらと……。必ずお礼はしますので……!」


 金ならある。と言うと言い方は悪いが、趣味も時間もない私はお金を使う当てもなく、貯金はそれなりにある。十分なお礼は出来ると思う。


「力になれって言われてもな。名前も知らないような相手に何しろって言うんだ」

「あ! じ、自己紹介もせずに、すみません。私は隣の609号室に住んでいる、安本渚です」

「……堺翔」


 さかいかけるさん。何年も住んでいるのに、お隣さんの名前を初めて知った。


「堺さん。改めて、この度は大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」


 深々と頭を下げる私を、堺さんは黙って見ている。


「その上で、不躾なお願いだとは思いますが、少し……話を聞いていただきたいです。まだ私は混乱していて、できれば冷静な第三者の意見が聞きたいんです」

「……生憎と俺はオカルトにも医学にも詳しくない。加えて、他人とあまり関わる性分でもない。期待はするなよ」


 ため息交じりに告げられた言葉は、肯定を意味していた。


「あ、ありがとうございます……!」


 私は改めて頭を下げた。


「で、あんた今どういう状態なんだ」

「え、えっと。私は、自分のことを幽霊なんだと思ってました。誰にも見えないし声も聞こえてなくて、ものには一切触れなくて……あと、このマンションから出られないんです。だから、地縛霊みたいになってるのかと思ってました。実際は死んでなかったんですけど」

「……幽体離脱、みたいなもんか?」

「そうですね……。体が生きているなら、そうなのかもしれません」


 現実感はないが、今の状況を表すならそれが一番しっくりくるかもしれない。


「堺さんは、以前から霊とか見えたんですか?」

「んなわけあるか。あんたが初めてだよ」

「あ、そうなんですね。何か、心当たりとか……」


 そう尋ねると、堺さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「す、すみません。答えたくないことなら別に」

「あんたと俺が似てたからじゃねぇの」

「え?」

「霊とかって、共感した奴に憑くって言うだろ」


 ぶすっとした不機嫌そうな顔で、しかしその矛先は私ではなく、自分に向いているように見受けられた。


「だから、私を助けてくれたんですか?」

「孤独死なんて、他人事じゃねぇからな」

「孤独死……」


 自分でもそう思っていたはずなのに、改めて他人から言われるとずしんとくる。


「俺も、家族とか、友人とか、そういうの疎遠だから。仕事もフリーランスで篭ってばっかだからほとんど人と会わねぇし」

「そういえば、お仕事は何を?」

「イラストレーター」

「え! 凄いですね」

「別に凄くはねぇよ。絵を仕事にしてる奴なんか腐るほどいる」

「でも、それでここに住んで、食べていけるだけの稼ぎがあるってことですよね? 好きなことを仕事に出来るなんて、それだけでも凄いです。私なんか、誰にでも出来る仕事で、朝から晩まで必死で働いて、やっと……って感じで……」


 話していて落ち込んでくる。そんな思いをして働いても、誰に喜ばれるわけでもなければ、こんな事態に心配して駆けつけてくれる人すらいない。


「……好きなこと、ね」

「え? 違うんですか?」

「どうだかな。好きで始めたことには違いねぇけど、好きなだけじゃ売れねぇし。ビジネスだって割り切ってからだよ、稼ぎになりだしたのは」

「そうだったんですね。すみません、私……無神経なことを……」

「別に」


 会話が途切れて、気まずい空気が流れる。人と大してコミュニケーションを取ってこなかったのに、下手なことを聞くんじゃなかった。


「なぁ、あんた、礼をするっつったよな」

「え!? あ、はい!」

「なら、あんたのこと描いてもいいか。幽霊なんて滅多に見れるもんじゃねぇし」

「も、勿論です。私なんかで、よければですが」

「ん」


 短く返事をして、堺さんはスケッチブックを手に取った。


「適当に浮いてて」

「は、はい」


 浮いてて、というのも妙なリクエストだが、確かに立つことも座ることも出来ないのだから、ポージングの指定も何もないだろう。眼鏡の奥の視線に落ち着かない気持ちになりながらも、出来るだけ動かないように気を付けた。


