リサイクルショップ百器夜行

雨谷結子

リサイクルショップ百器夜行

『スタッフ募集。経験・年齢不問。夜行やぎょうあり。試用期間から住み込み可。リサイクルショップ百器ひゃっき夜行やこう


 大学からの帰り道、電柱に貼られた求人広告に目が行ったのは、成人式も終わって春休みを迎えようかという時分だった。

 電柱への貼り紙は屋外広告物条例違反。そのうえ、ダサさの極みみたいな虹色のワードアートがでかでかと踊っている。

 大抵の人間は見向きもしないであろう求人だった。少なくとも一昨年までの草汰そうたなら素通りしている。

 しかし今の草汰には、この求人に飛びつかねばならないのっぴきならない事情があった。


 傘を肩と頭の間に挟み、かじかむ指でスマホを取り出して、店名を検索にかける。

 評価の星は毒にも薬にもならない三・二点。

 口コミ欄には、ごみ漁りだの、店長はイカれた異常者だのという誹謗中傷が並んでいた。

 

 早々にスマホをジャケットのポケットに突っ込む。どのみち、ネットの評価などあてにならない。すぐ近場のようだし、店を冷やかしに行ってみてもいいだろう。

 つんと冷えた鼻先をマフラーに埋めると、草汰は風で吹き飛びかけたチラシを丁寧に電柱から剥がして、件の店に向かって歩き出した。


 果たして、リサイクルショップ百器夜行はうらぶれた商店街の一角にあった。 

 軒先に並べられているのはストーブや加湿器など、今の時期の必需品がほとんどだ。店の中にはなにやらお高そうな刀剣や屏風、アンティークの家具などがひしめいている。

 どれも品はよさそうだが、激安ディスカウントストアのごとく床から天井まで商品が並べられているせいで、なんとなく野暮ったい。

 二階は住居になっているらしく、部屋干ししてある洗濯物が見える。無防備にカーテンが開いているあたり、住人は男かもしれない。


「お客ですか? それともネットの噂を真に受けた野次馬?」


 突如響いたつっけんどんな声に、草汰は傘を取り落とした。ほとんど雨滴になりかかっていた小雪が、睫毛にふれて融解する。

 見れば、引き戸の前に男が立っていた。


 年の頃は三十くらいだろうか。客商売の人間とは思えないような眉間の皺に、野生動物並みに鋭い眼光。顔だけでなく体格もなかなかのもので、平均身長の草汰が見上げるほどに上背がある。

 見るからにいかつい男だ。けれども、そんな印象を絶妙にダサいファッションが裏切っている。

 柄シャツや白スーツを着こなしそうな堅気らしくない風貌なのに、実際はほっこり系の半纏でもこもこしていた。手首には念珠。こう見えて仏教徒なのだろうか。謎だ。


 目が合うと、男は切れ長の眸を瞠った。なにかと思ったが、視線を逸らされあっと思う。慌てて乱暴に目尻を拭った。

 どうも、泣いていると誤解されたらしい。


「ちがいます。これは雪が融けて――!」


 男は聞いているのかいないのか顎下にずれていたマスクを引き上げると、草汰の手のなかのチラシに目をやった。


「バイト希望?」

「え、あ、いや、ちょっと興味があって」

「こちらとしちゃ、不採用にする理由がない。すぐにでもシフトに入れるけどどうします?」

「え? ちょ、待ってください。おれ、まだそこまでは考えてなかったっていうか」


 あくまでも偵察のはずが、出逢って一分で採用されてしまった。履歴書や面接以前に自己紹介すらすっ飛ばしているのだが、この店の危機管理意識はどうなっているのだろうか。

 だが、そんな心の内とは裏腹に草汰の口は全く別の言葉を吐き出していた。


「それって、すぐにでもここに住めるってことですか?」

「すぐ? きみ家ないの?」

「いえ、実家暮らしです。だめですか?」

「いや……好きにすればいい」


 男の答えに、草汰の心は決まった。


「あざっす! 東央とうおう大学二年、朝吹あさぶき草汰です。よろしくお願いします!」


 草汰が勢いよく頭を下げれば、男は少々面食らいつつも澁澤世連よつらと名乗った。

 折よく激しく降り出した雨音を背に、草汰は店内に足を踏み入れた。



 *



 即採用されたわりに、百器夜行は来る日も来る日も暇だった。客が全く来ないわけではないが、草汰の前職のコンビニとは比べ物にならない閑古鳥ぶりだ。

 早いもので、新年ももうひと月が経過しようとしていた。大学は春休みに突入し、おかげで草汰は店に入り浸っている。大学は対面授業を再開し始めたところだったが、入学してからずっとオンライン授業が続いていたので友達らしい友達もいない。バイトに明け暮れることができるのはありがたい限りだった。


