第24話 オーク
(何あれ……誘ってるのかしら?)
私はこれ以上ないほど完璧に作り上げられた全身の筋肉を見て、そんなことを考えた。
それはあまりに完璧すぎて、作り物ではないかとすら思える。
しかし筋肉たちは明らかに体温と意思とを持って躍動しており、彫像のような冷たい美しさとはかけ離れていた。
残念ながら衣服で直接見えない部分もあるのだが、布越しですらその造形美が認識できる。
露出した部位や衣服のシルエットから、美しい造作がイメージできてしまうのだ。
この完璧な筋肉たちは、もはやメスを誘っているとしか思えない。
「このメス豚め!腰が高くなってるぞ!もっとしっかり落とせ!」
「は、はいっ」
「なんだその返事は!?返事の仕方は教えたはずだ!」
「サ……サーイエッサー!」
「よし!ワンモアセット!」
完璧な筋肉に覆われたその人は、私に向かってもう一セットのスクワットを命じた。
私は歯を食いしばってそれに応じる。
太ももはすでにパンパンなのだが、指摘された通りにしっかりと腰を落とした。
↓挿絵です↓
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「いいぞ!お前はいいメス豚だ!言われた通りにできている!いいメス豚だ!」
(褒めてくれてるのかもしれないけど、メス豚って……っていうか、あなたが言う?)
私は釈然としない気持ちでその人の顔を見た。
豚面だ。
例えではない。頭の部分がほぼ豚なのだ。
ただし牙が生えているからどちらかと言えばイノシシに近いのかもしれないが、顔の造作としては大した違いはないだろう。
半人半豚の種族、オークだ。
(まぁ、ハンプ教官の体はどう見ても豚って感じじゃないけど。ザ・ボディビルって感じ)
オークは基本的にガタイが良いが、目の前の鬼教官、ハンプ教官は特にすごい筋肉をしていた。
バルクといい、カットといい、プロポーションといい、これまで見た中でも抜群のマッスルマスターだ。
(つい見惚れてハァハァしちゃうけど……また集中力を切らしたら怒られちゃうからな)
私は名残惜しさを感じながらハンプ教官の筋肉から意識を戻した。
そして自分のスクワットの姿勢に集中する。ハンプ教官は正しくないフォームでトレーニングをしているとすぐに指摘してくるのだ。
「休憩だ!三分!」
ハンプ教官の号令と同時に、私は腰に手を当てて上を向いた。
顎を上げて喉を広げ、少しでも酸素を取り込もうとしているのだ。
同じような姿勢を取っている人が周りにもちらほらいた。中にはその場に倒れ込んでしまった人もいる。
私は今、街の新兵を対象とした訓練に参加させてもらっている。
通称ブートキャンプと呼ばれている訓練だ。オークのハンプ教官はそこの先生だった。
(ケイロンさんが『本格的に鍛えたいならハンプです』って言ってたけど、ちょっと本格的すぎないかな?)
私が今ここにいるのは、ケイロンさんがそう勧めてくれたのが理由だ。
きっかけは先日、サスケから借りていた体の強度を上げるネックレスを本来の持ち主であるリンちゃんに返したことだった。
私はモンスターと戦うこともある危険な仕事をしているくせに、魔素で体を強化することすらできない。
さすがに危ないのでそろそろちゃんと学びたいと思ってケイロンさんに相談したところ、ハンプ教官を紹介してくれた。
何でも二人は古い友人とのことだった。
(でもまさか、新兵訓練に混ざることになるとは……)
普通に考えたら新兵訓練なんて部外者が参加できるもんじゃなさそうだが、実は私のような一般参加者も結構いる。
その方が市民の自衛能力を上げられるということで、希望者は参加可能にしているらしい。
