第30話「酒風呂」

「介護なら人手不足らしいから、応募すれば採用だろう」


 武田は介護施設の募集に応募した。

 すると、すぐに面接したいと連絡が来て面接となった。


 介護施設は人手が足りず、担当の職員の人にすぐにでも来て欲しいと言われ。一応、施設内をまわり、どんな仕事かを見ることになった。

 武田が職員の人と施設を歩いていると、お婆さんが、武田に向い「返して!」と叫んだ。

 武田は、このお婆さんとは初対面でわけが分からなかったが、お婆さんは、武田にすがりつき「返して! 返して!」と泣きながら叫んだ。


「すいません、認知症の症状のひとつで、誰かに自分の物を取られたと思い込むのがあるんです……」


 武田は、自分には無理だと思い介護の仕事はあきらめた。

 そんな時、電話がかかって来た。前に面接した酒の工場からだった。

「もしもし、遅くなりましたが採用に決まりましたので来月から来てもらえませんか?」

「は、はい。採用ですか……ありがとうございます」

「来月1日、朝8時に会議室に来て下さい。守衛の人には名前を言えばわかるようにしておきますから。今回は3名入社になります。朝、簡単な説明をして、すぐに仕事に入ってもらいますので、服装は背広ではなく普段着でいいですから」

「は、はい。わかりました。1日の8時ですね」


 酒の工場の人事からの電話で、面接してから1ヶ月もたっていた。


 ずいぶん遅い返事だな。

 普通は面接して1日から3日くらいには返事だろう。

 とにかく再就職は決まった。

 年金がもらえる65歳まで働けたらいいな……

 そうだ、パソコン教室に電話したほうがいいな。


 職業訓練のパソコン教室は、卒業後の3ヶ月間は就職の状況を報告しなければならないのだ。


「もしもし、私、職業訓練を卒業した武田と申します。このたび就職が決まりましたので報告の電話なんですが……」

「あらーっ! 武田さん。就職が決まったんですか、おめでとうございます!」

 担任だった山口先生が偶然、電話を取った。

 若くて綺麗な先生なので、就職が決まったことで褒められ、武田はデレデレで、鼻の下が伸びている。


 よし、なんとか3ヶ月以内に就職が決まった。職業訓練も卒業後の就職率が悪いといろいろとまずいらしいからな……


 ❃


 夕方、早坂さんの健康法教室。

「早坂さん、僕もやっと就職が決まりました」

「それは良かったですね、おめでとうございます。それで、どんな仕事なんです?」

「酒の工場です。凸凹でこぼこ酒精」

「あ〜っ、あそこ。知ってますよ。大きな工場じゃないですか」

 早坂さんも、武田の就職を喜んでくれた。


 凸凹酒精は古い会社で、市内の人ならたいてい知っている会社だった。


「武田さんが酒の工場に就職したのを記念して、今日は酒風呂の話しをしましょうか?」

 今日の早坂さんの健康法教室には、武田と娘のマナミ、孫のタケシだけであった。


「酒風呂ですか、聞いたことはありますが本当にあるんですか?」

 武田が半信半疑でたずねる。

「酒風呂と言ってもお酒を沸かして入るわけではないんです。普通のお風呂にお酒を入浴剤として入れるんですよ」

「なんだ、僕はてっきりお酒の中につかるのかと思っていましたよ」


「昔の中国で、高貴な女性がお酒のお風呂に入っていたという話しはあるようですが、そんなに濃い濃度じゃなくていいと、思います。むしろ100%の酒風呂は危険だと思いますよ」

「そうですよね、急性アルコール中毒なんてのもあるくらいですからね」


「酒は百薬の長と言われるくらい効くようですが、やはり限度があるでしょう。一般的な浴槽なら、だいたい1リットルくらいじゃないでしょうか?」

「早坂さんも酒風呂に入っているんですか?」

「いや、いや、酒をお風呂に入れるなんて、私のような食糧難の時代を過ごした者にはバチが当たるようで、なかなか入れません。お正月とか、なにかのお祝いの時くらいですよ」


