第21話

 いつの間にか俺も眠ってしまった。


 以前椿がそうしたように、俺も彼女の手を握った。


 その所為もあってか、あの古い神社と子供達、そして悪意を持った化け物が居る夢を見た。


 だがそれも徐々に俺の記憶から抜け落ちていく。不思議だが、夢とはそういうものだ。


 僅かな振動。俺は目を覚ました。椿は眼を細めて、此方を見ている。手は何も握られていない。


「具合はどうだ……?」


「……寒い」


 椿はいつも通りの無機質な声で言った。彼女の脇には氷が包まれたタオルが置かれ、上半身は白シャツ一枚だけだ。寒いのも当然と言える。


 氷を取り除こうと、手を伸ばした。


 その時、彼女に力一杯引き寄せられた。


 既のところで止まったが、彼女の腕は俺の首に回され、力が込められている。


「寒い……暖めて」


 目と鼻の先には彼女の、赤く爛れた顔があった。


 吐息が吹き掛かる。それは媚薬のように作用し、引き寄せられるまま、彼女の首元に顔を埋めた。上半身を寄せ、俺の腕は彼女の背に潜らせる。


 匂いがする。幽霊の葵さんには無かった彼女自身の匂いだ。不思議な香り、癖になる良い香りだ。


 汗は乾き切って、暖かくて、サラサラで、柔らかい彼女の首はとても心地が良い。


 彼女の肺の膨張と収縮、心臓の鼓動、首元の脈拍、彼女の全てを感じる。最初から一つだったようにも思えてくる。


 一方で、所々にあるザラついた傷跡や凸凹の皮膚は、触れば触る程その悲惨な過去を想像させた。


「汗臭くない?」


 彼女の声は、彼女の体内で反響し、振動となって俺に伝わる。俺の声も同様だ。


「うん、全然大丈夫」


「……さっきは御免なさい。見られたくなかった。特に貴方にはね」


「俺の方こそ、ごめんな。嫌な事言った自覚はあるんだ。でも、どんな椿でも素敵だと思う。嫌いになんてならない。そう伝えたかった」


「うん」


 彼女の腕は力強く俺を締め付けた。


 俺は一度体を持ち上げて、彼女を見る。すると、口元が緩んでいた。


「笑ってる?」


「ううん、別に」


「ほんと? 絶対笑ったよね?」


 既に無表情に戻っている。見間違いでは無い筈だが、彼女にその意思は無さそうだった。


 椿の母親は、彼女が幼い時は表情を緩めた事があった、と言っていた。さっきの椿の様に。


 俺は、彼女から一旦離れ、脇に置いた氷を取り除いた。上着を被せてから、椅子に座る。


 彼女も体を起こした。体力は戻り、手の震えも無くなっていた。


「痛くは無い? その……火傷の跡は」


「うん、全然」


「そっか……」


「手、貸して」


 突然の申し出に俺は困惑した。


 彼女は右手を此方へ伸ばして、手招いている。椅子を引き摺って、傍へ寄った。


「そう言えば、触られたくないって、言ってなかったっけ?」


「それは火傷の跡があるから。無人はさっき凄い触ってたけど」


「あ……そっか、ごめん……」


 俺は左手を差し出した。彼女と手が触れ合う。何かを確認するように、両手で俺の掌や、更に沿わせて腕の方まで、彼女は触っていく。


 握ったり、摩ったり、押したり、そうして彼女は怪訝そうに首を傾げる。


「何か感じない?」


 まるでナンパの様な決まり文句を吐いてはいるが、彼女は真剣そのものだった。


 何か、とは何だろうか。


「分からない? 確かに、手だけだと私もあまり……これなら?」


 椿は手を広げる。ハグのポーズだ。俺の困惑は更なる高見に、俺の心は混沌に陥っていく。


「椿、一体どうした?」


「私にも分からない。さっき不思議な感覚だった」


「吸い付くような」


 彼女はボソッと言った。なんだかそのフレーズに近い言葉を聞いた事がある。幽霊の葵さんも、俺にくっ付いてはその様な事を言っていた。


 恋愛感情とはまた違う。俺はそんな認識でいる。


 ここでチャイムが鳴った。時間帯は五限目が終了した頃合だ。


 椿はまだ腕を広げているが、俺は何だか恥ずかしくなって遠慮した。すると椿の眼は鋭く俺を突き刺した。


 そんな微妙な空間に漸く終止符が打たれた。純恋樹咲が保健室に戻って来た。


「あ、葵さんと神栖君、居ますか?」


「まだそこにいるよ」


 椿から逃げる様に、カーテンの外へ出た。


「あ、神栖君! これ……」


 ミニマムサイズの彼女の手には、俺と椿の服が綺麗に折り畳まれて積まれ、両腕にそれぞれの鞄が吊り下げられていた。自身の鞄は、リュックの様にして背負っている。


「持って来てくれたのか!?」


 うんうんと、小刻みに頷いているが、彼女の腕は限界を迎え、顔を赤くしていた。俺は急いで受け取った。


