ミザントロープ

深川夏眠

misanthrope


 花冷えの折、お変わりなくお過ごしでしょうか……云々、美しい手蹟の丁寧な手紙が舞い込んだ。桜の透かしが入った和紙の便箋には旧友の妹による呼び出しの文言が綴られていたので、約束を取り付けて訪問した。

 家には彼女とその夫がいた。

「あれから七年、経ちましたので……」

「お力になれず、申し訳ございません」

「とんでもない」

 中学からの長い付き合いだった親友・さとるは七年前に姿を消した。家族にも、仕事の繋がりがある人、あるいは私的な交友の中にも、心当たりはまったくなかった。

「未婚ですから、失踪宣告の必要はないと思います。でも、気持ちの上では、もう……」

 妹さんは涙ぐんだ。横に座った夫がいたわりの目を向けている。

「いいえ、どこかで生きているんでしょう。ですけど、兄の方が私たちを顧みなくなったのですから、こちらも区切りを付けませんと」

 惺は二十八歳のとき、出張先から戻らず、音信を絶った。友人たちの中には、意中の――但し配偶者のある――女性がいて、駆け落ちしたのではと囁く向きもあったが、少なくとも私はそんな気配を察していなかった。惺はもっと淡々と、厄介事を避けて生きるタイプだった。

 当人の生死は不詳ながら、肉親ののために形見分けめいた儀式が行われた。帰宅して書棚の一画をからにし、預かった荷物の中身を並べていった。

「あっ……」

 くすんだ桜色をした古い鍵付きの日記帳。ホルダーには少しそうなボールペン。昔の記憶が蘇った。

 二十年以上前、中学生時代に回覧していた交換日記。私ことけいと惺、そして、紅一点のめぐみ――。

 惠はプレゼントに貰った立派な日記帳とボールペンのセットを一頻り自慢するや、さも、たった今、思いついた風に三人の連絡帳にしようと言い出したのだ。私は大いに照れたが惺は乗り気で、夢見がちな女の子が好みそうな風合いの日記帳は卒業まで断続的に三者かんを巡回した。

「鍵、鍵はどこだ」

 壮年期に括られる現在の自分にとって、半分以下の年齢だった頃などに過ぎないけれども、どこかに惺の意識の流れを辿るためのヒントが潜んでいそうな気がして、ページをらずにいられなかった。

 しばらく無意味に部屋を歩き回って思い出した。受け取ったばこの中にクロコダイルのキーケースがあった。直感したとおり、フックに小さな鍵がぶら下がっていた。。立場が逆だったら、惺ならここでラフカディオ・ハーン式に「KWAIMON!」と叫んだに違いない……などと考えて頬が緩んだ。

 追想は、さながら机上の時間旅行。恥ずかしいやら、むずがゆいやら、冷や汗を掻くやら。しかし、少年少女の他愛ないやり取りに途中から不穏な影が垂れ込めてきて、私はスッと背筋を伸ばした。ある時期から惠の精神状態が不安定になり、記述は嘘や妄想にまみれ、暴力をイメージさせる落書きが頻出するようになったのだ。

 そう、当時、私と惺は、惠が我々の交遊の範囲外の人物と交際し、例えばデートDVの被害に遭っているのではと危惧して探りを入れてみたのだが、反応は芳しくないばかりか、学校にいる間の彼女は相変わらず溌溂とした人気者だった。けれども、日記帳の中は日に日に禍々しい文言と奇怪でおぞましいイラストに浸蝕されていった。なまじ絵心があるだけに一層タチが悪かった。だが、惺は腹を括ったように言った。

『交換日記が惠にとってデトックスの役に立っているなら、それでいいと思うことにした』

 彼女が他者に暴力を振るわれたり、自傷行為に及んだりしている形跡が、少なくとも我々の目につくところには見出せないのだから、しばらく黙って受け入れようというのだ。私は胸のつかえが取れなかったが、他に妙案を持たなかったので、やむなく惺に従った。我々は時折、下手な動物の絵にを添え、その中に当たり障りのないメッセージを書き込んで、せめてもの慰めになれば……と祈った。

 日記帳が惠に回ったところで我々は中学を卒業した。彼女は女子高に入ったので、ほとんど顔を合わせる機会もなくなり、三年後、美大に進学したと教わったきり、動静は伝わってこなくなった。

「ふぅ」

 少し疲れた。私は栞を挟んでキッチンへ行き、お茶を淹れて一服した。

「待てよ……」

 話は終わっていない。大学三年次、つまり二十一歳のとき、惠は行方不明になった。同性の友達と短い旅に出、共に出発地点へ戻って散会しながら帰宅しなかったと聞いた。こんな重大なことをコロッと忘れていたなんて……。

「薄情者め」

 書斎で黙読に戻った。

「ああ……」

 果たせるかな、惺と惠は高校生活が終わる間際に交換日記を再開していた。どちらも落ち着いた筆致で日常の些細な出来事を報告したり、小さな悩みを打ち明け合ったりしていた。

 私にとって重要な箇所を抜粋すると……


 ――この日記帳をくれた親戚の人ね、消えたの。従兄。フワッと。夜桜と大きな満月の取り合わせが、とてもきれいな宵だった。黙ってたけど、彼の署名が入ってるのよ。見事なカリグラフィだから、最初から印刷されてるものと見分けがつかないでしょ。

 ――なるほど、騙される。だけど、Je suis un misanthrope.って、ゴメンちょっと笑った。

 ――ミザントロープって、花の名前みたいね。美しい響き。

 ――ヘリオトロープと混同してるだろ。あれはhelios+tropeで向日性を指すのさ。厭人癖とは真逆。

 ――なぁんだ。ガッカリさせてくれたお返しに、惺にちょっと怖いことを教えてあげる。昔からセットになってて今も使ってるボールペン、やっぱり元は従兄のものだったの。

 ――持ち主に厭世観が伝染するのかな。

 ――それなりに時間がかかるっぽいけどね。あたし、そろそろ時が満ちる気がする。だって、あれから七年になるんだもの。

 ――七年満期。

 ――定期預金みたいに言わないで(笑)。

 ――何が不満なのさ。

 ――別に。ただ、フッと消えてなくなりたいだけ。


 惠の従兄とやらが彼女に日記帳とボールペンを与えて遁走したのが、我々が十四歳の折。二十一年前。交換日記の途中で、惠は従兄の肉筆の魔力に縛められたかのように変調を来たしたものの、幸い持ち直した。しかし、七年経った我々が二十一歳のとき、すなわち十四年前に失跡した。

 二人の掴みどころのない応答から数ページの空白を置いて、再び惺の記述。七年前だ。


 ――惠がいなくなって七年、彼女のご両親は諦めのつかないまま、しょうことなしにを行った。俺は直前まで彼女と言葉を取り交わした記録が残っていたお陰で、ご相伴にあずかった。そんなワケで、曰く付きのダイアリーは、こうして七年ぶりに、ここにある。

 ――何の記すこともない。俺はただ機械的に人と会って月並みな会話をし、適度な匙加減で働いているだけ。格別嫌いなヤツもいない代わりに、熱烈に愛すべき対象もない。平穏だ。心の静けさは、ぬるま湯に似て、浸かっていると楽だが次第に飽きてくる。どこかに異界への門があるなら「KWAIMON!」と命じてフイと身を投げ入れたい気分にもなる。特に、風に吹かれて舞い散る桜の花びらが頬を掠める、こんな晩には。

 ――七年後、これはきっとおまえの手に渡るだろう。慶。よきに計らえ。




             le misanthrope【FIN】




*2022年3月 書き下ろし。

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

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ミザントロープ 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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