第26話・文禄三年の政変(五)

 家中の空気は恐ろしいものである。彼らは自分たちが聚楽第の下に見られていることを強く意識をし、それに抗うための手段を欲していた。

 高虎自身が聚楽第への抵抗の意思を固めたとき、自らの権限を行使する専横を行う必要があるかと覚悟もしていたが、ここまで具しやすい雰囲気が醸成されているとは思わなかった。


「それはそれで怖い。少しは聚楽第派が居ても良いではないか」

 大坂への出立の直前、羽田へ思わず愚痴をこぼす。

「言うか佐州。聚楽第へ近いのは、其方が一番ではないか」


 確かに高虎は長氏を結節点として宮部家との縁がある。四国攻めの際には最後まで停戦に従わない高虎に、停戦を指示する書状を発給したのは他でもない孫七郎秀次であった。

 高虎の栄達に秀次卿の存在が見えることも確かであろう。

「そのような仁が、おかしいことはおかしいと、毅然と動く様が大和衆を結ぶのだ。それに佐州から借りている者も、逆に佐州に貸している者も居る。何れにせよ一蓮は托生というわけだ」


 そうした血縁、地縁、金の縁に加え、大和衆には旧畠山遺臣が見られるのに対し、聚楽第には旧三好遺臣という歴史的な因縁もあった。


「この因縁は何時まで続くのかね。我等が大坂へ傾くことが、更なる火種にならなければ良いと思うが」

「今更日和るかよ。もう後戻りは出来ないんだぜ。下手に甘い姿を見せてみろ、若い連中に命を狙われる」


 正親の言葉に、そこまでやる者は居るだろうかと感じる。然れども留守居の者が自ら命を絶つような、追い詰められた中小の侍たちは何をしでかすか。

 菟角二人は万事徹底を確認した。これまでのように老と取次を通さず他国と通ずるべからず、大坂聚楽への貸借の厳禁といったことだ。

 特に生活に不安を抱える中小の者には何れから貸借ある者も居るだろう。大坂登城の間に内々に調べさせよう。


 中納言が大和から来たる。

 この唐突な報せに慌てたのは大坂家中だ。当時太閤殿下の最も序列の高い側室京極龍子たつこ(西の丸殿)が眼に疾患を抱えており、有馬湯治に出掛けるため慌ただしくしていた。

 秀保が大坂登城の意思を表明したのは間もなくのことで、太閤殿下は共に湯治へ出たいのを堪えて泣く泣く龍子を見送り、自身は大坂へ留まったのである。

 お拾様と、亡き宰相こと小吉秀勝の妻に用があるなかで、藤堂の元々せんぞの主家に当たる京極氏の龍子が居ると、彼女に話を通さねばならぬ面倒があった。

 大和衆を出迎えた郡主馬は高虎の姿を見るなり耳打ちし、これ以上慌ただしくさせるなと苦言を呈する。

 だが先方を慌ただしくさせても、龍子不在の折に大坂登城する価値はあると踏んでいた。

 関白秀次との不和、龍子の病は、太閤殿下の心身を弱らせるであろう、と。そうしたときに太閤殿下の心をすくう行動を見せると、恐らくは歓心を買うであろうと大和衆は考えていた。


 太閤殿下は高虎たちの期待通りに、笑い飛びはね泣いて喜んだ。その姿は素であるのか演じているのか定かでは無い。

 恐らく計算高い大閤殿下の事であるから甥御と家臣たちの魂胆を存じて、演じているところもあるだろう。要は両者ともに互いの利益の為に腹を探り合うのだ。並の大名がやろうものなら不興を買うが、大閤は甥の中納言を愛しているし、身体の大きな高虎という存在も面白いとみていた。

 何分秀吉がかねて目をかけていた亡き織田信重の、数少ない家中生き残りが高虎であるからして、どうにも甘くなる部分があるらしい。それはこの小さき貴人の良心を利用しているようで心苦しいところもある。ただ不躾に出るべき場面があるのなら、今この時しか無いはずだ。

 一通り太閤殿下の独演会が終わると二ノ丸へ案内され、いよいよお拾様との御対面である。


 二ノ丸の館はかわいらしい犬の土人形が飾られていて、秀長に娘が生まれたときを思い出す。犬は安産多産と子育ての守り神で、魔除けとしても用いられるから、わざわざ郡山の城に方々から集めた記憶が懐かしい。

 二ノ丸殿、つまり秀吉の側室の一人である茶々、たまに淀の方、淀殿と呼ばれる仁は、朗らかに秀保一行を出迎えた。


「挨拶のほど遅れましてお詫び申し上げます。この度は若君様の御生誕ならびに母子の御健勝、まことおめでたき限り。この秀保、後方の頼もしき大和衆と共に身命を賭して若君様に尽くす所存に御座いまする」


