第43話 ケイロンとアステリオス3

「ケイロン先生、こんにちは……」


 テティスは部屋に入ってきたケイロンを見て、ベッドから体を起こそうとした。


 しかしアステリオスに肩を押さえられる。


「いいから、無理しないで寝てな」


 そう言ったが、実際にはアステリオスが押さえなくても起きられなかったかもしれない。


 それくらいテティスの体は衰弱していた。


 しかも数日に一度だった衰弱が、もう一週間も続いている。


↓挿絵です↓

https://kakuyomu.jp/users/bokushou/news/16817330648598415514


 ケイロンはここのところ、アカデミーでの仕事が終わるとすぐに見舞いにやって来ていた。


 そして看病しているアステリオスはというと、一週間前からずっといる。


「今日はアカデミーの図書館からテティスの好きそうな本を借りてきたよ。読んであげよう」


 ケイロンはテティスの枕元に座り、遠い国の神話を聞かせてやった。


 海から来たクジラが陸に上がり、その体からたくさんの動物が生まれるという話だ。


「ありがとうケイロン先生。私このお話、好き」


 テティスは海の話を好んだ。だからケイロンはこの神話を選んだのだ。


 本を読んでもらっている間、テティスはずっとアステリオスの手を握っていた。そうしていると気持ちが落ち着くらしい。


 それも当然のことだろう。テティスはアステリオスに救われて初めて生きる喜びを感じられたのだ。


 この店に落ち着いてからもずっと自分に寄り添ってくれている。アステリオスはすでにテティスの人生の一部になっていた。


 ケイロンが神話の一節を読み終わる頃、テティスは静かな寝息を立て始めた。


 最近はこんなふうに起きている時間自体が少なくなっている。


 アステリオスとしては寝息が聞こえる度、もう起きてこないのではないかと思ってやきもきしてしまう。


 不安そうに寝顔を覗いた時、部屋の扉が開かれた。


「こんにちは。もうケイロンさんも来ていましたか」


 そう言って入ってきたのはフレイだ。


 フレイもここのところ、仕事が終わったらすぐにテティスの元へ来てくれる。


 ミノスとフレイはテティスの主治医のようなものだ。ミノスが常に同じ建物にいるとはいえ、テティスの状態は一日とて放置できるものではない。


 フレイは眠っているテティスの頭に手を触れた。


 こうして魔素の流れを感じ取っているのだ。


「……なるほど」


 その微妙な言葉に、アステリオスは苛立ちを感じた。


「どうなんだよ、テティスの体調は?」


「とりあえずよく眠っているようですし、外で話しましょう」


 三人が廊下に出ると、そこにはミノスもいた。


 フレイはその顔を見て小さくうなずく。


「私もミノスさんの見立てで間違いないと思います」


 そのセリフに、アステリオスの苛立ちはさらに募った。


「おい、どういうことだ」


 その質問にはミノスが答えた。


「今日いっぱいだと思う。明日の朝が迎えられるかどうかってところだ」


 それはつまるところ、テティスの命の見立てということだ。


 アステリオスはその残酷な事実に、むしろ苛立ちを霧散させた。


 もうずっと前から覚悟はしていたのだ。むしろ、かなりよくもった方だろう。


 しかし覚悟していたからと言って、それで辛さが消えるわけではない。耐えられるわけでもない。


 岩すら砕く怪力で拳を握りしめた。


「……やけに具体的な時間がでるんだな」


「テティスの衰弱は魔素が生成できなくなっていることが原因だからな。残りの魔素の量を見たら、残された時間もあらかた分かる」


 一週間前に、新たな魔素の生成はほぼ途絶えた。


 今まではこれが翌日、翌々日にはまた生成し始めたわけだが、今回はもう回復しないだろういうのが二人の見立てだった。


「魔石の粉末を飲んでもほんの数分で魔素が流れ出ちまってるし、もう限界なんだよ」


「…………」


(分かってたことじゃねぇか)


