3‐6 威圧

(フフフ…この街もあんまりかわっていないわね)


セルペンテが街に入ったのは数年ぶりのことだった。まだ彼がハンターであった頃の自分を思い出す。

勿論の事だが紫の口紅を落とし、髪型や服装も変えてある。自分のポリシーに誇りを持つ彼からすれば不本意だったが仕方ない。

まだハンター評議会から追放の命を受けて二年と経っていない。ずいぶんと遠い昔のような気がした。

無論だが、セルペンテが危険を冒して此処に来た理由はあった。単に観光しに来たわけでも、嘗ての故郷を足を踏み入れる事も無い。

頭上に輝く太陽の眼差しが眼に刺してくるようだ。そういえば暗黒街では日陰に潜むような生活を送っていた。

もうすぐ自分はこの砂と埃まみれで徐々に体を蝕む毒の大地から逃れる事が出来るのだ。


「さて、件の情報屋さんの場所は此処だったかしら?」


そして、彼が此処を訪れた理由は情報の収集だった。理由はいくつかある。

あのリオンと名乗る青年の素性を調べる事だった。あの男はコロニーの出身者だと名乗ったがいま一つ信用がならない。

いい男の素性を無断で探るのは心情的に気が進まないところもあるが、それとは逆の快感を彼は感じていた。

もしかしたらリオンと対峙する可能性もあるかもしれない。そうなったときに『取引』として使える情報があるかもしれない。

コロニー側の人間がアウターの人間と公に接触するのは条約違反だ。彼の弱みを握って置けばイニチアシブを握りやすくなる。

あれだけ目立つ男なのだから、きっと何処かで目撃されているはずだ。


ドアを開けると、ちりんと鈴の音がした。この事務所の主がこしらえた工夫なのだろう。

なるほど、それなりに洒落た感性を持っているようだとセルペンテは薄い唇に笑みを浮かべる。

それと同時に興味が湧いた。この小さな情報屋の正体に、一帯どんな風貌をしているのか興味は尽きない。


「こんにちは今日も良い天気ですね…。此処を訪れたのは何の用件でしょうか?」


しかし中から現れたのは、単なる白い布を額に巻いた優男だった。

顔は悪くない、むしろセルペンテの好みではある。しかし彼は髪も無理やりセットしたようにぼさぼさで統一感がなく、

目元には寝不足のようなくまが薄く確認できる。表情も覇気が無く何処かだらしなくて客前でなければあくびしてしまいそうだった。


(ま…どうでもいいんだけど。情報さえ得られればそれでいいけどね)


「アナタが【銀狐】ディーク・シルヴァなのよね?ワタシはセルパンっていうんだけど」


「は…はい。そうですが何か?」


出てきた若者はそれなりに経験を積んではいるがお人好しそうな雰囲気があった。

そういった人間はセルペンテの経験上、比較的すぐに死ぬ。騙されたり、戦場で仲間を助けようとして迂闊な行動を選択し命取りになるからだ。


(ホントに大丈夫なのかしらね…?)


浮つかない返事が返ってきたのでセルペンテは心配になってきた。

常人なら一応、はっきりと業務をこなしているディークに違和感すら抱かないだろう。しかしセルペンテは一流の使い手。

ディークもそれなりの使い手だと踏んでいるが、元々セルペンテの実力には遠く及ばないだろうし、

今の彼ならばすぐに悲鳴を上げられることなく殺す事は出来るという自身がある。無論その気は無かったが。


(あらやだ、思わず物騒な事考えてしまったわ…)


セルペンテは思わず自分の頬に手を当てて、ディークから一旦眼を背けてしまう。

目の前の男の仕草にぎょっとするディーク。彼もこのアウターで様々な人間を見てきた。

だが、此処まで性癖の人間とはついぞ出会ったことは無い。それで少し固まってしまったのだ。


「どうかいたしましたか?」


「え、ええ…ゴメンなさいね…ちょっと考え事してたのよ」


そういって愛想笑いをうけべて見せ、思わずディークは後ずさってしまう。

セルペンテは残念だと思った。彼は性癖的にノーマルのようで、もしそっちの気があったのならば後で誘おうと思っていたのだが、

まぁ、無理に誘うような事はしたくなかった。それでは力に任せて女を抱く下品な連中と変わらない。


(ま…ワタシもご同類なんでしょうケド)


自嘲的な笑みを浮かべるセルペンテ。今まで自分のやってきたことを考えれば忌み嫌ってきた「野蛮な連中」と変わらない。

それに比べてこの青年のなんと勇ましく真っ直ぐした事だろう。自分も昔は此処まで真っ直ぐ生きれただろうか?

