第2話
自室の扉を開くと真っ暗な部屋へ体を滑り込ませる。幸い、扉を隔てると三人の会話内容までは耳へは届かなくなった。僕は肩の力を抜いて、手探りで壁のスイッチを押した。
一番初めに目に入るのはやはり、ベッドに鎮座する大きなクマのぬいぐるみだ。ただでさえ男子大学生の部屋にあるにはふさわしくないのに、それはこの比較的整っていると自負している部屋にあるにはあまりにくたびれているため余計に異彩を放っている。実家から持ち出す際にクリーニングに出したばかりのコイツが、こんな状態になるほど弄った覚えはない、とも思ったがそういえば一時期、ひなたがとても気に入って持ち歩いていたっけと思い出す。せめて今度、再度クリーニングにでも出してやろうと考えるがその思考は日課となっていて、実現した試しはない。僕は目が合ったそいつから視線を逸らし、部屋の奥へ設置されたクローゼットへと足を運ぶ。
クローゼットを開いて、まずはカバンからバイトで使う前掛け型のエプロンを取り出すとカバンはそのまま下のスペースへしまい込む。
次にハンガーを取り出すと、上着を脱いでそれへかけてから隅に置いてあった消臭スプレーを吹きかけた。広がるしゃぼんの香りが心地いいけれど次に着るときにもこの香りが残っていたことは僕の知る限りはない。とはいえ、きっとないよりましだ。
そこから更に服を脱いで、部屋着用にしっかり買ったゆるいTシャツとズボンに着替える。
こんな簡単な動作なはずなのに、バイト終わりだとそれがやけに億劫で大きなため息が漏れた。ひなただったらきっと、この工程を笑顔でやってのけるのだろう。いいや、脱いだ服を散らかして怒られているのかもしれない。それでもひなたらしくていいと思う。僕にもそんなことをしても許される愛嬌があったら、と考えるとまたため息が一つ零れた。
とはいえ、こんなところでのんびりしている時間もない。きっとまたひなたが駄々をこねているだろう。僕は短いもみあげを右耳へかけるとピアスを外し、机の上に置いてから慌てて脱いだ服を拾い上げ電気を肘で消して自室を出た。
洗面脱衣所へ寄ると洗濯機の前には大きな洗濯籠が一つ。内容物はほとんどがひなたのものと思われる衣類で、しばらく洗濯に出し忘れたことが想像できる。今日の当番の人が可哀想だ、と考えかけたがきっと一茶も詩音くんもひなたのそんな些細なことなんか気にならないのだろう、と思うと思考をやめて自分の衣服を放り込んだ。
やっとリビングへ向かうと食卓には既に三人ともそろっており、楽しそうに雑談に興じていた。もちろん、詩音くんの隣は埋まっている。しかし、残っている席はいつも通り詩音くんの向かいの席なので文句はない。僕は「おまたせ」と急いで空いた席へついた。
「おそーい」
すかさずひなたは文句を零す。そんなひなただったが、その顔はとても楽しそうで、不満があるというよりかは遅れてきた僕を歓迎するように小さな口元を緩ませた。この顔を見ると複雑な気持ちになる。
こいつを嫌い、そして憎むことができたならば、どれほど楽だろうって。
「食べててええっていっつも言っとるのに」
僕はつい反射的に言葉を返した。言った直後、少し攻撃的な物言いだったかと後悔して顔を上げるが時すでに遅い。
「えー、ひなたお腹空いたって騒ぎながら待っててくれたんだよ?」
どんな時もひなたの味方である詩音くんはそう言ってひなたよりも寂しそうに眉を下げた。
「まぁまぁまぁまぁ……一旦飯食って考えよ。俺お腹空いた」
俺と二人の双方を宥めるようにそう言ってその場に似合わない明るい笑顔を浮かべる一茶。しかし、その瞳は何かを確認するように一瞬ちらりとひなたを捉えた。
最近はときどき、こういうことがある。僕が大人げなくひなたを傷つけて、一茶に宥められる。もちろん僕がひなたに嫌な言い方をするのが悪いのだから自業自得である。けれど、それがわかっているのについこんな言葉を吐いてしまう自分にも嫌気がさしていた。
少なくとも今まではこんなんではなく、世渡り上手であることは自負していた。しかし、それも今まで自分に余裕があっただけに過ぎないのかもしれない。
こんなんだから、詩音くんは俺じゃなくてひなたを選ぶんだ、とは思うけれどこの感情のやり場もなくて、もうどうしようもなかった。
「すまんな」
僕が小さく声を絞り出すと、ひなたは嫌味を言われていたことも気づいていなかったかのようにキョトンと首を傾げた。そんな仕草がますます僕に罪悪感を植え付ける。僕が目を逸らすと彼はすぐに何事もなかったかのように目の前に積み上げられる大きな唐揚げへと視線を向けるのが視界の端に映りこんだ。
「いただきます」