 世連は毎日台所に立って食事を作り、草汰をかならず同じ食卓に座らせてくれる。それは荒んだ心にぽっと灯りをともしてくれるようで、単純な草汰はころっと世連に懐いた。

 日々しつこいほど話しかけている甲斐あって、世連とは打ち解けてきた気がする。あくまでも、少しずつだが。いきなり赤の他人を家に引き入れてなにくれと世話を焼くわりに、世連は自分のことを喋ろうとしなかった。


「そろそろ覚えたか?」


 世連の声で、雛人形や五月人形が並んでいるあたりで立ちどまっていた草汰は我に返る。


「なんとなくは。まだこの絵の年代がどうとかあの刀の刀匠は誰とかはわかんねっすけど」


 世連の言う覚えた、とは売り物とその状態のことだ。この割のいい仕事で草汰に課されたのが商品状態の記憶で、バイトに入ると店中を巡るのがルーティンワークになっていた。


「あ、でもこいつはもう覚えましたよ」


 そう言って、草汰は鯉のぼりが収められた紙箱を指差して、謂れや値段を暗誦する。

 箱表面にプリントされた写真は日焼けして褪せていたが、草汰とはとても縁のない埼玉は加須の一品で、なんと三八五〇〇円もする。


「そういうのは、追々な。それよりモノがなくなってるとか、動いてるとか、傷ついてるとか、そっちのが大事」

「え、この店、万引きにでも遭ってるんすか」


 草汰の言葉に世連は目を瞬いてから、喉の奥で笑った。


「え、おれなんかおかしいこと言いました?」

「いや、普通そうだよなって思ってな」


 ますますわけが分からない。だが、聞いたところではぐらかされるだけだろう。先日夜行とやらのことを尋ねたときもそうだった。


「てか、二月三日になにかあるんですか?」

「あー……なんで?」


 質問に質問で返され、温厚が取り柄の草汰もさすがにかちんときた。

 草汰は無言でレジカウンターの横にかかったカレンダーを指さす。件の日付には、赤で丸印がつけられていた。

 世連はこの頃カレンダーを見てはぴりぴりし通しだった。気づかれたくないならないで、もうちょっと上手く隠してほしい。


「言いたくないならいいっすけど」


 そうは言ったが、口がへの字になってしまうのを抑えることはできなかった。

 草汰は思っていた以上に、世連の秘密主義にもやもやしていたらしい。


「いや、そろそろ言うべきだと思ってた。今日の夜、空いてるか?」


 世連の誘いに、草汰はぱっと顔を上げる。


「もちろん。万年夜は暇なんで!」


 なんだそれと苦笑して、世連は「なら九時にコンビニの駐車場の前に集合な」と告げた。


 ほくほく顔の草汰にもかまわず、世連は帳面になにかを書きつけるのを再開する。世連が作業に集中しきるのを待ってから、草汰はふたたび鯉のぼりに目をやった。

 流水を模した生地に華やかな染めを施し、金箔をあしらったという触れ込みのそれは、相も変わらずそこで買い手を待っていた。


 視界がぶれてここではないどこかの風薫る五月の空と、うららかな陽射しを照り返して泳ぐ錦の魚が瞼の裏に蘇る。その袂には洗濯物の揺れるありふれたアパートのベランダと、ちいさな子どもの歓声。爽やかを絵に描いたみたいな光景に意識が深く沈み込んでいく。


 草汰は頭を振ると、足早にシーズン用品のコーナーを通り過ぎた。



 *



 約束していた二十一時きっかりにコンビニの駐車場に現れたのは一台の軽トラだった。


「これ、バイト代出るから」


 説明すんの忘れてた、悪い。世連は開口一番律儀にそう謝って、助手席に草汰を乗せた。

 中華料理屋から漂う食欲をそそるにおいに紛れて、微かに煙草の香りがする。シガーソケットは綺麗だし家に臭気も移っていないからヘビースモーカーではないようだが、世連は喫煙者らしい。