「そうですよね~ やはり抵抗がありますよね」

 武田もお酒をお風呂に入れるのは、もったいないと思っていた。


「でも、例えば、お風呂に1リットルのお酒を入れて家族3人で楽しむと、安いお酒なら500円くらいなんです。温泉やスーパー銭湯に行くより安いんです」

「500円ですか。それならいいかもしれませんね、それで、その、酒風呂は何に効くんですか?」


「体を温めるのと、毛穴の汚れも取れるみたいですね。じつは、私もそんなに実感はないんですけど、体質的に合う人はいるようです。今日は、お風呂と言うわけにはいきませんが、足湯にお酒を入れてみましょう」


 早坂さんがタライとイスを用意して、マナミとタケルがタライに足を入れた。

 タライの中には、お風呂より少し熱い42度くらいのお湯が入っている。その中にコップに半分くらいのお酒を入れた。


「酒風呂って女性も入っていいんですか?」

 マナミが早坂さんにたずねる。

「それは、もちろん大丈夫だと思いますよ。昔の中国の宮中に居る女性が綺麗になるために酒風呂に入ったというくらいですから、ただ、私はあまり酒風呂を研究してないので加減がわからないんです。なんせ、貧乏症ですから……はははははっ」

 少し照れながら話す早坂さん。


「あたし、冷え性なんです。足が冷えて眠れないこともあるくらいなんですけど、これは、そういうのにも効きますか?」

 マナミがたずねる。


「いいと思います。具体的にはわかりませんが、ふとももをもむのと、足湯や酒風呂は足の循環を良くしてくれるでしょう。最近は酵素の入浴剤で体を温める物もありますし薬草もいいです」

「薬草ですか……」

「薬草と言っても大根の葉やヨモギですけどね」

「大根の葉ですか……お風呂に入れるんですか?」

「大根の葉は陰干しして2週間くらいだったかな? 干した大根の葉でないと効かないようです。それを鍋で煮出して汁をお風呂にいれるんです。昔から冷え性の人に効くと言われていて大根風呂とも言われています。私は真冬でも素足にスカートの女子高校生は冷えが大丈夫なのかと心配してますよ」


「あたしも高校時代は氷点下の気温なのにスカートに素足でした……」

 マナミは高校時代を思い出している。


「足を冷やすとお腹も冷えるので免疫の異常やミトコンドリアに異常が出ると大変ですよ」

「ミト? なんですか、それ……」

「学校の授業で習ったと思いますよ。細胞の中にいる生物でゾウリムシみたいなやつ。本当はミミズのように細長いんですけど」


「あ〜っ、あれかな? 何となく見たような?」

 学校の授業で見た図が頭の中にぼんやりとあるマナミ。


「人間はミトコンドリアと仲良くしないと生きていけないんです。ミトコンドリアを怒らせると治りにくい病気に苦しめられますから」

「そんな恐ろしい物ですか……」


「仲良くすれば助けてくれますよ」


「どうすれば仲良くなれますか?」

「ミトコンドリアは暖かいのを好みます。ですから体を温めることです。今やってる足湯もミトコンドリアのためみたいなものです。昔、酒風呂や薬草風呂を使って自己免疫疾患や難病を治す、凄い仙人もいたんですけど……」


 タケルがもう暑いとタライから足を出した。

「子供は体が小さいから大人より短い時間で温まりますから、足をタオルで拭いて冷やさないようにしましょう。足湯は寝る前にやるといいんです。せっかく足湯をしても、そのあと冷やしてしまうとかえって悪くなったりしますからね」


「早坂さん、ミトコンドリアについて、もう少し教えてもらえますか?」

 マナミはミトコンドリアに興味が出てきたようだ。


「いいですよ。でも、私も本で読んだり聞いた話しなので本当にそうなのかと言われたら分かりません。なんせ、電子顕微鏡で見るような物ですからね。研究者もよく研究したもんだと思いますよ」

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