第5話 上 昇

   Scene#1  新田原基地・飛行教育航空隊


 一等空尉小福田義文は、ふと赤ボールペンを止めて、それまで修正していた論文を読み上げた。

「……ここで大きく戦局を左右した存在がある。今次大戦、アメリカ軍は、奪取した島嶼に海軍建設大隊等を投入し、短期間の内に良好な飛行場を開設して航空部隊を進出させ、制空権を確実なものにした。特に、日本を苦しめた四発重爆撃機のB―17やB―29を運用するには、長大で良質な滑走路が不可欠である。建設には、ブルドーザーを中心とする土木器材がなくてはならない。航空機の数や性能以外の面でも、日本にはブルドーザーに代表される飛行場設定能力という大きな航空戦の敗因があったのである――」

 小福田は、我ながら満足できる冒頭部になったと悦に浸り、卓上のマグカップに手を伸ばした。ミルクを垂らしたイングリッシュ・ブレックファーストの香りを鼻腔内に吸い込んだあと、彼は飲み干した。間もなく発表する予定の戦史論文の仕上げは、順調だった。

「おっと、全体ブリーフィング一〇分前だな」

 いちいち、自分の行動を口に出して確認するのが、小福田の行動様式だった。書きかけの論文を机の引き出しにしまうと、腕時計で残りの時間が八分だと再確認して、彼は席を立った。

 教官操縦士としての小福田は、もうすぐ二年が経過しようとしていた。前は、小松基地のイーグルドライバーだった。若い者を育てる仕事が嫌ではなかったが、そろそろ第一線勤務に戻りたくもなっている。そして、今日からは、次の期の学生の戦闘機操縦課程を受け持たなければならない。複座のF―15DJで、新人の御守りをするのである。

 全体ブリーフィングが行われるベースオペレーションは、既に学生と教官操縦士で満たされていた。ここの教官としては既に古株に入る小福田は、教官グループのうしろの方の空いた席に座った。

「敬礼。直れ。着席」

 飛行隊長への敬礼ののち、ブリーフィングは開始された。小福田の左前方、数人を間に挟んで座っているのが、これからの教え子である。身長は百六十センチ近くでこの年代の女性にしては割と高い方かと思える。短いヘアスタイルは、背後からだと少年かのような印象を与えるが、最初に面接した時は、内心で口笛を吹きたくなるような上玉だった。おっとりした育ちのよさを感じさせる邪気のない面持ちに、

 ――飛行幹部候補生じゃなかったら、どこかの航空団か航空方面隊司令部で秘書勤務だな。

 という感想を抱かされた。女子はもう一人いたが、女子力とやらはそっちの方が上に見えたものの、実は統合幕僚長の末娘だと聞かされて、

「オレには荷が重いな。こちらでよかった」

 と、あとで独り言を漏らす小福田だった。

 ――

「天辺候補生、同乗します」

「よし。イーグルの初フライトだ。気を引き締めて行け」

 小福田と敬礼を交換したあと、星華はラッタルを登ってF―15DJのコクピットにスリムな体を滑り込ませた。

 エンジンスタートの動作に入る。星華はライトチェックののち、右手でVサインを作り、外の整備員に見えるようにクルクル回した。右エンジンスタートの合図である。左手でスロットルを前方に押して、アイドリングに進める。10パーセント、20パーセント、30パーセント。60パーセントまで進めて、右エンジンをアイドリング状態に置く。次は左エンジンだった。同様に、レフトチェック後に左手の人差し指と中指で円を描く。

 APUアウト。左右ブレーキチェック。スピードブレーキチェック……

 ――基礎はできているようだな。可愛いだけのお嬢ちゃんではないようだ。

 座学とシミュレーターで教育されたとおりの手順で、スムーズに離陸準備を進めていく星華に、小福田は教官としての安堵感を覚えていた。この小娘は、単に暗記しているだけではなく、それぞれの段階でなにを行っているのか、理解している。従来受け持ってきた男子より劣るところは、感じられない。

 ――やっとここまで来た。

 右手でスティック、左手でスロットルを操作し、機体を滑走路に進めながら、星華はしばしの感慨に浸っていた。初めてイーグルの離陸を目の当たりにしたあの瞬間、航空学生として踏み出してからのつらい記憶しかない二年間、T―7、そしてT―4に乗っての二年半。下川一尉が殉職した時には、本当に辞めてしまいたかった。でも、辞めなかった。治が、

