第6話

 まだ太陽すらも寝ぼけたようにぼんやりとした光を放つ早朝。僕はけたたましく鳴くスマホに叩き起こされる。時刻は6時。まだまだ眠り足りない体に鞭打って、僕はベッドから起き上がり大きく一つ伸びをした。


 テーブルにはペットボトルに入った水や薬とともに詩音くんの少し丸みの帯びた筆跡で『何かあったら呼んでね♡』とのお手紙が残されている。結露で濡れてしまいそうなそれを急いで救出して大学で使っているものと同じ予備のファイルにしまい込むと、僕はふぅ、と息をついた。


 昨日よりは随分マシになったとはいえ、相変わらずの寒気がする。昨日は活発にバイトをこなした後だったのでアドレナリンのせいか気づかなかったが、今思うと倦怠感もただの疲労故のものではなさそうだ。

 とはいえ、だ。僕はパチンとカツを入れるように両頬を叩いた。バイトに穴をあけるわけにもいかないし、ずっとこの家にいるのでもまた一喜一憂して精神が疲れ果てるだろう。僕は意を決して部屋を後にする。


 部屋を出ると、すぐそこに目を丸めた一茶がいた。


「え、楓何してるんだよ。寝とけよ」

「バイトあるし」

「バイトってこんな早朝に……あ、ケーキ屋の方?」

「そうそう」


 彼は僕を心配してくれているようで眉を顰める。僕はそんな彼の言葉を軽くあしらい隣を通り過ぎようとしたが一茶は僕の袖を強く掴んだ。


「今日は休めよ」


 一茶は、何故かとても寂しそうだった。一茶を傷つけることをした覚えはない。なのに、何故か泣きそうな顔をしていた。こんなに毎日バイトをしていてもバイトの上司以外にまともに心配をされたことなんてなかったので、つい気が緩んでしまう。

 しかし、自分の未熟な体調管理のせいで他の人に迷惑をかけることになると思うと安易に頷いてやることも出来なかった。どうしたものかと自分のもみあげを弄る。そんな僕の心情を察してか、一茶は俺を見て口を尖らせた。


「大体、飲食店で具合悪いやつが働いたらダメだろ」


 彼は掴んだ腕を引いて僕の部屋へ向かう。僕はそれに抵抗できなかった。確かに彼の言う通りだった。万が一これがよくないウイルス性の病気だったとしたら、お客さんにも移してしまいお店の管理能力を問われることになるだろう。そう思うと一茶に従うのが正しい気がする。

 彼へ大人しくついて行くと、彼は安心した様に表情を和らげて僕の肩を押しベッドへ座らせた。


 彼の視線が僕の背後へ向く。


「まだ持ってるんだ、詩音くんからもらったぬいぐるみ」


 彼は面白そうにニヤリと口角をあげた。


「ええねん別に……」


 僕は適当に彼の言葉を流してふいとそっぽを向く。なんだか照れくさかった。そんな僕の様子を見て、彼は机に置いてあった薬を瓶からを取り出しながらふっと笑った。


「いいじゃん、大切なんだろ」


 彼が薬と水を差しだした。僕は彼の言葉に何も返すことなく冷たい手からそれを受け取り一気に3錠を飲み込んだ。


 彼はそれを見て「おぉ~」と大げさに手を叩いた。


「なんやねん」と僕は苦笑する。

「すごい。偉い」と彼は僕を褒めた。


 なんだか照れくさくて目を逸らす。彼は、ふぅと息をついて僕の隣に静かに腰を下ろした。彼はついさっきまでの様子とは一変して、やけに硬い顔をして僕へ視線をくれる。しかし、それに気づいた僕が彼を見るとすぐに俯いて顔を逸らされてしまう。彼がこうしているのは今までにも何回か見たことがあった。


「なぁに、相談したいことって」


 僕が笑うと彼は頬を染めてむっと口を尖らせた 。


「まだなにも言ってねぇだろ」

「なにかあるんやろ、どうせ」


 彼はバレたかとばかりにたははと苦笑するがふとまたその表情に緊張が戻る。彼はくるりと振り向きクマの手を握りしばし制止した後、それを離して代わりに枕を手に取り縋るようにそれを抱きしめた。

 彼がここまで真剣な、そして不安そうな様子でいることは滅多にないので、なにか余程重大なことなのだろうと気を引き締める。彼は再度ふぅ、と息を吐くとまっすぐな瞳で僕を見つめて言った。


