はじめての交換日記

Aiinegruth

はじめての交換日記

 空ばかり視ているひとだった。涼雅りょうがが、講義をサボって文学部棟の渡り廊下をぶらぶらしていると、窓から仰向けに身を乗り出した真陽子まひこを見つけた。風の吹き抜ける四階、落ちそうになる馬鹿の無駄に綺麗な手を引っ張って、言葉を投げかける。

「で、今日の日記はなんだって?」

「か、Kb、ろe、にゅ。だって! 五文字! 少ないね。きっと昨日曇りだったから調子が悪いのかも!」

 真陽子は色覚異常だった。太陽から発せられる赤外線や紫外線など、様々な彩度を持たない光が、彼女には鮮やかな線に、波に、ときおり文字に見えるらしい。日が記し、訪れる昼ごとに書き換わるから、日記。天真爛漫な笑顔で長い黒髪に隠れた青い眼をきらめかせる真陽子に、幼馴染の青年、涼雅はいつも振り回されていた。

「落っこちそうなとこ助けてくれてありがとね!」

「おう、次からは気を付けろよな」

 こんな会話を、何度繰り返しただろう。真陽子は言うことを聞かない。幼く、空ばかり視て、手を伸ばして、いつでもどこか遠くにいってしまいそうな足取りで、彼の横を駆け抜ける。涼雅は彼女の色彩を知らない。真陽子の目を引く日記を、出会って一〇年間ずっと、読めないままでいる。

 そんなある日のことだった。真陽子が突然本当にいなくなった。朝から必修の講義に出ていないのはもちろん、普段入り浸っている天文学研究室にも姿がない。食堂を探して、購買を探して、部活棟を手あたり次第あたって、知り合いという知り合いに声をかけて。最終的に涼雅が彼女を見つけたのは、大学で最も暗い、理学部中央図書館の最奥、地下五階だった。

 明かりもつけず、荒い息遣いだけが聞こえる。十進分類法、915の棚の横で崩れ落ちていた真陽子は、そこから零れ落ちた無数の図書に埋もれながら、自らをスマホのライトで照らす涼雅を認めた。彼女は一瞬安心したような表情になったものの、また恐怖に襲われて目をつぶる。

「日記に、何か見えたのか」

「うん……。今日の日記、は、ね――」

 r、M、しぬ。って、四文字だったの。泣きながらいう子どもじみた二〇歳の真陽子の肩に涼雅はそっと触れた。r、M、しぬ。涼雅、真陽子、死ぬ。感受性だけで生きてきたような彼女がかつてないほど思い詰めるには十分な文字列だと、ずっと一緒にいた彼は納得した。すすり泣きの声が漏れる図書室。こんなに悲しそうな真陽子ははじめてだった。どうする、いや、これしかない。全てのためらいを投げ捨て、必死の思いでスマホを操作した涼雅は、その画面を彼女に向ける。

「視てくれ、真陽子」


 二〇一六年、八月一〇日、晴れ。

 今日はどうも例の日記の調子が良くないらしい。五文字しか視えなかったことを真陽子は悲しがっていた。そんなものばかり見ていないで――、ううん、仕方ないか。でも本当に怪我はしないで欲しい。

 

 汗ばんで紅潮した顔を上げた彼女の目に飛び込んできたのは、大きく表示されたスマホのメモ欄の最下端だった。日記だ。涼雅が、彼女と出会ってからつけ始めた日記だ。彼女のそれを彼が知りえなかったのと同じで、彼のそれに、彼女は一〇年間気付いていなかった。青年の震える手が、それでも決死の想いで文字列をスクロールする。本が大量にばらまかれた暗い図書室のなか、数万字に及ぶ映画のエンドロールのような字幕がひと息に時を遡り、最上端を真ん中に映して止まる。


 二〇〇六年、九月三日、曇り。

 いつか告白したいから、今日から忘れないように日記をつけていくことにする。隣のクラスに越してきた真陽子、彼女のことが、好きになってしまった。


「君が好きだ。だから、おれは死なないし、君を死なせたりしない」

 

 図書分類915、――、書簡、紀行。思い出の文字列の本たちに埋もれた真陽子の頬が真っ赤に染まる。がさがさと響く、騒がしい音。彼女はふらつきながら立ち上がると、支えようと両腕を拡げた涼雅を強く抱きしめた。極彩を映す目を閉じた真陽子は、温かい涙を流しながらいう。

「なんでかな、いま、いちばん、色んなものが輝いて見える」

「良かった。おれも、だ」

 

 これは、はじめての交換日記。

 共有する体温も、届く心拍も。

 二人の世界のこの先を、温かく穏やかに書き記していた。

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