死を呼ぶ日記帳

透峰 零

死を呼ぶ日記帳

 赤い日記帳、という都市伝説がある。

 とある高名な霊能者が失踪の直前まで書いていたもので、読んだ者は発狂するのだという。



 そして今、僕のデスクには見慣れぬ一冊の手帳が置いてある。

 もちろん自分の持ち物ではない。

 周りを見回してみるが、部屋には僕以外の姿は見えなかった。今日が休日ということを差し引いても珍しいことである。

 この部署は一応日勤扱いなので、土日祝が休みということにはなっていた。とはいえ、この「基本は」という枕詞からもわかるように、勤務時間が守られている部署はほとんどない。

 僕らにしても例に漏れず、大半の事案は夜に起きるから、定時に退庁なんてことは滅多にないのが実情だ。

 警察官は法律遵守を叩き込まれているが、労働基準法だけは僕らと縁がないようである。

 閑話休題それはともかく

 僕と先輩も、溜まった書類を片付けに出勤していた。

 いくら扱うものが非現実的なオカルト事案だとしても、情報集積という意味でも報告書は書かなければいけないのが、この職業の悲しいところである。

 別部署に呼ばれてしまった先輩と別れて、一足先に帰ってきたところで僕はこの手帳を発見した。

 無地の深紅の表紙。分厚いハードカバー式で、手に持つとズシリとした感触を伝えてくる。

 左下には箔押しされた『diary』の文字が、小洒落た書体で書かれていた。


 誰かの忘れ物だろうか。

 手に取り確認してみるが、表はもとより裏にも所持者を表すようなものは書かれていない。

 もしかしたら、内表紙にでも書いてあるのだろうか。そう考え、何気なく中身を開ける。



 ――七月二十一日

 今日から夏休み!

 明日からは好きに練習を見れる!