「煙草、吸うんすね」

「この時期はな。すまん。みんな嫌がるから辞めよう辞めようとは思ってんだが」

「おれはいっすよ。みんなって?」

「……腐れ縁みたいなもんだな」


 草汰はへぇと気のない相槌を打ちながらも、内心ちょっと意外に思う。三十かそこらの一人暮らしでバイトを居候させるくらいだから、世連の人間関係は希薄なのだと思っていた。

 だが、実のところは煙草に駄目出ししてくるような気の置けない知人が複数いるらしい。


「これ、世連さんの車?」

「ん。おんぼろの十年選手だけどな」


 そう言って、世連はシフトレバーを撫でる。節くれだって血管の浮いた手はどこか、なまめかしかった。


「そうだ、これ持っとけ」


 世連は目線を前に向けたまま、ポケットからなにかを取り出す。ビニールケースに入ったちいさな紙だった。びっしりと字が書き込まれていて、ケースには首から提げられるようにストラップがついている。


「なにこれ、呪いのお札?」

「逆だ、逆。尊勝陀羅尼の護符だよ。悪いもんから守ってくれる」

「それはどーも。でも、なんで? あ、もしかしてこの仕事って、呪いの髪が伸びる人形とかに遭遇しちゃったりするんすか?」

「そういうのは俺の守備範囲外。でもま、似たようなもんだな」


 どういうことか尋ねる前に、軽トラは人気のないごみ置き場の前で停まった。てっきり買い取り希望者のところに向かうのだとばかり思っていたのだが、ちがったようだ。


 薄闇に目を凝らすと、ぼんやりとなにかが浮かび上がる。漆塗の衣紋掛けだった。それもかなり、年代物の。大事に使われていたようだが、鶴を象った蒔絵の部分が欠けている。


「百年選手だ」


 いつの間にか車から降りていたらしい世連の声に、ぴりと緊張が走る。

 衣紋掛けをよくよく見てみれば、黒い靄のようなものが夜陰に蠢いていた。

 はだに触れる大気が禍々しい。それに、聲が――言葉が像を結んで形を取ったようななにかが、身体の内側に流れ込んできた。


 なんで、なんでなんでなんでなんでなんで。


 荒れ狂う吹雪のように、その感情で身体中が満たされる。それ以外、なにも見えない。外灯が投げかけるぼんやりとした光も世連も、自分の手指すらなにひとつ。


「『陰陽雑記に云はく、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす。これを付喪神と号す、といへり』」


