第4話 試練の操縦席

     Scene#1  市ヶ谷・防衛省航空幕僚監部


 航空幕僚監部広報室長・一等空佐東條恭一は、勤務時間中だというのに私事で不愉快だった。その日の夜は、一人娘の愛乃よしの、そして愛乃が結婚したいといい出した男と新宿で初対面の場を持たなければならないからである。今年二十五歳の愛乃は都心ではそこそこの規模の病院で医療事務の仕事をしていたが、そこに勤める三〇代初めの放射線検査技師に見初められていた。少々堅物で面白味の欠ける人物という印象を抱いた。それだけに、悪い男という感じではない。結構な良縁で、客観的には喜ばしいはずだが、娘が中学生の時に先だった妻の分も、男手一つで手塩にかけたつもりの一粒種が赤の他人の男に持って行かれることを不愉快に思うのは、世の父親にとって普遍的な感情である。娘の手作り弁当を持って出勤できる月日も、残り少なくなる。だが、時間は無慈悲に経過し、定例ミーティングの時間がやって来た。自分の執務室から、広報室専用の会議室に移動しなければならなくなった。

 室長が敬礼に答えたのちに着席すると、四角くテーブルが配置された会議室内では、広報班と報道班のそれぞれのスタッフが状況を報告し、併せて業務の焦点や目下の課題について概要を説明し、情報を共有する。その日、東條が興味を惹かれたのは、広報班長からの二つ目の報告事項だった。

「……続いて、先々週に投稿動画サイト『ようつべ』の〈JSDFちゃんねる〉へアップロードした動画についてです。本日までに記録した本動画の再生回数は、十日間で――」

 報告の続きが正しければ、自衛隊関係では近年例のない多数の再生を記録したことになる。

「これは、海自東京音楽隊の安宅三曹、陸自中央音楽隊の烏山士長のそれぞれの合計再生記録を上回るレコードとなっております」

 歌手の安宅由利子三曹と烏山舞美士長は、それぞれの音楽隊、いや海自と陸自が広報の目玉として、組織を挙げて売り出し中の看板娘カバーガールというべき存在であるが、短期間でそれを凌ぐ再生回数を記録したのである。件の動画とは二人の空自女性自衛官WAFを出演させた作品で、二人の訓練風景や、訓練以外の基地内の日常生活、そして外出中のオフタイムを、十分程度に編集したものだった。両名は、浜松基地の第一航空団で、基本操縦課程を履修中であり、女子では航空学生初となるジェットファイターのパイロットを目指している途上にある。美しき未来の女性ファイターパイロット――確かに、世間の目を引く効果は絶大である。報告の続きによれば、軍事系や一般のメディアばかりか、週刊誌や写真雑誌、果ては若い女性向け情報マガジンまで、この二人を記事にしている模様である。おまけに、片方の実父は航空幕僚長である上、二人いる兄たちもパイロットなのであるから、商品価値としては完璧であろう。

「ふむ……」

 これはただモノではない、と東條も認めなくてはならなかった。この記録を打ち出した動画の効果だけではない。動画の作成を企画・立案し、周到に関係部署を巻き込んで準備を整え、短期間の内に作り上げてアップに漕ぎつけた、一人の広報員にも、だった。

 その男は、広報班の末席に座っていた。業務支援でここに配置されてからまだ半年である。奇妙な雰囲気を持っており、外見は凡人といえば凡人だが、底知れぬ一面を隠しているような人物にも思える。三曹に成りたての頃から一曹まで、長く募集畑にいて、「募集成果の総数、ざっと陸の一個普通科連隊分相当」といわれるほどの(これは、少々誇大ではあっても虚構ではない)、全国でも屈指の実績を残している。三十五歳になるかならないかで曹長に昇任すると同時に中部航空方面隊司令部に異動となり、広報畑に移った。そこで才幹が認められ、航空総隊をぶち抜きで空幕での勤務に抜擢されたのである。

 広報班に続いて報道班の報告を受けたあと、指導事項を述べてから解散を命じてから、東條は広報班長を呼び止めて、付け加えるように命じた。

「このあと、四ツ谷曹長と一緒に、ちょっと私の部屋へ来てくれ」

「分かりました」

 班長の返答を聞いて、広報室長は廊下に出て歩きながら思い出していた。先日、四ツ谷曹長が持ち出して、指導を求めていた企画についてである。ゴーサインは、その時は保留していた。

 二人の飛行幹部候補生――藤堂玲子と天辺星華に加えて、何人ものWAFを被写体として空自のあらゆる部隊、装備、基地を紹介する写真集。これを週刊文秋の名物カメラマンと共同で作り上げようというものだった。企画書の表紙には、次のようなタイトルが記されていた。

『Wing Ladies ――蒼空を守る乙女たち――』

 やらせてみるか、とこの時の東條は考えていた。市ヶ谷・航空幕僚監部(くうばく)の現状は、かつて神崎一佐が忌避していた方向そのものになりつつあった。今、空幕で「口八丁手八丁の四ツ谷」と呼ばれている男は、現在の任務のため、かつての募集成果を存分に活用しようとしていたのである。


     Scene #2  航空自衛隊浜松基地


 航空自衛隊浜松基地は、静岡県浜松市の北部、三方原台地上に所在する。西に浜名湖が存在し、北には三河山地がなだらかな山容を見せており、南は太平洋・遠州灘が開けている。標高は四六メートルに過ぎないが、台地上にあるだけ基地周辺は平坦であるものの、浜松市の中心部との間には多少のアップダウンのある地形を挟んでいる。市の中心部とはバスで三〇分足らずであり、滑走路のある基地としては外出に便利であるので、勤務先としての人気が高い。航空教育集団司令部、第一航空団、第一術科学校、第二術科学校など、教育に関係する機関・部隊が多数を占める。何回かは、ドラマや映画の舞台にもなっていた。