 ――八月五日

 更衣室の前であいつらが待ち伏せしていた。

 僕は覗きなんてしていないと言っているのに、聞きやしない。

 僕の容姿が汚いから、馬鹿にしてるんだ。

 』


 書かれていた内容に、指が固まる。

 どこか幼さを残した筆跡。夏休み――小学生だろうか。あるいは中学生。

 どうしてそんな子の日記がこんなところに? 疑問はあったし、それ以上に読み進めてはいけないという思いもあった。

 なのに、僕の思いとは裏腹に指は止まらない。


 ――八月七日

 もう嫌だ。うんざりする。

 僕はただゲーム素材のためにテニスコートを撮っていただけなのに、盗撮だなんて濡れ衣を着せられた。

 あいつら、自分がちょっと可愛いからって馬鹿にしてるんだ。


 ―― 月 日

 殴られた。豚と罵られた。

 僕は何もしていないのに。


 あいつら、絶対許さない。

 』


 この日記を閉じないといけないと、どこか遠くで他人事のように考えている自分がいる。

 その意識すら曖昧だ。頭がぼんやりとしてきた。


 ―― 月 日

 クソが糞がくそが糞が糞がクソがくそが糞が糞がくそが糞が糞がクソが

 クソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソが

 もう許さない。


 絶対許してやるものか。


 ――八月十九日

 データを見られた。死にたい。


 ―― 月 日

 違う。

 あいつらが死ねば良いんだ。


 あいつらこそ、死ぬべきなんだ。

 ようやくそれがわかった。

 』


 ページいっぱいに、指で書いたような赤黒い太い線がのたくっている。

 しばらくは何が書いてあるのかわからなかったが、どうやら『死ね』と書いてあるらしい。


 そうか、死なないといけないのか。


 ―― 月 日

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね




 閉じないと。

 わかっているのに、日記帳を閉じれない。文字が頭を侵食していく。

 いや、閉じるより先にやることがある。死なないといけない。


 あの窓を開けて、そしてそこから飛び降りれば――


「お前何してんの?」

 声と同時に、手の中が軽くなる。

 目の前には窓があり、なぜか僕はその鍵に手をかけていたところだった。

 隣を見れば、僕の手から奪った日記帳をしげしげと眺めている先輩がいる。

 一拍遅れ、僕は自分が何をしようとしていたのかに気がつき、ゾッとした。

「先輩。それ、見ない方が良いですよ」

 僕の忠告を無視して、ぱらぱらとページを繰った先輩が「なるほどな」と独りごちる。

 彼が不審な動きをしたら止めないと。はらはらして見守る僕の前で、先輩は日記帳を閉じ、壁際の大机の方へと歩いていく。

 この大机はちょっとした報告や会議などにも使えるので重宝しているのだが、普通の部署にはないような備品が置いてある。

 塩だ。

 証拠品などを入れるポリ袋に日記帳を放り込んだ先輩は、その上から塩を無造作に振りかけた。


「あの……何してるんですか?」

「何って、塩振ってる。知らないか? 清めの塩」


 いや知ってますけど。ここに置いてある塩の目的が主にそれだっていうのも知ってはいますけど。

「じゃ、これ特殊資料ホンモノですか?」

「じゃないけど、なりかけ」

 だから塩でいいんだけど、と笑った先輩は続けて言った。

「まさか本当にこっちにきてるとは思わなかったけどな。念の為に確認にきて良かった」

 先輩が話すには、さっき呼ばれたのは生安だったらしい。

 生安――正式名称を生活安全部。少年犯罪や風俗犯罪などが主な業務内容となっている。

「同級生を殺したって自首してきた少年がいたんだよ。同級生に虐められていたから、我慢の限界だったと言ってな。ところが、だ。その同級生は確かに病院に運ばれていたが、らしい」

「自分から……?」

「そう、何人も目撃者がいたから間違いない。ところが自首してきた少年が言うには、それは自分のせいだと言うんだな」

「それって、もしかしてあの日記を読んだから……とかですか?」

「そうだ。少なくとも、本人はそう主張している。自分の呪いが効いたんだってな。飛び降りた生徒が興味を持つように、わざと大事そうにしていたら自分から読みにきたと嬉しそうに話していたよ」

 僕は思わず先輩が手にした日記から目を逸らした。先ほど読んだ時のことを思い出したのだ。

「だが、肝心の日記は飛び降りた生徒の元から消えていた――これって、警察では罪に問われますか? だとさ」

「それ、その自首してきた子が言ってきたんですか?」

 小馬鹿にしたような言い方に、僕は自分の声が尖るのがわかった。わざとらしく両肩をすくめてみせた先輩の仕草が、何よりの答えだろう。

「最近の子供ってのは嫌だねえ。可愛げってものがない」

「大半の子供に罪はありませんよ。で、何て答えたんです?」

「現在の刑法では『呪い』による殺人罪は成立されないって答えたよ。事実だからな」

 僕は思わず渋面になった。僕がこの部署の在り方を考えてしまうのは、こういう時だ。

「ただし、被疑者自供の上でその日記の内容から殺意が証明されて――尚且つ日記から相手の指紋なり何なりが出て、読んだことと自殺したことの関連性が証明されれば、何らかの罪には問われる可能性はあるとは言っといた」

「侮辱罪とか名誉毀損罪。あとは脅迫・恐喝罪も場合によってはあり得ますね」

「自殺関与・同意殺人罪も掠るかもしれんな。あと、自殺教唆罪か?」

 淀みなく言った彼に、自信満々で警察に喧嘩を売りにきたというその少年がどういう反応をしたかなど、想像に難くない。

「……で、確認しようとしたわけですか」

「そうみたいだな。真っ青な顔して鞄あさってたけど『無い』って言うから、俺らも一緒に探したよ」

「なるほど。で、なぜこちらに?」

「もし本物だったら、引き寄せられてるだろうなって思って」

 鬼を語れば怪至る、というやつか。

「で、それどうするんですか? 僕も触っちゃったんですけど」

 ポリ袋の上から塩を振られた哀れな怪(のなりかけ)を、僕は半眼で見つめた。

「これくらいなら、一日術者の手元から離したら普通の日記帳に戻るだろ。そうなったら後は俺たちの管轄外だ」

 あっさりと言った先輩に、僕はホッとした。

「しかし、良かったです。最近噂になってる『赤い日記帳』じゃなくて」

「失踪した霊能者の書いた日記を見たら発狂するってやつか。あれはガセネタだ。心配せんで良い」

「よくハッキリと言い切れますね。何か確証でもあるんですか?」


「だってその日記帳、俺が持ってるから」


 しばらく、何を言われたのか理解できなかった。

「……はい?」

「だから、その日記は俺が持ってる。別に読んだって発狂しないし、そもそも読めないんだよ」

 なんでそんなもんを持ってるんですか?! と言いたくなったが、思い出す。

「それってもしかして、先輩の奧さんのものでしょうか?」

 行方不明になったという彼の奥さんは、日本でも五指に入る霊能者だったという。どういった事件に巻き込まれたのかすら、僕は知らない。いや、正確には誰も覚えていないのだろう。

 神隠しという呼び名が可愛くなるほど、完璧に彼女はその存在を消されたのだから。記憶も記録も、何もかも残ってはいないのだ。


「読めないって……白紙になったとか?」

 先輩はニヤリと笑った。

「ヴォイニッチ手稿は知ってるか?」

 知っている。確か、イタリアで発見された古文書だ。数多くの絵や、文字が書かれているが――発見から百年以上経った今でも正確な解読は成されていない。


「ちょっと似てるんだよな。日本語で書かれてるってのはわかるのに、その意味を解読しようとすると読めないんだ。だから俺も、未だに一行だって読めてない」

 頬杖をついた先輩は、ひどくつまらなさそうに言ったのだった。

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