第27話・雨中模索、奔走

 旧暦五月を今の暦にすると六月の末である。

 果たして文禄三年当時の大和は如何なる気象であったのか、それを知るためには『多聞院日記』が有用である。しかし日本史の大家・故藤木久志先生が編纂された『日本中世気象災害史年表稿』が昨年十二月から東京大学史料編纂所によって公開されているので、ここで当時の大和に何か無いかを探してみる。

 すると同年五月から翌年にかけて、どうも雨が多く降ったらしい。何れも多聞院日記から見て取れるので、おって作中に反映させていこう。


「先年より殿がえがいておりました能舞台、来る六月八日に中坊なかのぼうにて執り行うと定まりました」


 五月のはじめ家宰の横浜一晏が高虎の館を訪ねてきた。一晏にとって高虎は舅に当たる。但馬時代に妻を強引に押し付けられたとはいえ、それでも妻の器量の良さと高虎の婿への気遣いは有り難く、何かと恨み妬みをかいやすい秀長の出頭人しゅっとうにんにとって、家中最大の家柄と武力を誇る高虎の存在は後ろ盾には十分であった。


「相わかった。そのように奈良町に触れたまえ」


「雨、止みませぬな」


 肴を運ぶ磯崎金七が話を振る。

 磯崎は佐和山城の麓から広がる内湖の浜堤磯の士で、父の刑部は村の湊に出入りする舟を厳しく見張る職をしていた。一晏が生まれた横浜村、つまり長浜からは舟路で通ずる。

 幼い頃に出家した一晏は、修行僧時代に村人と共に赴いたことがある。磯は万葉の歌枕ということもあり幼い頃から興味があった。磯崎刑部と知り合ったのはその際で、後から彼が幼子を抱えて藤堂家にやってきたときには、とても驚いたものだ。


羽長州うちょうしゅうが申すには、これでも作毛には足らぬと」

「その筈でしょう。もう少し降ってくれた方が作物には宜しう御座いますな」

「まあ六月の八日に降らねば良い話よ」

「祈祷でもさせましょうか?」

「いや。それには及ばんよ。寺の連中だ、そんなことを頼めば、どうせ祈雨祈願でもするだろうさ。こと武家相手には頼んだことと逆のことを祈願する。秀長卿の時もそうであったと、風聞が流れたものだ」


 舅はこのところ機嫌が良くない。

 南蛮の僧侶の言葉を借りると「えすとれす」という状態にあるのだろう。一晏自身も同じような感覚がある。

 思案していると高虎の顔が、はっと何か粗相をしたような表情に変わる。


「それでいくとだ。御母堂の具合は如何かね。この分の雨は病身には気が滅入ろう」

 横浜家はどうにも先年から病が流行っているが、母もまた患いの身になっている。

「何とか今は薬効で、ようやっております。ただ何時悪化するか、その先は見通せぬと医師に言われておりますから」

「左様であるか。良うなることを祈るのみだ」


 雨が降ることすら話題になる。それ程までに大和は穏やかな国だ。だが悪化した奈良町の治安、そして中央政権、二重政権との関係という懸案は、梅雨空が如き重苦しさがある。


 高虎の妙な重苦しさが的中したのは、それから少しした頃であった。


「何だこれは!」


 五月十七日の夕方、その日に発給された太閤殿下の朱印状が郡山に届いた。

 それは六月十日より多門を普請するというもので、具体的な動員数を示した「普請衆人数書上」が添えられている。

 問題は都合三万の「和州多門普請衆」である。

 人数は多い順で大和衆が一万、続いて羽柴北庄侍従(堀秀治)が六千。続いて聚楽第方の羽柴吉田侍従(池田照政)が五千、中村式部少輔(一氏)が三千、堀尾帯刀が二千四百。続いて村上周防守が二千三百。聚楽第方で秀次の筆頭家老田中兵部太輔が千六百。溝口伯耆守が千五百。聚楽第方の山内対馬守が千二百。伊賀侍従(筒井定次)が八百人。聚楽第派の渡瀬左衛門佐が七百八十。松下石見守(之綱)が三百六十とある。

