第25話

「うまぁ」


 真ん丸の瞳を更に大きくしたひなたが、目の前に重なる赤茶色に焼けたお肉たちと目を合わせたままに感嘆の声を上げる。それに続いて、詩音くんと一茶もお肉を口に運ぶや否や声を上げた。


「うまっ!?」

 と顔を上げ、手でお口元を抑えて共感を求めるようにキョロキョロとみなに視線を配る一茶。


「んん~っ、柔らかぁ」

 と、詩音くんは頬へ手を当ててアヒルの口のように口角を上げた。


 大げさな奴らだ、と思う。大自然の中で食べるお肉は、確かに緑の香りと混ざり合って普段よりも食欲をそそる香りを発している気がしないでもない。しかし、あくまでも“そう感じるだけ”であろう。僕は彼らをハッと笑って隅の小さく切り分けられたお肉を摘まみ上げた。そんな僕を見たひなたは、お行儀悪く箸でお肉の山を指し示して口を尖らせた。


「楓ぇ、えっかくなんだからもっと大きいの食べなよ~。あっ、あっちでおっきいの焼いてるよ」


 彼はそこまで言って思い出したように席を立つと、口の中に数枚のお肉を入れてから再び少し離れた場所でいい音を立てているコンロへと向かう。一茶は、口に入れたばかりのお肉をゴクンと音を立てて飲み込んでから、それを慌てて追いかけた。


「待て、お前焼き甘いからだめ。あっちで待ってろ」

「牛肉だから大丈夫だって」

「お前どれが牛でどれが鶏かわかるのかよ」

「わかるって。小さいのが鶏」


 彼らがコンロのそばでギャーギャーと騒ぐ。きっと、戻ってくるのは少し先になるだろう。僕は、そんなことを考えながら彼らを尻目に先ほど摘まみ上げたお肉を口へ運ぶ。

 と、ふと肉の上に乗っていたらしい赤い汁が服へ落ちた。やってしまったという気持ち半分。一方、美味しそうなお肉にはやくありつきたいという気持ちが半分。服は黒なので、色がつくようなことはないだろう。僕はそう考えて、一度お肉を食べてしまおうと口を開けた。そんな時。

 目の前にティッシュの箱が滑り込んできた。そして、それと同時にとなりから詩音くんが顔を出す。彼はすごい勢いで何枚ものティッシュを箱から引き抜いて声を荒らげた。


「楓大丈夫!? 熱くなかった!? 待ってね」


 肩を掴まれ、体を強く引き寄せられる。ただでさえこの炎天下の中なのだ。体が余計に熱くなって頬が染まるのを自分でも感じた。彼はあっけにとられる僕を何事もなかったかのように背後から抱きしめ、ティッシュ越しに僕の服を強く掴んで肉の汁を拭きとった。


「おっけー、拭けたよ」


 怒涛の彼からのスキンシップに呆けてしまった中、彼はすぐに僕を解放した。

 彼の頬は染まっていなかった。ただ嬉しそうに八重歯を見せて笑う彼は、行動に反してまるで子供のようで。一人っ子の小さな子がある日初めて年下の友達と遊び、まるで自分がお兄さんになったことような感覚を喜ぶような。例えるならばそんなところだろう。少なくとも、僕が彼に恋人として意識されているわけではないのがひしひしと伝わってきた。

 複雑な心境に思わず唇を噛んだとき、ふと後ろから明るい声が降ってきた。


「何イチャついてたの」


 そいつは、急な声に驚いて小さく跳ね上がる僕を見てケラケラと笑った。


「なんだろうね」


 詩音くんは相変わらず上機嫌に、体を大きく左右に振りながら彼の言葉をはぐらかした。


「なんやねんひなた」と僕は口を尖らせる。「一茶とおったんとちゃうん」

「つまみ食いしようとしたら追い返された」


 彼はしょげることもなくそう明るく笑い、再び僕の向かいの席についた。

 せっかく、詩音くんと二人きりだったのにと思わないでもない。しかし、今日はあくまで一茶の誕生日祝いで。決して詩音くんと二人になるために来たわけではない。僕はタイミングの悪いひなたに敵意を抱く前に、と思いようやく先ほど食べ損ねたお肉を口へ運んだ。