そこまで思案してセルペンテは考えるのを止めた。過去をいくら思っても既に定まった事を変える事は出来ない。

更に今の自分はコロニーの移住の為に命を掛けている。後ろを振り返ってもどうにもならない、未来に進むだけだ。


「あの…それでご用件は?」


「ええ、ある男の事を探ってほしいのよ」


「男…?」


「やーね。そっちの意味じゃないわよ、それよりアナタ今夜どう?」


ディークは今度は少し笑みを浮かべつつ即座に返した。顔は少しばかり引きつっており表情はぎこちなかったが。


「…遠慮します」


「あら残念」


ウインクしながらもセルペンテは考える。以外にこの男、外見以外でもしっかりしているかもしれないと。

それより此処を訪れた本来の目的を思い出しながら、セルペンテは直感した。ディークなら何か知っているかもしれない。

しかし、この青年の前に居るとどうにもペースを崩してしまう。無論、悪い意味ではない。


「どうぞ、少しすわり心地は悪いかもしれませんが…」


「まぁありがとう。ところで危ない雰囲気をした金髪の大男って見た事ある?」


「探してるんですか?」


ディークは言葉に詰まった。その条件だと該当者は割と多いからだ。


「ええ、依頼よ」


「他の特徴は?」


「身長はそうねぇ…2メートルくらいあったかしら? それに義手みたいなのも付けていたと思うわ」


「うーん。少し待っていてください」


そう言うとディークは奥の部屋に引っ込んだ。セルペンテはソファーに体を預けながら天井の染みを数えていた。

首がむずむずするような感覚は、此処の情報屋と言葉を交わしたときから覚えていたものだ。

ディーク・シルヴァという男。此処に来て直接会うまで顔は見た事は無いが、名前だけは聞いた事がある。

ハンターのデータベースに登録されたクラスはC+。ハンターとしては中の上クラスの実力といったところか。

しかし、今日以前に何処かであった気がするのだ。それは以前この街を訪れた時に顔を見た事があったかもしれないが、

それもしっくり来ない。かといって彼のような若者が東の暗黒街に行ったとも思えない。


(まさか…ね)


数分後、ディークが茶を入れて戻ってくる。冷えていて渇いた喉にはちょうどいいのかもしれない


「あら、気が利くわね」


「サービスの一環ですよ。喉が渇いたかなと思って」


「いい心がけね。だけど、下に見られないように気をつけることね」


「俺もそう思いますよ」


「で、何かわかった?」


「少し待ってください」


ディークは奥の部屋に入って、尋ね人のリストや指名手配犯の特徴が記された記録表を暫く漁ったがセルパンのいうような人物について記録はなかった。

20分くらい待たせて戻ってきたディークはソファーに座るセルパンに頭を下げる。


「申し訳ありませんが…先ほど話した男の情報は全く」


(やっぱり、コロニー出身者がそんな簡単に尻尾をあらわす事もないか…)


「チップよ」


どさりと、ハンター評議会が公認し発行するゴルド金貨が零れんばかりに収まり、両手で覆うほどの皮袋がディークの目の前に置かれた。


紛う事なく、それは大金だ事務所を建てる時にレオスから借り受けた金を返しても有り余るだろう。

おおよそ隔月で評議会が依頼する変異種狩りと、収入が安定しない情報屋を営むディークからすればそれは約半年分ほどの収入なのだ。

思わずそれを受け取りそうになる自分が居た。日ごろからレオスには世話になっているし借りがあり、恩はなるべく返したい。

だが、何の情報も依頼者に与えられていない未熟な自分がのうのうと報酬など受け取ってもいいのか?

ディークは軽い男に見えるが以外にも真面目すぎた。彼がサウロによく揶揄される愚直な一面が今出てしまっている。


「そんなの、俺は受け取れませんよ」


突き帰そうとするディークの手を制して、にっこりと微笑むセルペンテ。

彼はこの金に執着も未練も…全く抱いていないように思えた。


「なら、お茶代ということにしといて。これはどうせもうワタシにはもう必要の無いものだから…

これ、中々美味しかったわ。よければもう一杯頂けるかしら? それに、淹れ方を誰かに教わったの?