 松下は遠江の大名である事を考えると、彼も聚楽第方として見ても差し支えないだろう。

 聚楽第方を数えると一万四千の動員となる。

 今に『秀吉文書集』を読むと、同時に彼らは伏見城の石垣普請にも一万三千の動員を指定されており、計三万弱の動員を求められていたことがわかる。しかし高虎たちの手元には多門普請の人数しか届いておらず、まだ知らぬことであった。


 高虎は当所の「郡山廃城問題」を蚊帳の外に、すっかり大坂と聚楽第の地殻変動に対する身の振り方に、この一ヶ月間を過ごしてきた。その間に多聞山再興計画を止めるための手立てを打たず、ただ出入りの商人菱屋に市中風聞の工作を頼んだだけであった。


「しまったな。すっかり別件に気を取られ、見過ごしていた」


 急ぎ行われた宿老衆の会議。高虎はただただ頭を下げる他なかった。


「如何するのだ佐州。これでは郡山の城が、潰されることが決まったも同然の結果であるぞ」

「左様。それに一万の人足なんぞ、何処から捻出するのかね」

「事が奈良町に知られれば、再び騒乱の種になるぞ。せっかくの能舞台も台無しだ。それだけは避けたい」

 桑山も本田も杉若も皆厳しいことを言うが、高虎は何も反論することが出来ない。下手を打ったものだ。こればかりはどうしようも出来ない。

 長らく権力に何も興味の無い顔をしながら、やっていることは権力の醸成という高虎の矛盾。見事に今日罰が当たってしまったのだろう。


 だが高虎自身にも自負はある。この無責任な中級土豪未満を出自とする宿老衆たちとは家格が違う。己は由緒正しき京極被官の血筋である。誰もやりたがらないことだけを、藤堂高虎は愚直にやってきたまでのことだ。


 そんな高虎の好き理解者羽田正親は斯様に宣言した。

「どうか今一度佐渡守殿、そして我が身に時をくれないだろうか。上手い具合に解決して見せようと思う」


 これといった手立ては存在しないのに、だ。

 兎にも角にも大和衆に郡山の御城を捨てる考えが毛頭無いことを、大坂及び聚楽第に訴えねばならぬ。そして聚楽第方は伏見の石垣普請も併せ三万の人足動員を要求されている。この心情に漬け込みたい。

 そのような私案を宿老衆に披露するも、誰も信用はしてくれない。

 なので、高虎は宿老衆を巻き込むことにした。


「時に下野殿。貴公は石治少の舅である。治少は太閤殿下の寵を一身に受ける御奉行にて、どうか舅の立場から此度の一件に諫言して戴きたい。聚楽第方へは当方にお任せ戴きたい。そして雲州殿には堀久……あいや侍従殿へ言上をば。また溝口伯耆殿へは手前の倅宮内少輔を差し遣わせましょう」


 溝口伯耆守は元々一高の父丹羽長秀に仕えた身分であり、一高を差し遣わせれば心も動くだろうという考えだ。

 兎角人の上に立つことで学ぶことは多い。何よりも人心というものには、嘆くことで満足し、実際に行動に移さない者が多い。

 太閤殿下、いや織田家の気風は、とにかくやることが大事であった。


「どうか! どうか大和宿老衆のお力を結集させ、郡山城を守り抜きとう御座います!」


 高虎とて下げる頭はある。

 亡き信長も太閤殿下も頭を下げて出世をしてきたが、高虎もまた同じである。もう何度頭を下げてきたことだろうか。

 ――果たして、どの程度が動いてくれるか。宿老衆の「本気」、そして藤堂佐渡守の人望が試されるというものか。




「何だね。近頃どうにも大和の宿老衆が、言葉を悪く言えばちょこまかと動き回っておる。羽長うちょう、藤佐、あれはどうにかならんのかね」


 五月の末が迫る頃、高虎と羽田は江戸大納言徳川家康の館に呼び出された。

 羽田と高虎は家康上洛以来の付き合いで、羽田は三河一向衆との折衝や今の江戸中納言徳川秀忠の上洛にも尽力し、高虎はこの聚楽第の居館建造で特注を加えたことで家康の知遇を得て、書状を通わせる仲となっている。