「オレの仕事は、パイロットを育てることだけではない。パイロットに向いていない奴を篩い落とすこともだ! 着いて来られないようなら、いつでもいえ。地上職種に変えてやる」

 基本操縦課程で指導に当たる第31飛行隊31SQ飛行班の教官操縦士、三十代前半と思しき一等空尉下川均は、無骨を絵に描いたような男であって、教育開始の日、簡潔な自己紹介に続いて星華にこう宣告していた。浜松基地での五四週間に及ぶ基本操縦課程は、前の初級操縦課程と同じく、マンツーマンで教育が行われる。この宣言は、星華を少々怯えさせる程度には迫力があった。

 ――オレは、女だからといって甘やかすつもりはまったくないからな。

 という、神崎一佐の教育姿勢をそのまま引き継ぐものだった。もちろん、これまで航空学生課程でも、次の飛行準備課程、そしてTー7による初級操縦課程でも、性別故の下駄を履かされた感情は抱いていない。

「宜しく――お願い致します」

 気おされ、少しして心を持ち直して、星華は一礼した。

「怖い方だこと……」というのが、星華の第一印象だが、それは直感的に正しかった。

 ガブリン下川――31SQでは、下川を陰でそう呼ぶ者が多かったのである。

 基本操縦課程は、T―4中等練習機で教育が行われる。初等練習機T―7がプロペラ機で、最大巡航速度203ノット(時速376キロメートル)、上昇限度25,000フィート(7620メートル。但し、実際の教育では、11,000フィートが上限である)に対し、T―7は双発ターボファンエンジンを搭載するジェット機であり、最大速度マック0・91(560ノット)、実用上昇限度50,000フィート(15,240メートル。但し、教育中はこの半分程度までしか上昇しない)と、段違いの性能である。練習機であるため、特に安定性と操作性を重視した機体となっている。練習機以外でも、各飛行隊の連絡機として配備されており、また松島基地第4航空団第11飛行隊、つまりアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」もこの機体を使用している。星華の同期たちにも、ブルーインパルスの飛行を見たことが志願動機だという者とか、将来ブルーを目指している者は多い。

 シミュレーター教育を含む座学期間のあと、初フライト当日、オペレーションルームでのブリーフィングが終わった学生たちは、それぞれ緑色のフライトスーツの上に対Gスーツを着用して、ヘルメットを入れたバッグを手にエプロンへ向かった。

 第一に実施しなければならないのは、機体の細部点検である。先頭部から各翼、エンジン、脚・車輪等、自ら一つ一つ呼称して、異常がないことを確認しなければならない。もちろん、一機ごとに整備小隊の機付整備員三名のプロが整備するのだが、最終的にはパイロットが自ら点検するのである。

 すべての点検部分に異常がないことを確認すると、候補生は機体の付近で待つ教官に搭乗を報告する。

「天辺候補生、同乗します」

「よし」

 と、星華の敬礼に下川は答礼した。にこりともしない。星華は、初フライトから怒られないか、それが気がかりだった。

 ――間違えないようにしないと。

 前席に星華が、後席に教官の下川が搭乗する。腰を抑えるラップベルトと、上体を抑えるショルダーハーネスで、身体を固定する。エアマスクを連結して、酸素の供給を確かめた。それから、座学とシミュレーターで教育された手順を思い返す。計器チェック。エンジン、無線装置ラジオ、操縦系統――全計器異常なし。続いてエンジンスタートに移る。前方の整備員の動きを確認しながら、まず右エンジン、続いて左エンジン。整備員と手信号で連絡を取り、RPMが60パーセントに達したところで外部電源のアウトを指示した。左右の車輪、そして機体上部に設置されているスピードブレーキをチェックする。続いて、エルロン、水平尾翼、ラダーの順に、翼の可動部を、そして機体内の燃料の減少に応じて機体のバランスを取るトリム、ヨーダンパ―、最後にフラップをチェックする。すべて異常なしだった。

「オールクリア、タクシーライトオン」

『ラジャー』

 星華の報告に、後部座席の下川は短く応じた。

 キャノピークローズ。風防がコクピットを外気から遮断した。機体後部両脇に控えていた整備員たちが、車輪止めを外す。開局済みの無線機で、順番を待って管制塔を呼び出す。

「ハママツGRD、チェッカースリーワンワン、リクエストタキシ―」

『チェッカースリーワンワン、ハママツGRD、タキシートゥ・ホールディングポイント、ランウェイ・ジロナイン、ウインド・トゥーナイナジロ・アット・トゥー、キューエヌエイチ・トゥーナイナナイナファイフ』

「チェッカースリーワンワン、タキシートゥ・ホールディングポイント、ランウェイ・ジロナイン――」

 交信相手は、浜松基地管制塔の地上管制である。滑走路の東端まで移動する許可を出してきた。復唱し、ラダーをつま先部分で操作して、ブレーキを解除する。T―4は、整備員の見送るなか、滑走路に向けて前進し始めた。

 待機点に到達。エンジンの最終チェックに異常はない。主翼、尾翼、垂直尾翼の稼働部にも問題はない。

『チェッカースリーワンワン、ウインド・トゥーナイナジロ・アット・フォー、ランウェイ・ジロナイン、クリアードフォー・テイクオフ』

「クリアードフォー・テイクオフ、チェッカースリーワンワン」

 風力が若干、増した。右手でスティックを保持しつつ、左手のスロットルを手前に引く。排気音が高くなった。皮革製の航空手袋を通して、エンジンのパワーが伝わってくるようである。初めはゆっくりと、しかし短時間の間にキャノピーの外を景色が流れるように飛び去り始める。目の前に伸びる滑走路は、ピラミッドと化した。タイヤ痕が無数の隆盛となって、外を後方へ飛び去って行く。平坦なはずの路面の、微妙な凹凸が発生させる振動が体を揺らせる。速度計がV1に達したことを示す。T―7とは加速性も出力も比較にならないことを実感した。