もしかしてレオス?彼には命を救ってもらった間柄だったのよ、色々手先も起用だったし…いい男だった」


「ええ。俺の師匠で今は引退して酒場を開いて居るんです。技も鍛えてもらっていましたが」


「そう、なら今度来た時はその店を紹介してね。それともう少し実戦経験を積んだ方がいいわ、情報屋もね」


「ええ、わかりましたよ。それに常連が増えるとマスターも喜ぶと思います」


ディークは茶をもう一杯注いできた。チップにはどうしても満たないかもしれないがせめてものお返しであり、彼なりの礼儀だ。

セルペンテはゆっくりと茶を啜る。彼がとても上機嫌なようにディークには見えた。貰い物の茶がよほど気に召したのだろうか?

自分はレオスに淹れ方を教わっただけだが、サウロと違って此処まで美味しそうな反応をされると。

とてつもなく嬉しくなり、暇な時にレオスの手伝いがてら教えてもらおうかとも思う。ノエルでもいいが彼女は忙しい。


「さようなら。最後のこの街から出る前にあなたに出会えてよかったわ」


「何か、何処か遠いところにも出られるんですか?」


「ええ、遠い遠い場所へね…」


セルペンテはそのまま出口のドアへと向かいがてら振り返る。最初ディークは彼が忘れ物をしたのかと思いソファを見渡したが、

そこは二人が飲み干した中身の入っていない当時のカップ以外、見当たるものはない。


「そういえばもう一つ聞いていいかしら?」


「ええ、何でも答えてくださいよ」


ぞくりと、ディークの背筋が凍った。セルペンテが浮かべた微笑はこの短い時間の中で彼が見てきたものに似ている。

しかし、雰囲気が違った。触れれば切れそうなほどの一瞬の威圧感は先ほど会話を交わした、気のいい同性愛者のものとは思えない。

まるで蛇に睨まれている様だとディークは思った。目の前の男が此処まで冷たく恐ろしく見えた事が怖い。


「黒い街頭を羽織った光る剣を持つ小さな女の事をご存知かしら?」


どくんと、心臓が跳ねた。自分は知っている


。それも昨日助けたばかりで今まさに生死の境をさまよっているはずの少女を、

その一言でディークは悟った。彼女に瀕死の深手を負わせたのは目の前のこの男だと。

震えそうになる足を意志の力で押さえつけた。思わず歯を食いしばり、額から汗が流れ落ちていく。

一瞬にしてこの空間が凍りついたような気がした。もし、自分がセルパンに殺されるとしたら彼は一瞬でそれをやるだろう。

逆に長い時間苦痛を与えて殺す事も可能なのだ。生殺与奪を完璧に握られたその事実が恐ろしい。

寝食の要であり見慣れた事務所が一瞬にして異界に変貌したようだった。自分はとんでもない人物と関わってしまったのだ。


「…知りませんね」


平静を装ってディークは答えた。それだけで、体の力がどっと抜けていきそうになる。


「へぇ…」


セルパンと名乗った男の目に鋭い光が宿り、ディークから何か読み取ろうと探るような視線を向けている。

そして彼は顔を近づけてくる。お互い息がかかりそうなまでに接近している。

あと五センチほど顔を近づけるだけで唇と唇が触れ合えそうな妖しい距離感。

香水と共にアイシャドウが塗られた蛇の様な切れ目の眼差しが心に忍び込んでくるかのようだった。


「…」


「ねぇ、本当に知らないの?」


ぞくぞくとする色気を含んだ声が鼓膜の中に入り込んでくる。震え出しそうになるのをディークは意志の力で押さえつけた。

目の前の男は恐らくダイキンなど歯牙にもかけない実力者で、少なくともレオスと同等…いや、もしかしたら彼より強いかも知れない。

尋常でない圧倒的なオーラ。その毒気に当てられて思わずディークは土下座して全てを喋りそうになった。

大規模犯罪組織「ターロン」を圧倒した実力を持つ少女を尚を上回る実力者。ノエルの前で自分は強くなったと自負したが、

上には上が居る。絶対的な差、体を縛る圧倒的なプレッシャーの持ち主は涼しい顔で見定めるようにディークを見ていた。

巨大な蛇に睨まれて、舌なめずりをされているような感覚。押しつぶされそうになる威圧感を目を逸らさずに跳ね除ける。


「そう、なら仕方ないわね。お邪魔したわ」


「………フゥ」


瞳に宿した探る様な剣呑な光を収めたセルパンはそのまま出口から去っていく。

大きく一息吐いてソファに腰を下ろしたディークだったが、正直に言えば生きた心地はしなかった。

相手は相当の実力者だ。やろうと思えばあの状態のままディークの頸動脈を描き切る事は容易かっただろう。


「気付かれなかったか?」