「夢の代表選手だ」

 と教えてくれたから。昔は、ただ隣に座っている同級生だった。でも、今は自分の夢を支えてくれるかけがえのない存在となっていた。

『アレスシックスエイトジロ、クリアードフォー・テイクオフ』

 新田原コントロールが離陸を許可する通信が入った。

「ニュウタバルコントロール、アレスシックスエイトジロ、クリアードフォー・テイクオフ」

 星華は、応答すると、手順通りに左手のスロットルを前に押し出した。次の瞬間、Gが体を後方に押し付ける。

 ――すごい! パワーが違う。

 T―4がポニーなら、F―15DJはサラブレッドという感じだった。

 V2を越えて機体が浮く。ギアを機体内に収納した。

 急速に高度を上げるF―15DJの後部座席で、小福田は星華の操縦を見守っていた。そして、浜松で彼女の教育に当たったのが、防大同期の親友、下川だったことを思い出していた。アレスシックスエイトジロは、高度20,000フィートで水平飛行に移り、新田原基地から見て東にある太平洋上、日向灘から四国沖に連なるL空域に向かっていた。


   Scene#2 太平洋上・L《リマ》空域


「よし、ブリーフィングとおりだ。まずハイGターン」

「ラジャー」

 ――見せてもらおうか。航空学生初の女性戦闘機パイロット候補の実力を。

 L空域に到着すると、まずはお手並み拝見と、小福田は最初の科目を命じた。ハイGターンは、戦闘機の基本機動の一つで、350ノットの速度を維持しながら80度のバンクで180度旋回するのである。ハイGというだけあって、身体にかかるGは約8Gに達する。体重が70キログラムなら560キログラム、50キログラムでも400キログラムに感じられるのである。ヘルメットが、恐ろしい荷重を頭部にかける。基本といいながら、非常に過酷な機動だった。

 星華は咽喉をごくりと鳴らせたのち、操縦機器に神経を集中した。右手でスティックを右へ倒す。右足でラダーを踏み込む。そして、スロットルを前へ倒した。二基のF100ターボファンエンジンが吠えた。エンジン回転計がダンスを踊る。予期した強烈なGが、星華の全身を襲った。

「むっ……」

 だが、その負担に耐えて星華はスティックを保持する。パネル中央にある姿勢指示計が、機体の傾きを知らせる。80度ジャスト。速度も350ノットだった。

 ――クリア。

 星華は、機体を水平に戻した。急速にGが抜けていく実感があった。

「オーケー、次はスプリットS」

「ラジャー」

 ――最初は合格。次はどうだ。

 スプリットSは、機体を捻りながら下降して、180度方向をターンする基本機動である。十分な高度を取って行わないと、非常に危険な機動だった。

「エンジェル25。行きます」

 星華は25,000フィートまで高度を上げ、呼吸を整えた。スロットルはやや手前に引き、速度を270ノットにまで落とす。準備はできた。

 ――ナウ。

 心のなかで呟くと、スティックを前に倒すと同時に右のラダーを踏み込む。機体が回転した。蒼天が、視界のなかで逆転する。アレスジロセブンは、垂直方向に急速で突き進んだ。さらに期待を旋回させる同時に、スティックを引いて水平に戻した。方向は180度逆になった。

 ――できた。

 T―4で最初にやった時には、パニックに陥って、下川に操縦を奪われたスプリットSだった。

「クリア」

 星華は、ゴム臭い酸素を送り込むホース内のマイクに向かって報告した。雲が、蒼空の遥か下に広がっていた。


     Scene#3  新田原基地上空


『アレスシックスエイトジロ、ファイナルコントローラー、ハウドゥユリード?』

 新田原の着陸誘導管制から、呼びかけがあった。

「リーディングユーファイブ」

 星華にはよく聞こえたので、最高度の5で答えた。

『オールソー・リーディングユーファイブ。ライトオブコース、ゴークイックリー』

 滑走路への適正進路から右に偏っているため、直ちに修正を要求された。やがて、

『ファイブマイルフロムタッチダウン、ビローグラウンドパス』

 とGCAは知らせて来た。着陸まで、あと5マイルである。今度は適正降下角より低いという無線である。星華は、やや高度を上げた。イーグルでの着陸は初めてである。T―4やT―7の初タッチダウン時より、遥かに緊張していた。航空手袋のなかで、汗が滲むのを、彼女は実感していた。