 そのように恭しい口上の後に、高虎は長光の太刀と馬代の銀十枚を進上する。

 高虎も赤子を見ることが少ないでも無いから、二ノ丸殿に抱かれる若君の体格が同年代の赤子よりも勝ることは、瞬時に理解出来た。その一方で、総大将は軽々に戦場には出ない体制になっているから、何れはその体格を持て余すことにもなるだろう。とはいえ前途有望な赤子が如何に育つのか楽しみなものであるし、何よりも鶴松君のぶんも長く生きて欲しいと願う。今の秀保と高虎たちの動きは、この若君の長命に全てを賭けているのだから。


「して佐州殿は亡き岐阜宰相様もしくは中納言様の御内儀様に何ぞ所用があると」


 和やかな雰囲気に速水庄兵衛の姉が口を挟む。彼女は信重と共に大坂で晒し首となった渡辺与右衛門の娘で、母親の御たけと共に二ノ丸殿に仕えていた。渡辺与右衛門は若い頃から磯野員昌の内衆として活躍していた為に、二ノ丸の父浅井長政を裏切った立場である。それでも二ノ丸の信望を集めているのは、御たけが速水甲斐守の一族であったことによる栄達もあったが、一番の要因としては彼女らが北郡の血筋であったことも大きい。

 今にこの二ノ丸には幾人もの若者や女たちが忙しくしているが、この中で二ノ丸の父方にあたる北郡の浅井氏に連なるのは、侍女の母娘三人と渡辺与右衛門の妻子程度である。

 前者は浅井久政の異母姉にして浅井亮政の嫡女に当たる老女、彼女と海津の田屋明政との間に生まれた姉妹の三名。

 後者、渡辺一族には勘兵衛という浅井長政の母方である井口氏を結びつきのある武功のさむらいが居る。勘兵衛自身は紆余曲折を経て中村一氏の家中にあるため今ここに不在であるが、御たけと娘はその一族であることから、一応は井口氏に連なる浅井旧臣格として信頼されている。たとえ磯野員昌と共に父長政を裏切った立場であったにしても、だ。

 その御たけと娘は昔の馴染みで、今に大和宿老衆の筆頭である藤堂佐渡守という男と親しい。ここで御たけの娘がが切り出すのは、明らかに話が出来すぎている。


「左様ですか。それなら、わらわも同道したく」


 そのように言うと、藤堂の顔が若干歪みかけたのが見えた。

「いやはやお身体に障りまする」

「あら優しき御方。しかし二人目ですから、妹と姪御の間へ参る程度は大丈夫。ねえ?」

 二ノ丸は自らの乳母である大野の方に視線を向ける。その乳母は静かに頷いた。


「これは御姉様も、ええと、大和様の」

「お久しう御座います。藤堂佐渡守に御座います」


 亡き岐阜宰相小吉秀勝の妻は二ノ丸の末の妹である。二人の間に生まれた娘、つまり二ノ丸の姪は岐阜中納言秀信の妻として、二代に渡って岐阜の御台所として君臨する。とはいえ姪は未だ三つと稚い為に、実質的には妹が差配をする。だからこそ藤堂は彼女との対面を望んだ。


「単刀直入にお伺い致します。御方様は山田又右衛門が一件、存じておりましょう。此度、我が主が亡き宰相様へ預け置いた銀子を受取に参った次第に御座います」


「私めは存じておりませぬ。山田のこと、先の詮議で初めて知ったところで、当惑致す限り」


 妹は毅然に答える。その姿は亡き母のような強さだ。


「ええ。御方様が存じておいででも、存ぜずとも、此方としては良いのです。とかく御家の金周りを整理するためにも、お貸しした銀子をそのままお返しいただければ、その約束だけでも構いませぬ」


 妹は答えに窮する。事前に乳兄弟、大野の倅が調べるところ、確かに大和衆は山田又右衛門の身柄を求めては居たが、その詮議が終結した今は貸した銀子の回収を目的としているらしい。

 まさか、家中の頂きに居る藤堂佐渡守が直々に回収に訪れるとは、思いもしなかった。

 それでも二ノ丸は姉として、妹に助け船を出してやりたい。


「お待ち為され佐州殿。大和家の差配は内衆の横浜殿の職責ではありましょう。其方が斯様に出張るのは如何なる」


「御言葉ながら横浜法印は手前の婿に御座いますれば、舅である藤佐州が出張るのは、これは物の道理にて。尚のこと手前は中納言の手足。出張ることに理由などは要りませぬ。とかく亡き宰相様に生前お預け致した銀子を、そのままお返し願う一心にて」