 だとしても、やはり辛い。


 アステリオスの隣りでケイロンも沈痛な面持ちでいる。


 床をじっと見つめていたが、やがて暗い気持ちを振り払うように顔を上げた。


「それなら……今日は無理にここに居させるのではなく、本人の行きたい所へ連れて行ってやるのがいいんじゃないでしょうか?」


 その提案にミノスもフレイも同意した。


「ああ、その方がいいかもしれん」


「もう、とは言いたくありませんが、本人の望みを叶えてあげるのがいいでしょう」


 アステリオスにも異論はない。


 もはや体調を気にしても仕方ないのだ。


「そうだな。もう夕方近いが、今からでもどっか行けるだろう」


 そう言ってうなずいた時、部屋の中からテティスで小さな声が上がった。


「アステリオス?……アステリオス……」


 自分を呼ぶ声に部屋の扉を開けると、テティスは布団から手を伸ばして何かを探していた。


 アステリオスはすぐにその手を掴んでやる。


「心配すんな。俺はここにいる」


 テティスはその無骨な手に安心して微笑んだ。


「うん……ありがとう」


 その消えてしまいそうなほど透き通った微笑みに、アステリオスは嗚咽を漏らしそうになった。


 しかし、それをグッとこらえて笑顔を作る。


「なぁテティス、どっか行きたいところはないか?今から出かけようぜ」


「お出かけ?いいの?」


「ああ、どこでも好きなところへ連れてってやる。一番行きたいところを言え」


「一番行きたいところ……」


 テティスは天井を見上げて考えた。


 いや、本当は考えてはいなかったかもしれない。


 考えるまでもなく、テティスの一番行きたいところは決まっていた。


「海……」


 その小さなつぶやきに、大人たちはまず無理だと思った。


 しかし、直後に全員が思い直す。


(海まで、片道だけなら移動式の魔法陣でも保つかもしれない)