『スリーマイルフロムタッチダウン、クリアードフォーランド』

 GCAは、着陸を許可した。

「アレスシックスエイトジロ、ラジャー」

 星華は、いよいよ着陸が迫っているのを感じている。新田原基地の滑走路は、概ね東西方向に設けられている。風向きから、今回は海方向、つまり東側から着陸する。

『ガイダンス、リミット。テイクオーバービジュアリー。ウインドウツーセブンジロ、アットファイブ』

 風は5ノットで、コンディションはよい。星華は、左に旋回して最終アプローチに入った。有視界着陸で高度を下げていく。ギアをダウンさせた。フラップもフルダウン。アレスジロセブンは、エアブレーキを背中に立てながら、機首を上げる姿勢で、後輪から滑走路に着地した。衝撃が伝わって来る。徐々に速度を落とし、やがて前輪が滑走路に着地した。

 ――

 駐機場で、ラッタルを降りた星華は、ヘルメットを入れたバッグを手に地面に置いて、今日の搭乗機を見上げた。今日が、初めてのイーグルのフライトだった。遠かった。初めて目の前で離陸を見た日から、約六年が過ぎていた。自分は、夢をかなえた。しかし、湧いてきたのは感動というより、遠かったという感慨だった。自分は、あの時の夢を見失ってさまよっていた女子高生ではない。空曹長という階級を持ち、日本の空を守る責務のある身になっていた。思えば、長い道だった。かつての少女は、空の戦士へと成長していた。

 そんな教え子を、傍から小福田は見つめながら、防大時代の同期を思い出していた。

「おい、デブリーフィングだ。二〇分後にフライトルーム。遅れるな」

 そう告げて、「分かりました」という返答を確かめてから、今はこの世にいない下川に語りかけた。

 ――下川よ。お前が命に代えて残したこのタマは、どうやら本物だ。オレが磨いて、必ず光らせてやる。だから、心配するなよ。

 父親もパイロットで、自らもパイロットになることだけを、ひたすら追い求めていた下川均と、高校二年時の父親のリストラが理由で、学費の要らない大学だから防大に入った小福田義文は、生い立ちも性格も趣味も、すべて違ったが、なぜか気の合う間柄だった。そして、星華という教え子を介して、今もその腐れ縁は続いている。午後も、フライトが待っていた。友人を懐かしがるのも、またあとにしなければならなかった。

 ――午後のフライト前。

「いいですねー。じゃあ行きまーす」

 メインのデジタル一眼レフを両手に持ち、予備カメラを首からぶら下げたカメラマンは、星華と玲子に記憶のある人物だった。平島英機、誰が被写体であろうとお構いなし、情け容赦のない取材ぶりから、時として「不評・平島」と呼ばれる週刊文秋専属カメラマンだった。星華たちが航空学生として入隊した時、防府北基地で取材したのも彼である。

 平島が新田原にやって来たのは、二年間かけて取り組んできた写真集の最後のショットを得るためだった。空幕広報室に持ち込んだ企画『Wing Ladies――蒼空を守る乙女たち――』の完成には、この二人の写真が欠かせないのである。

「うん、よかったですよ。じゃ、次はイーグルの近くで撮りまーす」

 相変わらず、被写体を自分のペースに乗せるのが上手い男だった。元々注目を浴びることが(内心では)大好きな玲子だけでなく、どちらかというと派手な振る舞いが苦手な星華も、その気になって自然と色々ポーズをとるようになっていた。

「ありがとうございました! 明日の撮影もよろしくー」

 航空団の広報班長とともに平島が去ると、玲子の表情にクールさが戻った。

「午後の課目は?」

 と、玲子は星華に聞いた。その問いに、星華が、

「午前の続きです。インメルマンターンと、バレルロールと――」

 教官から指示されていた基本機動の幾つかを並べると、

「そう。私も似たようなところね」

 玲子は答えて、自分の機体の方に向かった。

 ――負けられない。

 そう、玲子は心のなかで呟いた。追いかけられる者だけが感じるプレッシャーが、背中から襲ってくるようだった。浜松基地の基本操縦課程の最終試験で感じた、感じさせられた時の圧力が、日に日に強く感じられる玲子だった。航空学生課程の頃、同期の星華が、自分と同じ戦闘機を志望するとは思わなかった。墜落事故と、教官の殉職に遭遇して、「この子はもうダメかも知れない」と思い、突き放す結果になることを半ば覚悟の上で、立ち直りを促した。

 ――ひょっとしたら、私にはとてつもないライバルがいるのかも知れない……

 今、玲子が思うのは、こういうことだった。

 そして、その日、習志野駐屯地では、角田治が特殊作戦群要員の選抜試験を受けていた。


Scene#4  江ノ島・恋人の丘


 星華と治の故郷、鎌倉市の隣にある藤沢市江ノ島、その一角に「恋人の丘」という高台がある。「恋人の丘」の入り口から少し入ると、そこには「龍恋の鐘」が見えて来る。土曜日の夕暮れ、ようやく二人の時間が持てた星華と治の二人は、海を見下ろす位置にある龍恋の鐘の前に立った。