加えてそれなりの参加費も取られるので、街の運営上もプラスになるということだった。
(普通に鍛えたくて入ってる人もいるんだろうけど……結構若い女の子が多いんだよね。きっとダイエット目的だな)
新兵訓練なんてどう考えてもダイエット目的にはきつ過ぎるのだが、女子としてなんとなく気持ちは分かる。
自分で痩せよう、ダイエットしようと思っても、なかなかできるものではないのだ。
続かなかったり、頑張っても思うような成果が上がらないこともある。
だから入ったら強制的に痩せられるようなものに踏み込んでしまおうという気持ちには共感ができた。
(実際、ここ入ったら絶対痩せるな。これだけキツイんだから)
私はパンパンに張った太ももを揉みほぐしながらそう思った。
「おい、そこのメス豚。クウと言ったな」
「サ、サーイエッサー」
私はハンプ教官に声をかけられて振り向いた。
うーん、やっぱりいい筋肉だ。
「ケイロンからの紹介状だと、確か召喚士だということだったな」
「まだ駆け出しですが……」
「そうか。しかし、モンスターはそんなこと知ったことではない。俺の仕事は貴様らのような若造の死亡率を下げることだ。励め」
(ハンプ教官ってめっちゃ厳しいんだけど、なんか優しいんだよな……人のことメス豚呼ばわりするけど)
そこだけはいただけないものの、きっと生徒思いの良い教官なのだろう。
「サーイエッサー!」
今度は歯切れ良く教わった返事ができた。
ハンプ教官もそれに満足してうなずいてくれる。
「よし……と言っても、ただ痩せたくてこのブートキャンプにやって来ている女たちも多いのだがな。だが俺はそれも否定はせん。どんな理由であっても己を鍛えた経験は自信に繋がるし、美しい肉体には美しい心が宿る。お前も励めば本物の豚のような美しい肉体を手に入れられるかもしれんぞ」
「……?」
私は最後の部分がよく分からなくて首を傾げた。
豚のような美しい肉体とは、どういうことだろう?
私の困惑はハンプ教官に伝わったようで、話を補足してくれた。
「なんだ、貴様も豚はブクブクと醜く太った生き物だと思っているのか」
「い、いえ。そんなことは……」
半人半豚のオークを前にしてそんなことはさすがに言えない。
ただ、世間一般の認識ではそんな感じだと思う。私自身は豚さん可愛いくて好きだけど。
「気を使う必要はない。無知で蔑まれても腹は立たん。むしろ蔑む方が憐れだ。貴様、豚の体脂肪率がどのくらいか知っているか?」
「え?いいえ。知りません、サー」
「では教えてやる。品種や個体にもよるが、概ね十五パーセント前後だ」
「十五パーセント!?」
体脂肪率十五パーセントって、女性ならかなりスリムな方だ。
豚=太ってるのイメージがあったが、それは大間違いという事か。
「驚いたか。豚のイメージの多くは、人間が勝手に抱いた勘違いからできている。別に太っているわけではないし、実は知能も高くて清潔な生き物だ。加えて牙もあって力も強いから、戦闘能力も十分ある。貴様も本物の豚のようになれ」
ハンプ教官はそれだけ言うと、踵を返して他の生徒へと声をかけて回った。
そしてきっかり三分経ってから、私たちにうつ伏せになるよう命じた。次は腕立てだ。
「いいか貴様ら。何度も言うが、トレーニングする時には必ず鍛えたい筋肉を意識してやれ。そうすることでフォームが改善され、効果も上がる。腕立ての場合は大胸筋、上腕三頭筋、三角筋前部、肘筋だ。では始め!!」
私はプルプルと震えながら自分の体を押し上げた。キツい。
キツいと思いながら、ふとあることに気がついた。
(ん?……じゃあメス豚って、いい意味で言ってる?)
