第2話 ネオ・カサブラン02
ニコラ・サリンジャーは怒らない。どれだけ理不尽な扱いを受けても不平不満を言わず、黙々と仕事をこなす。普通なら尊敬されるだろうが、ニコラの場合は違った。ヴィネア市役所の役人たちは、『コイツには何を言っても、何をしても大丈夫だ』と思いこんだ。
いつの間にか、役人たちはニコラに理不尽な
それでも……。
ニコラ・サリンジャーは怒らない。怒りの片鱗すら
× × ×
「もう、こんな時間か……」
音楽機材の搬送、設営、そして苦情の受け付けまで……ニコラが市役所に戻って来た時、時刻はすでに午前0時を回っていた。官舎でシャワーを浴びると、再び汗と泥に
「いい夜だなぁ……」
ニコラは大きく伸びをすると音楽祭で賑わう街中へ向かった。そして、歓楽街までやって来ると雑踏を離れて裏路地へ足を進める。そこには真っ黒に塗装した高級車や馬車が何台も並んでいた。
ガチャリ。
一番大きな高級車のドアが開き、中から大柄で彫りの深い顔つきの男が降りてきた。男は派手な金髪で、左右のもみ上げを思いきり刈りこんでいる。ピンク色のスーツにグレーのチョッキを着て、腰には一目で魔導武装とわかるトンファーをぶら下げていた。男は険しい表情でズンズンとニコラに近づいてゆく。
「お帰りなさい、ドン・ニコラ!!」
突然、男は満面の笑みになり、両手を思いきり広げた。その爪には紫のマニキュアがベットリと塗られている。ニコラは苦笑いを浮かべて抱擁を受け入れた。
「ダヴィデ、目立つ出迎えはやめてと言ったのに……」
「何を言ってるの!? わたしたちのドンが家に帰って来たのに、喜んじゃいけないの!?」
ダヴィデは頬を膨らませながら、あらためてニコラのスーツを見る。そして、クンクンと鼻を鳴らして臭いを嗅ぎまわった。
「これは汗、泥、鉄、それに乾燥剤……かな? ねえねえニコラ、あってる?」
「うん、今日は音楽機材も運んだからね。その臭いかも……」
「言ってくれれば、着替えを持って行かせたのに」
「家に帰るまで着替えるつもりはないよ。だって、これは『僕が真面目に働いた』という証拠、勲章だ。恥じることはない。そうだろ、ダヴィデ?」
ニコラが微笑みかけるとダヴィデは耳まで真っ赤にさせた。その両目には涙まで溜まっている。
「さ、さすがはドン・ニコラ!! なんて真面目なの!!」
ダヴィデは感動しながら振り返った。すると、そこにはいつの間にかダークスーツに身を包んだ
「あんたたち、ドンのお帰りよ!!」
「「「お帰りなさい、ドン・ニコラ!!」」」
ダヴィデが声を張り上げると男たちは一斉に答えて頭を下げる。ニコラはダヴィデを
ニコラは灰色のコンクリートでできた建物の前まで来ると、ゆっくりと天を仰いだ。遥か頭上では、『ネオ・カサブラン』と書かれた看板がライトアップされている。
──……ただいま、母さん。僕は今日もちゃんと真面目に働いたよ。
ニコラは一瞬だけ目を細め、『ネオ・カサブラン』の名前の由来となった母親を想った。すると、そんなニコラを見てダヴィデが心配そうに首を
「ニコラ、どうしてそんなに寂しそうな顔をするの? せっかく家に帰って来たのよ? もしかして、市役所の連中に何かされた? だったらいつでも消すわ……」
ダヴィデはニコラが市役所で働くことに不満だった。『何でわたしたちのドンが薄汚い役人と一緒になって働いているの?』と、常々思っている。その気持ちも手伝って、ニコラの心情をしつこく訪ねた。しかし、それは出過ぎた
「なんでもない。ダヴィデ、少し静かに……」
眼鏡の奥でニコラの目が鋭く光る。ダヴィデは自分の失敗に気づき、ギクリとして
「す、すいませんでした。ドン・ニコラ……」
ダヴィデは肩を落とし、声が震えている。その姿が滑稽に見えたのか、ニコラは薄く微笑んだ。
「そんなに怖がらないで。僕たちは
ニコラはダヴィデの肩をポンポンと叩いた。市役所の役人たちは知らないが、ニコラの笑顔はいつも優しげで人を惹きつける。ダヴィデは安心して胸をなで下ろした。
「さあ、行こう」
「はい、ドン・ニコラ」
ニコラは柔らかな笑みを浮かべたまま、ダヴィデと一緒になって『ネオ・カサブラン』の中へと消えていった。やはり、ニコラ・サリンジャーは怒らない。それは、ニコラが寛容な人物だからではなく、歪んだ精神の持ち主で、常に他人を見下しているからだ。
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