思わず声に出してしまったのはそれほどまでに体が緊張していたからだった。

ディークは緊張でため込んでいた空気を吐き出すように息を吐いた。しかし彼は気付かなかった。

事務所を出た後で薄い唇を片方吊り上げたセルペンテが、獲物を見定める笑みを浮かべていた事を…


(ディーク・シルヴァの反応からしてあの女はこの近くにいる。それは間違いないわね

あの子…将来は化けるわね。拷問して聞き出すことも出来た。でも…)


「レオスには借りがあるし…ワタシ、ああいう強い子って結構好きなのよね…」


セルペンテの呟きは荒野の乾いた空気の中に溶けるようにして消えていった。





それから少し経った後、ノエルは少女の体を拭くためにベッドのある部屋に立ち入っていた。

あの直後、一旦戻ってきたディークがレオスから渡されたいくつかの薬を飲ませてみたのが功を奏したのか解らないが、

少女の容態は回復し穏やかに寝息を立てていた。毒を受けたであろう箇所は既に消毒してある。


(でも…こんなにも早く治癒するものなのかしら?)


彼女の額を濡らしたタオルで拭いながら。ノエルは疑問に思っている。

解毒が済んでいないのに、状態は快方に向かっている。人が作った毒物などに知識がないノエルだったが、

一晩でこうも早く小康状態に落ち着くなんて事は聞いていない。

リベアが蛇の毒にやられたときは血清が打たれるまでの二日間高熱を出して寝込んでいたのだ。

それと同じケースに当てはめるのは疑問だが、少女の回復力は異常すぎた。

そんな事もあるかもしれないと思って、服を脱がしていく。少女が着ていた服は洗濯した後、裁縫で傷を修繕している。

今着せている服は、大きめの子供用の服だった。しかし、それでぴったりだったようなのは幸いか。

そして服を脱がせている最中にノエルはまた驚いた。それほどまでに驚きの連続だったのだ。


「傷が…無い」


体中に付けられていた傷は既に塞がり、今は柔肌にピンク色の筋を残すのみとなっていた。

このペースだと、ほんの僅かに残った痕でさえも数日後には消えさって痕跡すら残らないだろう。

何かの薬物を使ったのか? それとも生まれ付いての特異体質が急激な回復をもたらしたのか? 

昔にディークが異常に傷の直りが早い人間がいると話していたが、ノエルには見当が付かなかった。


(貴女はいったい何者なの?)


「ノエル! おなかがすいたよー」


「ミシェイル。もう少し待ちなさいね」


ノエルは人形のように整った少女の寝顔を見ながらそう思わずにはいられなかった。

窓の外の太陽は既に陰りを見せ、夕日が近い事を示している。今夜もまた冷えるだろう。

一旦彼女は自分の中に蟠る疑問に蓋をして、少女の体を満遍なく拭いた後に子供達の夕食を作る為に台所に向かったのだった。





「……」


暗闇の中で少女はゆっくりと目を覚ました。体がだるく、まだ意識は少し曖昧であったが動けるようにはなった。

そして着せられた服を着て唖然となる。何時も自分が着用している防刃使用の物ではなかったからだ。

ということは「アーク・ブレード」も無いということになる。あれがなくては目的の達成は遠いだろう。

焦燥感に支配されそうになるが、唐突にドアが開く。跳ね起きようとしたが体はまだ万全には程遠かった。


「あら、起きてたの?」


ノエルは部屋の明かりをつけ、彼女が意識を取り戻していた事に気付き一瞬固まったが、

それでも安心させるために笑顔を浮かべて少女の傍に盆を持ってくる。

相手を騙したり利用する為の仮面ではなく、心から身を案じつつも温かみを分けられる笑顔が出来る女性…それがノエルだった。


「………」


「あなた…いいえ。そんな事を聞くのはルール違反だものね

それより食事を持ってきたの。それとあなたから預かっていた服や……武器も

もしお腹に入るのなら食べておいてね、痩せすぎは健康に良くないわ」


「…えっ?」


少女は驚いたようだった。自分から秘密を聞こうともせず、食事まで用意してくれる。

そして目の前の女性が戦闘訓練をつんだとは思えず、コロニー出身者特有の「匂い」も感じない。

彼女は思い出していた。最初にディークに会ったとき、彼が暴漢から自分を庇ってくれた事を。

あの件は相手が本当に引き下がらなかった場合、自衛の為の実力行使に出るつもりだったのだが。

ディークは自分の身を案じる事もなく、彼女を助けようとして此処まで連れて来たのだ。


「……とう」


「どうしたの?」


「ありがとう…助けてくれて」


「別にいいの。アウターに生きるもの同士、助け合うのは当然でしょう?

本当はコロニーの人達も外に出て協力して生きていければ、広がり続ける砂漠も抑えられるかもしれないのに…

人間は皆、神様に愛された兄弟なんですもの。でも、それぞれに事情や立場がある以上は仕方ないのかもしれないわ」


それはとても甘い考えなのかもしれない。アウターは生きる事が難しい地域だ。

少しずつ体を蝕む毒素の混じった大気と、進化した動植物・変異種の台等。全てが完璧に保護された楽園のコロニーに比べると、

命を落とす人間は多い。ハンター評議会が纏めているとは言え、「ターロン」の存在やハンター同士のいがみ合いも絶えない。

だからこそ協力すべきだと彼女は考えていた。地球がたとえ滅びの淵に立っていようとも人類が協力し合えれば、

英知を出し合って助け合えばいつか地球から旧世界の膿たる毒素が取り除かれ、変異種の脅威からも逃れられるのだとそう信じていた。

そう思うから困っている人間が居れば手を差し伸べる。しかし裏切られた事もある。

自分の考えが偽善かもしれない、間違っているかもしれないと不安に怯えそうになる。だからといって他者の命を踏みにじっては決していけない。


「…ごめんなさい」


少女は自分が責められたわけではないのに、唐突に謝ってきた。

ノエルはその一言で何かを感じ取る。彼女は恐らく、業を抱えながら生きている人間であると。

それでも関係無かった。過去に罪を侵した者であっても、今困っているのならば助けるというのが人間なのだ。


「いいのよ。みんなで助け合うのが人間らしいのよ」


「………あの人って、貴女の何?」


「ディークの事? 一言で言えばそうねぇ…」



「血は繋がっていないけど私の自慢の弟…かしら? ならリベアは妹ってことになるけどディークの方がお兄ちゃんなのかな?

でも、あの子ってば自分がお姉さんだって言い張ってるのよ。ディークは笑って流してるけどね」


「…そう」


「ええ、ディークもリベアもゲイルさんもレオスさんや奥さんも…ミシェイルやボルヌ達も他の子供も―――みんな私の家族よ

勿論、あなたや他のアウターの人達も…コロニーの中に済んでいる人もね。

ほんのささやかなお願いだけど、良かったら名前だけ教えてくれる? ディークも教えて貰っていないようだし…嫌なら言わなくて結構だけど」


少女は少し躊躇ったようだった。しかしそれは自分の名前を告げることへのリスクの増加ではなく、

己の正体を知ったノエルに対する不都合を案じていたからだった。彼女は信用できると直感が告げている。

そして気まぐれに助け、今度は自分が助けられたあの男―――ディークに対してもそれは同じだった。

数秒間だけ考えた。そしてノエルが見守る前で少女はようやく正体を明かしたのである。


「…レイ、フルネームは甲田怜」


「…素敵な名前ね、怜って。とても覚えやすいわ」


「ありがとう、ノエル」


少しだけ、ほんの少しだけだが黒の少女―――甲田怜が口元を緩ませた。

それは無表情に近く彼女を知らない人間が見たとしたら、ただ唇を吊り上げただけにしか見えなかっただろう。

しかし、それがどんなに微細な感情の揺れだったとしても…怜はちゃんと笑ったのだ。

自分に心を開いてくれた事がノエルからすれば嬉しかった。


(ほら…この子だってやっぱり普通に笑える子だったのよ)


今は彼女の素性や小隊なんてどうでも良かった。確かであり信じたいのは甲田怜はまごう事なき普通の人間である事、

それがわかると、心の片隅で微かに感じた得体の知れなさや不気味さはノエルの心からすっかり払拭されていた。

玲はノエルにとってとっくに家族同然であり、一人の人間であり、ここに住む子供たちと同じく可愛らしい少女なのだから。



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