いい意味でメス豚。
こんな複雑な言葉もなかなか無いだろうと思った。
****************
「……で、そんなにプルプル震えてるわけだ?」
サスケは私の手元を見ながら可笑しそうに笑った。
そこではスープの入ったスプーンがプルプル震えて、中身がお皿にポタポタこぼれていた。
仕方ないので自分の口をスプーンの所へ持っていって飲む。
私はハンプ教官のシゴキが終わった後、ネウロイさんの食堂でサスケと一緒に夕飯を食べている。
教官からタンパク質を多く摂るよう言われたので、メニューはチキンサラダとソーセージ、豆のスープにした。
食事はいつも通り美味しいのだが、普段動かさない筋肉をたくさん使ったので全身のあちこちがプルプルしている。
スプーンもフォークも震えるので食べづらいことこの上ない。
「こっちは笑い事じゃないよ。ホントにキツかったんだから。今はまだプルプルするだけで済んでるけど、明日には筋肉痛なんだろうなぁ」
「でも明日もあるんでしょ?」
「うん。でも明日は座学が中心らしいよ。筋肉って連続で鍛えても育たないんだって。ちゃんと間に休息を入れないと、むしろトレーニング効率が下がるんだとか」
「あぁ、そういえばそんな話をよく聞くね。超回復とかいうんだっけ?やっぱり鍛える専門家だから、しごくだけじゃなくて理論もしっかりしてるのかな」
「多分そうだよ。明日の座学は解剖学だって言ってたし」
解剖学とは生物の形態や構造の学問で、要はここにこんな臓器や筋肉があってこんな名前だ、という感じのことを習うはずだ。
サスケはそれを聞いて眉根を寄せた。
「……え?それって新兵訓練に必要なものなの?っていうか、そもそもクウは魔素で体を強化することを習いたかったわけだよね?」
それは私も薄々感じていた疑念だった。
あまり考えないようにしていたが、サスケに改めて指摘されると否が応にも再認識させられる。
「そうなんだよね……魔素で体を強化するのを習いに行ったつもりなのに、今日やったことは魔素関係なしの純粋な筋トレだし。ひたすら使う筋肉とか骨とか関節とかを意識させられながらの運動だったよ。明日の解剖学も何か意味があるのかな?」
「うーん……まぁケイロンさんが勧めてくれたんだから、何かしら意味があるんだろうけど……」
私が首を傾げているところに、ネウロイさんが水を注ぎに来てくれた。
「チラッと話を聞いていましたが、きっとその訓練はクウさんのためになると思いますよ」
「え?そうですか?」
ネウロイさんは狼男のウェアウルフなので結構強い。
以前、スライムを捕獲した時にも魔素で体を強化して私を手伝ってくれた。
それができるネウロイさんが言うのだから、今の訓練はやはり意味があるだろう。
「どんな風に役に立つんですか?」
「それは……まぁやっていれば分かるので、後のお楽しみにしておきましょう。自分で気づいた方が身につきますしね」
「はぁ……そういうものですか」
「とにかくその教官は間違いないと思いますから、言われた通りを真面目にやっていればいいと思います」
「それが相当しんどいんですけどね……」
私は腕をプルプルさせながらコップを持ち上げて水を飲んだ。
それを見たサスケがまた可笑しそうに笑う。
そして完全に他人事の励ましを口にした。
「頑張れー」
それを聞いたネウロイさんが、真面目な顔をしてサスケの方へと向き直った。
「できればサスケ君も参加した方がいいと思いますよ。身体強化のトレーニングはまともにしたことないんでしょう?」
サスケはネウロイさんに手をヒラヒラと振って答えた。
「でもスライムって、どうせ鍛えても大した身体能力持てないからさ」
「スライムでも素早さだけはものすごく高くなると聞いたことがありますよ?それに今は危険な仕事もある程度しているわけですから、鍛えておいて損はありません」
私もネウロイさんの言う通りだと思ったし、私のしんどさをサスケが笑ってるのがちょっぴり腹立つ。
巻き添えにしてやりたいと思った。
「そうだよ。途中参加も可能だから、明日からでもサスケも来なよ」
来たら地獄のシゴキが待っている。
それが分かっているサスケは軽く笑って首を横に振った。
「いやぁそうしたいのは山々だけどさぁ。僕、明日もスライムローションの工場で仕事があるから。仕事がなかったら行くんだけどなぁ」
