第3話

 夕飯が終わり、決して少なくはないお皿たちを丁寧に洗っていく。少し弱めの水圧にも今や慣れたものだ。油を扱った鍋なんかも、一茶が料理後にきちんと処理してくれたのだろう。きちんと洗剤に浸けられていて汚れも落としやすく、特に苦も無く僕は皿洗いという単純作業を続ける。


 キッチンからは弱い水音しか発せられていなかったためか、代わりに会話のないリビングから聞こえる最近詩音くんとひなたが熱心になっているゲームの音がよく響く。

 僕は一度お皿を洗う手を止めて、水道をひねった。なんとなく、彼らの様子が気になった。別に他意はない。濡れた手をシンクの下から下がるタオルで綺麗に拭きあげると、僕はこっそりリビングを覗き込んだ。そこからは、一茶がソファに寝転がる詩音くんの隣に座り、嬉々としてゲームを横から覗き込んでいるのが伺えた。


 一茶は別に、ゲームに興味があるわけではない。それは執拗に彼の髪をいじくったり、覗き込んでいる割に視線は詩音くんの顔へ向けられていることからも明らかだった。

 どうみても邪魔になるであろう息がかかりそうな程のその距離だけれど、詩音くんはそんな彼を邪魔者扱いすることなく、かといって声をかけてやるでもなく黙々とゲームに勤しんでいる。詩音くんも大変だ、と僕は思い密かに苦笑した。と、同時に。なんだかモヤっと複雑な感情が生まれるが、僕にはその正体はわからない。僕はその感情にそっと蓋をする。


 一通り彼らの様子を眺めると、再びシンクの前に立つ。こんなことをしている場合ではない。やるべきことは早く終えて、少しでもゆっくりして明日のバイトに備えよう。僕は再び少し汚れた白いお皿を手に取った。そんなとき、突然両肩へ触れてわざわざ肩の上から覗き込んでくる不束者が現れる。


「楓、はやく~」


 声でわかるなんてことよりなにより、こんなことをするようなやつは一人しかいない。いつもはふざけて邪魔者扱いされがちな彼だが、今日はなんとなく心が暖かくなる。僕は振り返ることなく、手を動かしながらクスリと笑みを零した。


「一茶、ちょっと待ってや」

「待てな¬~い」


 彼は何が楽しいのか、そうふざけたように首を振るといつもより高い声でクククと笑った。きっと、スマホゲーム中の詩音くんにかまってもらえなくて寂しかったのだろう。だとしても。何故だか僕の心の中のモヤがすっと晴れたのを感じた。

 とはいえ、残念ながら今彼に構ってやれる時間はない。僕はにやりと口角を上げると大きく息を吸う。


「詩音く~ん。なんか、かまちょさんがキッチン迷いこんどるんやけど~」


 次の瞬間、ゲームの音が止む。そして、なにやらぱたぱたと足音がしたかと思えば詩音くんはすぐにひょっこりと姿を現した。


「わ~、すみません~、うちの管理不足です~」


 そうまるでなにかの業者のような口調でぺこぺこと頭を下げる詩音くん。僕がふざけて「ほんまやで~」と悪態をつくと彼は楽しそうにハハハと笑い一茶の腕を掴む。それを見た瞬間、僕はきゅっと胸が締め付けられたような感覚に陥る。


「邪魔したらだめだよ」


 詩音くんはそんな僕の心境に気が付くことなく一茶をそう咎めると、彼の腕を引いてリビングへと向かう。

 キッチンからでる刹那、詩音くんに手を引かれた一茶がちらっと僕の方へ振り向いたのが視界の隅に入る。彼の表情はさっきまであんなに元気だった様子とは打って変わって、どこか哀を帯びていた。追い出されたことがそれほど寂しかったのだろうか。


 なんとなく申し訳なさを感じて横目で彼を見ると、不覚にも彼と目が合った。彼の鋭い目を見ていると怒っているだろうか、後で謝った方がいいだろうか、なんて不安が脳裏をよぎる。

 しかし一茶は、そんな不安をよそに僕と視線が合いふっと目を細めた。てっきり怒らせたと思った僕はつい、お皿洗いの手を止めて彼の方へ顔を向けてしまう。


「詩音くん、行こ~」


 彼は僕が見たのをわかっているくせに敢えて僕から顔を背けると、そう詩音くんを急かしながら彼をおいてリビングへ駆けていってしまった。

 取り残された詩音くんが、さっきまで一茶の腕を握っていた右手を眺める。その様子がなんだか少し、可哀想に見えた。


「詩音くんもはよ行ってき?一茶寂しがんで?」


 そう、言葉で彼の背中を押す。彼の様子は意図的に視界に入れないようにした。既に綺麗になったお皿を繰り返し擦ったりして。彼はハッと笑い「ほんとだね」と明るい声で呟いた。ここで僕が視線を送っても彼と視線が合わないのは、なんとなくわかっている。だから、我慢した。

 水音は大きくないと言えど、近くで聞いているとなかなか小さな音はわからなかったりする。つい僕が我慢できなくて顔を向けた時にはもう、詩音くんの姿はなかった。ここにいたのがもしもひなただったら。きっと足音もなく去ったりはしないんだろう。と、僕はそう思う。




 丁寧に洗い物を終えると、再度手を綺麗に拭きなおしてリビングへ向かう。そこでは一茶と詩音くんが見もしないテレビをつけながら、キャッキャと楽しそうにおしゃべりしていた。一茶が床から詩音くんを見上げるその視線は単純に親友へ向ける甘えん坊のソレだけれど、それでも彼のその男らしい整った顔とその無邪気な笑顔のギャップを目の当たりにすると自分はきっと一茶にも本気を出されたら勝てないんだろうなぁと自覚する。


「なぁに話してんの」


 そんななか、僕はそう言って少し図々しく詩音くんの座るソファの隣にあったクッションを胸に抱いて、そこに腰を下ろした。詩音くんは意外にも少しも嫌な顔をすることなく寧ろ少し距離を詰めてくれた。


「あぁ、ひなた絶対間に合わないよねーって」


 彼が距離を詰めてまで見せてきた彼のスマホの画面へ視線をやると、そこには『20:48』の文字。映画が始まるまでは残り12分。どうにか間に合いそうな気配がしなくもないが、お風呂からは未だにシャワーの音が響いている。今すぐに終わったとしてもここからドライヤーを、と考えると時間は心もとない。


「最初の方録画しておいてやるか」


 一茶は腰を上げるとテレビ前に置かれているリモコンを手に取り、ささっとそれを録画した。ふと、もし相手が僕だったとしたらこんなことしてくれるのかな、なんてくだらないことを考えた。彼らは優しいから、疑う余地もないはずなのに。一茶は、そんな俺の方を見てふっと表情を緩めた。


「大丈夫。まだまだ容量あるから楓の見てないやつ消したりしないよ」


 そんなこと、微塵も心配していないのに。なんとなく落ち込んだ気持ちが表情に出ていたかな、と少し反省する。しかし、それと同時に一茶が僕の気分の細かな変化による表情の曇りを見抜いてくれたのだと思うと、少しだけ嬉しかった。

 まるでこれでは、寂しがりやの一茶みたいだ。


「知ってんで。そんなん心配しぃひんわ」


 だから、僕はわざと明るくクスリと笑って見せた。


「ならいいけど」


 一茶は、僕の表情を見ると露骨に安心した様に目を細める。そんな彼の気遣いは僕にとっては寧ろ毒で。ふっと笑うふりをして僕は彼から顔を逸らす。こういう時、ひなたのように髪が少し長めだったら、と思う。そうしたら上手く表情を隠せるのに。僕は少し伸びた多めの前髪を弄り顔を隠す。


「俺お酒持ってくるわ。楓くんも飲むよね」

 

 隣にいた詩音くんは、そんな僕の様子に全く気が付くこともなく明るく言ってぐいと距離を縮めて顔を覗き込んだ。僕の目の前で、彼の長いまつげがパタパタと動く。なんなんだ、と僕は思う。ひなたにはこんなことしないくせに。


「うん、飲む……」


 顔が熱くなるのを感じて、慌てて今度は耳元にあるもみあげの毛先を摘まみ上げる動作で自然に顔を隠す。さっさと離れてほしい。こんな惨めな想い、誰にもバレたくなんかなかった。

 そんな願いも空しく、詩音くんは小首を傾げて瞬いた。


「どした?別に髪乱れてないよ?」


 そして、彼はあろうことか僕の指先にある髪へ触れすっと指で梳かす。少し触れた彼の指先がくすぐったい。


「意外にサラサラなんや」


 彼は特に興味深げでもなく、かといって全く関心がないようでもなくぽつりと呟いた。

 その低い囁きが、直に耳をくすぐる。ゾクッと、胸が痛いような苦しいような、変な感覚に襲われた。


「ふえ……」


 つい、間の抜けた声が唇の隙間から漏れだした。不可抗力だった。

 恥ずかしいところを見られた。詩音くんに、変だと思われた。そう思うとじわっと目頭が熱くなる。僕はソファに足を上げ三角の形になって小さく丸まると、抱いていたクッションに顔を埋めた。

 いつもなら、こんな時の切り抜け方なんてすぐにわかるはずなのに、今日はなんだか頭が回らない。


「あぁ、ごめんね。楓くん、髪いっつも綺麗な色してるから……こんな柔らかいと思わなくて…………あ、酒、持ってくる……!」


 彼は慌てて後ずさって僕から距離をとると、何か言い訳をするように早口にそう言葉を並べ立てたかと思えばバタバタとキッチンへ駆けて行った。クッションのせいで彼の顔は見えなかったけれど、いつもより大分上擦った声でわかる。気まずそうだった。僕はクッションを抱きしめる力を強める。


「寒い」


 詩音くんがそばから離れた瞬間、一気にぬくもりが消え体感気温が落ちた気がする。これを口に出したのは不機嫌さ故意外の何ものでもないが。


 大好きな詩音くんだが、こうして振り回されるのが悔しくて僕はクッションから顔を上げた。もちろんそこに詩音くんはいない。別に、こんなの日常茶飯事だ。詩音くんに勘違いさせられそうになるのも、近すぎる距離感に戸惑うのも、全部。普段なら適当にあしらうフリができたのに、今日はやけに寂しさを感じる。僕は柔らかいクッションに顎を乗っけて、はぁと大きくため息を零す。


「楓~、やっぱり疲れてる?」


 一茶は僕を心配してか、詩音くんのように馬鹿げた近さではないが顔を覗き込んでくるといつの間にか手にしたブランケットをそっと肩から掛けてくれた。多少なりとも暖かくはなったがそれでも小さく体が震える。詩音くんのバグった距離感のせいで、と僕はこっそりと彼を恨んだ。


「大丈夫。ちょっと、詩音くんが近くてびっくりしただけやで」


 決して大丈夫なわけではないがかといってそんなことを一茶に相談するわけにもいかない。僕は精一杯自然な微笑みを作って見せた。


「相談、してくれてもいいのに」


 一茶はそんな僕の作り笑いを見抜いたようにそんな意味深なことを呟くが、そのくせまた僕から視線を逸らしてすぐにテレビのコマーシャルなんてものを興味がなさそうに眺めるのだった。

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