 無間地獄のごとく繰り返される『なんで』を破るように、低く声が轟く。

 息も絶え絶えに声がした方に目をやれば、世連は心得たように草汰に向かって頷いた。


「室町時代の物語、『付喪神記』冒頭の一節。モノは百年経つと霊を得て、人の心を誑かす。これを付喪神というってことだ」


 世連は懇切丁寧な教師の顔をして言ったが、草汰が聞きたかったのは黴の生えた古文の解説などではない。

 半ばパニック状態の草汰をよそに、世連は右腕を上げる。じゃらと珠が触れ合う音がしたかと思えば、世連は腕に巻いた数珠を衣紋掛けに突きつけていた。


「鬼になるか、それともモノに戻るかえらべ」


 世連は居丈高に命じたが、焦れたように衣紋掛けの横木の部分にそっと手を伸ばした。

 つう、と触れた指先は、何某かの情を孕んでいる。言葉とは裏腹に、それは甘やかな誘惑のようで、はたまた懇願のようでもあった。


 やがて、衣紋掛けを取り巻いていた禍々しい霧が闇のなかに消えていく。

 しばらく茫然自失としていた草汰も、世連が軽トラの荷台に衣紋掛けを括りつける段になってようやく、助手席から飛び出した。


「い、い、今のなんだったんすか!?」

「だから、付喪神。百年の時を経て、持ち主に棄てられたことを恨んだモノは、鬼にも等しい存在になる。時には人を喰らう妖物にな」

「ひとをくらう……」


 現実とは思えない言葉に、へなへなと力が抜けて草汰は軽トラの車体に体重を預けた。


「ま、今のは大人しい手合いだよ。さすがにヤバいやつの居所にバイトは連れていかない」

「や、今のも十分ヤバかったっす」

「悪かったって。でも分かったろ? これが夜行。正直に言ったところで誰も信じない。だから黙ってた」


 そう言われると、ぐうの音も出ない。実際、馬鹿正直に話を切りだされていたら、草汰は信じるどころかドン引きして早々に家を出て行っていたかもしれなかった。


「てか付喪神って危険すぎません? 人を食べるとかグロ……人類滅亡の日も近いっすよ」


 草汰が半ベソを搔きながら言えば、世連はちいさく笑った。


「今は大量生産大量消費時代だ。そうほいほい百年物の器物が見つかってたまるかよ。今日のは見回りをしててたまたま見つけた。凶悪なのはもっと稀だしな」

「へぇ、でも夜行はともかく二月三日は? 付喪神となにか関係あるんですか?」

「ある。それが一等頭の痛い問題だ。百年に満たない器物は鬼へと変化していく過渡期にある。だから普段は百年物だけに気を張ってりゃいい。だが、その前提が崩れるのが――」

「二月三日ってこと?」

「ああ。『すべからく今度の節分を待つべし、陰陽の両際、反化へんげして、物より形をあらたむる時節なり、我等その時身を虚にして、造化の手に従はば妖物と成るべし』ってな」


 草汰は三秒だけ訳を考えてから首を捻った。


「要は節分は陰陽の気が交わって、事物が変化する時だってこと。この時に造物の神に身を任せれば、若いモノも鬼になれるんだとさ」

「ほう、神様に鬼ね、オーケーわかった!」


 ノリでサムズアップしてみたが、正直世連の言葉の半分も意味が分かっていない。

 世連は呆れたように草汰を見下ろし、口の端に笑みを引っ掛けると、軽トラの荷台に腰掛けた。深淵の底をも見通すようなまなざしが、草汰を仰向く。


「俺の仕事は、言わば帰る場所をもたない古道具たちが鬼にならないように見張る、看守みたいなもんだ。あの店はその檻」

「看守に、檻」


 物騒な言葉は、どこか世連にそぐわない。


「それでも鬼になっちゃったときはどうするんすか?」

「……そうなったら完全に破壊するしかない」


 硬い声で世連が応じる。衣紋掛けを宥めるように撫でて、世連は内緒話をするように顔を寄せると「大丈夫だ、おかえり」と囁いた。

 じっと見つめれば、彼は罰が悪そうに手を引っ込める。引っ込められてなにもなくなった空間に惹かれるものを感じて、草汰は未練がましくその空漠を見つめた。


「命の危険もないわけじゃない、3Kの仕事だ。正直わりに合わねーよ。辞めるってんなら、今日までのバイト代は出す」

「え、辞めねっすよ」


 即答すれば、世連は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そんな顔もするんだな、と思いながら、草汰はへらっと笑う。


「そりゃわけ分かんないですけど、世連さんいい人っぽいし、それにこんなおもしれーこと、たぶん他にないですもん」

「……はじめてうちに来たときも思ったが、お前の危機管理意識はどうなってんだ。いきなり知らないおっさんの家に住むなよ」

「はは、同じようなことおれも思いました。んじゃ、晴れて試用期間継続ってことで!」


 軽トラの助手席に乗り込みながら、草汰は笑い声をあげる。バイトを続ける理由はたぶん他にあったが、まだそれは曖昧模糊として、草汰にも形を掴ませなかった。



 *



 バイト先を出てすぐに会社帰りの父の姿を見かけたのは、昨年の端午の節句のことだ。自宅と大学の中間地点にあるコンビニは父の職場とは方向が逆で、父がいたのは意外なことだった。

 その日は澄み渡るような晴れの日で、草汰は浮かれた気分だった。明日、父も母も珍しく家に揃うと聞いていたからかもしれない。

 一人っ子とはいえ臆面もなく主張するのは気恥ずかさもあるが、草汰は家が好きだった。

 感染症のもたらす停滞と断絶に沈んだ後の世界では、余計にその思いに拍車が掛かっていたのだと思う。友達にろくに会えず、バイトで顔も分からないクソ客に罵られ、オンライン授業をひたすら受けるだけの渇いた日々。