「その顔、もうちょっとどうにかなんないの」

「か、顔、ですか……」

「笑えとは言わないけど、そう明らかに不安ですって顔されると、俺がいじめてるみたいだろ」

「あ、そういう……」


 びっくりした。顔の造りのことを言われているのかと思ってしまった。しかし、そう言われたところで、意識して表情を作れるかというと、困ってしまう。

 その困った気持ちがそのまま顔に出てしまったのか、堺さんは難しい顔をした後に、小さくため息をついてから喋りだした。


「あんたは……仕事、何してんの」


 喋りにくそうだ。多分、堺さんも会話に慣れていない。でも、私を気遣って、多分、おそらく、リラックスさせようとしているのだ。それに気づいただけで、ふっと力が抜けた気がした。


「私は、SEの仕事をしています」

「へぇ、凄いじゃん。俺パソコン全然なんだよね」

「そうなんですか? でも、デジタル用の機材揃ってますよね」

「仕事柄必要だから覚えたけど、未だに苦手意識ある。アナログからデジタルに移行するのに苦労した」

「努力されたんですね」

「仕事だから」


 さも当たり前のように返されて一瞬怯んだ。


「あんたも、そうなんじゃないの」

「え……」

「人のことだから凄く見えるだけで、誰だって仕事は大変だし、不満もあるし、努力もしてるもんだろ。変わらねぇよ」

「……そんな、ものですかね……」

「そんなもんだろ」


 目も合わせずにさらっと言われたその台詞が、なんだかすとんと胸に落ちた。それから、じわじわと言葉が溢れ出してきた。普段、自分のことなんて話す方じゃないのに。


「私、今の仕事続けててもいいんでしょうか」

「そんなの俺が知るわけないだろ。好きにすれば」

「私、めちゃくちゃ忙しいけど、仕事以外何にもないけど、だからこそ、仕事を辞めたいとは思ってないんです。それしかないから。でも、誰にも気づかれずに死ぬような生活を続けててもいいのかって、怖くなることがあって」

「誰かに看取って欲しいの?」

「そう……では、ない、と思います。一人で死ぬのが怖いっていうより……死んだあと、誰にも発見されずに腐ったら、清掃が大変だな、とか、ニュースになったら嫌だな、とか、職場が何か言われたりしたら……私のせいになるのかな、とか……」

「……まぁ、わからんでも、ない」

「わ、わかりますか!?」

「別に今更一人で死ぬのなんざ何とも思わんが、死んだ後に余計な迷惑までかけるのは本意じゃない」

「そ、そうなんです! それです!」

「それに関しちゃ、俺たちは利害が一致してるのかもな」

「え?」

「一応、顔見知りにはなったわけだし。お互い、相手が死んだら気づく程度のことは出来るんじゃねぇの」

「あ……」


 そうかもしれない。こんな形ではあるけれど、今まで一度も会ったことのなかったお隣さんと、こうして知り合うことが出来た。お互いに、ろくに頼る知人もいないことが分かった。だからといって友達になれるかは別の話だけれど、ほんの少しでも気にかけていたら。例えば、ポストが何日もいっぱいだとか、変な音や臭いがするだとか。そういう、全く見知らぬ人だったら無視してしまいそうなことに気づけたら。もしも死んでしまった時。腐臭がする前に、見つけるくらいのことは、出来るかもしれない。