「今日俺、バイトで昼くらいまで家空けるからさ。ひなたんと詩音くんのこと、見ててやってほしい」


 彼があまりに真剣な顔をしていた。とても言いづらそうな。それでいて、断られたらこの世が終わってしまうとでもいうような。

 僕はついぷっと噴き出した。


「え、それだけ?」


 僕が問うと彼は相も変わらず真剣な顔でこくこくと頷いた。拍子抜けしてしまいだらんと後ろに寝転がる。尚も一茶は、不安そうにそんな僕の顔を覗き込んできた。


「見ててくれるの……?」


 そういう彼はいつもの頼りがいのある彼と同一人物だと思えないくらいに弱々しく見えて、なんだか可哀そうになってくる。確かに、昨日の様子を見せられれば二人のことが心配にもなるだろう。僕は彼の願いにコクリと頷いた。


「詩音くんがひなたに手出そうとしたら、ちゃんと叱っておくで」

「ありがとう」


 彼は、本当に泣きそうな顔をしていた。

 こんなに一生懸命になってくれる人がいるひなたは、幸せ者だと思う。少しだけ、羨ましく思った。そんな感情が顔に出ていたのだろう。一茶はずっと抱いていた枕を手放し、また真剣な顔になって僕の頬へその冷たい手を添えた。


「嫌ならいいんだ。ひなたんのことも心配だけど、お前が今は一番心配だから」


 彼はすぐさま手を離し腰を上げると、ひょこんと栗色のアホ毛を揺らして僕の方へ振り替える。彼はやけに上機嫌に満面の笑みを浮かべていた。


「飯出来たら呼ぶわ」


 そして、そうとだけ言って手を振るとあっさり部屋を出て行ってしまう。さっきまではあんなに思いつめた表情をしていたのが嘘みたいだった。もしかしたら、彼なりに僕に気を遣ってくれたのかもしれない、と思う。

 少し申し訳ないけれどこんな僕なんかの表情をよく見て、気を遣ってくれるのは素直に嬉しかった。だから、僕は少しだけの休養を自分に許すことにする。


 バイト仲間の友達に連絡を入れると、幸いにも代わりはすぐに見つかった。

 僕は、一茶からの呼び出しを待ちながらも再び布団へ潜り込む。

 ふと、僕を見下ろすクマのぬいぐるみが気になった。大切なんだろ、という一茶の言葉を思い出す。


 くれた本人はきっと、自分があげたなんてことすら覚えていないんだろう。なんとなくその場にいた僕にくれただけで、その場にいたのがひなたならひなたに上げているのだろう。それでもいい、と思う。僕はそいつを強く抱きしめた。


 何が悲しくて僕は、好きな人が他の誰かに手を出さないかの見張りをしなくてはいけないのだろう。そう考えながら。






 そうして少しするとご飯に呼ばれて、一茶とひなたと、そして一茶に叩き起こされた詩音くんと4人で食卓を囲む。疲労や風邪の影響で僕はずっとぼーっとしていて大したことは覚えてないけれど、ずっとひなたが眠たそうに目を擦っていたことと一茶がそんなひなたにだらだら食べは良くないと叱っていたことは覚えている。

 そのあとはきっと、みんなで一茶を送り出したのだろう。けれど僕はまたすぐ寝てしまって、お見送りをしたのかすらも覚えていない。


 ただ一つわかることは、ベッドで目を覚ました今。スマホに表示された時刻は昼過ぎを示していて、そしてひなたと詩音くんが二人きりであるということだ。僕は一茶からのお願いを思い出して慌ててベッドから飛び起きた。

 なにか胸騒ぎがした。

 胸に抱いたクマをベッドへ置いてけぼりにしてリビングへ駆けだした。


 静かなリビングのドアノブをひねると果たして、目に飛び込んだものは悲惨なものであった。


 そこには、ソファでひなたに覆いかぶさる詩音くん、そして詩音くんにじたばたと暴れるひなたがいた。ギシギシと音を立てるソファが妙に生々しい。

 その非日常感に僕は逆に夢かなにかかと疑いたくなる。


「詩音くん、落ち着いて」


 ひなたが大きく声をあげ、同時にこれが夢でないことを再確認させられる。彼らは、僕に気づかなかった。

 詩音くんは彼から離れる様子はなくそのままキスを迫ろうと顔を近づける。ひなたが彼の頬を押し返すと、いつもはただ柔らかそうなその腕に男の子らしい筋肉が浮き出た。それがなにより彼の感情を物語っていた。

 こうなるかもしれなかったから一茶はあんなに思いつめた顔をしたのか、と今になって他人事のように考える。


「ひなた、俺は本気でひなたが好きで……」

「だめ、なんだって……!」

「なんで」

「なんでって、えっと……いいから一回離れて……!」


 暴れるひなたの足がテーブルの上にあったコップを蹴飛ばした。ガラスが砕け散る音とともにお酒の香りが鼻につく。詩音くんはそれに驚き力を抜いたようで、ひなたはその隙を突いて彼の下から這い出ようとソファへ手を突いた。


「ひなたあかん!!」


 思わず声を張り上げる。しかし彼は僕の声を聞くとハッとして、その場に留まるどころか急いで彼の下から這い出し、はじかれた様に僕へ駆け寄ってきた。

 彼は一度もその速度を緩めることなく必死な形相で駆け寄った。彼が僕の背へ身を隠した時、案の定カーペットには血痕が残っていた。


「あかんって言ったやろ……足見せてみぃ?あ、詩音くんはそこにおってな」


 ソファの上で硬直する詩音くんを一旦後回しにしてひなたの足の傷を確認しようと彼の足をぽんぽんと叩く。しかし、彼は首を横に振り背中へへばりつくと二度と顔を上げなかった。


「ひなた、ばい菌入んで?」と僕は脅しをかける。

「いいの」と彼は僕から離れようとはしなかった。


 微かに聞こえる抑えられた鼻を啜る音が、今話しかけても無駄だろうということを悟らせる。きっと泣いていることを悟らせたくないのだろう。僕はひとまずは彼を落ち着かせようと、そっと肩を叩いた。


「詩音くん」


 後回しにした彼の方へ視線を向ける。その声は、発した僕も驚くほどに強く芯があった。


「最低やね」


 気づくと、涙が溢れていた。これは、なんの涙だろう。彼が目の前でひなたに告白したことへの涙だろうか。それとも、好きな人がひどいことをしたことへの涙か。もしかしたら、本当は詩音くんにこんなことを言いたくない僕と、正しくありたい僕が戦っているのかもしれない。わからない。

 けれど。背中から感じる小さな震えが、僕に正しくあろうとさせた。ただ、ひなたを守れと。そう本能が言っていた。


「わかんないだろうね、楓くんにこの気持ちは」


 詩音くんが、ふっと笑った。あまりに自嘲的な笑みだった。

 つい、彼を庇いたくなった。寄り添って、どうしたの、とただ静かに話を聞いてあげたかった。でも、そうさせてくれないのは詩音くんだった。


「わかるわけないやろ! 好きな人を傷つける気持ちなんて、わかりたくもないわ!」


 初めて彼へ声を荒らげた。苦しかった。僕もまた、好きな人を傷つけていた。

 ひなたが肩を叩く。彼の方へ向き直るとそこでは、ひなたが涙でぐしゃぐしゃになった瞳を向けて必死に首を横に振った。彼なりに僕を止めようとしてくれた。しかし、それを見ると尚更止まるわけにはいかなかった。


「詩音くん、見損なったわ」


 彼の方を見ずに低く放つ。この感情をどこにぶつけていいか分からなかった 。

 彼からの返事はなかった。自分でそう突き放したくせに僕は滑稽にもわざわざ振り向いた。

 彼は、ずっと俯いていたくせに顔を上げてじっと僕を見た。その瞳には涙が浮かんでいた。

 急に、心臓がきゅっと締めあげられたように苦しくなる。どうして今更涙を見せるんだ。

 全身から力が抜けていくのを感じる。それをひなたはしっかり支えてくれた。


「楓、もうやめよう」


 ひなたが不器用に僕の頭を撫でる。

 無理に作られたその歪な笑顔が余計に僕の胸を締め付けた。


 そんなとき、ふと扉の玄関から音がした。ひなたはふと顔を上げると、最後に頭をぽんぽんと優しく叩くと僕を離れ、彼の元へ向かう。その歩みはだんだんと早くなり、リビングの扉が開いた瞬間には、一茶へ勢いよく飛びついた。彼はひなたの勢いに目を丸めたが、それでもしっかりと抱きとめた。

 一茶の視線が部屋へ向く。彼はすぐに顔を顰めた。


「なにこれ」


 僕はそれが、自分が非難されているように聞こえて仕方がなかった。

 もとはと言えば、僕が言われたとおりに彼らを監視していれば起きなかった事態だった。


「一茶、ごめんなさい」


 声が震えた。彼の顔も見れなかった。ただ僕はその場に崩れ落ちるように座り込んで、なにもない床へ焦点を合わせた。

 一茶はその一言で、そして他ならぬひなたの涙で全てを察したようで、ふぅ、と意を決するように息を吐くとスッと音を立てて大きく息を吸った。

 ふと顔を上げる。一茶は、ひなたの背中へ堂々と手をまわし強く抱きしめ頭を撫でた。

 彼の声は、決して大きなものではなかった。しかし、その言葉はどこまでもハッキリと僕たちの鼓膜を貫いた。


「隠しててごめん。俺たち、付き合ってるんだ」

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