「また適当なこと言って……」
「ホントホント。仕事なかったら絶対行くよ」
サスケがちょっとイラつく笑みを浮かべているところへ、ネウロイさんの奥さんであるルーさんがやって来た。
「ごめん、サスケ君。職場の人から手紙を預かってたのを忘れてたわ。はい、これ」
サスケはルーさんから受け取った手紙を開けた。そして、それを声に出して読み上げる。
「えーっと……労働組合よりストライキ開始のお知らせ?明日より一ヶ月のストライキに入ります。工場機能が停止しますので、組合員以外の方もお仕事ができない状態になります……」
サスケの声は段々と小さくなっていった。
でも、一言目でもう概要は聞いちゃったし。
「……絶対来るんだったよね?」
サスケは片頬を引つらせるだけでうなずきはしなかったが、私は引っ張ってでも連れて行こうと心に決めた。
****************
「ひぃー……ひぃー……」
「おいそこのオス豚!男が情けない声を上げるんじゃない!いいオス豚になりたければ歯を食いしばって耐えてみせろ!」
「サ、サーイエッサー……」
「声が小さい!」
「サーイエッサー!」
「よし!いいオス豚の返事だ!」
私はサスケとハンプ教官のやり取りを横目に見ながら、ニヤリと笑った。
なぜだかちょっぴりスッキリする。
サスケは先日の私と同じようにプルプルと震えながら一定の姿勢をキープしていた。
パッと見にはそれほどキツそうなトレーニングに見えない。
うつ伏せの状態から肘を立てて上半身を起こし、さらにお腹や膝を地面から浮かせる。
体と足を一直線にしたままその姿勢をしばらくキープするのだ。
(プランクって言ってたっけ。家でも『ながら』で出来そうなトレーニングだけど、地味にキツいんだよね……)
腕立てや腹筋のように強い負荷を繰り返しかけるわけではないが、これはこれでキツいのだ。
やってみると分かるが、腹筋に結構な負荷が来る。
というか、腹筋に力を入れ続けるのが重要なポイントであるとハンプ教官がのたまっていた。
そのハンプ教官が今度は私に注意をしてくる。
「メス豚め!背中が丸くなってきているぞ!あくまで一直線だ!」
「サーイエッサー!」
「よし、いいぞ!では、プランクで意識すべき筋肉を答えろ!」
「お腹では特に腹直筋と腹斜筋、腹横筋、背中では広背筋や僧帽筋です、サー!」
「完璧だ!お前は賢いメス豚だ!他の者も必ずどの筋肉を使っているか意識しながらトレーニングしろ!できればそれに繋がっている骨や関節もだ!先日教えた解剖学の人体図を常に頭に思い浮かべろ!」
私たちは座学でどの筋肉がどの骨に繋がっており、どのようにして体が動くかを繰り返し教わった。
私はもともと筋肉が好きだったので名称が分かる分だけ取っつきやすかったのだが、他の人たちは苦労したかもしれない。
ただ、確かに筋肉などを意識しながらやるとフォームがすごく安定した。
(でも、相変わらず魔素を使った身体強化はやらないけど……ホントに大丈夫かな?)
ちょっぴり不安にはなったが、先日ネウロイさんもこれでいいと言っていた。
だから私もハンプ教官を信じ、真面目にトレーニングに励むことにした。
(それに、なんだかんだですごく褒めてくれるんだよね)
そう、ハンプ教官はただ厳しく叱りつけるだけではない。その後にちゃんと褒めてくれるのだ。
注意する時の言い方がキツい分だけ、褒められた時がとても嬉しく感じてしまう。
「よし、三分休憩だ!」
その言葉と同時に、全員がぐったりとうつ伏せになる。
サスケも地面にへばりついて呼吸以外の動きを一切見せていない。
私は首だけそちらに向けて声をかけた。
「明日にはサスケも筋肉痛だね」
サスケは呼吸で途切れ途切れになりながら、言葉を絞り出した。
「お願いだから……リンの居場所……教えてくれないかな……あいつのマッサージなら……」
最後まで聞かずともサスケの言いたいことはよく分かる。
妹のリンちゃんのスライムローションには血流増加と新陳代謝アップの効果があるのだ。
そのマッサージを受ければ疲労も筋肉痛も大幅に改善される。
「いや、それはちょっと無理かな」
「でも……クウは今日も……行くんでしょ?」
「うん」
