第44話 ケイロンとアステリオス4

 中天に昇った明るい満月が街道を照らしてくれる。


 雲ひとつない夜空で、アステリオスとケイロンは視界には困らず駆け続けられていた。


 二人はかなりの速度で走っているのだが、ケイロンの背に寝かされたテティスの体にはさしたる負担はない。


 荷台が取り付けられた鞍はGや揺れを緩和する魔道具になっているため、搭乗者は振動すらほとんど感じずに済むのだ。


「テティスの様子はどうだ?」


 ケイロンは焦りとともに、もう何度問うたか分からないことをまた尋ねた。


 海までの行程を考えてペースを計算していたが、どうしても足は早く動きたがる。


 アステリオスはケイロンの背で揺られるテティスの顔を覗き込み、軽く手を触れて魔素を探った。


「フレイやミノスの旦那ほどは分からねぇが……まだ大丈夫そうな気がする。明け方まではつんじゃねぇかな」


「そうか……なら間に合いそうだ。このペースなら明け方には着きそうに思える」


「ああ……」


 短く答えてから、ケイロンの背中に礼を投げた。


「……ありがとな、来てくれて」


 急に殊勝な言葉をかけられたケイロンは思わず笑ってしまった。


「何だ急に。気持ち悪いな」


「いや、ホントありがたいと思ってるんだよ。俺が抱えて明け方まで走ったんじゃ、テティスの体には普段がデカかったろう」


「大切なものを乗せて運ぶことはケンタウロスの誇りだ。気にしなくていい」


「だが良かったのか?フレイは上手くやってくれたんだろうが、それでも帰ったら罪に問われるかもしれねぇぞ。アカデミーだって権力者に忖度そんたくしてクビにしちまうかもしれねぇ」


「仕事がクビになるくらい何だ。日々働いているとたまに勘違いしてしまうが、仕事とは幸せになるためにするものであって決して逆ではない。それにフレイさんが言っていたように、私もテティスを娘のように思ってる」


 娘という単語を耳にして、アステリオスはテティスの顔をあらためて見つめた。


 そして納得する。


「ああ……俺もだよ。娘がいたら、こんなにも可愛いんだろうなって思う」


「ミノスさんもそうだろう。テティスはいつだかお父さんもお母さんもいないと言っていたが、少なくとも自称父親は四人いるな」


「違いねぇ」


 アステリオスが笑った時、風に乗って何か聞いたことのない音が聞こえてきた。


 自分たちが進む南の方から聞こえてきた気がする。


「……なんだ?」


「さぁ……」


 二人とも覚えのない音だったので、その正体は分からない。


 進んでいれば分かるだろうと思って走っていると、音はだんだんと大きくなってくる。


 が、かなり進んでもうるさくなる一方で、何が立てる音かはやはり分からない。


 二人は最終的に小さな山を一つ登り切り、その頂上から眼下を見下ろしてようやく音の正体を知った。


「な、何だこりゃあ……」


「モンスターの……洪水……」


 まさにケイロンのつぶやき通り、洪水のような数のモンスターが山の下を流れていた。


 半端な数ではない。大河一つ分くらいの幅をモンスターが埋め尽くしている。


 その立てる地響きと羽ばたき、そしてあまりに雑多な鳴き声が、この世のものとは思えない音を発していた。


 もし地獄の釜が開いたとしたら、中身はこんな光景かもしれない。


「スタンピード……」


「まさか、こんなタイミングで起こるなんて……」


 めったに起こらない最悪の厄災、スタンピードが発生していた。


 これによって廃墟になった街の記録も残っているが、それはそうだろうと思う。


 実際に目にすると、街一つくらい壊滅させられるだろうと容易に理解できた。


「これ、どのくらい続くんだろうな?」


 アステリオスに問われ、ケイロンは一般的な知識から推測した。


「スタンピードは長ければ丸一日、短くても半日は続くらしい。そしてプティアにこの情報がまだ来ていなかったことを考えると、発生からそれほど時間は経っていないんだろう」