 これまでは往路で体調を崩した場合と復路を考慮して諦めざるを得なかったが、今はもうそれを気にする必要もない。


 テティスの海への憧れは誰の目から見ても明らかだった。


 それは普通の人間にとって大した望みではない分、むしろ大人たちの心を締め付けてきた。


 しかし、最期にそれを叶えてやれるかもしれない。


 ならば海を見せて逝かせてやるのもいいのではないかと思った。


「よし、分かった。海へ行こう」


「……え?いいの?」


 テティスは意外そうだった。


 本音ではあっても、本人としてはダメ元の願いだったのだろう。


「いいぞ、任せとけ。でも準備が必要だから少し待ってくれるか」


「うん、待つ。嬉しい……夢みたい……」


 テティスの頬は期待で少し上気してしまったようにすら見える。


 本当に嬉しそうだった。


「よし、じゃあ……」


 とアステリオスが立ち上がったところで扉がノックされた。


 開けると、廊下に店のウェイトレスが立っている。


「すいません、役所の方が来られてます」


 役所と聞いて、フレイが部屋を出ようとした。


 しかしウェイトレスは他の三人にも目を向ける。


「あの、店長とアステリオスさん、ケイロンさんにもお話があるそうです」


「俺たちにも?」


「はい。四人に来てもらえって」


 なんの話かは分からないが、断る理由もない。


 四人はとりあえずウェイトレスをテティスの所へ残し、店の方へ向かった。


 半端な時間なので、店内にはまだ客はいない。


 役所から来たヒューマンの男が一人いるだけだった。


 ミノスとフレイ、アステリオスはその男と面識がある。


「おお、ヨハンじゃないか。久しぶりだな」


「ミノス先輩、ご無沙汰しています」


 ミノスはその男、ヨハンを笑顔で迎えた。


 それからケイロンに紹介する。


「こいつは俺が軍の研究所にいた時の後輩なんだ。今は副所長になってる」


「ヨハンです。私もケイロン先生の著書は読ませていただきました」


 ヨハンはケイロンに握手を求め、ケイロンも握り返した。


「ありがとうございます。しかし研究所の用事となると、もしかして……」


 ケイロンはヨハンの身分だけである程度の推察を持ち、ミノスも同じことを思った。


「おそらくテティスのことだろう。テティスが研究所から救い出された時も、まずはヨハンの所で色々調べてもらったからな」


 ホムンクルスはほとんど成功例がない珍しい生物だから、健康診断一つとっても研究所で行うことになる。


 ヨハンもうなずいて二人の推察を肯定した。


「おっしゃる通り、ホムンクルスの件です。もうすぐ生命活動を終了させるという話を聞いて伺わせていただきました」


 そのやけに科学的な言い方に、ケイロンたちは嫌な予感がした。思わず眉をひそめる。


 しかしヨハンはそんな様子に頓着せず、事務的な口調を続けた。


「単刀直入に言わせていただきますと、ホムンクルスの死骸は軍の方で解剖させていただくことになりました。死後は可能な限り早急に解剖を行いたいので、ご協力をお願いします」


 それを聞き、アステリオスの片眉がピクリと上がった。


「……なに?」


 その小さな言葉には強い怒りがこもっていたのだが、ヨハンは怯まずにミノタウロスを直視した。


「ホムンクルスの素体は大変貴重な研究材料です。すでに許可は得ておりますので」


「誰の許可だよ」


「プティアの街の評議長です。法的に、ホムンクルスは街の所有物ということになっておりますので」


「ふざけんな。テティスは物じゃない。ちゃんと人間として生きてるだろ」


「人間の定義については議論があっていいと思いますが、少なくとも現在は物として扱われています。だから街から予算が供出され、フレイ評議員が派遣されて体調を管理されているわけです。ただの孤児にはありえない優遇ですよ」


 ヨハンの言うことは確かに間違いではなかった。


 公的機関の所有物だから、税金から維持費が払われているのだ。


 もちろんフレイの人件費だけでなく、生活や体調維持のための物品は全て街が負担している。


 さすがにアステリオスが買ってきたような超高額の魔石までは払ってくれないが、それでもテティスがただの孤児よりも圧倒的に優遇されてきたのは確かだろう。


 ただ、当然アステリオスはそんなことで納得などできない。


「だからって死んだ後、勝手にバラバラにする権利があるのかよ」


「人間なら本人や遺族の同意が必要になりますが、街の所有物なら同意は不要です」


 ミノタウロスのこめかみに血管が浮き上がり、殺気とともに一歩踏み出した。


 しかしミノスがその肩を掴んで止める。


「よせ。俺も言いたいことはあるが、少なくとも死体解剖が研究として非常に有用なのは確かだ。ヨハンも悪気があってやろうとしてるわけじゃない」


 フレイもミノスの言には同意だったので小さくうなずいた。


 ただし、フレイもミノスと同じように言いたいことがある。


「ヨハンさん。おっしゃることは分かるのですが、やはり意思の疎通ができる生物を相手に完全な物扱いは無理がないでしょうか」


 しかしヨハンはにべもなく首を横に振った。


「評議長の許可を得ている以上、執行はなされます。善悪の議論は事後になるでしょう」


 フレイはギリッと音がするほど奥歯を噛み締めた。


「……私はずっと一評議員程度でいいと思っていたのですがね。初めて評議長になりたいと思いましたよ」


 ケイロンは今の状況から、事の優先順位を検討した。


 そしてよくよく考えながら口を開く。


「ヨハンさん。私も剖検の意義は分かりますし、もはやテティスに同意を得るための説明をしても怖がらせるだけに思えます。このままテティスが亡くなって解剖が行われるのは仕方ないことかもしれません」


「ご理解、ありがとうございます」


「しかし、テティスは最期に海を見ることを望んでいるのです。そして、私たちもそれを全力で叶えようとしています。可能な限り早い解剖を、ということですが、海からの復路分の時間程度は待っていただけないでしょうか?」