「鳴らそう」

「ええ」

 鐘から下に伸びる短いロープを、二人は手を重ねて握り、そして鳴らした。鐘の音は、薄紅色に染まる相模湾に向かって響いた。

 それから星華と治が足を向けた恋人の丘で、近くの金網に二人の名前を書いた南京錠」 をつけると永遠の愛が叶うといわれていた。星華たちは、その儀式のためにここに来たのだった。

「わたしね」

 用意した南京錠に、自分の氏名を書き込みながら、星華はいった。

「運命の人がきっといるって信じていたの」

 そういってから、星華はサインペンを治に渡した。

「おれ、小学校でお前に最初に逢った時、なにか感じた気がする」

「なにかって?」

「多分、同じことだよ。運命の人だって」

 実は、この治の言葉は嘘だった。教室で最初に星華を見た時の治は、それまで見たこともないほどの星華のかわいらしさに、ただただ見とれていただけだった。

「そう。嬉しい」

 微笑みながらの星華の答えを聞いてから、治も、南京錠に自分の氏名を書き込んだ。

「内示が出たんだ。次の定期異動で、特殊作戦群に行く」

 治は、選抜試験に合格し、希望が通ったのだった。

「おめでとう、角田くん」

 正面から治の顔を見つめて、星華は祝いの言葉を述べた。

「おれたちは、やったんだ」

「ええ」

 相模湾、そしてそれにつながる太平洋を見渡して、二人は確認した。

 二人の手で、南京錠が金網につながれた。カチリという音がした。そのあとで、二人だけの儀式が待っていた。治は、一応周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、星華の上半身に両手を回し、二度目になるキスに及んだ。今度は、奇襲攻撃ではなかった。


     Scene#5  太平洋上・L空域再び


「キック・ザ・アース!」

 地球を蹴飛ばせ――それが、編隊長機の後部座席に座った教官操縦士、三橋三佐の号令だった。四機編隊(フライト)は、二機一組のエレメントに分離した。これから、2対2の空中戦闘機動訓練が開始される。高度25,000フィートで、実戦を想定した模擬空中戦に入るのである。

 ブレイクした各エレメントは、一度大きく相互の距離を取る。星華のアレスシックスエイトジロは、エレメントリーダーと、5000フィートの間隔を保ちながら、コンバットスプレッドを組み、右に旋回していた。イーグルの機首レドーム内に搭載されたAPG―63パルスドップラーレーダーは、楽に60キロメートル以上の前方空域をカバーする。だが、現代のジェットファイターにとっては、指呼の間に過ぎない。レーダーにブリップを確認したら、その時から死闘が始まるのである。星華は、左手薬指でレーダーコーンを最大限度の120度に設定した。

 ――計器盤上のレーダースコープに、ブリップが浮かんだ。敵だ、と思った瞬間、

『ボギー、トゥエンティスリー・オクロック』

 と、エレメントリーダーから無線が入った。23時方向に、敵味方不明機を発見したということである。

 ――これだ。ロックオン。

星華は、続けて左手中指で、スロットル前面のボタンを操作した。スコープ上をマーカーが動き、ブリップを挟んだ。これでレーダーが、目標のロックオンを完了した。当然、「敵」も、ロックオンしているはずである。計器盤の最上部にあるヘッドアップディスプレイは、敵の状況をリアルタイムで教えてくれる。

――速度0・9マック、高度24,400フィート、方向変化なし……

IFFオン。目標情報に変化なし。よって、「敵」である、と星華は判断した。自分たちも速度は約0・9マック(秒速約300メートル)。従って、毎秒600メートルの速度で相対距離は縮まっている。会敵まで100秒もない。

『リリィ。チャーリー、行くぞ』

「ブリッジ。リリィ、ラジャー」

 ブリッジ――エレメントリーダー役の橋本候補生が、作戦を選択し、命じて来た。チャーリーが意味するのはオフェンシブ・スプリット、つまり二機が隊形を解いて分離し、一番機が先に出て囮となり、敵の注意を引く。敵のエレメントが囮となったリーダー機を追いかけると、二番機、つまり星華が敵の背後から攻撃を仕掛けるのである。ヘッドアップディスプレイ上のデータは、刻々と縮小している敵との距離を示している。星華は、自分の体が極度に固くなっていることを自覚した。