 つまり、この洪水は少なくともあと半日近くは続きそうだという結論になる。


 その半日を待ってからここを出発しても、テティスの息があるうちに海までたどり着くのは不可能だろう。


(無理だ……)


 口には出さなかったものの、ケイロンは理性的にそう結論づけた。


 しかしアステリオスの方はそうではない。


「ケイロン。テティスを降ろすから、俺にしっかりと縛り付けてくれ」


 さすがにケイロンは耳を疑った。


 つまりこのミノタウロスは自分一人でこの洪水を泳ぎ切ろうと言うのだ。


「ば、馬鹿を言わないでくれ!!こんなの通れるわけがないだろう!!」


「そんなのやってみなきゃ分かんねぇだろ」


「分かった時には死んでるぞ!!」


「だからなんだ。行かなきゃテティスは絶対に海を見られない。でも行けば見られる可能性もある。なら、俺には行くって選択肢しかないんだよ」


「…………」


 アステリオスの声は落ち着いていて、それでケイロンはこの男が本気なのだと分かった。


 しかも、何を言っても聞かない目をしている。


 もし自分が体を張ってアステリオスを止めようとしても、昏倒させられた上で実行されるだけだ。


「……何を言っても無駄なんだな?」


「ああ、説得は無意味だぜ」


「私も何を言われても、テティスを降ろさない」


「……仕方ねぇな」


 アステリオスはケイロンの思った通り、実力行使に移ろうとした。大斧を握り直す。


 しかしそれを振る前に、ケイロンはスタンピードの方へ一歩踏み出した。


「私も弓で援護するが、あまり期待しないでくれ」


 そう言いながら、厄災へ向かって斜面を下り始める。


 アステリオスはその背中にあっけにとられたものの、すぐに後を追いかけた。


「おい、待てよ。お前は来なくていい。俺とテティスだけで行く」


「何を言うんだ。ケンタウロスが背中のものを人に預けて一人帰れるわけないだろう」


「……そりゃ大層な誇りだが」


「それに考えてもみろ。狂戦士の戦闘に付き合わされて、テティスの体が保つと思うか?私が運ぶべきだ」


「…………」


 そこを指摘されてしまうと、アステリオスとしてはこれ以上なにも言えなくなる。


 ただし、警告はした。


「本当にいいのか?どうなるか分かんねぇぞ?」


「その言葉、そっくりそのまま返すよ」


「俺は大事な娘のためだからいいんだよ」


「なら私だって同じだ。それに、大事な友人を一人で行かせるわけにはいかない」


「……そうか、俺とお前は友人になったんだな」


「違うとは言わせないぞ。これから一緒に死地に向かうんだからな」


「ハハハッ!そうだな。んじゃ頼むぜ、友よ。一緒に死んでくれ」


「ああ、了解だ。ただし娘に海を見せてからな」


「もちろんだ」


 二人は死の大河へ向かって進んでいく。


 腹の据わった男たちの瞳は、見るものがいれば後退っていたであろうほどの迫力を放っていた。それが月光を反射して鈍く輝いている。


 山を下りきると、目の前には地獄が広がっていた。死が左から右へと流れていくのだ。


 その地獄に向かい、狂戦士は大斧を振り上げた。


 そして振り下ろす。


 スタンピードの騒音を一瞬かき消すほどの轟音が鳴り響き、強大な魔素の衝撃波が発生した。


 それによって大河の中に一筋の道が現れる。


 アステリオスとケイロンはそこへ向かって駆け出した。


 が、すぐに道は細くなってきた。


 スタンピードの勢いは本当に洪水のようで、水が流れてくるようにモンスターが押し寄せる。


 仲間の死体を踏み越え、さらに後ろのモンスターに押されながら突き進んできた。


 なにかに取り憑かれたようなその様子は、常人ならパニックになって絶叫してしまう光景だったろう。


 しかしアステリオスは軽い舌打ちだけを返し、横に向かって水平に斧を振った。


 それで道はまだやや広げられ、二人はそこを駆け抜ける。


 アステリオスが前を行き、ケイロンが後ろに続いた。


 斧の一振りごとに道は開くのだが、すぐ閉じるため連撃しなければならない。


(アステリオスの魔素がもつかどうかが勝負の分かれ目だな)


 ケイロンはそう判断しながら一矢放った。


 その矢は空からアステリオスに迫ろうとしていた大鷲のモンスターを貫く。


(私のすべきことは、出来るだけアステリオスに斧を振らせないことだ)


 先ほどのモンスターは単体で動いていた。


 アステリオスの大味な攻撃は多数のモンスターを吹き飛ばすためだけに使い、細かな攻撃はさせない。


 それを念頭に置いて視野を広く取り、射つべき敵を見定めて射った。


 ただし、それでもアステリオスの魔素は湯水のように流れていく。


 そもそもこの死の大河に足を踏み入れて生きていること自体、常人にはありえないことなのだ。


 そこに無理やり道を作りながら進んで行くのだから、魔素をケチっている余裕などあるわけがない。


「ハァ、ハァ、ハァ……」


 アステリオスの息は上がり、一振りで弾き飛ばせるモンスターの数も次第に減ってきた。


 ケイロンはそれで己の役割を切り替え、近い敵を狙うことにした。


 そうしなければ走り続けるのに支障をきたすようになったのだ。それほどモンスターとの距離が近づいてきた。


 すでに矢は尽きている。だから魔素を固化して矢を創り放っているのだが、これは普通の矢に魔素を込めるよりもずっと魔素を消費した。


 それを連射するケイロンの魔素もアステリオスと同様、急速に枯渇してくる。


 魔素は精神力の源だ。それを多量に失った二人はひどい疲労感に襲われながら、必死に駆け続けた。


「……くそがっ」


 アステリオスは悪態をつきながら腕を振り、噛み付いてきたオルトロスを振り払った。


 ケイロンも間一髪でキラーマンティスの鎌をかわしつつ、苦しげな声を漏らした。


「くっ、まだか……!」


 二人はすでにモンスターとかなり接触するようになっている。それほど余裕がなくなっているのだ。


 かなり進んだように思うが、スタンピードの端は一向に見えてこない。


(まだか……まだか……まだか……)


 そればかりを思いながら、必死に死の大河を泳ごうとした。


 すでにあちこち傷だらけだが、止まってしまえばすぐに濁流に飲み込まれてしまう。とにかく動き続けた。


 しかし、どんなに頑張っても物事には限界があるのだ。


 アステリオスは横薙ぎの一振りを最後に、魔素を完全に尽きさせた。


 ケイロンもすでに矢を創り出すどころか、足に込める魔素すら無い。


 終わりを悟ったアステリオスはテティスのそばへ行った。


 そして小さな手を握ってやり、優しく微笑みかける。


「すまねぇなテティス。海、見せてやりたかったんだがよ……」


 ケイロンも肩越しに振り返って微笑んだ。


「とても残念だ。でも寂しくはないよ。私たちも一緒だ」


「ああ、一緒にいる。俺たちはちゃんとお前のそばにいるからな」


 アステリオスは握った手に力を込めた。


 するとテティスも目を閉じたまま微笑み、嬉しそうに寝言をつぶやいた。


「アステリオス……ケイロン先生……大好きだよ」


 その一言に、二人の心は潤った。


 魔素とは精神力の源であるから、心が満たされることで魔素が湧き出すことがある。


 心が満たされた二人の魔素は、わずかだが回復した。


 そして回復した魔素量はわずかであっても、その魔素は二人にとって黄金のような価値があったらしい。


 二人の体は心の奥底から湧き上がる魔素で、金色の光を放った。


「「……うおぉおお!!」」


 同時に雄叫びを上げると、魔素のオーラが爆発して二人の周りに衝撃波が起こった。


 それで目と鼻の先まで来ていたモンスターたちは弾き飛ばされる。


 そしてアステリオスは大斧を頭上に掲げると、今度こそ本当に最後の一撃を放った。


「……っらぁぁあああ!!」


 それは金色の刃となって死の大河を切り裂き、その端を見せてくれた。


 ついにゴールが見えたのだ。


「ケイロンッ!!走れぇ!!」


「おおぉおっ!!」


 ケイロンは倒れかけた友を肩に担ぎ、ケンタウロスの誇りである四本の足に魔素を込めた。


 そして大地を蹴る。


 金色に輝く筋肉は三人を急加速させ、矢のような速度で大河の道を突き進ませた。


 希望の道が再び塞がれる直前、ギリギリのところで駆け抜けることができた。


 三人はついにスタンピードを渡りきったのだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 もはやケイロンに魔素は残されていなかったが、ケンタウロス自慢の脚は健在だ。


 その誇りを心の支えに、ケイロンは死の大河から急いで離れていった。



***************



「テティス、テティス。ほら、これを飲むんだ」


 アステリオスはテティスの上半身を起こし、口元に液体の入った瓶を近づけた。


 中身は魔石の粉末入り練乳だ。


 あれからさらに試行錯誤を重ねて味も香りも改善されている。テティスはこれが大好物になっていた。


 だからその香りを嗅いだだけで自然と口が開き、瓶を傾けると衰弱した体でしっかりと飲み干した。


「……よし。テティス、目を開けてみな。海だぜ」


「う……うーん……」


 少量ではあるが、魔石とともに魔素が入ったことでテティスは目を覚ました。


 そしてまぶたを開けてみて、驚いた。


 そこには見たこともないほど美しい光景が広がっている。


 水平線からちょうど朝日が昇るところだった。それが水面と海岸とを染め上げ、幻想的な色合いを作り出している。


 テティスが産まれて初めて見た海は、この世界で一番美しい海の景色だったかもしれない。


「きれい……」


 テティスは小声でそうつぶやいてから言葉を失った。それほどの感動だった。


「砂浜に降りてみるかい?」


 そう問われ、初めて自分はケイロンの背に乗っているのだと気づいた。


 周りを見回すと、ケイロンとアステリオスの笑顔が目に入る。


「二人が連れて来てくれたんだね。ありがとう」


 ケイロンは首を小さく横に振った。


「私たちだけじゃないよ。フレイさんとミノスさんの助けがなかったら来られなかった」


「そっか……何となくだけど、私が寝てる間に四人が頑張ってくれてるのを感じた気がする。私ね、今は四人のことをお父さんだと思ってるの。だからフレイさんとミノスさんにも『ありがとう、お父さん』って伝えて」


 テティスの言葉に、ケイロンとアステリオスの涙腺は崩壊しかかった。


 お父さんと言ってもらえたからだけではない。テティスはもう、二人に会えない自分の運命を悟っているのだ。


 しかしテティスは今、心から望んでいた海に来られている。


 楽しい時間にするため、アステリオスは涙をこらえてテティスに手を伸ばした。


「ほら、ここの海岸は砂の質がいいから気持ちいいぞ。立てるか?」


 テティスを抱えあげ、砂浜に降ろしてやる。


 裸足の足裏から伝わる心地よい感触に、テティスは笑顔になった。


「ホントだ。気持ちいい」


「歩くとまたいい音がするんだ。ほら」


 テティスは片手をアステリオス、片手をケイロンに繋がれ、ゆっくりと歩き出した。


 ぎこちない足取りではあったが、それでも少しずつ歩いて波音に重なる砂の音を楽しんだ。


「ねぇ、海に入っちゃだめかな?」


「いいけど、少し冷たいかもしれないな」


「冷たくてもいい。入りたい」


 娘からねだられた父親たちは、その手を引いてゆっくりと海へ進んでいった。


 三人の足元では美しい貝殻が陽の光を反射し、小さなヤドカリが可愛らしく歩んでいる。


 そんな光景に目を細めながら波際まで来た。


 そしてテティスは海へと片足を踏み入れる。


 すると、不思議なことが起こった。


 海水に触れたテティスの足先が淡く光り、水のように透明になったのだ。


「な、なんだ?」


「これは……」


 アステリオスとケイロンは驚いたが、テティスは足を止めずにさらに進んでいく。


 二人の父親を引っ張るようにして海へと入り、膝ほどの深さまで来た。


「テティス……大丈夫なのか?」


 テティスの発光は次第に広がり、体の方も徐々に水のような透明になってくる。


 テティスはしばらく無言でそれを見ていたが、やがて口を開いた。


「私のお母さん……本当に海だったんだ」


「……なに?」


「前に言ったことがあるでしょ?海が私のお父さんとお母さんかもしれないと思ったって。それで来て分かったんだけど、本当に海がお母さんだったの」


 アステリオスとケイロンは意味が分からず顔を見合わせた。


 それを見たテティスが思い出したように説明を追加する。


「あ、四人が私のお父さんだから、海はお母さんね」


 アステリオスはその追加説明に苦笑した。


「まぁそりゃいいんだけどな、海がお母さんってのはどういうことだ?」


「えっとね、なんていうか……私がここから生まれたのが分かるの。来たことはなくても、研究所で作られたとしても、私は海から生まれたの」


 アステリオスもケイロンもやはりその意味は分からなかったが、そう言うテティスはどこか嬉しそうだった。


 そう感じた二人も嬉しくなり、意味は分からずともそれでいいと自然に思えた。


「そうか。よかったな」


「おめでとう。テティスがお母さんに会えて、私たちも嬉しいよ」


「ありがとう。それでね、私はもうすぐお母さんのところへ還るの」


 テティスのその言葉がまた分からず、父親たちは再び顔を見合わせた。


 しかも、今度は喜んでいいのかどうかよく分からない。


 ただ、テティスは相変わらず嬉しそうだった。


「私ね、ただ死んで消えちゃうんじゃないの。お母さんのところに、海に還るの」


 そう言うテティスの体はさらに広い範囲が水のようになっており、すでに首まで透き通っていた。


 その段になって、アステリオスとケイロンはようやくテティスの体が海水に変化しているのだと気がついた。


↓挿絵です↓

https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16817330648667231146


「テティス、お前……」


「私は海になるの。だからね、海に来てもらったらまたいつでも会えるから」


 テティスは二人の父親の手を強く握った。


 その手はすでに指先まで海水になっている。しかし、紛れもない愛娘まなむすめの手の感触だった。


 アステリオスは気づけば涙を流していた。頬が暖かく濡れ、大粒の涙が海にこぼれていく。


 泣きながら、娘に笑いかけた。


「そうか、テティスは海になるのか……だから、またいつでも会えるんだな」


「うん。会いに来て」


 ケイロンも涙をこぼしながら、優しく手を握り返した。


「ああ、会いに来るよ。海はとても広いから、色んな所でテティスに会える」


「ケイロン先生がそう教えてくれたよね。私はとっても広くて大きくなるの。だから、とっても嬉しいんだ」


 淡い光はテティスの顔まで広がり、ついにその全身を覆った。


 透き通った顔をほころばせ、世界で一番素敵な笑顔を見せてくれる。


「お父さんたちが頑張ってくれたおかげで、愛してくれたおかげで、私はお母さんのところへ還れるんだよ。ありがとう」


 アステリオスとケイロンの視界は涙で歪んでしまったから、それを必死にこぼして愛娘をしっかり見ようとした。


 しかし涙は後から後から湧いてくる。


「ああ……よかったなぁ……よかったなぁ……」


「お母さんのところで、ずっと幸せにね……」


「うん、本当にありがとう。大好きだよ」


 その言葉を最後に、テティスの体は小さく弾けた。


 たくさんの水玉になって母の元へと還っていく。


 二人の父親たちは泣いた。


 声を上げて泣いた。


 しかし、これが別れではないのだと分かっている。


 だからこの愛を抱きしめて、前を向いて歩いていこうと思った。



***************



「なっつかしいなぁ……あれからもう何年になる?」


 アステリオスはもう何杯目か分からないビールジョッキを掲げ、ケイロンに尋ねた。


 ケイロンの方もよく分からないほど飲んだブランデーをまた飲み干し、空のグラスを傾けてから答えた。


「十……何年だったかな?まぁ、結構な時間が経ったのは確かだ」


「そうだな。あれをきっかけに随分と身の回りが変わったから、えらく昔に感じるぜ」


「ミノスさんは店をお前に譲って、海のそばで喫茶店を開いて……」


「俺はフレイからまだ戦ってくれとねだられながら、無視して店の方に集中した」


「そのフレイさんは、今では評議長だからな。本当に偉くなられたものだ」


「お前だってあれから『ケンタウロスの賢者』なんて呼ばれるようになったじゃねぇか。あの本、まだ売れてんだろ?ホムンクルスと命の……なんちゃらって本」


「『ホムンクルスと命の定義』だよ。ありがたいことに、生命倫理の教科書や入門書として扱ってくれる所が多いんだ」


「印税でガッポガッポだな」


「まぁそれで自分の学校を建てられたんだから、助けられたというのが本音だな。しかし『ケンタウロスの賢者』なんて呼ばれ方は好きになれない」


「いいじゃねえか。俺の『狂戦士』よりゃずっといい」


「ハハハ、狂戦士も子供たちからは憧れられてるよ。だがそもそも本が売れたのだって、お前と私のスタンピード渡りが話題になったからじゃないか。そういう状況で讃えられてもな」


「それだけじゃ教科書にはなんねぇだろ。まぁなんにしても、称賛でも印税でも貰えるもんは貰っときゃいいんだよ」


「ああ……お互い経営なんてしてるとそんなことも思うな。感謝を忘れなければそれでいい」


「そういうことだな。でも感謝って言ったら結局の大元はやっぱりテティスだから、俺らの娘に感謝だ」


「ああ、それはその通りだな。我らが愛娘に乾杯しよう」


 そう言ってグラスを上げたケイロンは、その中身が空になっていることを思い出した。


 そしてもう一杯を店主にねだろうとした時、店の扉が控えめにノックされた。


「こんばんわぁ……アステリオスさん、まだいます?」


 扉の隙間から顔を覗かせたのは二人のお気に入り、クウだった。


 クウは振り返ったケイロンと目が合うと、意外そうな顔をした。


「あれ?ケイロンさんじゃないですか。どうしたんです?」


 閉店時間はとうの昔に過ぎている。


 だから遠慮気味に店を覗いたのだが、思いもよらない人がいた。しかも普段は見ない赤ら顔をしている。


 ケイロンはその赤に笑みを混ぜてクウを迎えた。


「クウさんこそどうしたんですか?私たちは見ての通り、酒盛りですよ」


「私は……」


「ほらよ、これだろ」


 と、アステリオスが黒いものを放り投げた。


「おわっとっと……」


 クウの手になんとか収まったそれは、使役モンスターたちを入れておく格納筒だ。


「さっき掃除中に見つけたんだ。召喚士が格納筒落とすなよ」


「ご、ごめんなさい。いつの間にか紐が切れちゃってて」


「シーサーペントの革紐でも買っとくんだな。カドゥケウスの店に行ったらあるだろ」


「そうします。でも良かった、見つかって。このまま見つからなかったらって思ったら、すごく不安でした」


 クウはホッとした表情で格納筒を握りしめた。それからあらためて頭を下げる。


「ありがとうございました。じゃあ私はこれで……」


 一歩下がりかけたクウをケイロンが止めた。


「待って下さい。よかったら一杯やっていきませんか?」


「え?でも……お邪魔じゃないです?」


「邪魔どころか、大歓迎ですよ。ちょうどクウさんに似た私たちの娘の話をしてたところなんです」


「私に似た?テアちゃんって私に似てますか?」


「そちらではなく、私とアステリオスの娘ですよ」


「ええっ!?ふ、二人の娘!?」


 クウは驚き、そして何を想像したのか顔を赤らめた。


「ちなみに評議長のフレイさんと、この店の先代の娘でもあります」


「複数!?」


「ええ。その子には四人の父親がいて、今は母親の元へ還りました。だから私たちはよく海に行くんです」


 酔いのせいか、ケイロンの論理は普段なら考えられないほど支離滅裂になっている。


 そのよく分からない話に、クウの頭にはようやく普通の疑問符が浮かんだ。


「……え?どういうことです?」


「ちょっと長い話になりますし、飲みながら話しましょう。おごりますよ」


「じゃあ……お言葉に甘えて」


 実際気になる話だったので、クウは相伴に預かることにした。


 テーブルにつくと、アステリオスが飲み物を用意するために立ち上がった。


「何にする?」


「えーっと……甘い系にしよっかな。晩御飯はもう食べたので、デザート的に」


「ああ、デザートならまずはアレを食うか」


 アステリオスは厨房に下がると、皿を一つ持ってきてクウの前に置いてやった。


 皿には色鮮やかなイチゴが盛られており、その上にはたっぷりの練乳がかけられている。


「わぁ、練乳イチゴ!私これ大好きなんです!」


 クウは大喜びでフォークを刺すと、大口を開けて頬張った。


 そして歓喜の声を上げる。


「甘くておいしぃ〜!!」


 そう言って、えもいわれぬ幸せな笑顔を見せてくれた。まるで暖かい日差しのような笑顔だ。


 アステリオスとケイロンはその笑顔を嬉しげに眺めながら、娘のことをいっそう懐かしく思い出していた。



***************



☆元ネタ&雑学コーナー☆


 ここから先は筆者が話の元ネタなどを気の向くままに書き記しているコーナーです。


 本編のストーリーとは関係ないので興味ない方は読み飛ばしてください。



〈ちょっぴり切ないお話〉


 この小説は、明るく、楽しく、気軽に読んでもらえる作品を目指して書き始められています。


 だから流行りの異世界転生や一人称視点、ちょいエロ、軽くて読みやすい、ということを取り入れてやってきました。


 間口を広めた上で、その中に人が生きていく上で大切なものを散りばめられたらいいと思って書いています。


 だから基本的に悲しい話や切ない話は控えてきたのですが、たまにはこういうのもいいと思うのです。


 きっとこういう形でしか表現できないものもあると思いますし、ずっと同じテイストでは飽きてしまいますしね。


 いつもと違う、ちょっぴり切ない『発×転』を楽しんでいただけたなら幸いです。



〈テティス〉


 テティスはギリシア神話に登場する海の女神です。


 プティーアという国の王様と結婚しました。


(この国がプティアの街名の元ネタです。なんか可愛い響きだと思いまして)


 テティスと王様との間には男児が生まれたのですが、この子がアキレス腱の語源となった英雄アキレウスです。


 テティスはアキレウスを産んだ後、子供を神々のような不死にしたいと思ってかなりの無茶をします。


 そこでやったことは文献によって多少違うのですが、死すべき運命にある人間の部分を火で焼こうとしたり、大釜で煮ようとしたりと完全にヤバい女です。


 もともと不死である神様からしたら大したことでもないのかもしれませんが、それを見つけた王様は超ビックリ。当然止めました。


 しかしテティスは止められたことに納得できなかったのか、海へと帰ってしまいます。


 それはちょっと……って思いますよね?


 でも結果だけ見ると、一連のヤバい行為のおかげでアキレウスはほぼ不死になったので(かかとだけが弱点)、テティスの方が正しかったのかもしれません。


 それにテティスは夫と息子が嫌いになったわけではないようで、海に帰ってからも二人を様々な形で助けてあげます。


 家族以外にもテティスによって救われた神々のエピソードは数多くあるので、愛情深い女神様なのかもしれませんね。



***************



お読みいただき、ありがとうございました。

気が向いたらブクマ、評価、レビュー、感想等よろしくお願いします。

それと誤字脱字など指摘してくださる方々、めっちゃ助かってます。m(_ _)m

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