「海?」


 ヨハンは想定外の話に怪訝な顔を見せた。しかしすぐに真顔へと戻る。


 事情は分からないものの、自分のすべきことは考えれば分かるのだ。


「海からとなると……半日程度はかかりますね。さすがにそれは受け入れられません。死後の生命体にはその半日でかなり多くの反応が起こります」


「……海までついて来てもらい、その場で解剖、というのは不可能でしょうか?」


「専門の設備がある施設で行う必要がありますので、無理です」


 ヨハンははっきりと拒絶したが、それで狂戦士アステリオスの意志ははっきりと決まった。


 大股でヨハンに近づき、その首根っこを掴み上げる。


「お前が受け入れるかどうかなんて知りゃしねぇよ。俺らは俺らの好きにさせてもらう」


 最強クラスの戦士に迫られたヨハンは緊張に体をこわばらせた。


 しかし、その顔は完全に恐れてはいない。


 扉の方を指さして声を張り上げた。


「こ、こんなことになるんじゃないかと思ったんだ!だから私が来た!兵を百人も連れてね!」


「兵?……なんか外が騒がしいと思ったら、それでか」


 アステリオスは扉へと目をやって、それから不敵に笑った。


「いいぜ?やってみろよ。百人程度で俺を止められるもんならな」


 このミノタウロスなら本当に百人を圧倒しかねない。


 そう思ったフレイはアステリオスとヨハンの間に入って、二人を引き離した。


「ちょっと待ってください。軍を相手に暴れたら、アステリオスさんは重罪人になってしまいます」


「構やしねぇよ。捕まえに来たやつをまた片っ端からぶっ飛ばしてやる」


(狂戦士の悪いところが出ているな……)


 フレイはそう思いながら、それでもアステリオスの芯の部分を信じて説得を続けた。


「あなたはそれで良くても、命令に従っただけの罪もない兵があなたに殺されるかもしれません」


「……」


 そのセリフは確かに効果があったようで、アステリオスの勢いは少し削がれた。


 フレイは間髪入れずに言葉を続ける。


「少しだけ時間をください。私が評議長を説得してきますから」


「……本当にそれができるなら待ってやるが、早くしろよ」


 アステリオスは窓の外を睨んだ。


 太陽はもうそれほど時を置かず夕陽になるだろう。あまり時間は残されていない。


「ええ、皆さんは準備をしながら待っていてください」


 フレイはそれだけ言うと、すぐに店から飛び出して行った。


 ヨハンもアステリオスを一瞥すると、すぐに外へと出る。


 そして兵たちに向かって大声で命じた。


「付近の住人を避難させるぞ!それと、評議長に増援を要請する!」


 店内にもわざわざ聞こえるように出したその指示は、なにがなんでもホムンクルスを持ち出させないという決意の現れだった。


 