 そう思ったら、何だかひどくほっとした。


「そのまま」

「えっ!?」

「っち、まぁいい。覚えた」

「は、はぁ……?」


 何故か小さく舌打ちされたけれど、どうやら堺さんは筆が乗り始めたらしい。集中しているようなので、私は黙った。静かな時間が続いたけれど、気まずい空気はもう無かった。




「よし、描けた」


 堺さんの一言で、私は姿勢を崩す。軽いスケッチ程度だったので、そこまで長い時間ではなかったが、やはり動かずにずっと見られているのは多少緊張する。


「見てもいいですか?」

「いいけど、別に面白いもんじゃねぇぞ」


 自分では持てないので、堺さんが見えるようにしてくれたスケッチブックを覗き込む。


「……私、堺さんにはこう見えてるんですか?」

「あぁ? 何か変か」

「いえ、変ではないです。嬉しいです、凄く」


 誰かに自分を描いてもらったのは初めてだったが、人から見た自分が存外悪くなかったので、気恥ずかしいような、くすぐったいような、不思議な気持ちになった。


「……そうかよ」


 顔を背けてしまったが、心なしか、堺さんも照れているように聞こえた。


「で、あんた、どうすんの」

「あ、ど、どうしましょう……」

「幽体離脱……っつったら、体の近くに居た方がいい気もするけど。マンションから出られないんだったよな」

「そうなんです……」

「……眠ってみる、とか?」

「え? 幽体で……ですか?」

「意識を失って、体から意識が離れたんだろ? だったら、今の意識だけの状態でそれを失えば、戻ったりしねぇのかなって」

「なるほど」

「まぁ、ただの思い付きだけど。確かな方法があるわけじゃねぇし、試すだけ試してみたら」

「そうですね、やってみます! ありがとうございます!」


 頭を下げて、私は自分の部屋へ帰ることにした。急に壁をすり抜けるのもどうかと思うので、一応玄関へと向かう。


「なぁ」

「はい、何ですか?」

「俺、だいたい部屋にいるから。だから、その……」


 言いにくそうに、がしがしと頭をかいている。ただでさえぼさぼさな髪が、更に絡まった。


「――……どうにもならなかったら、また、お話聞いてもらえますか?」

「……来るときは、外から声かけてからにしろよ。あんたチャイム押せないんだから」

「はいっ!」


 自然と綻んだ笑顔で返して、私は自室へ戻った。

 ベッドに潜れるわけではないけれど、気分の問題だと横になって目を閉じた。体がないのに眠る、と意識するのは変な感じだ。でも、何故か不安はなかった。このまま死んでしまっても、手続きとかは堺さんにお願い出来るかもしれない。口座情報を教えたら、お礼はそのまま渡せるだろうか。ああ、でも法に触れてしまうかも。事前に遺言状を準備出来ていたら良かったのに。そういうのって、どうしたら……いいのか、な……。


 ――――……。




 瞼が、ひどく、重い。

 億劫だけれど、起きなくては。今は、何時だろう。そうだ、仕事に行かなくちゃ。起きなくちゃ。

 力を込めて目を開けると、白い天井が見えて、それから薬品の匂いがした。


 ――病院だ。


 頭がぼーっとして、それ以上のことは考えられなかった。


「先生! 安本さん、目を覚ましました!」


 看護師さんの声がする。居たことに気づかなかった。

 それから医師が来て、過労だとかなんとか説明されたけどよく覚えていなくて。あれこれ検査されて、数日入院して、無事退院した。何だか、あっという間だった。

 結局、お見舞いには誰も来なかった。仕事は無断欠勤になってやしないかと思っていたが、管理人さんが連絡してくれていたらしく、クビになっていなかった。戻ったらお礼を言わなくては。

 職場の人たちにも、謝らなくてはならない。急に抜けて、迷惑をかけた。私が居なくても回る仕事だけれど。誰でも代わりになれる仕事だけれど。それでも、今までやってきたのは私だ。私が積み上げてきたものがある。それを知っているのは、私だけだから。プライドと言えるほどのものはないけれど、責任感はある。


「さーて、遅れた分、頑張らないとなぁ」


 大きく伸びをして、見慣れたマンションを見上げる。出入口を潜って、まずは管理人室に顔を出した。ちゃんとしたお礼はまた後日するとして、軽く挨拶を済ませる。エレベーターに乗って6階まで上がり、通路を進む。このまま行けば、私の部屋の609号室だ。だけど、その一つ手前の608号室の前で、私は足を止めた。少し迷って、深呼吸をして、チャイムを押す。

 ――ピンポーン

 馴染みの電子音の後、住人が応答する。私が名乗ると、バタバタと音がして、扉が開いた。


「初めまして、堺さん。隣の部屋の安本です」

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