 ――負けない。わたしは、負けない。

 なんども、星華は自らにいい聞かせた。ファイターパイロットになるからには、負けては意味がない。そう、小福田から教えられた。

「俺たちは、民航機のパイロットじゃない。飛行クラブでもない。勝つため、敵を撃墜することが仕事だ」と。

 そう教えた教官操縦士は、後部座席で星華の操縦を見守っていた。

「敵の動きを見ろ。相手にも、自由意思はある」

「ラジャー」

 教官の指導を、星華は聞き取った。

『リリィ、前に出る』

 ブリッジは、通信が終わると同時に増速した。一番機は、敵を肉眼で捉えられる距離まで接近しなくてはならない。星華は、スティックを押して、高度を大きく下げた。敵も、レーダーコーンを絞っているはずである。その裏をかくには、一度は一番機と距離を取らなければならない。離れつつも、連携を保たなくてはならない場面であり、チームワークが要求される。

 星華は、自分の心臓の鼓動が速くなっているのを感じていた。

 ――敵も、自由意思を持っている。

 星華の脳裏を、教官の言葉がかすめた。自分が背後を突こうとする動きに、敵のエレメントはどう反応するのか? ヤマは張れない。敵の動きを即座に判断して、次の一手を打たなければならないのが、パイロットの仕事なのだった。

 ――

 同じことは、「敵」も考えていた。

 アートミス――エレメントリーダー役の玲子は、レーダースコープ上の敵が一機のみであることに気づいた時点で、もう一機が罠を仕掛けていると察知した。正面の敵をレーダーで捉えつつ、頭脳を巡らせる。

 ――可能性の第一は、オフェンシブ・スプリット。

 それが、最もオーソドックスな攻撃法だったからである。そして、玲子の洞察は正しかった。

 だが、いつ、どこから撃たれるかは、まだ分からない。今やるべきことは、目の前の敵機に神経を集中することだった。玲子は、左手親指でスロットルに装着されているスイッチの一つを操作した。それから、彼女はヘッドアップディスプレイ上に目を移す。四角形で示される敵影が、機首方向のやや右斜め下に表示されていた。それは、左上方へ動いていた。敵機は、腹をこちらに見せている。敵は、露骨に釣ろうとしているのが分かった。

 だが、この局面では、敢えて目前の目標を狙うしかない。レーダー波が、敵機をロックオンしている。選択するのは、AAM。もちろん、本当に発射するのではない。スティックとラダーの操作で、玲子は敵を追尾して自分の機体を左上方に上昇させる。Gが体を押さえつけてきた。スティックを握っている玲子の右手の親指が、武器の発射を掌るシュートキーを押さえた。目標とシュートキューを一致させようとして、スティックを動かし、逃げようとする敵機を照準線上に捉えようとする。

 その瞬間、警報が鳴った。その意味を、玲子は瞬時に理解した。

 ――ロックオンされた。

「ヘリオス、ロックオンされた。ブレイク」

『ヘリオス、ラジャー』

 二番機も了解した。玲子は右に、二番機は左へ旋回する。

 通常、このように一時敵から目を離す場合、戦闘空域から全速力で離脱して、態勢を立て直すのが空戦の基本である。だが、玲子はそれを選ばなかった。自分をロックオンした敵機を迎え撃つことを選んだ。急旋回し、敵の方向に機首を向ける。格闘戦が始まろうとしていた。

 ――ほう、面白い。

 アートミスの後部座席で、三橋三佐は基本に外れた玲子の決心を見て、そう思った。同じことを、リリィの背後で小福田一尉も考えていた。

 ――やってみろ、天辺。

 玲子は、スティックを最大限手前に引き、スロットルは逆に前方へと押し出す。Gスーツがその威力を発揮し、足元方向への急激な血液の下降を最小限に抑えた。それでも、体を襲うGは、大変なものだった。玲子も星華も、動きが鈍くなる両腕を必死に維持して、スティックとスロットルを保持していた。視界が狭まってきた。

 ――敵は頭上方向のはず。

 自分を下方から狙った敵は、現在、自分が背後に回っているはずだった。ここで機動を緩めたら、背後を取られる。玲子は、Gを緩めることはできなかった。左手親指でスロットル右側面にあるノブを触った。そして、機関砲モードを選択する。まだロックオンしていないが、これで照準次第、いつでも自分は射撃できるのである。

 ――敵は? 敵はどこ?