 そんななかでただいまとおかえりを言える場所があるのは、奇跡みたいなことに思えた。

 草汰は好奇心に駆られて、父の後をつけた。

 いくつかの路地を抜け、父は大事そうに紙袋を抱えて小さなアパートに入っていった。

 間もなく、楽しげな子どもの声が聞こえた。二階の一室のベランダに勢い込んで駆けてきたのは、五、六歳の男の子だった。

 遅れて、父が女の人と連れ立って出てくる。

 父は、鼻歌を歌いながらベランダに鯉のぼりをくくりつけた。そいつは、見覚えのある愛嬌のある顔をした錦の魚だった。証拠に、子鯉の尻尾が破れている。いつか、ふざけて草汰が引っ張ったためについた傷だった。

 なんで、と思った。なんで、草汰の鯉のぼりが他人の家のベランダにあるのだろう。そもそも、なんで父は知らない女の人の家に押しかけて、母子らしき人たちもそれを当たり前のように受け容れているのだろう。

 母子家庭の知り合いのために、父がひと肌脱いだのかもしれない、と思おうとした。草汰だってあと二ヶ月もすれば二十歳になる。鯉のぼりに焦がれるちいさな子どもから、それを取りあげるような腐った大人じゃない。

 だけど、声が聴こえた。呼び声が。父を呼ぶ幼い子どもの声が。


 ——パパ。


 なんで、は洪水のように押しよせてくるのに、ひとつも音にはならずに草汰の全身を埋めていく。肉体も心も思考も記憶も、己を構成するすべてが作り替えられていく気がした。

 おれのものだと叫びたかった。それは、おれのものだ。おれだけの。

 けれども、やはりなにひとつ言葉にはならずに、その声のなりそこないは草汰の身体の内側で嵐となって荒れ狂った。

 草汰はそのまま家に帰り、二十歳を迎え、成人の日に真新しいスーツに身を包んで人生の節目ともいうべき通過儀礼を終えた。そうして、母から父との離婚を切り出されたのだ。

 驚きはなかった。

 草汰はもう大人で、両親の人生は両親のもので、口を出す余地などあるはずもなかった。

 父は男の子の母親と再婚が決まり、母は小奇麗なマンションに引っ越すことになった。

 両親には、どちらかと同居すればいいと言われた。でも、草汰はどちらの誘いも断った。

 もう、帰るべき場所など、この世のどこにもないように思えた。



 *



 息つく間もなく、二月二日がやってきた。

 草汰は今日も今日とて店中に目を光らせている。地味だが、これも付喪神対策の一環だ。

 モノが造物の神に身を委ねるには、己の身を傷つける必要があるらしい。例えば掛け軸が破れたり、三面鏡が割れたりすればアウト。だからモノの状態を記憶しておく必要があったのだ。

 店内は相も変わらずごみごみしている。洗練の欠片もない、家なき子たちの仮の宿。新顔の衣紋掛けは和家具が並ぶ通りで大島紬の訪問着を纏って、どこか誇らしげだ。

 今では少し、看守だなんて偽悪的なことを宣いながら、どうして世連がなんでもかんでも拾ってきてしまうのか分かった気がする。


「世連さんさ、もしかしてここにいる子たちの声聴こえるの? こないだ言ってた煙草を嫌がるみんなってこの子たちのことでしょ?」


 世連の表情がたまゆら凍った。観念したように、ふっと息が洩れる。


「俺はまあ、そういう家系だからな。古物商はそういう連中の巣窟だ。普通じゃない」


 “イカれた異常者”。初めて会った日に見た、この店の口コミが脳裏を過ぎった。


「そういう言い方、おかしいと思います。目の前にいる人を普通とか普通じゃないとかジャッジできるあんたは、何様なんだよって。だってその人はふつーに、そうやって存在してんのに」