 ――もう直ぐVR。

 130ノットジャストで操縦桿を少しだけ手前に引く。T―4は機体を持ち上げた。

「V2」

 呟くように発声する。既に地表は見下ろすような下方である。双発エンジンの叩き出すパワーがGを作り出し、星華の身体をシートに押し付けた。T―7とは比較にならなかった。

 ――

 だが、浜松基地の全員が、玲子と星華に好意的であったわけではない。「出る杭は打たれる」の謂があるが、マスコミと男子隊員の注目を集める二人に、友好的とは正反対の視線を向ける者たちも、当然のようにいた。

 二人が浜松基地で基本操縦課程に入って約一月が経過した週末、浜松市中心部の居酒屋でジョッキを手に、生ビールやサワーをあおりながら、次のような会話を交わす婦女子が三人いた。

「一体、ナニサマのつもりよ、あの二人!」

 忌々し気に叫んだのは、航空教育集団司令部の宇山三曹。

「ちょっとばかりルックス《そとづら》がいいからって、お高くとまってんじゃないわよっ!」

 高ぶった感情をぶちまけたのは、警戒航空隊の寺田三曹。

「男どもも男どもよ。どいつもこいつもっ!」

 今まで自分たちをちやほやして、周囲に侍っていた男子隊員への怒りを口にしたのは、高射教導群の佐川三曹。

 彼女たちは、それまで浜松基地で若手男子隊員の人気を三分していた独身女性自衛官(WAF)の三人衆だった(「タカビー三人衆」と呼ばれることもあったが……)。彼女たちは、それぞれ微妙な力関係を形成・維持して、勢力圏を均衡させていたのである。だが、玲子と星華の出現は、従来の楽園を無慈悲に破壊してしまった。それまで宇山たちをアイドル扱いしていた男子隊員たち、そして基地の取材に訪れるマスコミは、ことごとく容姿と話題性を兼備した玲子・星華に視線を集中させるようになってしまった。しかも、二人は特定の男を決めて付き合うならまだしも、教育中であるという理由で、相手を選ぼうとしない。それが、逆に人気を高める結果になってしまった。当然、貢がれるプレゼントの数も、デートの順番を待つ男の数も減った三人衆には、面白い訳がない。他の女性自衛官WAF・職員のなかにも、程度の差はあれ、似たような感情を抱く者も何人かいた。

 アルコールが回った頭で共有された結論は、次のようなものだった。

「思い知らせてやるわ!」

 一方で、長身かつ美貌の玲子に宝塚歌劇団ヅカの男役視するかの如き視線を向ける年下のWAFもいたが、残念ながら玲子には、そちらの趣味は皆無だった。教育を受けている間の常に冷静かつ合理的で同期の追随を許さない秀才ぶりとは別に、内心では男の視線を浴び、その関心を集めることに無上の喜びを覚える点で、玲子はまったく正常な女である。父や兄を敬愛はしているが、だからといってファザコンでもブラコンでもない。彼女の男性の趣味は、独特なものだった。

「私に相応しいのは、加藤健夫中佐か、ハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉並みの男だけ」

 陸軍中佐加藤健夫――大日本帝国陸軍航空隊屈指の名指揮官にして撃墜王である。対米英開戦時に最新鋭戦闘機一式戦「隼」を装備する飛行第六四戦隊を率いて出陣し、マレー半島上陸作戦を皮切りに、次々と任務を完遂した。その軍歴における撃墜総数二六八機、感状授与七回の記録は、日本航空戦史上、比肩する者がいない。

 一方、ドイツ空軍大尉ハンス・ヨアヒム・マルセイユも、「アフリカの星」と呼ばれた撃墜王である。バトルオブブリテンとアフリカ戦線での撃墜総数は一五八機。搭乗するメッサーシュミットBf―109のエンジントラブルの際、脱出に失敗し、北アフリカの戦場において戦死ではない形で死去した。享年二十二歳。戦時下であるにも関わらず、ドイツ本国から最前線まで、彼に魅了された女性ファンからのラブレターが連日のように届いたという。

 ……という次第で、玲子はいつか着るウェディングドレスを夢見る一方、この両者に匹敵すると思われる男が現れるまでは、自分を決して安売りしないつもりでいた。この浜松でも、同期の候補生仲間や防衛大学校・一般大学を卒業して教育に合流した幹部学生はもちろん、航空教育集団司令部とか、第一・二術科学校とか、いい寄る男は各部隊に何人もいたが、自分には人一倍自信のある彼らのなかにも、気の毒なことに誰一人玲子を攻略し得た者はいなかった。

 ――

 本日の航法訓練、つまり地形を確認しながら、予め計画した飛行ルートに沿って飛ぶという訓練の第一段階で、星華は早速T―4後部座席の下川一尉から怒声を浴びせられた。

「なにをやっている! 遅いぞ、遅い!」

 浜松基地を離陸して西に直進、浜名湖の対岸の正太寺鼻直上で右に九〇度旋回し、北上、恵那山方向を目指すという当初設定したルート上で、最初の基準点を見過ごし、あっという間に右旋回の機会を逃して、浜名湖が遠く背後になってしまった。練習機とはいえ、秒速200メートルは出る。数秒無駄にしただけで、大きくルートを逸れるのである。自動車と違って、空中で停止はできない。

「はい、済みません。――ライトターン、ナインティ……」

 懸命になって取り返そうとする星華の上ずった声を、更なる大音量が襲った。

「遅れて曲がるのに、90はないだろう! 計算しろ、計算!」

 二十歳そこそこの小娘が相手とは思えない叱責、いや罵声ですらあった。星華は、操縦と、遥か下に見える地形を並行的に確認するのに手いっぱいで、涙ぐむことすらできなかった。

 地上に戻ってからも、ガブリンの舌鋒は続いた。

「T―7に乗って、なにを習ってきた!」

 本日の飛行後のデブリーフィングで、星華は下川一尉からそう詰問された。

「地形を見て位置を確認しながら飛ぶのは、初歩の初歩だぞ! あらかじめ目標を頭のなかに入れておいて、遠くの地形を見て自分の位置を判断しなければ、間に合わないだろうが。よくそれで、初級操縦課程をクリアできたな。トリムの取り方もなっていない!」