「はて大納言様。何か煩うことが御座いましたか」


 とぼけてみせる羽田に家康は続けた。


「ほれ御城の一件だ」

「恐れながら、此度の一件は豊家ほうけ内々の事情なれば、大納言様の御指導を賜ることは無く……」


「そう言うな藤佐。何だってわしも豊家の一員である事を、忘れてはおるまいか」


 その通り、家康は太閤殿下の義弟である。


義兄殿でんかと甥御殿の間にわだかまりが生じたとなれば、これは一族の者として手助けをしたい。更に言えば其方等も存じて居るように、此度の普請に関わる街道筋の大名衆というのは、わしが義兄殿より指導指南を頼まれている。それに奉行の浅野や治少が、あの者たちどうにかならぬかと、わしを頼るのだ」


 浅野弾正少弼と家康が入魂なのは、かねて人々の知るところであるが、石田治部少輔とも親しくしていたことには驚いた。恐らくは奥州仕置の折に誼を通じていたのだろう。


「そして何よりも、かつて亡き信長公は、甥御で藤佐おぬしの前の主たる七兵衛殿が大和を所望した際に、和州は塙も松永も滅び去った縁悪しき地とて一蹴したと聞く。我等は信長公からまつりごとを受け継いでおるのだから、この策は継承すべき事であろう? そうした先人の知恵を蔑ろにし、一時の病魔に惑わされることは、家が滅んでしまう。そのような和衆一党の心意気と懸念には、このわしも賛同するところだ」




 それにしても家康という男もまた、何処に目と耳があるのかわからない男だ。頼りがいもあり、恐るべき仁である。



「我等の心意気に賛同戴けるとは、有り難き限りにて。然れど田中殿や山内殿、中村殿の御指導指南というものは、大納言様の旧領三遠駿の経営に関わる部分での御指導なのでは?」

「否よ否よ。義兄殿は、その指導指南の範疇を定めていなかった。ならば、このわしが出張るのは自然な成り行きではないか。それに、無理な普請で、わしが面倒をみた民草が疲弊するのも耐え難いからな。羽長、藤佐。どうかここは、徳川家康に賭けてみないか」


「左様に仰るのならば、是非大納言様のお力をお借りしたいモのですが……」

 二人は思わず口を揃えた。


「何だね。ああ、どのようにするのか、か。案ずる勿れ、わしも数多の堅城を築いてきたのだ。策はある。例えば郡山の城に、かねて義兄殿が欲していた構を築く。これで城を厄から守る、そのように考えることも出来よう。無論其方等の銭の余裕や、隙が明かねば為せぬ事にて、時期を見計らい郡山に構を設けるとするのは如何か。そのように言上するのも良かろう」


 そのように言うと家康は息を吐いて語った。


「実はな、今、関白殿下の娘御が深い病でな。あまり下手な騒ぎを起こして欲しくは無いのだよ」

「医学に通じる大納言様が仰せになるというと……」

「羽長、言わせるかね」



 吉田兼見は五月二十六日、自身の日記に秀次の娘が亡くなったと記している。

 そうして多聞山再興に伴う郡山廃城の話は、五月以降ぱったりと立ち消えてしまった。

 

 ともかく薄氷、高所の綱をを恐る恐る渡り、大和衆は何とか秀保の能舞台開催に漕ぎ着けたのである。

 忙しなく働く合間に、気がつけば雨雲は何処か遠くへ去っていた。

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