燃える絵空事

及川盛男

本編

 部屋に入るや否や、漫画雑誌を机に広げている男を見て安野は深々とため息を吐いた。


「高石、お前またそんなものを読んでいるのか」

「まずお前は、入ってくる前にノックをしろ」


 雑誌から目を離さずに応える高石。その目は真剣そのもの――などと言うことはなく、トロンと緩んで目尻がだらしなく垂れ下がっている。机に近づき雑誌の中身を覗き込んで、安野は眉間の皺を一層深くした。


「……これで読んでいるのが青年誌だったらまだ救いがあるものを、なんだって萌え萌え四コママンガをその歳にもなって読んでいるんだ」


 そのページは、可愛らしい女性のキャラクターが別の女性キャラと一緒にカフェでパフェを食べて、大げさに喜んでいるシーンだった。前後の文脈は安野の知るところではないが、別に知る必要性も感じられなかった。


「失礼な奴だな」


 ようやく高石は顔を上げた。憮然とした様子で、


「俺は恋しているんだよ。そんな風に茶化さないでもらえないか。休憩時間も残り少ない、この後はアニメも見なきゃいかん」

「そんな萌えキャラに熱を上げて年甲斐もない、いつまでそんなことを続けるつもりだ?」


 見れば高石のパソコンのデスクトップの壁紙も、彼が今夢中になっている漫画のキャラクターに設定されている。高石は鬱陶しそうに、


「愛の形は人それぞれだろう」

「愛? そんなのただの絵じゃないか。単なるピクセルやインクの集合だろう、お前とコミュニケーションが出来るわけもない。そんなのとどうやって愛が成立するって言うんだ」

「俺たちだってタダのタンパク質と水分の塊だろう。それにコミュニケーションの話ならな、俺たちの間でだって本当のコミュニケーションが成立しているかどうか厳密には分からないじゃないか。自分が話している相手に真の意味で意識があって、それに基づいてやり取りしているかどうかなんて、どうやって証明できる? 哲学的ゾンビとか、中国語の部屋って奴だ」


 したり顔で高石が挙げたのは、両方とも意識に関する哲学の話題だ。すぐこうした衒学に走るのは高石や安野の世代の悪癖だった。安野は首を横に振る。


「意識が本当にあるかどうか、だって? そりゃ哲学的には俺たちはどちらか分からん状態かもしれんが、アニメや漫画のキャラは百パーセント意識なんてものが無いと断言できる。その時点で絶対的な差があるだろうが。二次元のキャラはどこぞのおじさんが考えたセリフを喋っているだけじゃないか」

「それに対しては有名な反論がある。『三次元の人間だってどこぞのおじさんから生まれているんだ』、とな」

「そういう事が言いたいんじゃない。二次元キャラはおじさんに決められたシナリオ通りにしか動けない。例えば俺の娘が、俺の書いたシナリオやセリフ通りに動くか? 違うだろう」

「どこが違うんだ? さっきも言ったが、俺達の感情だって、所詮タンパク質の中で発生する電気信号にすぎない。全部科学の方程式で計算できるものだ。本質は決定論だよ。例えば今俺たちがこうして議論している様子を見て――」



「おいおい、また萌え三次元漫画を見ているのかよ。そんなの、ただの古典素粒子の集合じゃないか」

 三次元世界を覗き込んでニヤニヤしている四次元人に、別の四次元人がそう突っかかった。

「良いだろう別に。それを言ったら、俺たちだってタダのテセラクトと重力子の塊だろ」

「こいつらの振る舞いなんて、どこぞのおじさんが考えて設定した力学法則通りに所詮決定論で導けるものだろう」

「いやいや、そういうことじゃなくてだな――」



「と、この宇宙を創り出した四次元人がこんな会話をしているかもしれない」


 大真面目な顔をしてそう言い放つ高石。この男のこうした瞬発的かつ突飛な言説が今の彼ら二人の地位を築くのに一役買ってきたわけだが、こうして一人で相対せねばならないとなると面倒なことこの上ない。安野は疲れ切った表情で肩を竦める。反論がないことに気を良くしたのか高石は畳み掛ける。


「いいか、現実が決定論だからといって、愛や恋が幻想だなんて言いたいんじゃない。それでも人々は、愛や恋を信じることを諦めていないじゃないか。俺はそれを美しいと思うし肯定する。だからお前にだって、俺と彼女との愛が成立することを諦めずに肯定してほしいんだ」