「は、はて銀子、今に何処へあるのやら……」


 藤堂の声は大きい。その声に幼き姪御は怯え、侍女に連れられ居室から出た。幼子には酷なものである。


「山田又右衛門御折檻に関わる詮議の記録を読むに、又右衛門の罪状は我が主が宰相様へ御預けなされた銀子を、私的に取り与え三郎殿へ進上したとの由。況や三郎殿とは姫君が嫁ぎし岐阜の中納言殿のこと。これ即ち岐阜家中内々の儀にて、奥方様が存じ上げぬとは、とても理解が出来ぬところ。覚えが無いのならば、それはそれで結構な話。此方は公儀の書物に、確かに亡き宰相様へ銀子を預けたと認められております。我等は、それをお返し戴きたい。ただそれだけのこと」


「……銀子は、銀子は、詮議の後に奉行衆を通じて、然るべく様に取り計らいました。斯様に私めや娘を問い詰めたところで、出せるものはなく……」


 妹は嘘が苦手だ。つくのも耳にするのも嫌っている。しかし妹は嘘をついた。よほど追い詰められているか、山田又右衛門という亡き夫の側近を守りたいのだろう。

 わかりやすい嘘というのは人につけ込まれる。例えば身内の会話での戯言ならば、不慣れな妹の嘘というのは可愛いものだ。然し今日は相手が悪かった。


「恐れながら手前は御方様が生まれし頃をよう存じ上げております。この藤堂佐渡守、亡き浅井備前殿には幼少の頃より目をかけて頂き、姉川や宇佐山攻め、小谷城の攻防。その全てで武功を挙げた若き日の手前に、何度お褒めの言葉を預かり、感状や褒美の刀と真の恩人に御座いました。備前殿を思い出さない日は御座いませぬ。無論、奥方様がお生まれになった日のことも、よう覚えておりまする」


 よくもぬけぬけと嘘をつける。この男が今は吐いた言葉は嘘だ。藤堂佐渡守が生まれた土地、血族。その全てが浅井に抵抗する勢力ではないか。確かに父長政は、佐渡守の一族である九郎左衛門の私領を安堵したことはあるが、彼らは織田信長の上洛と共に呆気なく浅井から織田へ鞍替えした族だ。姉川もそれからの全ての戦いを、母方の一族多賀新左衛門と共に浅井長政を敵として戦っていたではないか。そして磯野員昌が高島に渡れば、その援兵として高島に居たではないか。

 それを、よくもまあ、自身が浅井長政に見出された存在であるかのように振る舞う。

 二ノ丸は暇さえあれば、老武士や信長の祐筆たちを捕まえて、あれこれ聴いていたので、誰がどのように戦っていたのか概ね把握している。それは純粋な興味、どのようにして父長政や信長が死ぬことになったのかを知る為でもあり、自身に取り入ろうとする不埒者を選別するためでもある。

 藤堂佐渡守の言動はそれにしても異様だ。


「今しがた奥方様は嘘をつかれた。しかし慣れぬことは滅多にやるべきではありませぬ。奥方様に嘘は似合いませぬ。嘘というものは、手前が今申したようにつくのです」


 姉妹は呆気にとられる。

 妹は嘘をついてしまった。家臣を守るために、自らが嘘という罪を犯してしまう。短慮であった。

 姉は、そのような妹を哀れに思い銀子を立て替えようと提案したが、藤堂は申し出を断った。


「此方としても、これ以上の借りは作りたくないもの。ご案じなさらずとも、銀子は手前が立て替えて御家に納めましょう。これで一件は落着と相成りまする」


 二ノ丸はぞっとした。妹は大和ひいては藤堂佐渡守に貸しを作ってしまった。それだけではない。恩をも買わされたのである。

 一体自分が子育てに忙しくする中で、城の外では何が起こっているのだろうか。二ノ丸は陰謀と諍いの微かな臭いですら嗅げなくなってしまった我が身を恨んだ。


 駒井日記は次のように記す。

「廿六日昨日御ひろひ様江 大和中納言様被成御対面、長光御太刀・馬代銀拾枚御進上之由」


 同じ日、聚楽第へ大坂登城命令が下る。これにより関白秀次は二十八日大坂へ登城、翌日帰洛している。

 秀保の行動が秀次召喚へ繋がり、これにより豊臣家の次期当主がお拾様と明確に定まった。

 しかし騒動はこれで収まらぬ。

 聚楽第には長幼の序を破った秀保へ報いを与えるべきであると息巻く仁が多くあった。

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