第四章

妹が妹で困っています①

 茜音は小学生のころ、恐らくいじめられていた。

 外国人の母によく似た妹は、どこをどう見ても外国人にしか見えない美少女だ。フランス人形のように完璧な女の子は、良くも悪くも目立つ。そして茜音は、悪目立ちをしていたと言えよう。

 ダブルへの悪意のない奇異の目。美人への羨望。そういったものが入り混じった視線を浴びせられた引っ込み思案は、ひどく萎縮していた。

 小さく丸まっている。それが同級生のいる場での、茜音の姿だった。

 いじめだっただろうか? 真実は定かではない。俺は確かめたわけじゃないし、実際のところは闇の中だ。けれど少なくとも、茜音にとって楽しい日々でなかったことは間違いない。

 俺はそんな茜音の支えになりたくて「任せろ」なんて、胸を張っていた。同じように何もできないガキの分際で、よくやれていたものである。

 けれど、そうして茜音が笑顔になってくれることが、俺の生きがいだったのだ。茜音は、俺の狭い世界のすべてだった。

 まぁこれは、過去形にはできないだろうけれど。

 とにかく、そうして生きてきたものだから、俺の判断基準は概ね茜音であった。茜音以上に可愛い女の子は知らないし、茜音以上に大切な人間も知らない。

 過去、付き合いのあった彼女たちに知られたら殴られるだろう。茜音本人でさえ、最低だと罵るかもしれない。あいつはそういった誠意などに、高潔な節がある。どこまでいっても綺麗だ。そして、そいつが他の誰かに穢されることが、俺は何よりも我慢ならなかった。

 小学生時代の茜音の生活を、俺は知らない。

 当たり前だ。違う学校に通っていたのだから。俺たちは違う町で、違う家で育った、義理の兄妹であるのだから。

 俺が茜音に初めて会ったのは、小学二年生のころだ。俺は親父に連れられて、その少女と出逢った。

 母の後ろに隠れた、小さな愛らしい存在。

 照れくさそうに身を縮めた少女は、少し舌足らずに「あかねです」とか細く囁いた。笑おうとしたのだろう。弱々しく垂れ下がった眉と、下手くそなはにかみ。完成された器から溢れる不器用さに、俺は一瞬で虜になった。

 瑞樹君と呼ばれるたびに心が弾み、それが呼び捨てになったときの興奮は今でもはっきり覚えている。

 そして、兄妹になるのだと告げられた、絶望にも似た胸の痛みもよく覚えている。

 それは、中学へ上がる年のことだ。両親のことに、気付いていなかったわけではない。幼心に嗅ぎ取ってはいたはずだ。けれども、再婚という具体的な形を、想像できていなかったのである。

 それは恐らく茜音も同じで、再婚を告げられたときの絶句はお互い様だっただろう。

 あいつが心中で何を思ったのかは、とても怖くて聞けやしない。けれど、唖然としたことだけは事実だ。

 そして、俺が初恋を切り捨てようとしたのも紛れもない事実だった。

 義理の妹に、恋を憚る戸籍上の問題はない。けれど、世間の目はそう簡単なわけがないのだ。どんなに義理だとしても、兄妹という続柄もまた、現実である。学校に通っている以上、それは確実に明らかになるパーソナルだ。

 妹に、恋をしている。

 その世間体は、好印象とは言い難い。大体の場合、異様な存在にされてしまうだろう。そして、俺が持つ感情の結果、茜音を奇怪にしてしまうことは絶対に嫌だったのだ。

 学校帰り。公園で一人、泣いていたあいつを知っている。頭を撫でると泣きじゃくって、俺の胸に縋った。脆くて繊細な女の子。この子を助けていけるなら、兄でも構わないではないかと思った。思ってしまったのだ。

 兄でいようと。兄になろうと。

 時を同じくして、茜音は俺を「お兄ちゃん」と呼ぶようになった。そして俺たちは、兄妹として中学生になったのだ。そこで分かったことは、茜音が不必要に目を惹くことだった。

 お揃いの制服に袖を通すことで、茜音はより一層に色めく。

 女の身体への成長も著しく、ずば抜けてプロポーションもいい。男子の下品な俎上に上がるのを、何度も耳にした。

 そして、茜音は人がいい。事なかれ主義が災いして、誰にでも親切なのだ。単に人当たりがいいだけなのだが、悪く言えば八方美人。更に悪く言えば、近寄ってくる男子全員に柔らかい。媚を売っているように見える女子だった。

 俺からすれば、貼り付けた紛い物の笑顔であるのは瞭然だったのだが、周りはそうは見なかった。中でも、女子の嫉妬は凄まじい。年齢など無関係なのだと、俺は中一にして思い知った。

 茜音は高速で瞬きを繰り返し、涙ぐんだ瞳を誤魔化すことに躍起になっていったのだ。

 それだというのに、俺ができることなど、精々そばにいてやるくらい。そして、それにも限界があった。

 兄が常にくっついているのもまた、茜音への目を集めるだけに過ぎない。自己紹介で誕生日を明かした時点で、義理であると発表したも同然である。その義理の兄妹が、無闇にともにいることで生じるのは邪推だ。そうならないために放棄したはずのものを、周囲が強引に寄せ集める。