***************



「遅い」


 帰って来たフレイに対し、アステリオスは開口一番そう言った。


 外はすでに暗くなっている。


 今から出ると、海に着くのは明け方近くなってしまうかもしれない。


 アステリオスは何度もフレイを待たずに出発しようとしたが、ミノスとケイロンが必死にそれを止めていた。


「それで、評議長との話はついたんだろうな?」


「駄目でした」


 フレイの返答に、アステリオスはすぐに立ち上がった。


 もはや実力行使しかないと決意したのだ。


「ただし、頼み込んで兵たちの指揮権を私に移してもらいました。気心の知れた私の方が反発が少ないと言って」


「……つまり、お前が指揮官になるから見逃してもらえるってことか?」


「いえ、私は命令を忠実に実行します。こういう命令書にサインももらいました」


 フレイが取り出した紙には、


『兵二百を率い、ミノスの店の扉を塞いで出入りを妨げるべし』


という命令文と、評議長のサインが記されていた。


 アステリオスはそれを流し読み、苛立ちもあらわに頭をかいた。


「んじゃ、俺はぶっ飛ばす第一号をお前にすりゃいいってわけだな?」


 殺気すら放つアステリオスだったが、フレイは表情を変えずに言葉を続ける。


「ちなみに命令書は私が書いたものにサインをもらう形で作りました。口頭の命令では内容があやふやになりますからね」


 フレイへと歩み寄るアステリオスは、もはやその言葉を半分も聞いてはいなかった。


 しかしハッとした表情のケイロンがそれを止める。


「待て、アステリオス」


「もう待たねぇよ」


「違う。大丈夫なんだ」


「大丈夫?何が大丈夫なんだ。テティスはもう……」


「いいから、テティスを私の背に乗せてくれ」


「……?お前はついて来てくれんのか」


「ああ、行くさ。ミノスさんは……人数が多いから手伝ってもらった方がいいでしょうか?」


 ケイロンはフレイの方を向いてそう尋ねた。


 フレイは小さくうなずく。


「申し訳ありませんが、その方が確実でしょう」


「では固くいきましょう。それとミノスさん、私も折半して弁償しますからご勘弁ください」


「「……は?」」


 アステリオスとミノスはケイロンの言う意味が分からず変な顔をしたが、フレイは無言でテティスの所へ向かった。


 そしてよく眠ったその顔を愛おしげに撫でてやると、額に優しくキスをした。


「今日までたくさんの幸せをありがとう。私はあなたのことを娘だと思ってますよ」


 そう言い残し、店から出て行った。


 それからフレイは外で待つヨハンに確認した。


「私に指揮権が移ったことは全軍に伝令してくれましたね?」


「ええ、完了しています。しかし、妙なことは考えないでくださいよ」


「私は評議長の命令を実行するだけですよ。中の方々もよく理解してくださいました」


「……ならいいのですが」


 ヨハンはうろんな視線を送ったが、フレイはごく平然と店の扉を眺めている。


 二人がしばらくそうして監視を続けていると、


 ドゴォン!!


という破壊音が突然聞こえてきた。


 ヨハンが驚いてそちらを向くと、店の壁に大穴が空いている。


 その向こうに大斧を握ったミノタウロスが見えた。


 アステリオスだ。


「なっ……!?」


 ヨハンが驚く間にアステリオスは穴から出てきて、その後ろからケイロンも現れた。


 背中の鞍には荷台が取り付けられている。


 その中には寝具が敷かれ、魔法陣にくるまれたテティスが寝かされていた。


「……やつら結局実力行使に出ましたよ。フレイさん、兵たちに命令を」


 フレイはうなずいて命令を発した。


「全軍待機!!その場を動かないように!!」


「……え?」


 ヨハンはまず聞き間違いかと思った。


 しかし、確かにこのエルフは待機を命じたのだ。


「フ、フレイさん!?どういうことですか!!」


 慌てるヨハンを意にもかけず、フレイはしれっとした顔で返答した。


「どうもこうも、私は評議長の命令を実行しているだけですよ」


「……は?」


「命令書には『扉を塞ぎ出入りを妨げるべし』とあります。壁の大穴に関してはなんら指示はありませんからね」


 その言い草に、ヨハンは唖然とした。あまりと言えばあんまりな理屈だ。


「そ、そんな屁理屈が通用するわけないでしょう!?」


「少なくとも私がこの場の指揮官で、指揮官が命令書をそう解釈する限り、この場では通用するのですよ」


「後で評議長が許すわけがありません!」


「そうかもしれませんが、それはあくまで『後で』という話です。それにあなたが言ったんですよ?『善悪の議論は事後になる』とね」


「…………」


「さらに評議員として言わせてもらうなら、ここプティアは民主主義の街です。市民が薄幸なホムンクルスの少女の身に起こった事件のことを聞いた時、どのような反応を示すかという想像はとても重要です」


 ヨハンは焦りと怒りで無意識に歯ぎしりをしていた。


 フレイの言っていることは正しい。市民がフレイたちの行動を称賛し、軍を糾弾するなら評議長は罰することもできないだろう。


(市民のほとんどは専門家じゃないんだから、学術的価値など理解できるわけがないんだ!!)