実は私は初日から毎日行っている。おかげでなんとかトレーニングについて行けているという感じだ。
「後を尾けないでよ」
私はそう言ったものの、顔すら上げられないサスケを見て心配は要らなさそうだと安心した。
****************
結局リンちゃんはサスケの様子を聞いても会おうとはしなかったが、兄妹のよしみでローションだけは渡してくれた。
そのおかげで私たちは最終日までなんとか脱落せずにハンプ教官のシゴキについていくことができた。
「でも……もう最終日だけど、いまだに魔素を使った身体強化はやってないよね。このままで大丈夫なのかな?」
不安を口にする私に、サスケも同意した。
「そうなんだよね。筋肉とか体の構造にはやたら詳しくなったけど」
「そうそう、ひたすら筋肉とか骨とか関節とかを意識させられながらトレーニングしたもんね。もう体を動かす時にどこの筋肉がどう動いてるか、簡単にイメージできるようになってるもん」
私たちの頭には座学で習った人体構造の図が常に浮かんでおり、それが実際の体としっかりリンクしていた。
約一月間、そればかりを叩き込まれたのだ。嫌でもそのくらいできるようになってしまう。
ちなみにスライムのサスケも主要な身体構造はヒューマンとさして変わらない。
骨も筋肉も半透明のスライム状物質でできてはいるものの、体組織の構成はだいたい同じらしい。
「俺の可愛い豚ども!準備はできているか!?」
ハンプ教官が今日も見事な筋肉で現れた。
私たち生徒は条件反射で直立不動の姿勢を取る。
「「「サーイエッサー!!」」」
全員の返事が綺麗に重なった。
確かに私たちはこの一月でハンプ教官の可愛い豚たちになったのだろう。
「素晴らしい返事だ!お前たちはこの一月で素晴らしい豚になった!今日はその仕上げに魔素を使った身体強化を実践する!」
(ついに来た!!)
私たちはそう思って身を固くした。
ハンプ教官は私たちを見回した後、サスケを指さした。
「サスケ!前へ出ろ!」
「サーイエッサー!」
キビキビとした動作で一歩前へ出る。サスケもこの一月で随分鍛えられたものだ。
「お前には今から短距離を走ってもらう!走るのに使う筋肉はどこだ!?」
「大腿四頭筋とハムストリング、下腿三頭筋が主です、サー!」
「正解だ!ではその筋肉を意識して魔素を込めろ!難しいことではないはずだ!貴様が普段、スライムローションを中和する時のようにすればいい!」
「サーイエッサー!」
ハンプ教官は私たちのことをまとめて豚と呼ぶが、ちゃんと一人一人の名前やプロフィールを覚えてくれている。
普段の激しい言葉とは裏腹に、実は生徒思いなのだ。
「ではこの線の間を走ってみろ!」
「サーイエッサー!」
サスケはハンプ教官の引いた線と線の間、およそ十メートルくらいの距離を走った。
それはただ走っただけだったのだが、私たちは目を見張った。
(……速い!!)
全員がそう思った。
走り始めのごく短距離にも関わらず、足が速い人のトップスピードくらいの速さがある。
サスケ自身も意外なほどのスピードだったらしく、線を大きく超えてから止まった。
「……え?僕、こんなに足の筋肉ついたの?」
呆然とそうつぶやいたサスケに、ハンプ教官が答えてくれた。
「確かに筋肉もついているが、それだけではこれほど速くはならない。魔素が込められているからだ」
「でも……今まで足に魔素を込めて走ってもこんなことにはなりませんでした」
ハンプ教官はさもありなんという様子でうなずいた。
「多くの者がよくやる間違いだ。ただ漠然と『足』などをイメージしても、なかなか魔素は込められない。必要なのは『強化しようとする組織の具体的なイメージ』だ。貴様は今、正確に大腿四頭筋とハムストリング、下腿三頭筋の動きをイメージすることができた。だからきちんと魔素が込められて、脚力が強化されたのだ」
「そうか、ずっと筋肉をイメージしながら動いてきたから……」
「その通りだ。先ほど俺が言った理論は正しいものだが、実はほとんどの人間に伝えても効果が上がらない。なぜなら、体の動きと体組織とが正確にリンクしたイメージを持つのは非常に困難だからだ」
その瞬間、この場のすべての人間がこれまでのトレーニングの意味を理解した。
この一ヶ月の間、解剖学で体の構造と組織を学び、それを意識しながら動くことを強いられてきたのだ。
筋トレを通して動かす部位に疲労を感じ、筋肉痛でその存在のイメージをさらに確固たるものにした。
そして今では意識せずとも、頭のどこかに体の構造図が浮かんでいる。
「誇れ!貴様らは今日までの厳しいトレーニングに耐えてきた!それによって質の高い身体強化が可能になったのだ!貴様らはいい豚だ!努力することができ、その成果を掴むことができた豚たちだ!」
「「「サーイエッサー!」」」
また全員の返事が重なり、胸がグッと熱くなった。
涙ぐんでいる人もいたが、私もその気持ちは分かる。
今日まで苦しい思いをしながらも、ハンプ教官に叱られ、励まされて頑張ってきた。その実がしっかりと結んでいるのだ。
「では、一人一人個別に注意点を伝えていく!自分の順番が来るまで各自、自主トレーニングを行いながら待て!次はクウだ!前に出ろ!」
「サーイエッサー!」
呼ばれた私は一歩前へ出た。
「貴様は垂直に跳んでみろ!どの筋肉が必要だ!?」
「大臀筋、腸腰筋、大腿四頭筋、下腿三頭筋が主です、サー!」
「よし!では実践に移るが、貴様の場合は込める魔素をごく小さくしろ!加えて骨と関節にも意識して魔素を送れ!」
「サーイエッサー!」
「やれ!」
私は言われた通りに筋肉と骨、関節を意識し、使役モンスターたちに魔素を送る要領で力を込めた。そして垂直に跳ぶ。
「……え?」
私は跳び上がってから下を見て驚いた。一メートルくらい跳んでいる。
垂直飛びの女子の平均は四十センチ台だったはずだし、実際、私は高校の時の体力測定でそのくらいだったように思う。
「す、すごい……」
着地してから呆然としている私へハンプ教官の叱責が飛んできた。
「馬鹿者!込める力はごく小さくと言ったはずだ!」
「す、すいません、サー!」
「謝るなら俺ではなく貴様の体に謝れ!痛みを感じているだろう!?」
私は言われて初めて気づいたが、確かに腰から下の下半身、あちこちに軽い痛みを感じていた。
跳び過ぎた驚きですぐに分からなかったのだ。
「他の者もよく聞け!サスケのようなスライムは骨も含めて体全体が柔らかくしなるため、筋力を魔素で強化しても怪我をしにくい!しかしヒューマンなど、ほとんどの種族はそうではないぞ!強化された筋力に骨や関節、皮膚などが耐えられずダメージを受けるのだ!」
ハンプ教官の言っていることは、考えてもみれば当たり前のことだった。
そもそも人の体は一メートルも跳べるようにできていないのだ。それを筋力強化で無理やり実行すれば、体は壊れるだろう。
「魔素で筋力を上げる時には、必ずその力がかかる部位の強度を強化しなければならない!魔素で強度を上げるのも筋力強化と同様に、必要なのはイメージだ!骨や関節、皮膚などの組織をしっかりイメージしろ!」
(一気に難易度が上がったな……)
私はそれを強く実感した。
イメージすることが多すぎるのだ。やってみなくても、かなりの熟練が必要であることは明白だった。
「クウ。特に貴様の場合は召喚士なだけあって魔質が良い分、制御が難しいだろう。弱い力で少しずつ慣らしていけ」
「サーイエッサー!」
「まぁ実戦のことを考えるなら、攻撃は使役モンスターがいるのだから、まずは防御のための強度強化に集中すべきだろう。筋力の強化はそれが身に付いてからおいおい……」
と、ハンプ教官がそこまで言ったところで生徒の間から悲鳴が上がった。
振り返ると、何人かが空を指さして怯えた表情をしている。
「キ、キラービーだ!!」
その言葉通り、空には大型の蜂モンスターであるキラービーが三匹飛んでいた。
私たちがトレーニングをしているのは郊外の練兵場であり、街を囲む防壁の外だ。
街からそれほど遠くはないため強いモンスターは現れにくいが、このくらいのモンスターなら出ることもあるだろう。
キラービーは一般人にとって危険なモンスターかもしれないが、私にとってはそれほどでもない。
使役モンスターを出して仕留めてしまおうか迷っていると、ハンプ教官が腕を上げた。
「全員注目!良い機会だから貴様らに筋力強化の真髄を見せてやる!」
そう言ったハンプ教官は腰をやや落とし、右腕下げて上半身をひねった。
私はその姿に激しい感動を覚えた。
(な、なんて完璧なサイド・トライセップス!!)