 重い頭部を巡らして、玲子はキャノピーの外に視線を向けた。音速の世界である現代の空中戦でも、目視によるルックアラウンドは、必須の索敵手段である。だが、急速・高Gで旋回している間は、敵も簡単には射撃できないはずだった。ブレイクターンは、追われる側が敵の前進方向上で高いGのかかる急旋回を行い、敵のオーバーシュートを狙う機動である。通常、これで敵の背後を取り、攻撃に転ずる。だが、敵のオーバーシュートを確認するまで、Gを緩めてはならない。そして、背後を取られた敵は、次は自らがブレイクターンを仕掛けて、背後を取り戻そうとするのが定石である。

 ロックオンを告げるブザーが止まった。敵は、Gに耐え切れず、自分をオーバーシュートした、と玲子は判断した。今度は、敵がブレイクターンを挑んでくるなら、次はシザーズと、玲子は打つ手を考えていた。

 ルックアラウンドが功を奏して、玲子の視野には一点の機影が捉えられた。一時緩めたスロットルを、再び前に押し出す。玲子は機体の速度を上げて、高エネルギー状態を維持した。高高度と高エネルギー状態は、空戦で勝つための基本である。今度は、自分が狩る番だった。ヘッドアップディスプレイに、四角い敵影を見た。

「ターゲットインサイト」

見たはずだった。その瞬間、目標が消えた。

 ――そんな!

 だが、間違いではなかった。

 この時、リリィ・星華は、玲子が予期したよりも早く、玲子の進路上方にブレイクターンしたのだった。それも、急激に最大限度の9Gで。玲子は、自分がオーバーシュートする番になった。

 ――やった!

 星華は、自分の作戦が的中したことを感じた。敵機、つまり玲子のアートミスの進行方向、正面を下から上へと通過し、さらにハイGターンで大きく上昇した。そのまま星華は、高高度、高エネルギー状態を維持して、最大角度でループし、オーバーシュートした玲子の背後に回った。

「くっ、やらせない!」

 玲子は、つい声を出し、敵の次の手を予想しようとした。だが、今の彼女は、まず背後の敵を振り切らなければならなかった。今度は、玲子は左方向にターンを試みた。敵を、オーバーシュートで、横方向に振り切るつもりだった。だが、星華はこれを待っていた。機体を左に捻ったバンク状態から、さらに加速し、一気に高度を引き上げた。高度は30,000フィートに達する。玲子はまだ左バンクを続けていた。

 ――ナウ。

 次は、星華は一気に高度を下げて、玲子の旋回機動の内側に降下した。この間、高Gに負けず、視界に敵機を捉えたままである。機体が高度を下げるエネルギーを速度に変えて、星華は急速に敵機との距離を詰めた。この機動を、ハイスピード・ヨーヨーと呼ぶ。機体のエネルギーが高い状態をフルに生かす機動だった。

「タリホー」

 星華は、声に出して目標の視認を確認した。

 ――ロックオン。

 ヘッドアップディスプレイ上で捉えられた敵影が、ロックオンされた。兵装は、機関砲を選択してある。

「ファイア」

 星華は、呟くと同時にスティックの全面に設けられた茶色いトリガーを引いた。「撃墜」を意味するブザーが鳴り響く。

「スプラッシュ。ブリッジ。リリィ、スプラッシュ」

『ブリッジ、ラジャー。こちらもやった』

――やられた!

 同じ瞬間、玲子は敗北を知った。信じられない思いだった。玲子は、自分の手の内を読まれたことを認識していた。物心ついて以来、初めての敗北だった。それも、まさか空の上でやられるとは……

『コンプリート・ミッション。タイガーフライト、リジョイン。異状ないか』

 三橋三佐からの無線に対して、まずタイガーワン、つまりクイーンとヘリオスからは直ぐに異状のない旨、報告があり、続いてブリッジとアートミス、つまりタイガーツー・エレメントからも、

「タイガーツー、オーケー」

 と無線が入った。

 ――やるじゃないか。これまでの候補生にいなかったレベルだ。

 編隊集合までの間に、アートミスの後部座席で小福田は、訓練の一部始終を観察した感想を心のなかで述べていた。最初のフライトで、星華が十分な資質を持っていることは理解した。しかし、同期のなかでもトップレベルにある藤堂玲子を「撃墜(キル)」したことは、十分驚きに値した。

 ――下川、お前から預かったこいつは、やはりただものじゃなかったな。

 これは、教官冥利に尽きることかも知れなかった。


     Scene#6  新田原基地


 タイガーフライトは、各エレメントに分かれて、二機づつランウェイ10で着陸した。ランディングし、そのまま駐機場へ入り、エンジンを落とす。キャノピーが上に開けられると、整備員の手でラダーがかけられた。

「お疲れ様でした」

 そういって敬礼する整備員たちに、答礼し、ヘルメットからキャップに被り替えたパイロットたちが地上に降りる。体力を使い果たしたかのような遅い動作で、星華も地上に降り立った。