 家で焼くのとは明らかに違う香り。そして溢れる肉汁。これは、いつもよりもいいお肉を購入したからだろうか。それとも、本当にキャンプで食べるお肉は美味しいというのだろうか。僕は、さっきみなを馬鹿にしたことも忘れて思わず顔を上げた。


 そこには、おにぎりを口いっぱいに頬張ったひなたがいた。明らかに口の大きさに合わない量を詰め込んだためか、口の周りにたくさん張り付いた米をひなたはその淡いピンク色の舌で舐めとった。

 詩音くんが好きそうな仕草だ。そう思った。

 それは当たっていた。


「ひなた、まだついてる」


 今度は落ち着いて一枚ティッシュを抜き取った詩音くんが、わざわざ向かいの席へ身を乗り出してひなたの口周りを拭った。しかし。ひなたは眉を顰めて顔を背けた。


「もー、子供じゃないんだけどー。自分でできる」


 僕が喉から手が出るほどに求めている行為を、彼は笑って拒んだ。喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか、わからない。ただ一つ言えることは、この感情はただの嫉妬というやつなのだろう。

 面倒くさい男。詩音くんが僕にそう言った理由が、なんとなくわかった気がした。


 そうしてモヤモヤしているなか、すぐに一茶は焼いていた大きなお肉を持ってきてくれた。どうみても口に入りきらないそれに、ひなたと詩音くんの幼心が掻き立てられたのだろう。いつもは温厚な二人がこの時ばかりは我先にと箸を伸ばすのを見て、一茶はまるで他人事のようにケタケタと笑いながら席に着いた。


 ひなたの箸と詩音くんの箸が、同時に大きなお肉の上空で停止する。彼らが見つめあうその瞳は、真剣そのものだった。


「それ、今食ってたお肉と同じやつやで。切ってへんだけで」


 彼らの無駄な争いに、思わず口を挟む。


「わかってねぇなぁ、楓。このでかさにはロマンがあるの! ねぇ、詩音くん」

「そうだよ、皿にでかい肉乗ってるだけでテンション上がるでしょ!?」


 彼らが言うには、味とは違うところにまた別の魅力があるらしい。僕にはわからないけれど、仲良く分けられるのなら文句はない。結局、彼らは一茶に平等に半分に切ってもらってご満悦であった。

 





 そうして美味しいものを食べて、また水遊びをして、釣れた魚を焼いて、一茶へハッピーバースデイを歌って。そんな楽しそうな彼らを眺めたり、ちょっと混ぜてもらったり。そうしているうちに気が付けば辺りは暗くなり、どこからか詩音くんが拾ってきた大きな丸太に火が灯っていた。スウェーデントーチ。詩音くんはこの簡易版の焚き火のようなものをそう呼んだ。

 ひなたはそれに興味を示して眺めていたかと思えば、その暖かさとパチパチと木が燃える心安らぐ音に眠気を誘われたようですぐに椅子に座ったまま寝息を立て始めた。そして一茶がそんな彼をテントへ連れて行ったのを機に、片付けを済ませてみなテントへ戻るのだった。


 ライトが消され、真っ暗な中にひなたの寝息が響いている。外からは風の音一つ聞こえず、まるで世界から僕たちだけが切り離されてしまったような気分になる。そんななか、寝息とさほど変わらぬ小さな声で詩音くんが僕を呼んだ。


「楓、楽しかった?」

「うん」


 僕は、暗くて詩音くんには見えてはいないだろうが小さく頷いて彼へ返す。

 ひなたに妬いたり、疎外感を抱いたり、全てみんなに任せてしまった罪悪感なんかもあったり。今日感じた負の感情を数えたとしたらきりがない。しかし、今日は楽しかったこともたくさんあったように、僕は思う。

 詩音くんは、そんな僕の短い返事を聞いて十分に満足したらしくふふっと笑ってがさがさと寝袋を鳴らした。


「楓、こっちもう一人くらい入れそう」


 悪い意味じゃない。でも。本当に、僕の事なんて一切わかっていないんだろう、と僕は思う。僕は昼、彼とくっついただけでもドキドキして苦しかったのに。彼はどうせ、なんの気もないのだろう。

