見えるストレス

御角

見えるストレス

 忙しい、ああ忙しい。きっとまた今日も残業だ。家に帰っても寝て起きてまた会社に行くだけ。こんな生活で貴重な寿命を消費していていいのだろうか。そう思う暇もなく、気がつけば常に休みなしで体は動いてしまっている。

「君、ちょっと」

 上司が僕を呼ぶ声がする。どうせなら、キリのいいところで上手く声をかけて欲しいものだ。

 手付かずのものも多い中途半端な書類をデスクにまとめて、僕は急いで上司の前へ向かった。

「はい、なんでしょう」

「これ、上が開発したストレス計測アプリなんだけどスマートウォッチ専用でさ……。君、確か持ってたよね?」

 ああ、なんということだ。まさかボーナスをはたいてようやく手に入れたスマートウォッチのせいで仕事が増えてしまうだなんて、夢にも思わなかった。

 確かに周りの人、少なくとも同僚が買ったという話は聞いたことがないし僕にしか出来ない仕事なのかもしれない。それでも僕は、これ以上仕事が増えてしまうのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 そんな僕を見かねてか、上司は

「モニター期間中は、仕事を他に回したり定時で上がっても構わないよ。上はストレスの変化する条件を見たいらしいから」

 と言ってくれた。そう言うことなら、と二つ返事で、僕はこの“見えるストレス”のモニターを引き受けた。

 早速腕の時計にインストールし、その数値を見てみると、60%と書いてあった。試しに仕事に戻ってみる。デスクの書類を片付けようとすると、数値が1%上昇していた。この調子だと終わる頃には100%になってしまうのではないか。僕は正直言ってまだ半信半疑だった。


 定時。いつもなら時計と睨めっこをしつつデスクに座りっぱなしでいるところだが、今日は上司の許しも出ているので早めに帰ることにした。周りの社員の視線が刺さる。その羨むような、妬むような視線が逆に心地良い。時計を確認すると、70%まで上がっていたストレスが50%まで低下していた。

 あくまで目安に過ぎないのは自分でもわかっている。だが、せっかくならもっともっとストレスを下げたい。願わくば0%を目指したい。そんな欲望が胸の奥底から微かに立ち上った。


 帰り道、いつもなら絶対に寄ることのないコンビニで酒とツマミを買い漁る。久しぶりに家でゆっくり出来る。そんな妄想を繰り広げるだけで時計の数値はもう5%も下がっていた。

 家に着くとすぐにその缶の蓋を開け一気に飲み干す。喉を焼くアルコールが胃に入る度にストレスも下がっていく。酒を飲めば飲むほど、つまみをつまめばつまむほど数値が下がっていくのが面白くて、僕は結局残業した時とそう変わらない時間まで一人で盛り上がってしまった。


 朝、網膜を焼く日の光で目が覚める。いつの間にか眠っていたようだ。頭が痛い。

 時計を見ると、昨日は30%まで下がっていたストレスが寝ている間に50%まで上がっていた。おそらく二日酔いのせいだろう。これから仕事があると考えるだけで全身が重くなる。また数値が増える。時間は……8時。まずい、出勤時刻だ。僕は急いで着替え、ゴミがあちこち散乱する部屋を後にした。


 最悪だ。遅刻してしまった。昨日はあんなに優しかった上司が恐ろしく激昂して僕を怒鳴りつける。甘えるなだの、だから仕事が出来ないんだだの、ここぞとばかりに文句をぶつけて来る。時計をチラリと見ると、数値は80%になっていた。

「お前、説教中に時間を気にするとは、全然反省しとらんな!」

 ついクセで見てしまっただけなのに誤解されてしまった。周りの社員もクスクスとこちらを伺って笑っている。そんなに定時で帰ったのが気に食わなかったのか。数値は上がっていく一方だ。結局僕はまた残業する生活へ逆戻りした。


 その遅刻が発端となったのかはわからないが、あれからいくら酒を飲んでも、美味しいものを食べても、薬を飲んでも、何をしても心が晴れることはなかった。数値が全く落ちてくれない。それどころか、会社にいるだけで常に数値が上昇していく。いつしか、時計の数字は100%から動くことは無くなっていた。


「すみません、今日は体調が悪くて……」

 僕は初めて会社をサボった。一日中布団にくるまって、ぼーっと天井を眺める。何もする気が起きない。それでも、ストレスは10%ほど下がっていた。だから僕はまた会社を休んだ。休む度に下がるストレスに一種の安心感を覚えていた。

「お前、また休みか? いつ復帰できるんだ」

 上司が電話越しにイライラしている様子が伝わる。流石に3日目ともなると不審に思われたようだ。でも布団から動くことが出来ない。会社に行けば怒られる。行かなくても怒られる。そう考えていると、あれほど劇的に下がっていたはずのストレスはまた100%のまま動かなくなってしまった。


 辛い。会社でも役に立たない。モニターの仕事さえ満足に出来ない。こんな自分に価値があるのか、それすらも、もうわからない。この気持ちも全部、この時計に示されたストレスのせいなのだろうか。この数値を0にすれば僕は解放されるのだろうか。考える力も、僕にはもう残されていない。0%にしたい。ストレスをなくして、何もかも終わりにしたい。

 ただ楽に、なりたい。


 そうして、僕の仕事は終わった。音信不通になった僕の、その腕に嵌められたスマートウォッチに表示された数値は0%。僕は、あらゆるしがらみから解放された。

 ストレスのない世界、それはまさに天国だ。

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