 俺にできることは、何もなかった。無力で、惨めで、ならば何故兄でなければならないのだろうか、と幾度思ったか知れない。

 そうして懊悩している俺に、運命の日はやってきた。

 告白をされた。きっかけは、ただそれだけだ。

 しかし、中学生の恋愛事情は、実にかっこうの餌である。噂はあっという間に駆け巡り、俺と彼女のことはクラス中の知るところとなった。

 影で茜音への注目が緩和されていく。それが糸口であり、地獄の入り口だった。

 俺と彼女は、それから一ヶ月もしないうちに別れてしまった。俺の基準が茜音であったこともあるし、所詮は友達の延長だったとも言える。

 けれど、この短い交際期間は予期せぬ影響を及ぼした。俺の性格への疑念である。一ヶ月で倦む男。性格の問題があったり、やばい性癖を持っていたりするのではないか。その疑念は、破局の噂とセットで出回った。

 俺が実際に持っている癖など、シスコンガチ勢というくらいのものだったが。それを言うわけにもいかず、流布された噂を撤回する機会もなかった。

 そして俺は、大博打に出たのである。

 別れてからすぐに次の彼女を作った俺は、それから女の子たちの間を練り歩くようになった。と言っても、最初は短い交際を連続して行っているただの甲斐性なしだったのだ。

 けれども噂には、尾ひれも背びれもくっつくものである。二股、三股は言うに及ばず。ハーレムを築いているだとか、一夜限りの関係を持っているだとか。愚劣なクズに変質されていた。

 俺はその世評に後乗りしたのである。そうすることで、茜音が取り沙汰される率は格段に下がった。仮に残留していても、漫然と兄の悪癖にシフトしていく。

 圧倒的にクズな兄。そんな俺を作り上げた。

 馬鹿以外のなにものでもなかったであろうし、本質的に阿呆であったのだ。しかし、俺の尺度は茜音であって、俺自身のことさえも例外にはなりえなかった。

 故に茜音と距離を置いてでも、クズの女好きな兄となったのである。

 ピアスを開けたのも、茜音に負けない明るい髪色に染めたのもそのころだ。

 ただひとつ。言い訳をするのならば、俺だって当初からこんな泥沼に落ちるつもりはなかった。

 心の底から好きだと思える子に出逢えたならば、足を洗うのも吝かではなかったのだ。そのつもりでいた。けれどもそれは、叶っていない。

 八年に及ぶ片想いは、未だ廃れることはなかった。

 シスコンだという全否定も、一途だという軽口も、嘘じゃない。フラれるだなんて戯言は、聞くだに恐ろしい。相思相愛だなんて夢物語は、胸が痛くなるだけだ。

 俺は茜音に嘘はつかない。

 これほど堅い意志の元獲得した舞台装置だが、高校生になると同時に幕を引くことにした。

 ひとつ目は、もう充分だったからだ。噂は俺の手がつけられないほどに広まっていたし、もはや俺の行動などなくても、勝手に脚色されていく有様だった。ならば、実態が伴わずともよい。俺は進学の節目に便乗して、女遊びをやめた。

 そして、ふたつ目。

 虚しくなったからだ。無駄だと痛感したからだ。どんなに燃え上がるようなアタックを受けても、どんなにスマートな付き合いをしても、俺は愚にもつかないことで言い争う茜音以外に、気持ちを移せない。

 些細なことで怒って、他愛ないことで不貞腐れる。可愛くない性格の、俺の初恋の彼女。決して、忘れることなどできやしなかった。そのことを確かめるために、色んな子と付き合って試したようなものだ。試す価値など、端からないに等しかったというのに。

 クズ。ゲス。

 もっともだ。俺が反発できる箇所は、ひとつもない。妹のためになら、俺は何にだってなるし、何だってやる。

 世話をかけたことは、反省をしている。今もって不安にさせてしまうのも、自業自得だ。それでも、覆水は盆に返らないと俺はきちんと自分の過失を認めている。

 しかし、引っ込みがつかなくなってしまったのは痛手となっていた。

 俺は周到に、人に好かれるように、気を引けるように振る舞った。けれど、身ごなしだけで遊び人の称号を勝ち取ったわけではない。

 茜音に言えば、またぞろナルシストの烙印を押されることは間違いないだろう。しかし俺は、少なからず、一定のハードルを越えたルックスをしている。ただしイケメンに限る、という言葉のギリギリ最底辺あたりには滑り込んでいるのだ。でなければ、相手になどされない。

 この地質による注視を消すことは、高校になってからもできていなかった。ついでに言えば、中学時代を引っ張ってくる茅ヶ崎のような生徒だっている。決して途切れることなく、噂は細々と生き残っていた。そしてそれは、俺を自己嫌悪に陥らせるには何の不足もなかった。

 何しろ、この後悔も反省も結局はすべて茜音の言葉に塗り替えられてしまうのだから。

 しっぺ返しを受けたから、省みているのではない。茜音が怖いと言ったから、俺はなんてことをしていたのだろうと思うのだ。過去の彼女たちへの罪悪感を、蹴り飛ばしてしまうのだ。

 ないわけじゃない。けれど、理由の筆頭は呆気なく入れ替わってしまう。

 俺はどこまでいっても、最低な男だった。

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