 ガブリンのひとことひとことが、星華のいたいけな乙女心に突き刺さって、そこから血か涙が吹き出す思いがした。実は教育中の飛行幹部候補生なら、この程度の叱責を受けるのは当たり前なのだが、だからといって辛さが軽減されるものでもない。

……訓練終了後、訓練日誌に下川の手で墓のイラストを描きこまれるというダメ押しの鉄槌を下されて意気消沈した星華が、入浴を終えて居室に戻ると、玲子は椅子に腰かけて卓上の菓子に手を伸ばしつつ雑誌を眺めていた。

「藤堂さん、それ……」

 声をかけられた玲子は、

「お帰りなさい。あなたも見る?」

 上機嫌で雑誌の表紙を向けた。本日発売の防衛省の広報雑誌『守護者――SHUGOSHA』だった。先月に二人は取材を受け、それが巻頭のグラビアに掲載されているのである。

 二人とケイが航空学生として入隊した時、週刊誌の特集に載ったことがあった。先日の投稿動画サイトへのアップでも、書き込みが大変な数になっていて、なかには「星華タソに会いたいから、漏れ空自に入隊木盆!」なんてものがあった。

「なかなかよく撮れているけど、できればもう少し、記事に工夫が欲しいな」

 菓子に手を伸ばしつつ、愉快そうに玲子はコメントを述べた。箱からすると基地内の売店で買えるものではない。多分男子隊員からのプレゼントだと思われる。前回のホワイトデーでも、義理チョコを贈ったのは、同じ飛行隊の同期や教官たちだけだったが(星華は下川にも贈ったが、下川は形だけ礼をいって、面白くなさそうに受け取った)、それとは別に覚えのない相手から、幾つもの上等なクッキーやらキャンディーが二人のところに届いていた。集団司令部や、航空団、各術科学校、警戒航空隊、高射教導群、浜松管制隊、中部航空音楽隊とか、上は指揮幕僚課程修了のエリートコースに乗った幹部から若い空曹まで、基地内の各部隊の多数の独身男子隊員からラブレター付きで手渡されるのである。二人は、想定外の「義理返し」を準備しなければならなかった。――この事実が、三人衆の怒りに航空燃料を注ぎ、統合直接攻撃弾JDAMを投下したのはいうまでもない。手渡されてもにっこりお愛想笑いで受け取って(もちろん、なんの言質も与えないが)平然と食い倒す玲子に比べて、断るに断れず、そして受け取ってから「どうしよう。どんなお返しを差し上げなければならないかしら」と真面目に悩むのが星華だった。ケイだったら、(筋肉男に限って)ご機嫌で毎週末ごとに違う相手とデートを設定するかも知れないが、輸送機コースを選択した彼女は、現在鳥取県美保基地の第三輸送航空隊で教育を受けている。時たまメールやショートメールを送って来るが、ある時は「こっちには筋肉のある男がいないわー」と、寂しげなことが書かれていた。

 マスコミの取材時、玲子はもちろん、星華も取材相手の望む対応をしなければならなかった。理想と情熱を抱き、前向きに訓練に挑戦する女性パイロット候補。教官を初め、周囲にいるスタッフも、皆立派な先輩ばかりで、日々やりがいを感じて教育に取り組んでいる――というポーズを取らなければならないと、暗黙の裡に要求されるのである。『SHUGOSHA』の誌面を見て、趣向を凝らした記事の見出しや麗々しい文章で書き立てられるヒロインのような自分と、毎日のように空中と地上でガブリンに絞り上げられる現実の自分のギャップに、

「なんなのかしら、わたしって……」

 と思わざるを得ない。おまけに、今日は浴場での帰りに不穏な目に遭わされた。靴を履こうとして右足をなかに入れたところ、鋭い痛みを感じ、急いで足を引き抜かなければならなかった。

「痛っ!」

 思わず声を挙げ、次いで靴を逆さまにした。転がり出て来たのは、数個の画鋲である。休日の朝食のパンが、受領に行ったときには既に星華と玲子の分がなくなっていたとか、これまでもあったが、

「またこんなこと。誰なの……」

 天然な性格故、いい寄って来る男子隊員に対する自分の態度によって、自らが他のWAFに睨まれているとか、ジェラシーを集めているとか想像しない星華には、理解に苦しむことだった。高校時代の耳学問では、CAの世界でも、年増CAによって「指導」という名称の、ありとあらゆる陰湿な新人イビリが行われていると知っていた。実は、彼女の母にも、先輩からやられた経験も、後輩に対して行った経験も豊富にあったのである。家のなかでは良妻賢母そのものだった星華の母は、エアライン社内ではまったく別の顔を持っていた。彼女に睨まれた後輩たちで、挫折を味わい、夢を失って会社を去った者は二人や三人ではない。

「つっかえないわね」

「あなた、それでもプロなの」

「その程度の覚悟なら、辞めておしまいなさい」

 というお得意の殺し文句三つが、多くの新人CAを機内で凍り付かせた。社内で母・天辺真由里が額縁入りで奉呈された「客室部の尼将軍」、「メデューサ」、「テッポウユリ」、「コールドブラッド」、果ては「オニババさま」という数々の極めつけな綽名は、伊達ではなかったのである。CAの世界と同じようなことは自衛隊にもあるのかも知れないと、この時思い始めた。今思うと、水野二曹の指導にも、そういう一面があったのかも知れないが……

 ――

「タッチダウン、行きます」

「よし、ゴー」

 下川の声を聞くと、星華はスティックを握る右手と、スロットルとを握る左手に、神経を集中した。速度を落とした星華のT―4は、一度浜松基地北側で180度ターンしたのち、滑走路東側から着陸しようとしていた。