 その星華に、バッグを片手にした玲子が近づいてきた。

「天辺」

 と、彼女は相手の姓を呼んだ。

「藤堂さん」

「見事だった、さっきのACM」

 少し微笑んで、玲子は相手を讃える言葉を述べた。そして、右の手を握って真っすぐ、星華に向かって突き出した。星華も、右手のこぶしを突き出し、二人はグリップとグリップを軽く付き合わせた。

「でも、次は負けないから」

 そういって、玲子は足早にその場を去って行った。後姿を見送ってから、星華は心のなかで母に語りかけた。

 ――ありがとう、お母さん。

 一つ一つの動作を疎かにしない。そして、次の次を読んで今やることを決める。そういう母直伝のCA修行の数々を守って、これまでやってきた。今日のACMもそうだった。CAになるための厳しい教えが、パイロットになるために役立っていた。「尼将軍」のDNAは、確実に娘へと引き継がれていたのだ。

 ――

 新田原基地での教育開始から半年で、戦闘機操縦課程は修了となる。そして、卒業を命じられた航空学生出身者たちは、奈良県の幹部候補生学校に入校を命じられる。ここで、防大・一般大学・部内選抜者とともに、幹部自衛官となるための最後の教育を受けるのである。

 着校の日、新田原から到着した同期に交じっていた星華と玲子は、記憶のある声を耳にした。

「藤堂! 天辺!」

「ケイ!」

 呼び声は、以前と変わらない陽気さに満ちていた。鳥取県美保基地で、輸送機操縦課程を履修していた山之内・ケイト・恵子だった。「久しぶり」、「元気そうね」という再会を喜ぶあいさつを交わしてから、ケイも「C―130の操縦資格を取った」と語った。

 そして、ここを卒業と同時に星華、玲子、ケイの三人は他の同期たちとともに三等空尉に任官し、晴れて操縦士たる幹部自衛官に任官したのである。

 卒業式の日、訪れた両親の目の前に、星華は三尉の階級章と航空徽章を装着した制服姿で現れた。星華は、まず礼をいった。

「お父さん、お母さん、来てくれてありがとう」

三人で記念写真を撮っても、晴れやかな顔つきの母と娘に比べて、父のそれはやや硬かった。未だに父は、娘がパイロットになることに、心配を隠せないのだった。

「いやですよ、あなた。笑って下さい」

「……とはいってもだなぁ」

 そう妻から促されて、漸く夫はぎこちない笑顔を作った。

 ――

 新任地は、玲子が北海道千歳基地第2航空団、星華が石川県小松基地第6航空団、ケイが愛知県小牧基地第1輸送航空隊と発令されていた。

「元気で、二人とも。また会いましょ」

 比較的近く、市街地の近い小牧に行くケイは、ご機嫌だった。鹿児島弁は、すっかり抜けているようだった。

「これからも、しっかりやりましょう。私たちは、開拓者なんだから」

 既に、彼女たちの期の下には、何人もの女子の戦闘機操縦課程の履修者がいた。これから先も、自分たちがなにかトラブルを起こしたら、「だから女子は」という目で見られるのは避けられない。玲子は、かつての水野二曹のセリフを引用して別れの挨拶にした。

「わたしも、頑張ります」

 星華もそう答えて、そして二人は握手で別れた。


     Scene#7  神奈川県・葉山


 星華の身分が飛行幹部候補生から幹部に変わり、階級も三等空尉に昇進してから約半年後、角田家と天辺家の結婚披露宴が、神奈川県葉山町と横須賀市の境に位置する海を見下ろすホテルで行われた。新郎が陸上自衛隊最精鋭の特殊作戦群の隊員、新婦が航空自衛隊初の女性戦闘機パイロットの一人なので、披露宴会場の席の約三分の二は緑と紺色の制服で埋め尽くされた。親族や小学校時代の旧友ら一般の招待者は、やや引いたかも知れない。それ以外だと、横須賀の第一護衛隊群勤務の三等海曹山本平八と、海上幕僚監部勤務の三等海佐島村緑の黒い制服と、東京消防庁に勤務する治の兄、覚の濃紺の制服があった。この時、覚も第八方面消防救助機動部隊・ハイパーレスキューの一員なので、兄弟で特殊部隊員ということになる。

 最初、治は防衛省共済組合直営のホテルで、安く上げるつもりだった。だが、式場選びの段階で、星華は一言の元にそれを却下した。そして、

「わたし、式場はここにしたいの」

 といってタブレット上に示したのが、相模湾を見下ろすロケーションにある、地中海沿いかと思われるような格式あるリゾートホテルだった。実は、星華は中学の入学祝の会食に両親に連れて来てもらって以来、

