化粧なんてするもんか

緑川えりこ

化粧なんてするもんか

化粧なんてしない。

どうせ、帽子とマスクで目元しか見えてないんだし。

神吉はづきは今日もすっぴんで出社する。

はづきは、老人ホームの厨房で調理師として働き始めて7年になるが、化粧する意味を見いだせずにいた。

最初の3年間は化粧をしていたはずだけど、それも今では遥か昔のようだ。


「神吉さんってさ、化粧しないの?」

厨房で働いている2つ年上の溝口みぞぐち泰介たいすけが切り込み作業中に聞いてきた。だが、溝口の顔は相変わらず玉ねぎと向き合ったままだ。物凄いスピードで包丁を動かしている。気持ちいいくらい均等にスライスされた玉ねぎがボウルへと落ちていく。

「切り込み中は危ないので、話しかけないでもらってもいいですか」

同じくはづきも溝口に顔も向けず、ピーマンと向き合いながら言葉を投げ返した。

溝口は、年上だがこの厨房に来るのははづきよりも3年ほど遅かった。ここに来る前は、どこかのホテルで働いていたと自分で話していた(質問した覚えはないけど)。

「じゃあ、ちょっと休憩しよう」

「いえ、私は大丈夫です」

溝口の提案をはづきはさらりと受け流した。

「溝口さん、神吉さん!コーヒー置いておきますね」

はづきの3つ下の後輩である奥野おくの奈美なみがコーヒーの入ったマグカップを、切り込み中のはづきと溝口の元へと運んできた。

「ほら、コーヒーも来たことだし、ちょっと休憩しようよ。奥野さん、ありがと」

溝口は奈美に人懐っこい笑みを向け、さっそくコーヒーに口をつけていた。

「奈美ちゃん、いつもありがとう」

続けてはづきも笑顔で奈美にお礼を言うと、「どういたしまして」と奈美は、素朴で可愛らしい笑みを残して、再び切り込み室から厨房の方へと戻っていった。

はづきは一口だけコーヒーを飲むと、早々とピーマンの元へと向かった。

「ちょ、神吉さん!もう少し休憩したら?俺らふたりだったら、今日分の切り込みなんて、あと30分は休憩しても終わるよ!?」

溝口は、壁にもたれて、優雅にコーヒーブレイクを楽しんでいるように見えた。「あ、さすがに30分も休憩なんてしてたら水野みずの栄養士に怒られるかぁ」なんて悠長に笑っている。

私だって休憩したいけど、アンタとペアだから早くこの作業を終わらせたいんだっつーの!

という心の声なんて言えるはずもなく、はづきは再びピーマンを千切りにしはじめた。

「……神吉さんってば仕事熱心だねぇ」

仕事熱心、ね。そりゃあ、アンタとしたくない話をするか、仕事を片付けるかの2択だったら一切の迷いもなく仕事をとるっつーの。

という心の声も、やはり言えないのだが。




「だから!アンタに何でそんなこと教えなきゃならないのよ!」

もちろん、このセリフも心の中で叫んだつもりだった。

しかし、目の前の男――溝口の驚いたような顔を見る限り、どうやら声に出てしまっていたのだろう。

遅番の帰り、再び溝口と2人きりになったときにあの質問が飛んできた。

「やっぱり気になる。なんで神吉さんって化粧しないの」

更衣室で着替え終わったあとに面と向かって言われた。

その直後、どうやらはづきは先ほどのセリフを溝口に言い放ってしまったようだった。

口に出してしまったことに動揺したはづきは咄嗟に下を向いた。

先輩にアンタはないだろう、いやでも、さすがに前にこれ以上聞くなオーラを出した質問をもう一度投げてこられたら、心の声も漏れるよね。

もういっそ、全部ぶつけてしまうか、私の気持ち。

「ごめん、気付付けるつもりじゃなかったんだ」

はづきの上から降って来た言葉には、ほんとうに謝罪の色が混じっていた。

「……化粧しないのか、するのか、っていうのが本当の質問じゃなくて」

本当の質問じゃない?何を言っているんだコイツは。

「化粧した姿……それを見せる相手がいるのかどうかっていうのが本当の質問で」

「は?」

顔を上げてはづきがまず口にした言葉。それには純粋な疑問の色、1色のみ。

「神吉さんに恋人がいるのかどうか知りたかったの!」

「いません」

即答だった。むしろ溝口に被さる勢いで出た。

馬鹿なのか。この男は。そんなこと聞きたいんなら……

「最初から、そっちの質問投げかけて来いよ」

ちゃんと口に出た。いや、今度は意志を持って口から出したのだ。

「え、いや……ごめん」

溝口は、見るからにしゅんとなっている。

「溝口、さんこそ、水野栄養士のこと好きなのになんで私にそんなこと聞いてくるんですか」

「は?」

今度のは?は溝口から出たものだ。こちらも疑問の色、1色のみ。

だが、はづきにはなぜ疑問の色のは?なのかが分からない。

「だから、水野栄養士のこと好きなくせになんで、私にそんなこと聞いてくるのかって聞いてるの」

「ちょっと待って。俺、水野栄養士好きとか言った?」

食い気味かつ、焦ったように溝口が言う。

「……やけに親しそうじゃないですか」

そう。やけに親しそうにしてるくせに。見せつけてくるくせに。

化粧しても無駄だって思ったからじゃん。化粧しても、あんな綺麗な人に勝てる自信、私にはなかった。

「あの、水野栄養士……水野美奈穂は、俺の従妹だから……親しそうっていうか、親族だし」

親族。そうか、親しい族と書いて、親族……。

多分、正しい意味ではないのだろうけど、今はそんなのどうでもよかった。

「え、なに、もしかして、神吉さんも俺のこと好きだったと思っていいの?」

「は!?好きとか一言も言ってな……」

ん?この男、今なんて言った?

俺のこと好きだって言った?

いや、その前だ。

神吉さん……「も」。

はづきは、自分の顔に体全部の熱が集まるのを感じた。

「俺も、はづきちゃんのこと好き」

溝口は、あの人懐っこい笑みをはづきへと向けた。

マスクも帽子もしていない溝口の顔は、頬の紅潮も耳の赤さも、心の中からの喜びも何一つ隠しきれていなかった。

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