 例えば、だ。今はたまたま僕が彼の隣で眠っていたけれど、仮にその隣がひなただったら。いいや、一茶でもいい。とにかく、他の誰でもいい。もし彼の目の前にいるのが僕以外の幼馴染であったのなら。彼は、何の気もなしに同じように寝袋に誘うのだろう。彼のこれは別に、特別な愛ではない。ただの友愛にすぎないのだ。

 ドキドキして、彼に触れたくて、触れられたくて。体が、顔が、熱くなるくらいに意識しているのは、僕だけなのだ。彼はどうせ、僕にそういった感情は抱いていないのだから。


 僕はしばらくまともに触れ合ってない彼の体に背を向け、わざとらしく大きく伸びをした。


「今日はええわ。僕、ドキドキしてまうし」

「すればいいじゃん」と彼は笑う。

「寝られへんわ」と僕も口角を上げぬままハハと笑い声をあげた。


 詩音くんは、それで満足したようだった。背後から、すぐに寝息が立ち始める。呑気な奴だ、と思い僕は大きくため息をついてテントを後にした。


 幸い、詩音くんが用意してくれたスウェーデントーチなるものはまださっき使ったときのまま、テントの前に佇んでいる。僕は、それへ火をつけ正面の椅子へ腰を降ろした。

 熱気で揺れる空気のせいでテントが歪んで見える。僕は再び大きく息を吐いた。


 結局、今日も詩音くんは僕に恋人らしい感情を抱いている様子を見せてはくれなかった。数か月前の付き合ったばかりの頃は毎日のように興奮して、僕に覆いかぶさってきたくせに。確かに、キャンプ中にそんなことをされるのは困る。しかし、あれだけお盛んだったにも関わらず一気に数ヵ月も音沙汰なしとなると、そりゃあ不安にもなるだろう。

 原因はわかっている。きっと、飽きたのだと思う。当時、ひなたに振られたばかりで混乱していたであろう詩音くん。そんな彼に僕が好きだと言ってしまったから。ひなたの代わりでもいいと、言ってしまったから。だから、文字通りにひなたの代わりにしていただけで。

 でも、その代わりはもう必要ない。あれから時間が経ってひなたへの恋心も少しは整理がついただろうし、ひなたと僕が似ても似つかないことに気が付くくらいには正気を取り戻しただろう。だから。

 詩音くんにとって、僕はもう元通りのただの幼馴染なのだ、と僕は思う。しかし。それは僕の想定していた範疇のことだ。問題は他にある。

 それは。僕はそれに、素直に傷つくことはできているのか。それがわからなかった。


 抱きしめてもらったらドキドキするし、出来ることならキスだってしたい。でも。

 彼と恋人らしい行為を営みたいという欲望は、ただ単に彼の愛を確認したいという気持ちに過ぎないし、第一、僕が今彼の好きなところを挙げたとしたら。それは、客観的に見て正しいものなのだろうか。

 優しくて、かっこいい。僕が彼を好きになったのは、そんな理由だったはずだ。でも。優しい人はきっと僕をひなたの代わりになんてしないのではないだろうか。

 だとしたら残るはかっこいいところだけで。僕が彼を好きになった理由なんて、所詮は顔という薄っぺらいものなのだろうか。


 ポケットの中から、連続した振動が伝わってくる。僕は最近、決まってこの時間に振動するスマホを取りだしてこの暗闇では強すぎるその明かりに目を細めた。それは、案の定バイト先の後輩からのメッセージだった。僕はそれを、彼女に読んだと分からぬように操作をしてから目を通す。


『今日は先輩、バイトお休みでしたね。先輩がいなかったからお店が大変でした』


 彼女からのメッセージには、そんな甘酸っぱいことが書かれていた。いいや、別に甘酸っぱくはない、ただの報告かもしれないと考えても可笑しくはない。しかし、彼女の僕を上目遣いに見上げて頬を染める仕草を思い出し、本日何度目かわからぬため息を零れた。