 世連は束の間押し黙る。悪いと言いかけて、言葉を見失ったようにまた口を閉ざした。


「や、世連さんを責めたいんじゃなくて。おれが言いたかったのは、おれの前ではモノフェチ全開にしても大丈夫ってことです」

「は? モノフェチって」

「隠してるつもりなら、ガバガバ過ぎです。ダダ漏れなんすよ、愛」


 世連は分かりやすく目を泳がせる。

 世連はきっと、人に仇名すこともあるモノを大切にしていることに後ろめたさを抱いている。それはこの人の生真面目さゆえだろう。


「おれもさすがに殺人が好きとか言われたらいいねとは言いかねますけど、世連さんのはそうじゃないっしょ」


 世連は「ん」と素っ気ない返事をしながらも目のふちをきゅっと窄めて、その火照りを冷ますように二度三度と瞬きをした。


「ありがとう」


 その声があんまり柔らかいので、草汰はむず痒さに頭を掻き回してから言葉を重ねた。


「それに――」


 おれだって聴こえたし、という言葉は喉の奥で掻き消える。

 先日、草汰は衣紋掛けの声を聴いた。聴いたというか見えたみたいな感じだったが。あれはもしや『普通』ではなかったのだろうか。


「それに?」

「……いや、おれも、付喪神の声聞いてみたかったなって」

「まあ、強力な付喪神だと、一般人でも聴こえるやつはいるにはいるな。でも、聴こえないにこしたことはない。心に鬼を飼ってるようなやつにはとくに、聴こえやすいんだ」


 心に鬼を飼っている。なるほど、合点がいった。

 草汰はあのちいさな男の子から、鯉のぼりを奪い返すことも、びりびりに切り刻むこともしなかった。だけど、ちょっと状況がちがっていたらどうなっていたか分からない。

 たとえばあのアパートが一階にあったら。今この瞬間、あの母子が現れたら。草汰は彼らに危害を加えないと言い切れるだろうか。

 本当に悪いのは、妻子がありながら愛人をつくった父だと分かっている。あの母子を責めるのはお門違いだ。理性は草汰にそう言い聞かせてくるけれど、それを易々と捻じ伏せる暴力的な衝動が身のうちにある。

 衣紋掛けの見せたあの感情の正体を鬼というのなら、草汰の方がもっとずっと忌まわしく醜い鬼だった。


「――草汰?」

「んーん、おれ、先に仮眠とっちゃいますね。日付変わったら、決戦でしょ」

「バトル漫画じゃないんだがな」


 ほっとした様子で世連が笑う。草汰はひらひらと手を振ると、二階の自室に引っ込んだ。



 *



 ぽーんぽーんという振り子時計の時報の音が店内に響き渡る。時刻は二月三日午前五時。あと一時間と少し経てば、日の出という時分。すでに六体の付喪神を鬼からモノに帰し、戦況は停滞していた。

 世連は血の気の失せた顔で商品棚に両腕をついて、荒い呼吸を繰り返している。

 世連の数珠は『付喪神記』に登場する一連入道にまつわる品で、妙なる霊験を秘めているらしい。だから世連自身が超能力的ななにかを使っているわけではないのだが、身体に全く負担がないわけでもないようだ。


「だ、大丈夫っすか?」

「問題ない」


 言った傍から世連の身体がふらりと傾ぐ。


「言わんこっちゃねっすよ。休んでください」


 草汰は慌てて世連を助け起こして無理やりレジカウンターの奥の椅子に座らせる。


「異変があったら、ちゃんと知らせますから。そのためにバイト雇ったんでしょ」

「すまん」


 限界がきたのかゆるゆると世連の瞼が下りる。世連のために草汰ができることは殆どない。せめて休息の邪魔にならないようにと押し黙って、草汰はパトロールを再開した。

 そう時を経ずに違和感を感じたのは、認めたくはないがそれが草汰にとって特別なモノであったからにちがいない。


 鯉のぼりの箱に、亀裂が生まれた。


 草汰は世連の名を呼びかけて、口を噤んだ。

 こいつが鬼になるのを放っておけば、という考えが頭をもたげる。

 こいつを破壊し尽くせば、胸の内の虚ろな空隙は埋まるだろうか。それとも鬼になったこいつに骨まで残らず喰らってもらおうか。だっておれはきっと、この付喪神が鬼になった姿より、もっとずっと――。