重苦しい空気を打ち消すように一茶は大きく声を上げると、音を立てて手を合わせた。詩音くんも、ひなたが傷ついた様子を見せないことで安心したのか案外後腐れなく無邪気な笑顔を浮かべてパチンと音を立てて挨拶を口にする。
一方で、ひなたはというと彼らがあいさつを済ませているうちに一番大きな唐揚げを真っ先にお箸で突き刺し、大きな口で頬張った。
挨拶なしに真っ先に食いつくお行儀の悪さを叱りたくもなるが、彼の口の端からあふれる唐揚げの肉汁を見るとそれも叶わない。一茶と詩音くんが口元を緩めるのが分かる。
そんななか僕はというと、その到底同い年とは思えないひなたの様子になんとも言えない敗北感を感じていた。これ以上出来るだけ何も考えないように、小さく手を合わせると目の前の敢えて小分けにされたサラダに手をつける。このわざわざ小分けにされたサラダは、こうでもしないとひなたが食べないので苦肉の策として一茶が導入した方法だ。
サラダは、一茶らしく綺麗にトマトやキャベツ、カニカマなんかで彩られていてとてもさっぱりした味わいだ。僕は、野菜は好きではないので決して美味しいとは思えないけれど。
「ひなたおっきいのとった」
詩音くんはやっぱり、といったニュアンスを込めてそう笑うとひなたは何を勘違いしたのか「早い者勝ちだよ」と膨れた。
「取らないって」
詩音くんはそう、ただ楽しそうに、幸せそうにひなたを見つめていた。食事中だというのに、ご飯なんかには一切の目もくれずに。その表情は僕や一茶に向けるものとは何かが決定的に違っていて、詩音くんは本当にひなたが好きでたまらないのだろ、と密かに思う。僕にそう思わせるほど、愛に満ちあふれた顔をしていた。
僕は、一度彼らの存在を忘れるように目の前の料理に視線を移す。
それはひなたの好きな唐揚げがあったり、かと思えば健康面もちゃんと考えられていて野菜やみそ汁まで用意されていたり、いくら春休み中で時間を持て余す時期とはいえ男子大学生が作るにしてはやたらと凝ったものだ。きっと一茶が一生懸命ネットなんかで調べながら作ったのだろう。いいや、もしかしたらもう調べなくても作れるほどになっているのかもしれない。
最近任せきりで申し訳ないな、と僕は思う。優しい彼らのことだ。きっと家事の当番を変わってもらったところでみんななんとも思わないのだろうが。……休みの日にでもまた挽回を頑張ろう。
そう考えていると、やっぱりなんとなく罪悪感を感じて居心地の悪さを実感する。これだからあまりこの家にはいたくない。自業自得ではあるが、どうしてもこの空間に自分の存在価値を見出せなかった。
彼らは現に、こんなにも思い悩む僕を尻目に楽しそうに笑いながら食事を楽しんでいた。
それもそうか、と思う。誰も僕に興味なんかない。
僕はただぼーっと食べ進める。気が付いたときには目の前のサラダのお皿は空っぽになっていて、ひとまず苦手な野菜をやっつけられたことに安堵する。ふと顔を綻ばせた時、大きな声が耳を劈いた。
「楓!」
気が付くとムスッと膨れたひなたに真ん丸な瞳で僕を睨みつけられていた。何やら珍しく本気の方でご機嫌が斜めなようだ。とはいえ、もちろんこいつの目なんかに一切の恐怖を抱かない僕は「なぁに」と腑抜けた声で返事をする。
「楓、唐揚げあと少しだよ。全く食べてないじゃん」
彼はそう言うと、身を乗り出して僕のお皿の上に唐揚げを乗せ、そして満足そうに白い歯を見せた。
余計に、自分が惨めになる。ひなたはこんなに気を遣ってくれているのに、勝手に拗ねて、八つ当たりのように攻撃をした相手に気を遣われて。胸がざわっとして、僕は慌てて強く目を擦った。
「ありがと」
ひなたの顔を見てお礼が言えなかった。絞り出すように放った言葉は、彼に伝わっただろうか。
「楓くん」
と詩音くんが僕を呼ぶ。
「食ってないなら言ってよ」
彼はそう僕を叱っておどけるように少し膨れると、自分のお皿にあった唐揚げを全て僕のお皿へ移してくれた。思いがけないプレゼントについ口が開く。
一方でひなたは、相変わらずの悪戯顔を浮かべた。
「んじゃ、唐揚げのお礼に俺のサラダ食べて」
そうして有無も言わさず僕の目の前に登場するのはカニカマだけが綺麗に消え去ったサラダ。それは僕の前に置いてあったものよりも量は明らかに少ないわりに手をつけた形跡もなく、きっと野菜の嫌いなひなたを気遣って一茶が減らしてやったのだろうと想像できる。
とはいえ、これも食べてしまえばせっかくもらった唐揚げを食べる前にお腹がいっぱいになってしまいそうだ。
「ひなたん、野菜食べないと体に悪いよ」
一茶は困った僕を見かねてか、それとも単純にひなたへの心配か……多分後者だろうけれど。そう言って僕の目の前に差し出されたサラダをひなたの前に戻してくれた。