 浜松コントロールが、タッチダウンを許可して来た。風の方向と風力は想定内である。フラップダウン、ギヤダウン、速度は150ノットドンピシャ。滑走路は目の前に、小さく三角形となっていた。両主翼のフラップは最大限の角度で降ろされ、揚力を増強している。滑走路は、ピラミッドから電柱のような形状に変化した。着地すると同時に、地面の感触が全身に伝わって来る。

「ワン、ツー――ナウ!」

 声に出して数え、そして予めイメージトレーニングした通りのタイミングで、スティックとスロットルを同時に引いた。キャノピーのなかで、前方の地平が下に動いて行く。高度計は順調な上昇を示した。

「フラップアップ、ギヤアップ」

 十分な高度に達すると、逆に失速の原因になるから、フラップの角度を元に戻し、車輪も機体内に収納しなければならない。手順は守れた、と星華は安堵した。呼吸はまだ荒い。離陸と着陸の段階では、誰しも緊張で荒くなる。

 これで第二段階の空中操作試験は、全科目終了したはずである。当初の空中機動であるエルロンロール、ループに始まって、スプリットS、スライスバックなど、戦闘機を操縦する上で基本となる機動の操作を行った。自動車とかの地上の乗り物と違って、飛行機は三次元で動く。スティックを左右に倒しただけでは曲がれない。曲がるためには両足で操作するラダーを同時に動かさなくてはならない。既にT―7で経験済みだったのだが、やはり最初は緊張と性能の違いからパニックを引き起こす候補生は少なくない。星華も、その一人だった。円を描いて宙返りするループでは、一度目は目の前に海面が見えて墜落するような錯覚を起こして急激なスティック操作を行ってしまって、

「なにやってんだぁ! アイハブ!」

 と、大声を出した下川に操縦を取り上げられてしまったりした。4Gの負担も、実体験すると大変なものに感じた。頬の汗の一滴に大きな重さを感じるといわれていたことを実感した。紙の上に絵で描くと単純な機動も、両手両足を同時に操作して行わなければならない。星華ばかりでなく、焦って操作を誤る候補生は何人もいた――というより、誤らない方が少数派だった。星華にとっては、これが最初のピンクになった。

 だが、星華は徐々に各種の機動に慣れ、手こずることはあっても、パニックはそれ以後、起こさなかった。

「OK。RTB」

「ラジャー。――ハママツコントロール、チェッカースリーワンワン、リクエストRTB」

 管制塔は、着陸を許可して来た。

 デブリーフィングで、着席した下川は手にした書類に改めて目を落としたあと、

「天辺候補生。第二段階、合格だ。よくやった」

 と、いつもの不愛想な口調でいい渡した。

 心のなかで、大きく安堵したあと、星華は、まず破顔し、そして、

「ありがとうございます、教官!」

 と、一礼した。

 ――だが、第二段階の試験が上手く行かない者も、同期のなかには当然のようにいた。

 夕食の場で、食堂の隣に座っていた男子同期同士の会話が、星華と玲子の耳にも入った。

「おい、仲村のやつ、試験の一回目落ちたぞ」

「またか。あいつ、第一段階でも落ちかけたよな」

 同期のなかで、一番トロい奴視されている仲村正則の名が挙がっていた。

「初級課程を通ったのが、信じられなかったもんな」

 その会話の中身は真実だった。第二段階の試験でタッチダウン後、上昇してから、仲村は後部座席の教官から質問された。

「なにか忘れていないか?」

「え? なにかって……」

「フラップだ、フラップ!」

 名詞を持ち出されて、仲村は初めて自分の操作ミスに気が付いた。そして、それは遅過ぎた。

 着陸後のデブリーフィングで仲村は、教官から次の一言を突き付けられた。

「いいか、大事故につながるところだったぞ。次が最後だ!」

 星華や玲子は、同期たちの会話を黙って聞いていた。同情しているような余裕はない。正直な心情はそうだが、矛盾するようでも星華には、「大丈夫かしら」という気持ちもある。自主退職した飛田省吾以外にも、成績面の限界により初級操縦課程で七人、既にエリミネートが出ていた。

 肩を落とした仲村が、その時、夕食をプレートに乗せて現れた。見るからに落ち込んでいる。

「あの、仲村くん」

 と、星華が声をかけても、背を丸めて反応しようとしない。玲子も、他の同期たちも、声をかけなかった。

「行くわよ、天辺」

 そういって、先に玲子は席を立った。周囲の男子同期たちもそれに習った。星華も、仲村を助ける方法はないと悟っていた。

 二回目の試験も落ちた仲村正則が、免飛行幹部候補生となって浜松基地を去ったのは三日後だった。詳しい消息を、誰も積極的に聞こうとはしなかった。航空学生の教育開始以来、既に同期の数は八名減っていた。


     Scene#3  霞が関


 GWの初日。本来ならキャピタル税理士法人の休業日だが、土肥原信彦は昼過ぎに出勤していた。午後から、オフィスでクライアント相手のプレゼンが待っているからであって、最終的な詰めとリハーサルを行わなければならない。デスク上のPCを立ち上げて、前日までに作っておいたパワポのファイルを開く。プレゼンの順序に従って、スライドを流し、内容に論理性と説得力が備わっているか、再度自分の頭で確認して咀嚼しておかなければならない。前日の内に上司の指導は受けたが、最終的には自分で責任を負わなければならないのが士業というものである。

 だが、肝心のクライアントは、信彦が情熱と注意力を注いだほどには、プレゼンの内容に興味を持とうとはしなかった。少なくとも、信彦にはそう感じられた。二十代後半のクライアントは、最近になって売れ始めたファッションデザイナーで、今回独立して自分の事務所を構えるから、信彦の勤務先に相談を持ち掛けて来たのであるが、「独立」がどういう意味を持つのか、今一つ理解できないようだった。節税のテクニックやら、「なにが経費で落とせるか」というような質問は熱心にしてきたが、資金計画そのものについてアドバイスしようとすると、途端に熱意をなくした。

「――ですので、日常的に注意するべき点として、手元には、常に月商の二カ月分程度のお金を、直ぐに現金化できる状態でプールする必要があります」

 でないと、不測の出費に堪えられない。意味するところは、倒産である。企業は赤字で倒産するのではない。キャッシュが手元に亡くなった時に倒産する。しかし、目の前のクライアントは今一つ実感を抱いていないようである。ややラフな服装の彼は、退屈そうで、分かったような、分からないような顔をしている。法人の先輩税理士に、こういわれたことがあった。

「短期間で潰れる起業家と、大きくなる起業家の違いは、第一に資金計画をマジに立てているかそうでないか、そして開業してから経費の支出に細かいかどうかだ」と。

 自分の夢やビジネスプランには熱を入れて語る一方、開業資金の調達や、そのあとの運転資金の確保には関心を抱かない、あるいは自分の力をもってすれば、どうにでもなると楽観しているタイプは、まず長続きしない。数年で廃業である。事務所の家賃、人件費、光熱費、通信費、その他諸々の出費が、どれだけ経営上の負担になるか実感が持てないから、カネがあっという間に消えていく現実を目の当たりにして、身をすくませるのがオチなのだ。いや、こんなのはまだ可愛い方で、最初からロクに業務をせず、短期間「社長」の肩書で遊興するのが目的の者すらいる。名刺を切って札片をばらまき、遊ぶだけ遊んで、カネがなくなったら所在をくらます――このデザイナーも、あるいはそういう手合いの一人かも知れない、と邪推してしまう。そういう気持ちを押し殺して、提供するべきは提供するのがプロ意識というものだと、分かってはいるのだが。

 約一時間のプレゼンののち、退屈さから解放されたと顔に書かれているクライアントを送り出したあと、信彦はプレゼンで使用したファイルをPCから削除し、自分のワークスペースに戻った。腕時計を見ると、約束の時間まで三〇分もなかった。ネクタイを締め直して、オフィスに施錠し、エレベーターに向かう。ビルの外に出ると、ビルとビルに挟まれた丸の内の狭い空を見上げた。

 ――彼女の飛んでいる空は、もっと広いんだろうな。

 ふと思ってから、東京駅に足を向けた。待ち合わせの場所は、主要省庁の並ぶ霞が関だった。東京駅から地下鉄で四分程度だが、ギリギリは避けたい。足早に東京駅の地下ホームに降りて、丸ノ内線に飛び乗った。だが、霞が関で地上に上ってみると、待ち合わせの相手は、既にそこにいた。

 春色のスプリングコートを着用して、にこやかな表情を浮かべた天辺星華は、

「土肥原さん」

 と、父の勤め先の会計事務所長の息子に声をかけた。

「お待たせしたかな。失礼しましたね」

「いいえ、わたしもつい五分ほど前に着いたばかりですの」

「ならよかった。じゃあ、行こうか」

 今日、信彦が予約したのは、霞が関の一角にあるアメリカ系のステーキハウスだった。まだ税理士としては半人前の信彦にとって、少し敷居の高い店である。堂々たる省庁の庁舎の谷間を並んで歩く二人は、カップルの典型に見えた。スーツ姿の男性は、税理士法人勤務といわれても別に違和感はなかったが、女性の方は職業が自衛官、職務がパイロットのヒヨコだといえば、ギャップを感じさせるだろう。部外にいれば、まだ星華はOLの一年生か、女子大生が相応なのである。

「いらっしゃいませ」

「予約していた土肥原です」

「お待ちしておりました」

 丁寧な物腰の店員に予約していた旨を告げると、メインダイニングの一角のテーブルに通された。スプリングコートを預けた星華は、黒のパーティドレス姿になっている。

「コースがいいかな。メインは、和牛フィレの六オンスにして」

「ええ。わたしもそれで」

 注文を済ませて、二人は近況を話し合うことに移った。星華が信彦と会うのは、これで三回目である。最初は、飛行準備課程が始まって間もなく、父の就職祝いということで、信彦と彼の両親、そして星華の一家で、横浜のホテルのレストランで会食した時だった。二度目が、初級操縦課程の途中だった。お互い、それまでは目指す目標の途中であり、距離もあって早々頻繁には会いにくかった。

 ――コースが終わったあとで、コーヒーを前に置いて、

「実は来年、僕の勤務先はマレーシアに二番目の海外法人を設立する。そのスタッフに選ばれる予定なんだ」

 信彦は本日のメインテーマの前に、来年の予定を持ち出した。

「すごいですね。海外赴任ですか。マレーシアのクアラルンプールは、中学生の頃、両親に連れて行ってもらったことがあります。いいところでしたわ」

 両目を、やや大きめに開いて、星華は賛嘆した。それを見て、いよいよ本題を切り出す時、と信彦は判断した。

「僕と、結婚してくれないか」

 信彦は率直に告げた。だが、聞かされた星華にとって、これはまったく予期していない提案だった。最初、言葉を受け取り、次に意味を思い出し、そして、聞き返した。

「けっ、こん……ですか――」

「そう。一緒に来て欲しい。税理士試験もあと、一科目を残すだけで、今年最終合格するつもりだ。そうしたら、僕と結婚して、一緒にマレーシアへ行こう」

 星華にとっては、いきなりといってよい展開だった。会うのはまだ三回目で、好印象を持っている相手ではある。父親の雇用主の息子ともなれば、粗略にはできないという計算もあった。

「でも、わたし、まだ教育中で、それに……」

 星華は、慌てた調子で説明を続けた。

「パイロットになる途中ですし――」

「自衛隊は辞めて欲しい」

 信彦の求めは、はっきりしたものだった。

「あなたの夢を壊しちゃいけないとは、僕も随分考えた。でも僕には、あなたがパイロットになったという姿が、どうしても想像できない。星華さんは、そんなことをやるよりも、もっと別の世界にいる方が相応しい人だと思う」