 そのことに義憤を覚えたヨハンは己の採るべき行動を決意した。


「……私は一人の学者として、糾弾を受けてでもすべきことをせねばならない!!」


 そう叫んでフレイから離れ、近くの一隊へ向かって駆けた。


 その隊は軍の研究所に近しい兵で構成されている。


 というか、今回動員した兵たちはそのほとんどが研究所に関連した部署に配属されている者たちだ。


 全てとはいかずとも、八割程度はヨハンの言葉を聞いてくれると思った。


「今回の作戦行動の目的は誰もが分かっているはずだ!フレイ評議員の取っている行動は明らかにそれに反する!今からは私が指揮を執るからそれに従え!」


 兵たちは顔を見合わせ逡巡しているようだったが、言うことはヨハンの方が正しいと分かっているだろう。


 ヨハンは言葉を重ねる。


「このままフレイ評議員の命令に従っていたら後で罰せられかねないぞ!」


 しかしその言葉にはフレイがすぐに反論した。


「罰せられることはありません!私が一義的に責任を持つとここで明言しましょう!」


「そんなことは……」


「ただし!!迷う人間もいくらかはいると思います!そういった者はどちらの味方をする必要もありません!ここから離れ、市民に被害が及ばぬよう行動を取ってください!」


 敵になるくらいなら中立にしよう。


 フレイのその判断は効果があったようで、かなりの兵が店の周りから離れていく。


 後で事態がどう転んだとしても、それが一番罰せられない可能性が高くなるだろう。


 ただし、それで動いた兵たちは結局半分にも満たなかった。


(百人以上が相手ということになりますね……)