「わたしの結婚式は、必ずここで」

 と、心に決めていたのだった。下見に行ってみると、確かにオーシャンビューは素晴らしかったが、出された見積書に記された額に、治は目を回しかけた。予算より百万円以上高いからだったが、星華は頑として譲らなかった。

「絶対、ここにします」

 結局、治は根負けすることになった。

 ――

空陸統合作戦だというので、媒酌人を務めたのは新婦の同期生の父親、前統合幕僚長・藤堂護元空将夫妻だった。一介の准陸尉だった治の父は、恐縮してしまった。さらに、これは無碍にできないと思った治の上官である特殊作戦群長と、星華の上官の第6航空団司令も参列しなければならないことになった。両者とも、藤堂の防衛大学校の後輩に当たる。結果、料理を前に、招待者たちは何人もの高級幹部のスピーチを聞かされる次第となった。新郎・新婦の紹介に始まる無難な内容の媒酌人の挨拶を終えたあとで、藤堂元空将は、内心「うちの玲子にも、そろそろ良縁があって欲しいものだが」と考えていた。彼は、少々遅くなってから生まれた自分の愛娘が優秀なパイロットに成長する以前に、一人の女として平凡な幸福を入手してくれることを望んでいた。この点、玲子は親の心子知らずだと思えた。

 披露宴の余興で受けたのは、新婦側のカラオケメドレーだった。ドレス姿で並んだ舞子とケイの口から流れたのは、

「加藤隼戦闘隊」と、「ラバウル航空隊」と、「燃ゆる大空」の軍歌三連発だった。美女と軍歌のギャップが大うけになった。この時点で、ずっと隠されていた玲子の趣味は、明らかになってしまったが。その前に演じられた空挺団有志による「マツケンサンバ」が霞んでしまった。

 披露された祝電の差出人の中には、「宇宙作戦隊 仲村正則」があった。式が終わり、参列者の見送りになると、何人目かの航空学生時代の区隊長佐藤大介がウエディングドレス姿の星華に、「家内も来たがっていたが、もうすぐ二人目の出産予定なので、遠慮させた。お前によろしくといっていたぞ」と、相変わらず凄みを交えた笑顔で伝えた。「家内」が誰だか星華には分からないようだったので、佐藤は旧姓・水野亜美だと付け加えた。寿退官して、今は家事と育児に専念しているという。「魔女」が、どんな風に家庭内を切り盛りしているのか、星華は直ぐには想像できなかった。佐藤は今、小牧基地の救難教育隊にいて、後継者の指導に当たっている。レスキューの世界に戻ったのだ。

 島村緑は、第二子を出産して、現在産後休暇中だと語った。

「子どもの世話も、旦那の方が上手なくらいよ。私は楽ができているわ」

 と現状を語ってから、星華に耳打ちした。

「あなたも、旦那の手綱はしっかり握っていなさい。決して甘やかしてはダメ。この仕事を続けたいなら、これは必須よ」

 なるほど、これは治に聞かれてはならないことだった。星華は、微笑んで頷いた。

 ――

 二次会は、鎌倉・稲村ケ崎のイタリアンレストランを借り切って行われた。新郎・新婦の友人、というより新郎側の関係者は、新婚カップルを半分あっちに置いて、新婦の同期生に攻撃を指向した。これに対し、玲子は相変わらずの女王様ぶりを発揮して悠然とあしらい(但し、内心はしっかりと一人ずつ値踏みしている)、ケイはケイで、エキゾチックな風貌を武器に何人もの陸の男を相手に盛り上がり、連絡先を交換している。そばで見ていた新婦の元同期の男子たちは、彼女たちを攻撃しては片端から撃墜され、死屍累々で終わった自分たちの歴史が、今度は陸の特殊作戦部隊員たちによって繰り返されるのか、と考えて、彼らの運命を案じた。

 招待者のなかには、高校の後輩、カーチス春陽もいた。パイロットになれことと結婚の両方に、彼女はお祝いを述べた。そのあとで、星華の同期の男子と話が盛り上がっているようである。春陽は、今は短大を卒業して、羽田空港に勤務するグランドスタッフとなっていた。二次会の途中で、春陽は星華に次のようにささやいた。

「わたし、パイロットの方とお付き合いするのが夢だったんです」

 一方、治のグラスに酒を注ぎながら、山本平八が凄みのある声で告げていた。

「分かっているだろうな。泣かせたら、ただでは済まんぞ。おれたちの顔を潰すなよ」

「潰すなよ」

 上原勇策も、脇で同じことをいった。

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