サイド・トライセップスはボディビルのポージングの一つだ。
美しく盛り上がった上腕三頭筋。流れるようにしなやかでありながら、しっかりと切れの入った筋肉のライン。
どれをとっても超一流の肉体だった。
(これは……今晩のセルフケアのネタのためにも目に焼き付けておかねば!!)
私はこの勇姿をしばらく見ていたいと思ったのだが、残念ながらそのポージングは一瞬で終わってしまった。
ハンプ教官はその姿勢から、ものすごい勢いで右の拳を突き出した。
遠いキラービーへ向かってパンチを繰り出したのだ。
それと同時に鋭く叫ぶ。
「マッスルビーム!!」
普通に考えたら『何をしているのだろう?』としか思えない行動だ。
キラービーは空高くを飛んでおり、ハンプ教官は地に足をつけている。拳が届くわけがない。
が、キラービーたちの体は次の瞬間、ズタズタに引き裂かれた。
ハンプ教官の拳によって生じた衝撃波が襲いかかったのだ。
ハンプ教官は誇らしげにダブルバイセップスのポージングを決めた。
「見たか!これが筋肉の極地だ!筋肉は強化すれば、ビームにすらなりうる!」
(いや、ならんでしょう普通……)
生徒たちは皆ハンプ教官に心酔気味だったが、さすがにほぼ全員がそう思っただろう。
ただし、私一人だけはそのパンチを放ったヒッティングマッスルにうっとりと見惚れていた。
***************
☆元ネタ&雑学コーナー☆
ここから先は筆者が話の元ネタなどを気の向くままに書き記しているコーナーです。
本編のストーリーとは関係ないので興味ない方は読み飛ばしてください。
〈オーク〉
ファンタジー小説の元祖『指輪物語』で悪の軍団の兵士として戦った種族です。
映画化されたこともあり、筆者も学生時代に読み漁りました。
意外にも神話などには明確な元ネタ種族がいません。
名前だけは拝借しているようですが、指輪物語がほぼ初出だと思っていいでしょう。
その作中では『醜い』とはされていますが、『豚のような顔』だとはどこにも書いてありません。
古いアイルランド語でオークが豚を意味することなどから、その後のファンタジー作品で豚顔にされたのではないかと言われています。
ちなみに指輪物語では『めっちゃ繁殖力が高い』という設定にもなっています。
この辺りのことが『くっ、殺せ!』的な定番イメージに繋がったのかもしれませんね。
設定一つで日本のファンタジー界の闇が深まってしまった……(笑)
〈豚〉
豚はイノシシを家畜化した動物ですが、それがまた野生化したものでも体脂肪率十三パーセント、家畜用に太らせたものでも高くて十八パーセントくらいだそうです。
スリム。
キレイ好きで、トイレの場所も餌場や寝床から離れた所に決めるんだとか。
イメージ変わりますよね。
ちなみにハンプ教官の名前は『ハンプシャー』という豚の品種名から取りました。
あまりメジャーな品種ではないようですが、とても特徴的な外見をしています。
白黒のラインが可愛いので、ぜひ画像検索してみてください。
〈筋トレのやり方〉
筋トレのやり方は専門の雑誌があるほど色々研究されていますが、そのせいか『絶対にこれが正しい』といルールが無い気がします。
筆者も大学の時にフィットネスの講義を取って実践しつつ理論を学びましたが、本やネットで見る筋トレ理論と微妙に違っています。
そして、その本やネットごとでも微妙に違う。
もちろん、
『超回復を考慮して連続で行い過ぎない』
『タンパク質をしっかり摂る』
というように、ある程度のコンセンサスが得られていることもありますが、
『週に何回くらいがいい?』
『何セットがいい?』
『インターバルの休憩時間は?』
などの点は書いている人によって結構違ってるんです。
結局のところ最高のやり方というのははっきりしないので、
『続けられるようにやる』
というのが一番大切な気がします。
***************
お読みいただき、ありがとうございました。
気が向いたらブクマ、評価、レビュー、感想等よろしくお願いします。
それと誤字脱字など指摘してくださる方々、めっちゃ助かってます。m(_ _)m
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