 それは当然かなりキツいことではあったが、フレイは迷いなく店に開いた大穴の所へ駆けた。


 そしてアステリオスとケイロン、テティスを背にして伝える。


「私は今から指揮に従わない兵たちを懲らしめる立場です。お二人は手を出さないでください」


 言われたアステリオスは大斧を肩に担ぎ上げ、好戦的に笑った。


「そう言うなよ。俺もなんぼかぶっ飛ばしてくぜ」


「そうされると、むしろ後で面倒なんですよ」


「そういうもんか。んじゃ頼む!!」


 アステリオスとケイロンは目でフレイに感謝を伝え、すぐに走り出した。


 海の方、南の街道に繋がる外壁の門へと向かう。


 当然ヨハンはそれを妨げる指示を出した。


「止めろ!怪我をさせても構わん!」


 その道を塞いでいた兵たちが武器を構え、魔法を詠唱を始める。


 フレイはそちらへと手をかざし、ため息混じりにつぶやいた。


「なんてことを言うんです。市民に怪我なんてさせては駄目でしょう」


 その言葉を言い終わる前に、フレイの前には複雑な幾何学模様が浮かび上がっていた。


 目の前の空間に魔素を流し、魔法陣を展開したのだ。


 その魔法陣から植物のつるが幾本も現れ、高速で伸びていく。


 風切り音すら立てるその蔓を、兵たちは誰一人避けることができなかった。


 一瞬の間に一部隊の全員が拘束されて動けなくなる。


 アステリオスとケイロンはその横を駆け抜けて行った。


「追え!遠い者はフレイ評議員にかかれ!」


 数部隊が同時にフレイへと向かって行く。


 しかし先ほどの魔法陣が同時にいくつも展開され、兵たちはなすすべもなく拘束されてしまった。


 その鮮やかな手並みにヨハンは息を呑んだ。


「あ、あんな数の魔法陣を同時に!?フレイ……エルフの国アルフヘイムの王め!!」


エルフの国アルフヘイムの王?久々にその名で呼ばれましたね。しかし私は生まれも育ちもプティアな、生粋のプティアっ子ですよ。よその国の王などではありません」


 そう訂正しながら、今度は足元に魔法陣を展開させる。


 それはフレイを中心にして急速に広がっていった。


 そのサイズはミノスの店どころか、街の一区画を飲み込んでしまうほど大きくなる。


「ただ、エルフの王族にしか伝わらないはずの魔法陣をいくつか知っているというだけです。例えば……こんなのとかね!!」


 フレイが魔素を込めると魔法陣の端に光の壁が現れ、テティスたちを追っていた兵の行く道を塞いだ。


 三人を追えなくなってしまう。


 ヨハンは焦燥に駆られて叫んだ。 

「くそっ!!総員、まずはフレイを……うおっと!!」


 と、最後に声を上げたのは、空から何かが降ってきたからだ。


 慌ててそれをかわしたが、後ろの兵に当たってべチャリと粘着質な音を立てた。


「な、なんだ!?」


「おう、ヨハン!すまないな!」


 その謝罪の声は頭上から聞こえてきた。


 見上げると、店の二階からミノスが顔を出している。


「ここで実験してたスライムがなぜか爆発しちまってよ!店のあっちこっちから飛び出すから気をつけてくれ!」


「気をつけろって……おわっ」


 スライムは窓という窓から降ってきており、幾人もの兵たちに当たっていた。


 ミノスは爆発と言ったが、それにしてはやたらと命中率がいい。どう考えても二階で何かやっているようだ。


「ちなみに当たると接着剤でもかけられたみたいになるから、兵たちに店から離れるよう言ってくれ!」


 その言葉通り、確かにスライムをくらった兵はまともに動けなくなっている。


 しかし、離れろと言われてもフレイは店のすぐそばにいるのだ。襲うなら近づかなければならない。


「ちょっ……ミノス先輩!止めてください!っていうか、このスライムもしかして……」


 ヨハンはミノスが研究所にいた時、このスライムを扱っていた記憶がある。


 もしその記憶通りのものなら恐ろしいことだと思った。


 そして、その恐怖を確かなものにする声があちこちから上がり始める。


「あふぅん」


「はぅっ」


「ほぉうっ……な、なんだこのスライム!?」


 スライムを身に受けた兵たちが妙な声を上げていた。


 それを聞いたミノスは哄笑を上げる。


「あっはっは!!そいつらは生き物の排泄物を糧にして増殖するスライムだからな!しかも貪欲で、尻の中まで侵入して餌を得ようとするぞ!」


 その説明に兵たちは戦慄した。


 スライムの当たってない者も思わずキュッと括約筋を締める。


「でもまぁ体は傷つけないから心配しなくていい。むしろ宿便が取れて健康になるくらいだ」


 とはいえ、それをあえて受けようとする者も少数派だろう。


 兵たちは我先に店から離れ始めた。


 しかし、それを止めるべき立場のヨハンは声を張り上げる。


「おいっ、下がるな!前へ出て攻めるんだ!」


 必死に手を振って前進を促すヨハンへ、ミノスは大きく振りかぶった。


 そして皿ごとスライムをヨハンに投げつける。


 べチャリ


 という背中の気味悪い感触に、ヨハンの顔から血の気が引いた。


 必死にスライムを取ろうとするが、ヌルヌルとして掴めはしない。


 そのヌルヌルが襟元から侵入し、背中を降りてくる。そして肌を撫でながら腰を通過し、さらにその下まで迫ってきた。


「あ……あ……あ……あふぅぅぅん……」


 妙に甘ったるい声を上げながら、ヨハンは己の敗北を認めざるを得なかった。


 複雑な表情の中に悔しさを滲ませる。


 ただ宿便というものは本当に体に良くないのか、ヨハンの肌ツヤは翌日からやけに良くなっていた。

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