 彼女への返信を送るでもなく、スマホをポケットへしまいこんで足を組む。足の動きにより生まれた風が、火の粉を巻き上げ綺麗だった。何故だか、涙が溢れた。


 そうして考え事をしていると気づけば指先が冷えて、体も小さく震えだす。夏とはいえ、山だと夜は少し冷えるらしい。僕は、目の前の火へ手をかざそうとして腕を伸ばした。その時。木々をも揺らすような大きな声が辺りに響き渡った。


「楓! 何やってんだよ!」


 思わず体が硬直する。その隙に、テントから飛び出してきた人影は伸ばした腕を掴み上げて背後から強く僕を抱きしめた。突然なんなんだ、と思わないでもない。しかし、それは口に出せなかった。それを口に出すのが無粋だと思うくらいに、彼の体があまりにも震えていた。


「一茶……? なしたん、何かあったん?」

 

 穏やかに尋ねて彼の手へ掌を重ねる。彼は震えた口で、さっきとは打って変わってか細く声を絞り出した。


「楓……火、危ないから……だめ……」


 なるほど、と思う。僕はふっと笑って彼の肩を少し強めにポンと叩いた。

 大方、一茶は僕の精神状態を余程心配していて、そして危ないものに自ら手を近づけるのを見ていてもたってもいられなくなったのだろう。


「寒かってん。別に、一茶が心配してるようなことはせんよ」


 彼はそうやって笑って見せた僕の顔を見て、まるで涙をこらえているかのように眉を顰めて目を擦った。


「また、泣いてたの?」


 僕は彼の言葉を聞いてハッとして、慌てて目元を擦る。しかし、さっき溢れたそれはとっくのとうに乾いていた。


「またってなんやねん。泣いてへんわ」

 

 彼は僕の言葉に耳を貸さず、そのまま僕の肩へ顔を埋めてふっと笑った。


「そう? 昨日もその前も、その前の日も夜中泣いてたの、俺知ってるけど」

「夜中なんて僕詩音くんの部屋にいててんで? 僕が泣いてるかどうかなんてわかるわけないやろ」

 

 確かに泣いていることは事実だが、彼に知る由はない。僕は虚勢を張ってふはっと笑い声をあげて、肩に埋まる彼の柔らかな茶髪を撫でてやる。しかし、彼は今までの弱々しさはどこへやら。ニヤリといたずらな笑みを浮かべて顔を上げた。


「バレちゃったね」


 そして彼は、とっくのとうに乾いた僕の涙の痕を親指で拭ってじっと僕の瞳を見据えた。


「楓、お前の悩みを教えろ」


 彼の言葉はとても乱暴で、とても優しい仕草からは程遠い。でも。その方がありがたかった。だって、彼がそう強引に聞くから、と自分に言い訳が出来るから。


「えっと」

 と僕が言い淀む。しかし、彼は僕の言葉を急かすこともなく見つめあったその深緑の瞳を決して逸らさなかった。


「僕、詩音くんのことほんとに好きかわからなくなってきた」


 僕は、そう笑いながら言った。自嘲するように。まるで冗談でも交えるように。

 彼の視線を遮るように前髪を弄ると、朝から一度もまともに鏡の前に立っていないはずなのにそれはほとんど崩れていなかった。


「え」と一茶が目を丸める。「別れたいの?」

「そういうんやない、んやけど……」


 僕がしどろもどろに返すと、一茶は丸めた瞳を今度は優しく細めて僕の髪をくしゃくしゃとかき回した。


「お前はただ、詩音くんに愛されたいだけなんだよ」


 彼の言葉は、よくわからなかった。その雰囲気が彼にも伝わったのだろう。彼は僕の体へ回した腕を解いて離れ、まるで子供に目線を合わせる時のように腰をかがめて再び僕を見た。


「愛されたくて考えすぎて、よくわからなくなる。俺もわかるよ、その気持ち。大丈夫。お前の愛は本物だから」


 この気持ちが、彼の言うものと同じかは分からなかった。だって、彼は僕と同じ体験をしていない。だから。彼にわかるはずはないと思った。

 でも、よくわからないけれど。愛されたいだけ。その言葉は、深く心に刻まれた。


「星、綺麗だよ」


 彼はしばらくの沈黙の後、穏やかな声でポツリと呟き空を見上げた。

 その夜の星空は、家から眺めるものとは比べ物にならない程に鮮やかだった。

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