 そして、信彦はこう告げた。

「直ぐに答えを出して欲しいとはいわないよ。ゆっくり考えて。僕も、八月の税理士試験までは、そちらに集中したい。でも、僕は約束する。結婚してくれたら、絶対にあなたを不幸にはしない。また、念のためだけど、もし断られたとしても、君のお父さんが勤めづらくなるようなことには、決してしないから」

 店を出た二人は、地下鉄の駅まで並んで歩き、そしてホームで別れた。


     Scene#4  横浜


 GWが始まる前の週末、JR東海道線大船駅東口近くの飲み屋で、五種類ばかりの肴をテーブルに並べて生ビールを飲んでいる若い男たちがいた。次の週末には、横浜市内で小学校の同窓会が開かれる。それには三人とも参加予定だから、呼び出した一人にとってはともかく、呼び出された二人にとってはいささか理由が分からなかった。

「一組の天辺星華、覚えているか?」

 と、呼び出した角田治は、一杯目の途中で切り出した。

「覚えている。確か、お前と同じクラスだった女の子だろう?」

 長身で堂々とした体格の山本平八は、治より余程自衛官らしく見える男だった。山本は今月の初旬、アフリカ・ソマリア沖の海賊対処任務から帰国したばかりである。高校時代は、超高校級プレーヤーとして、全国でも名を知られたバスケットボール選手だった。神奈川県でも強豪の県立相模湾高校サガワン男子バスケ部でキャプテンを務めたが、実家の事情で大学には進めず、卒業後は「地元で公務員」という希望が通る海上自衛隊に入隊していた。現在の階級は海士長で、横須賀に母港を置く第一護衛隊群隷下の護衛艦はるかぜの給養員――つまりコックとなっている。

「あいつ、湘南鎌倉女子を出て、空自に入隊していたんだ。それも、今は飛行幹部候補生だ」

 治の情報は、山本も、そしてもう一人の同業者である上原勇策も、少しばかり驚かせるものだった。

「本当か?――飛行幹部候補生って、パイロットになるんじゃないか」

「信じられんな。あの、どっからどう見てもお嬢様が?」

「嘘じゃない」

 続けて、治はビールを一口飲んだ。さて、これから本題を切り出そう、と思っていたところで、山本に答えを先取りされた。

「で、角田よ。おれ達に、天辺を攻略する手伝いをしろと、こういうわけだな」

 その瞬間、治は息を詰まらせ、顔面には縦筋が走った。

「(うぐっ)……なぜ分かった?」

 声を鋭くして、山本は一喝する。

「たわけ! 同業者のおれ達を、同窓会を前に急に呼び出し、ただ酒ただ飯を振舞った上、天辺の名が出て来れば、答えは一つだろうが」

 これには、上原も同調した。

「そうだそうだ、お前だけが天辺星華に熱を上げていたと思っているのか。いいか、同学年でも、あいつにお熱だった奴は、一ダース以上いたんだぞ。それを、隣の席になったのをいいことに、毎日毎日馴れ馴れしくしていたお前は、はっきりいってジェラシーの的だ。袋叩きにされてもおかしくなかったぞ!」

 上原勇策は、対照的に155センチのややチビ男である。同じサガワンでサッカー部(こちらは、大して強豪チームではない)にいたが、卒業後の進路に、サッカーを続けられる職場を希望した。その結果が、たまたま陸上自衛隊だったということである。現在は、東京都と埼玉県の境界上の朝霞駐屯地に所在する第一施設大隊で勤務している。「施設」とは分かり易くいえば「工兵」であって、有事であれば陣地の構築や道路工事、敵の設置した地雷原やら鉄条網とかの処理が仕事である。国際貢献任務でも出番は多いが、まだ上原にはその経験はない。なお、昔はサッカーコートにいる間と、いたずらさの際の逃げ足は驚異的に速かった。

 正直なところ、治は自分の立場がこういうものだったとは、想像していなかった。お調子者の性格故であろう。治は、二人が自分の味方をしてくれるものと、最初から思い込んでいたのである。

 

     Scene#5 横浜市街・山下通


 ステージの壁に映しだされた文字は、

『波の上の料理人』である。同窓生の近況報告で、山本の番が回って来たのだ。

 ……埠頭上に整列した横須賀音楽隊が「日の丸行進曲」を演奏するなか、護衛艦はるかぜはその巨体を岸壁に横付けにした。もやいが結合され、舷梯も降ろされた。その上を渡って、艦長以下の乗組員が続々と一列になって降りて来る。彼らは護衛艦隊司令官の前で整列し、艦長が代表してソマリア沖アデン湾海賊対処任務の終了と帰国を報告した。周囲には、帰国を待ちわびていた家族が遠巻きにしている。帰国行事が終了すると、解散が命ぜられ、乗組員たちは早速家族との再会を楽しんだ。山本平八もそのなかに……いなかった。

「タマネギ、終わりました!」

 調理室で戦っていたからである。帰国日が金曜日だったため、昼食のメインはカレーライスである。艦艇でも陸上基地でも、海自では金曜日の昼食にカレーライスが供される。カレーの味の決め手の一つがタマネギであって、合計一〇キログラム必要である。その他、野菜だけで人参一〇キログラム、ジャガイモ二〇キログラム。牛肉は六キログラムである。レシピは艦・部隊ごと色々と工夫されているが、はるかぜも独自のレシピを有していた。

「人参終わりました」、「ジャガイモ終わりました」

 野菜の細断は、新米海士の任務である。山本たち三名は三〇分かけて、すべての野菜の下ごしらえを終わらせた。

「よし。タマネギ炒める」

 給養員長森脇一曹は、既にドラム缶を半分に切ったくらいのサイズのスチーム鍋にヘットを溶かして待ち構えていた。一〇キロ分のタマネギを入れたボウル数個の中身を、給養員たちが次々そのなかに投じた。盛大に湯気が上がり、タマネギが徐々に色を薄めていく。タマネギに茶色が着いた頃を見計らって、人参、そして一口切りの牛肉が投入された。カレーの味を決定するこのプロセスと、前日から準備するブイヨンは、森脇一曹の独壇場だった。同時に、副食であるサラダや、揚げ物、果物を準備しなければならない。調理室は、常在戦場だった。