「有難う。助かるよ」


「う、ううん、いいの。そ、それより葵さんは大丈夫……かな?」


 モジモジとしている。俺に眼を合わせようとはしない。


「お陰様で、大分良くなったよ」


「わ、私は何もしてないよ。でも、良かった」


「ごめんな、ちょっと今は会わせれないんだ」


「いいのいいの。あ、それじゃまた学校でね」


 純恋は逃げるように保健室を出て行ってしまった。外では白鷺の声が聞こえた。


 そうだ。声といえば、彼女に一つ聴きたい事があった。椿を保健室へ連れて行く前、彼女は何かに躓いた。その時、クスッと女性の笑い声がした。


 あれは誰の声だったのだろうか。


 純恋が保健室を出た後、入れ違うように椿の母親が姿を見せた。


 母親は入るなり深々とお辞儀をした。大袈裟にも思えたそれを、西華先生によって止められた。


「娘がご迷惑をお掛けしました。無人君もずっと居てくれたみたいで、有難うね」


「いえ、俺は大丈夫です」


「此方こそ申し訳御座いませんでした。私が付いていながら……家でゆっくり休んで下さい」


 西華先生はバツが悪そうにしている。母親は物腰低くそうに微笑むと、マスクと上着を着用した椿と共に保健室を後にした。


 その時、椿は

「無人、私も貴方の事は好きよ」


 と、無機質にそう言い残していった。




 西華先生と二人だけになった事で、保健室は静寂を取り戻した。だが、俺の精神はそうは行かなかった。


「ねえ、無人君。最後の何……?」


「なんでしょうか、俺も分からないです」


 身に覚えが無い訳じゃないけど、まさかそう返してくるとは思わなかった。


「ふーん。なんか、やらしい事してないよね?」


 西華先生は俺を下から覗き込むように詰め寄ってきた。その瞬間、今まで以上の緊張が走る。


「し、してないですよ。ただちょっと言い合いになって、仲直りして、それだけです」


「ほんとにぃ?」


 西華先生は眼を細めて疑っている。


「私ずっとそこに座って聴いてたよ。言っておくけど、17歳には未だ早いわ」


「……はい」


 悪事を働いたような気分になるのは、きっと俺にやましい事があるからだ。西華先生には何処まで聴こえていたのだろうか。


 普通に恥ずかしい。親に思春期のそういう所がバレたような恥ずかしさだ。


 俺は椿の居たベッドで着替えを済ませた。


「西華先生……すいません、ベッドが結構散らかってしまいまして……」


「ん? ああ、勿論クリーニング出すから大丈夫よ」


「そうですか。あの、色々と有難う御座いました」


「ねえねえ、良い傾向だから別に気にする事でも無いんだけどさ、幽霊の女の子が居たじゃない? 私は見えないから分からないけど……」


「その子と椿ちゃんだったら、どっちが好きなの?」


 俺は固まった。


 死んだ初恋の女の子か、生きている二番目の女の子。感情豊かで明るくて元気な女の子か、落ちついていて思いやりがあってお淑やかな女の子。過去を知らない女の子か、悲惨な過去を持つ女の子。触れない綺麗な女の子か、触れる傷を持つ女の子。


 選べる筈は無い。


「ほら、何回か話してくれたじゃない? 好きなんだって……」


 俺は幽霊の葵さんへの気持ちが無くなった訳では無い、筈だ。約束も交わした仲でもある。


 その一方で椿は、たった数週間の関わりでここまで彼女へ気持ちが向いてしまっている。


 椿に「好き」と伝えたが、「LIKE」か「LOVE」か、どっちのつもりで俺は言ったのだろうか。椿はどっちの意味で言ってくれたのだろうか。


 幽霊の葵さんに対してはどうだろう。


 「好き」ってなんだっけ。



 「友達」ってなんだっけ。





「聞いてる? 無人君」


「え?」


「聞いてなかったでしょう?」


「すいません……」


 西華先生は溜息を吐く。


「よっぽど今日の刺激的な一時間が効いているみたいね。椿ちゃんにも注意しないと」


「先生、それは……」


「冗談よ……まぁ今日はお手柄だったわね、無人君。最近重い事故が多いから、無人君が応急処置をしていなかったら、もしかしたら……」


 縁起でもないと西華先生は、その先を言わない。


「いえ、藤崎先生が熱中症の対策を教えてくれて、西華先生がこの時期からスポーツドリンクを用意してくれていたお陰です」


「それを実行したのは、貴方よ」


「そう、ですね。有難う御座います」


 俺は素直に謝辞を受け取った。


 荷物を纏め、保健室を退出した。その後は幽霊の葵さんの捜索を行ったが、今日も進展は無かった。

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