ひなたはというと、それに反抗することはないがまるで叱られた後の子犬のようにしゅんと項垂れてしまう。そうしたら注意し難くて食べなくても済むことをわかっているのかもしれない、と思わざるを得ない。
しかし、意外にも一茶はそれにもひるまずに口を尖らせた。
「あーあー、ひなたん、野菜食べないとまぁた体重増えるよ~」
刹那、ひなたはハッと顔を上げるとドレッシングが口周りに付くのも気にせずにそれらを瞬時に平らげてしまう。一茶は勝ち誇ったようにヒヒっと笑い「ひなたん偉い」とまるで子犬を扱うように褒めた。
最近彼が体重が増えただの痩せたいだのとぼやくのは耳にしていたけれど、彼が野菜を食べるほどなのだから余程気にしているのだろう、と思う。食後に野菜を食べたところで大きく変わるのか、という疑問もあるけれど黙っておくことにする。
一応、僕が食べなくて済んだのは一茶のおかげなので彼を見てお礼を伝えようとしたけれど彼はひなたの口周りを拭いてやる仕事に夢中で僕の方を見てはくれなかった。
そうして、あとは詩音くんがひなたにちょっかいをかけたり、それを一茶が叱ったりするのを眺めつつたまに空気を呼んで笑ったり。そうしているうちに僕がもらった唐揚げもほとんどなくなり、他の料理も残りわずかな状態となっていた。そんななか、「そういえば」と一茶が声を上げる。
「ひなた、見たい映画テレビでやるんだろ? 時間大丈夫?」
よくわからないが俺のいない間にそんな話があったらしい。一茶は特に時間を気にする様子はなく最後の一口を口へ運びながらぽつりとつぶやく。次の瞬間、ひなたが耳を塞ぎたくなるような大きな声を上げた。
「やべ忘れてた! 俺洗濯してくる! 風呂も入らなきゃ!」
彼は慌てて残っていたみそ汁を一気飲みして席を立つとタンといい音を立てて茶碗をテーブルへ置き、そのまま駆けて行ってしまった。慌ただしいやつだ、つい苦笑が漏れる。
「あいつ、ご馳走様しろよ~」
一茶も同じようにたははと苦笑してぼやくが、そういう割にはやっぱり彼の瞳はやけに優しくて、ひなたは僕がいない間もこうして散々に甘やかされているんだろうと想像した。
「ひなたらしいじゃん」
詩音くんもそう言ってなんだか楽しそうに笑みを浮かべ、ひなたの分までお皿をもって席を立つ。
ひなたは昔からああいうマイペースな奴だった。けれど、マイペースな分どこまでも素直で純粋で。だから、俺はひなたのことが嫌いになれないんだと思う。
僕もそうなりたい、と思う。なれるわけもないけれど。ひなたもまた、僕のあこがれだった。
それでも詩音くんの楽しそうな笑顔を見るとつい、僕も笑顔が零れる。詩音くんが幸せならそれでいいじゃないか、と。その相手がひなたなら仕方がないじゃないか、と。自分では到底敵わないし、ひなただってどこか抜けているけれどやるときはやる、とってもいいやつだ。きっと詩音くんを裏切ったりはしないだろう。
だから僕は、もう諦めていた。それに、だ。幼馴染で男同士の彼らのことだ。なんだかんだ、告白して付き合って、なんてことにはなるはずもない。それなら、黙ってこの詩音くんの幸せを傍で見ているのも悪くはないと思う。
なのに。
詩音くんは僕の笑顔を見ると、きょとんと目を丸めてじっと見つめた。
もしかしたら口元に何かついているのかもしれない。僕はそんなの詩音くんに見られたくなくて慌てて口元を隠す。彼は不思議そうに数回瞬いて、そしてまるでひなたに向けているような優しい微笑みを見せてくれた。
「あれ、今笑ってた? 今日疲れてんのかと思ってた」
今度は僕が目を丸める番だった。
ちゃんと笑顔は作っていたのに。ひなたともいつも通りに言い合って騒いだし、彼らの話に合わせて笑ったりもしていた。ひなたの言動に苦笑することもあった。それでも詩音くんは、帰ってきて初めて浮かべた僕の心からの笑顔をちゃんと見つけてくれた。
俺は、詩音くんのこういうところが好きだ。悔しいけれど大好きだ。
僕のことなんて全く見ないでいてくれたら素直に諦めもつくのに。それでもこうしてたまに僕を見つけてくれるから、甘酸っぱくて、辛くて、苦しくて、でも、嬉しかった。
「元気やで」
僕は、そう目を細める。一瞬、視界がぼやけた気がした。
「そ。お疲れさん」
詩音くんは僕の笑顔を見るとふっと息を吐くと、僕のお皿の隣に右手に持っていたひなたのお皿を置いた。なんだろう、と僕は彼を見上げる。
彼はそんな僕の頭をぽんぽんして、そしてニコッと口角を上げた。
「よかった、元気そうで」
胸がきゅっと痛かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます