第5話

 少し前まで壮大な物語を映し出していたテレビは、急に物静かになった。知らない人が知らない山を登っていく映像を尻目に、後ろの二人はなにやら話に花が咲いているようだ。もちろん、話の内容は目の前の登山風景ではなくひとつ前の番組の映画についてだ。


「詩音くん、最後の終わりめっちゃよくなかった?」

「えー、一茶そっち派?俺はもう少し先まで見たかった」

「それがいいんじゃん」


 少し前に喧嘩したとは思えないその自然な会話に胸をなでおろす。僕は会話に入れてもらおうと思い体をひねると、寄りかかってきていたひなたが体勢を崩し一気に倒れこんできた。彼の口元から垂れかけていた雫が輝いた。

 僕は慌てて彼を支えようと体をもとの位置に戻すが、その必要もなく彼は自力で体勢を立て直すと自分の二の腕でよだれを拭った。振り向いてすぐ正面にはティッシュもあるのに、彼はそれを気にする様子もない。


「あれ……」


 眠気眼を擦りながらさっきとは一変したテレビ画面へ視線を送るひなた。まだ寝ぼけているようで、しばらくそれをじっと見つめた後「寝てた」と彼は大きく伸びをした。隠すつもりもなく大きく開けられた口からはふああ、と相変わらず間の抜けた声が溢れだす。


「一茶が録画してくれとるからまた明日見れんで」


 一番いいところを見逃してしまっていたであろう彼にそう教えると、彼はぱぁと表情を明るくしてお礼を言った。そして、彼は再度何事もなかったかのように僕に寄りかかると再び目を瞑る。

 いつもは少し体温が高めなひなたも、今日は少し低い気温のせいかひんやりしているのが心地よかった。だから僕は、彼を引きはがしたり起こしたりすることなくただ大人しく彼の寝具か何かにでも徹していた。

 すーすーと寝息を立てるたびに上下する肩は、愛らしいとまでは僕は思えないけれどきっと詩音くんや一茶が見たらたまらないのだろう、と思う。こんなにすぐに眠りにつけてしまうのはまるで、自由な動物みたいだ。たくさん食べて、好きなテレビを見て、好きなタイミングに好きな場所で眠りにつく。そんな、本当に自由に生きている彼が心底羨ましく思える。


「ひなたん寝ちゃったの?」


 いつの間にか語り合いが終わったらしい一茶は、背後から彼の顔を覗き込んでクスクスと笑う。もちろん、その問いかけにひなたは応じない。一茶はそんななんでもないような一連の流れにも心からの幸せを感じたように柔らかい表情を浮かべ、そっとひなたの髪へ触れた。


「可愛い」


 小さく呟いたつもりであろう彼の言葉は、近くにいた僕にもしっかりと届いた。僕が一茶を見つめると、彼はハッとした様に僕を横目に見て頬を染めて唇の前で指を立てた。僕は慌てて大きく頷いた。


「服によだれつけられなかった?」と一茶が笑う。

「自分の服で拭いとったで」


 僕が返すと彼はやっぱり愛おしいものを見るような目で彼を見てくすっと笑みを零した。


「ひなた部屋連れてこっか?」


 今度は詩音くんが背後から現れ、すとんとひなたの隣にしゃがみこむ。その顔は決して下心があるわけではないように思えるけれど、たくさん飲んだためかやはりまだ少し赤かった。もちろんさっきの喧嘩の後に、そんな状態の詩音くんとひなたを二人にするのを一茶が許すはずもなく、一茶は即座に首を横に振る。


「大丈夫、俺連れてくから。ほらひなたん起きて。部屋戻るよ」


 そうひなたをたたき起こす一茶はどこか焦っているように見えた。ひなたがまだ目も開けず「んー」と唸り眉を顰めるのを見て、彼は強引に腕を引っ張り上げて立ち上がらせた。いつもは大人な一茶も、ひなたのことになると分かりやすいとつくづく実感する。

 だから僕は、僕はついて行こうと立ち上がる詩音くんの服の裾を掴んで彼を阻止した。


「詩音くんはここにおってや」


 別に、詩音くんの恋を邪魔したいわけではない。あわよくば一茶とひなたがくっついてしまえばなんて思っていない。ただ、彼が行ってまたひなたになにかしても困るから。ただそれだけだ。


「あぁ、うん」


 彼は珍しい僕の素直な頼みともなると上手く断れなかったようで、一瞬困った顔は見せたもののふっと表情を和らげて僕の隣に腰を下ろしてくれた。その一瞬の表情にすら少しだけ悲しさも感じてしまうけれど、何よりひなたよりも優先してくれたことはその悲しみを凌駕する程に嬉しかった。


 もしこれがひなただったら、と僕は考える。きっと、深く考えたりもしないで彼に寄りかかって甘えることができるのだろう。僕は彼を見習って、少し距離を詰めてみる。彼は何かを察したのか僕にぴったりとくっついてきた。


「楓くん、まだ酔ってんの?暖かい」


 きっと、それは彼のせいだ。ドキドキと胸が痛いほど脈打って息が苦しい。目の前がぼやけて頭がくらくらする。そして、僕は本当に意図せず彼の肩へ倒れこむようにして寄りかかった。彼の体は、思ったよりも案外暖かくはなかった。


「今日は甘えたい日?」


 彼がクスリと笑うその優しい笑顔に目を奪われる。まるでひなたに向けるもののようだ。僕はそれが嬉しくて、小さく首肯する。詩音くんはなんだかとっても嬉しそうだった。お酒が入っているから上機嫌なのだろう、と何となく察する。ひなたは彼のこんな一面を毎日見ているのか、と思うと少し妬けてしまうけれど、こうしてたまに分けてもらえるのなら悪くないと思った。

 そうして幸せに浸っている中。ひなたを部屋まで送って戻ってきたであろう一茶の声が背後から部屋に大きく響く。


「楓!?」


 そして数十秒もしないうちに目の前に彼の顔が現れた。何をそんなに騒いで、と思うが彼はそんな感情が表情に出る僕たちを置いてけぼりにして、慌てた様子で僕のせっかく綺麗に整えた前髪を払いのけると額へ手を当てた。

 その掌は冷たくて気持ちがよかった。


「お前、熱あるだろ」

「ちゃうって。酔ってんねん」

「さすがの楓でもあの量では酔わないだろ」


 彼は僕の額の温度を確認するや否や深刻そうに眉を顰める。僕自身、疲れはあるものの体調も悪いという程のものは感じていない。しかし、彼はいつもの過保護を発揮して僕を抱き上げようと膝の裏に腕を入れた。


「ほんまに大丈夫やって……」

「でも、ずっと寒いって言ってただろ。熱これ以上上がる前に大人しくしとけって」


 確かに寒かったけれど、あれは詩音くんのせいだと思う。心理的原因だ。もちろんそれは言えないけれど。

 その一瞬の間を感じ取った一茶は、僕が観念したとでも思ったのか一気に僕を抱き上げた。体重はともかく、身長も大して変わらない彼に抱き上げられると恥ずかしいなんて感情以前に恐怖でヒヤッと体が冷える感覚が襲う。僕は慌てて彼の背中に手を回した。


「自分で歩けるから……」

「いいから大人しくしろ」


 そう言われても、怖いし申し訳ない。降りようとして僕が足をバタバタと動かすと、詩音くんがその足へ触れた。


「いいよ、俺連れてくから」


 詩音くんが僕の意思を無視した様に一茶の方を向いて言う。一茶はそれを聞くと、あっさりと僕を詩音くんへ受け渡してしまった。その作業が怖くて僕はつい詩音くんにしがみついた。今度は、さっき下がったかもと思った体温が数度上がった感覚に陥る。僕は複雑な感情で彼から目を逸らした。


「なぁに、楓くん。俺じゃ嫌?」


 彼はクスリと笑うと、答えを待つことなく部屋へ向かおうと足を踏みだす。その表情は、まさか楓くんが自分の抱っこを拒むわけがない、とでも言いたげな自信に満ち溢れていた。悔しいけれどその通りなので僕は甘んじてそれを受け入れることにする。

 ニヤリと口角を上げた一茶は僕へ手を振ってきた。その楽しそうな表情はまるで、僕の感情を全て見抜いているようだ。というよりも。実際そうなのだろう。僕は少し気まずくて、詩音くんの胸に顔を埋めた。


「いいよ、ずっとそうしてて」

 

 詩音くんは優しくそう言った。

 なのに。彼のその声色からはどことなく哀愁が漂っていた。こっそり視線を上げるが、彼は僕を見ずにまっすぐ前を向いて部屋へ向かう。僕は彼の綺麗に歪んだ顔を、ずっと見上げていた。


「俺が気づいてあげたかったな」


 彼が悔しそうに零した笑みは、普段の笑顔よりもずっと大人で。とても綺麗だった。





 部屋に着くと、ベッドに鎮座したクマのぬいぐるみの隣に寝かされる。僕は先にお風呂に入りたいとごねたが明日でいいと叱られてしまい僕は成すすべもなかった。

 僕が大人しくなると彼は甲斐甲斐しくリビングと僕の部屋を行き来した。冷却シートや水、薬などが次々と手元へ届くが、そんなものよりも僕はただ、詩音くんがそばにいてほしかった。いつにも増して味わわされる孤独感に押しつぶされそうだった。

 もちろん、そんなこと知る由もない詩音くんは一通りものを揃えてからようやく落ち着いたようで、布団へ潜り込む僕のベッドの隣にしゃがみこみ声をかけてくれた。


「楓くん、出ておいで。薬飲むよ」


 その声はとっても優しくて温かい。僕は詩音くんのせいか風邪のせいか、熱に当てられながらも顔を出す。彼はすぐさま僕の乱れた前髪を避けて額へ触れた。


「熱いね」

「大丈夫やで。酔ってるだけやし」

「ほとんど飲んでないじゃん」


 僕は心配させたくなくて適当を並べるが、彼はさっきのように騙されてくれることはなくクスリと笑いながら額へ冷却シートを貼ろうと粘着部分のシートを剥がした。


「待って待って、手にくっつく」


 手元にくっついた冷却シートを剥がす様は少し滑稽ではあるが、上手く剥がれた時の表情はまるで幼子のようでギャップを感じる。僕が自分の前髪を上げて待つと彼はくっついた冷却シートとの戦いに勝利したようでそれを丁寧に張り付けてくれた。ひんやりした感覚が心地いいがそれよりも、こんな体調の悪いときにそばに詩音くんがいてくれる環境がなにより心地よかった。


「あんまり無理したらだめだよ」

「わかってる」


 彼が僕の髪を梳くように撫でてくれる。僕はその感覚につい、微睡んだ。





 

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