 そう言いながらモニターを撫でる高石。その目はうっとりとしている。


「ああ、分かった分かった。お前の熱い想いはよく理解できたよ。だがな。お前がいつ迄も所帯を持たずに居るせいで、色々困った反応も起きている」


 そう言って高石は資料の束を机に置いた。それこそが彼の本題だった。安野は訝りながら手に取りペラペラとめくったが、段々と顔を強張らせていく。


「内閣官房の調査結果だ。週刊誌もSNSの反応も、旗振り役のお前が独身であることに疑義を呈しつつある。愛は成立するかもしれないが、二次元キャラとお前は結婚できるのか? 戸籍も無いのに、出来ないだろう。この国の未来のためにもいい加減公人としての立場を弁えて、戸籍ある生身の人間との結婚でも真剣に考えてくれないか。そうすれば政策にもより説得力が出るというものだ」


 資料が効いたか、それとも安野の説教が沁みたのか、高石の反論が止まる。本革の椅子を軋ませながら、しばらく考え込むように手を口元に当てる高石。その様子を、手を後ろに組んで見守る安野。


 やがて、高石が口を開く。


「……なるほどな。そうか、分かったぞ」

「おお、ようやく分かってくれたか」

「ああ。俺の結婚も、この国の問題も一挙に解決する、画期的なアイデアを思いついたよ」

「なんだ、言ってみろ」

「いや、機密だ」

「はあ?」

「言ったら絶対不興を買うだろうからな」


 あっけらかんと無茶苦茶なことを言い始める高石に呆然とする安野。


「お前、そんな明らかに不味そうなものが、この国で通ると思っているのか?」

「それを通すのが職権というものだ」

「……俺は止めたからな。あと、くれぐれも俺を巻き込んでくれるなよ」


 これ以上は付き合いきれない。よっぽど自分の案が気に召したのかニチャニチャと一人笑う高石を残し、安野は執務室を後にした。



二〇XX年十一月三日 読朝新聞 朝刊 一面 

戸籍の大規模改ざん 首相は関与を否定 架空人物との婚姻については言及避ける


 J国の戸籍簿及び住民票などにおける大規模な改ざん問題で、高石首相は二日の臨時国会において「自らの関与は全くありえない」と述べ関与を改めて否定した。他方、架空人物の一人が首相と戸籍上の配偶者となっている点については「心当たりがない」とし、言及を避けた(注:本紙はこれまで同問題を『書き換え』としてきましたが、故意的な改変であることが最早自明であることから、以降『改ざん』として報じます)。


 この問題は、J国の戸籍簿や住民票などについて実在しない架空の個人の情報が大量に登録されていることが判明したもの。人数は現在判明しているもので三十四人分だが、一部報道では数万人以上に及ぶとの指摘もされており、影響の範囲は未だ不明。人口に関する情報は国の基幹統計の中でも基本かつ最重要とされ、その正確性に重大な疑義が生じたことは各界に波紋を広げている。また読朝新聞の調査で三十四人の架空人物の内の一人について、高石首相との婚姻届が受理され戸籍上の配偶者となっていることが判明しており、事態へ首相が関与している可能性が指摘されていた。


 高石首相はサブカルチャー方面への造詣が深くその自由闊達な言説が国民の広い支持を得て一昨年に首相就任、その後各種の少子化対応政策を実施し、自身も昨年に婚姻を発表。今年六月に発表されたJ国の出生数が二〇一五年以来X年ぶりの回復基調となったことから人気を盤石なものとしていたが、それが架空の出生届によるものであった場合前提が大きく揺らぐことになる。専門家は、「人口の情報は国家の最も根本的な統計であり、我が国のみならず他国の政策決定やその実施、経済活動にあらゆる側面で影響する最重要情報。民間企業のデータベースならまだしも現代の先進国家でこのようなことが明るみとなるのは前代未聞で、有形無形含めどれほどの影響が出るか到底計り知れない」と話す。


 安野官房長官は定例記者会見の場で、「単純な事務処理ミスの可能性から、組織的な我が国のデータベースに対する攻撃の線までを含めて、あらゆる可能性を排除せずに原因調査を進める」として、緊急調査対策本部を立ち上げることを表明した。その上で「架空人物は(首相が好きな)アニメや漫画のキャラクターを参考にしたような支離滅裂な情報で(戸籍簿等に)登録されており、現行の政策に対し反対的な勢力による妨害の可能性も否定できない」と述べた。首相の関与の可能性について問われるとしばしの沈黙の後、「そのような絵空事も含めて、排除しないと言うことだ」と、首相同様に直接の言及を避けた。事態を受け東京地検特捜部は――


(了)

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