第3章 冷たい死神

第8話 輪転01

 ターニャは駆けた。自慢のピンヒールも捨て去って森を駆け抜ける。その姿は俊敏な獣そのものだった。やっとの思いで森の外れまで来ると廃屋はいおくへ転がりこむ。


──このわたしがサルのように森を逃げ回るだなんて……。


 汗と泥まみれになった自分の姿を想像してターニャはこめかみに血管を浮かべた。美しいはずの自分が追いこまれた獣のように逃げ回る。これも全てはダヴィデ……いや『狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタイン』のせいだ。


──絶対に許さない。ビッグシックスの幹部会にかけて『狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタイン』を皆殺しにしてやる!!


 のろごとは尽きない。ターニャはドレスの懐から銀色の細長いケースを取り出した。ケースには小さな注射器が3本ほど入っており、緑色の液体が見える。


 この液体は『緑の深淵ウル・ヴィディス』と呼ばれる魔薬であり、常人離れした身体能力と魔力を一定時間、もたらしてくれる。そのおかげで、ここまで逃げ切ることができた。


 腕に浮かび出た血管に注射針を刺し、『緑の深淵ウル・ヴィディス』をゆっくりと打ちこむ。次第しだいに全身の汗が引き、高揚感と戦闘意欲が湧いてくる。常人が使用すれば即死する魔薬も、特異体質のターニャにとっては立派な魔導武装だった。


──こうなったら戦争よ!! ダヴィデにニコラ、楽しみに待ってなさい……。


 ターニャは辺りに気を配りながら廃屋を出た。素足で熱い砂を踏みしめながら進んでゆく。周囲は砂ぼこりにまみれた廃村といった雰囲気で、他にも崩れかかったレンガの家が見える。


──!?


 すぐに、ターニャは視界に違和感を感じて立ち止まった。雑草が生い茂るすたれた畑……その周囲を取り囲む鉄柵の上に女が腰かけている。女は金髪のポニーテールで、真っ赤なヘッドフォンで音楽を聴いているらしかった。


──……敵ね。


 直感がそう告げている。ターニャは用心深く女へと近づいた。すると、ターニャの気配に気づいたのか、女はヘッドフォンを外して顔を上げる。目鼻立ちのハッキリとした美人で、悲しげな眼差しをしていた。


「あなたは誰? もしかして、『狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタイン』の一味かしら?」

「……」


 ターニャが尋ねると、女は答える代わりにストンと鉄柵から飛び降りた。その手にはいつの間にか両刃もろはのナイフが握られている。


──ダガー? ……魔導武装ね。


 ターニャは身構えながら周囲に女以外の気配がないことを確認した。


──銃を持った部下を連れていない……コイツはバカな自惚うぬぼか相当な実力者。まあ、どちらにせよ嫌いなことに変わりはないわ。


 奇襲を受けた今は、どれだけイラついていようが逃げることが先決だ。報復なら後でいくらでもできる。


「問答無用ってわけね……それなら、戦ってあげるわ。わたしもイラついてて……ちょうどらしがしたかったの」

「……」


 女は何も答えない。無造作にターニャとの距離を詰めてくる。ターニャは言葉とは裏腹に、逃げる算段を頭の中で組み立てた。


──ダガーが魔導武装なら、きっと剣撃けんげき刺突しとつを飛ばしてくるタイプ。遠距離攻撃にさえ気をつければ、余裕で逃げ切れる。


 ダッ!!


 ターニャは直線的に向かってくる女を避け、近くの納屋へと向かって駆けだした。そして、サルのように壁をつたって屋根へ上る。振り返ってみると、女は歩みを止めてこちらを見つめていた。


──パッとしない女ね。買いかぶり過ぎたかしら……。


 ターニャには女の緩慢な動作がボンヤリとして見えた。


──まあ、いいわ。このまま逃げ切るだけよ。


 気を取り直して屋根から屋根へと跳躍する。その時だった。


──え!?


 屋根へ着地しようとしたターニャは足の感覚が無いことに気づいた。見ると、両足の膝から下が切断されている。



「ッッッ!!??」



 ターニャは何が起きたかわからないまま、大量の血をまき散らしながら地面へと転がり落ちた。地面に叩きつけられ、激しく頭を打つ。



「わた、わたしの足が……」



 『緑の深淵ウル・ヴィディス』のせいで痛みはない。しかし、血の気がどんどんと失せて、頭の奥が痺れ、意識が朦朧としてくる。ターニャは上半身を起こすと、地面に転がる自分の足へと向かって這った。


「も、もう一つは……」


 混濁する意識の中でターニャは敵のことを忘れていた。今は自慢の美しい足を探すことしか眼中にない。


「あ、あった……」


 ターニャは細くくびれた足首をつかむと安心した表情になり、そのまま息絶えた。



×  ×  ×



 ターニャが女を遠距離攻撃型だと想像したことは正しい。しかし、その攻撃範囲を見誤っていた。女が逃げるターニャへ向かってダガーを振るうと、剣撃は空気を切り裂いてターニャの足を襲った。


「……」


 女は無残に転がる遺体まで歩くと静かに見下ろす。おびただしい血が周辺に飛び散り、ターニャの膝下からはまだ血が噴き出ている。


「……ごめん」


 女が呟くと見計みはからったかのように廃村へ黒塗りの高級車がやって来た。車は女の近くで停まり、中から巨体を揺らしてダヴィデが出てくる。


「レイラちゃーん!! どうだったのぉ??」

「……」


 佇む女は……レイラは無言でターニャの遺体へと視線を送る。レイラの視線を追いかけたダヴィデは思わずサングラスを外した。


「さすが『狂信者たちの聖夜ギル・デ・バレンタイン』の冷たい死神メル・デロサ!! 死体までもが超アート!! 超クール!!」


 ダヴィデは感動した様子ではしゃいでいる。そして、満面の笑みでレイラを車へといざなった。


「レイラちゃん、お疲れ様!! イベント会場まで送るわ!! ホラ、アンタたちボサッとしてないでレイラちゃんを褒めたたえなさいよ!!」

「「レ、レイラさん、お疲れ様です!!」」


 ダヴィデの大声が響くと運転席と助手席に座る部下が慌てて頭を下げる。レイラは薄く微笑み返すと、後部座席に座って再びヘッドフォンをかけた。

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