 瞬間、ぶわりと闇がいや増す。聲が満ちる。

 馬鹿みたいだ、という聲が聴こえた。


 おれだけがあの家を愛していた。好きだった。愛したものなど疾うに消え果てていたのに。それなのに、おれだけが。ばかみたいだ。


 その聲は、果たして付喪神のものだったのか、草汰のものだったのか分からない。

 気づいたときには草汰はしゃにむに駆け出し、鯉のぼりの箱を引き寄せていた。刃のような風が斬りつけてきて、全身に痛みが走る。それにも構わず、草汰は腕に力を込めた。

 草汰には世連の数珠のような力はない。だけど、この手指の熱が僅かにでも付喪神に移って、その心に灯りをともしてくれるようにと祈る。


「馬鹿、どうして呼ばない!」


 神鳴りのように、声が閃く。世連だった。

 世連は草汰の掌越しに鯉のぼりに両手を添える。それからじゃらり、と魂に触れる音がした。

 付喪神の聲が和らぎ、店内に静寂が帳を下ろす。僅かに開いた雨戸から、頼りなく夜明けを告げる斜光が射している。

 世連は手早く草汰の全身を検分し、ほっと息をつくと静かに口火を切った。


「お前、鬼の聲、聴こえてたな」


 殆ど断定の言葉だった。草汰は項垂れたまま、成す術もなく頷く。


「言えなくしたのは、俺だ。悪かった」


 そう謝ったきり、世連はなにも問い質してこない。沈黙に堪えられなくなって、草汰は世連におそるおそる目を合わせた。


「……おれ、鯉のぼりにいやな思い出があって、こいつが鬼になればいいって考えました」


 ごめんなさいと、消え入りそうな声で言えばただ、二度とやるなと短い声が返る。

 ぶん殴られても文句は言えないと思ったが、弾劾でもなく、かといって赦しでもない戒めの言葉は、草汰の背骨を支えてくれた。

 それから世連は、懐から取り出したハンカチを草汰に押しつける。ピンク色のファンシーなキャラクターものだった。


「……なんすか、これ」

「貰い物なんだ。つべこべ言うな」


 疑問符を浮かべた草汰は、指先にほたほたとなにかが伝うのに気づいて頬を抑える。


「初めて逢ったときも泣いていたな」


 責めるでも揶揄うでもなく、世連が囁く。

 あれはガチでちがったんすよ、と否定しかけたが、後から後からこぼれてくる涙を拭いながらでは説得力はないにちがいなかった。

 へたりと床に座り込んだまま、草汰は世連を見上げる。静けさに融けてしまいそうな目をして、世連は打ち明け話を始めた。


「俺は、付喪神の声が全部聴こえるわけじゃないんだ。おそらく、淋しさが聴こえる」

「……さみしさ」

「人間のものは聴こえないが、あのときの草汰は、こいつらに似ていると思った」


 だからお前を雇おうと決めたんだ、とかさついた声で世連は続ける。


「この店にはどういうわけか、そういう思いを抱えた連中ばかり集まる。情が深いやつらだよ。俺はこいつらを、鬼にはしたくない」


 その言葉に草汰は無性に泣き出したくなる。

 ようやく腑に落ちた。どうしてここで働こうと思ったか。付喪神の脅威を目撃してなおここに居続けることを選んだか。

 おれはたぶん、ただただ淋しかった。ここにいる、数多の付喪神と同じように。

 鬼と紙一重の心を抱えながらこの人の傍にいるのは、微睡みを揺蕩うように心地が良かった。ぐちゃぐちゃに荒れ狂って一寸先も見えない暗がりじみた心に温かなしるべをともされてもう一度、生きていける気がした。


「お前の事情は知らない。言いたきゃ聞くし、そうじゃなきゃ聞かない。だが、どうあれここを家だと思ってくれてかまわない。うちで正式に働く気はあるか?」


 目頭が熱をもち、視界がぼやける。握りしめたハンカチの裏で草汰はずぴ、と鼻を啜った。


「……おれ、そうとうめんどくさいですよ」

「人もモノも、往々にして面倒なもんだ」

「今まで、何度も鬼になりかけました」

「でもならなかった。帰ってこれたろ」


 いよいよ反駁の言葉も尽きる。世連は、駄目押しのように淡く笑った。


「おかえり、草汰」


 節くれだった大きな掌が目の前に差し出される。

 草汰はその手に手を重ね、口を開く。

 返すべき言葉は、決まっていた。








【参考文献】

小松和彦『異界と日本人』角川ソフィア文庫

田中貴子『百鬼夜行の見える都市』ちくま学芸文庫

田中貴子・花田清輝・澁澤龍彦・小松和彦『図説 百鬼夜行絵巻をよむ (新装版)』河出書房新社

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