 ――同じ四人組テーブルに巨体を戻した山本は、グラスのなかのビールを一息に飲み干した。

「艦のなかじゃ、許可がないと飲めんのでな。半年間、辛いもんだった」

 大きく息を吐いて、満足げに語った。

「お疲れさまでした」

 ライトグリーンの上品なワンピース姿の星華は、空いたグラスにビールを追加した。同じテーブルに、治と上原も座っている。

「山本くんは、どうして入隊したの?」

 “背の高い男の子”と、昔は覚えていた山本に、星華は聞いた。

「おれの家は、暮らしが楽でなかったんでな」

 高校三年の夏、「サガワンのジャイアントロボ」こと、山本が率いる相模湾高校男子バスケ部は、インターハイを目指して戦っていた。過去、なんどもインターハイで入賞しているサガワンは、今年の神奈川県大会優勝とインターハイ出場を、確実視されていた。

「今年こそ、全国制覇」

 この合言葉を胸に臨んだ県大会準々決勝で、しかしサガワンは敗退した。まったくノーマークの無名校に、二点差で阻まれたのである。試合後、男泣きに暮れるチームメイトたちに、

「泣くな。この負けが、いつか力になる!」

 と、山本は叫んだ。だが、その当人こそが帰りの電車のなかで、場所も弁えずに悔し涙を流していた。そして、暑い夏が終わり、現実という秋が訪れた。父親は江ノ島近くにあるタクシー会社の運転手、母親もその近くのドラッグストアのパート店員で、狭いアパート内には中学生の弟が二人いた。もはや、インターハイ優勝の実績で、どこかの体育大学に特待生……という未来予想図は夢と消えた。就職しかないが、できれば安定した職業にしたかった。出された答えは公務員だったが、現実は厳しかった。一年生の頃からバスケ一筋で、勉強は赤点を取らない程度に留めていた上、初級公務員ですら競争率が高い。県庁を初め、県内の市役所、警察、消防、果ては海上保安学校まで受験したが、すべて落ちた。最後に採用通知をくれたのが、海上自衛隊だった。卒業式の数週間後、山本は横須賀教育隊に着隊した。

 入隊式では、長身で動作のきびきびした山本は、代表で宣誓文を読み上げ、執行者である横須賀地方総監・島村海将に手渡す役を命じられた。全国制覇を目指した体力は、ここで大いに山本の味方になった。毎日の体力練成は元より、基本教練や手旗訓練、射撃、陸戦、そして一番きつい短艇カッターまで、難なくこなすことができた。

 教育隊を修業した山本とその同期たちの一団(そして、他の教育隊からも来た練習生がいた)が、京都府舞鶴基地の第四術科学校で受けた教育が「調理」だった。教育の初日、教場で新隊員たちの前に立った給養科教官、海士以来調理一筋の海曹長高橋猛は、ホワイトスクリーンに「調理」の二文字を映して、

「お前たちの職務は、これである。分かったか!」

 と、最初に宣告した。

「よいか、艦艇や基地の給養員は、学食や社食の調理員とはわけが違う。もし、有事に護衛艦の一隻で食中毒が発生すれば、それは護衛隊の行動を阻害することを意味する。護衛隊の行動の制約は護衛隊群、さらには護衛艦隊全体の戦力ダウンにつながりかねない。すなわち、お前たちの扱う包丁や鍋は、即日本国家の命運を左右するのである。

 いかなる精強な部隊も、腹が減っては戦さにならない。新鮮で美味なる食事は戦う者の士気と体力の源泉であり、一膳の飯、一杯の味噌汁、一皿の副食が、実に最新鋭の誘導弾や魚雷に匹敵する威力を発揮するのだ。まず肝に銘じよ。調理室は戦場、調理即戦闘だ!」

 包丁の使い方、野菜、肉、魚のさばき方、米のとぎ方に始まって、和洋中の各種料理の基本、栄養学、食品管理の方法等を定められた期間でマスターしなければならない。正直いって、最初は給養に回されて腐っていた山本だったが、教育が始まると短時間で自分が最適の職務を得たことを知った。運動神経といい、気力といい、持久力といい、バスケで培った力がそのまま役に立ったのである。

「おれは、天職を得たのかも知れん」と思うようになった。

 ここでもトップの成績で修業を迎えた山本は、横須賀を母港とする第一護衛隊群に所属の新鋭護衛艦はるかぜに赴任した。

「はるかぜの護衛艦カレーは、全海自でもベストファイブに入るといわれているんだ。機会があれば、皆に御馳走したいくらいでな。これを是非ナンバーワンにしたい。そして、海曹になって、将来は練習艦隊勤務になり、遠洋航海に行きたいと思っている」

 練習艦隊は、海外での寄港時、現地の軍高官やVIPを招待して供応を行う。自分の力量で、世界と勝負できるのだ。

 ――おれの包丁で、世界制覇だ。

 山本は、バスケ以上の情熱を、調理に注ぐ男になっていた。

 上原に順番が回って来て、大型台風の来襲時の災害派遣で、渡河ボートを漕ぎ、一メートルを超す深さの浸水地に入って住民を救いあげて回った経験を聞かされて、

「二人とも、頑張っているのね」

 天然ぽい性格の星華は、山本と上原の体験談を交えた会話にすっかり感心していた。

「しかし、もっと凄いのは角田だ」

 ビールをさらに飲み干した山本は、事前の計画のとおりの台詞を口にした。

「そうだよな、空挺は陸自でも一番きつい部隊だからな」

 これも計画していた上原の台詞である。山本と上原は、「味方はしてやる」という約束の代償に、三次会まで飲み食いを治に奢らせたのである。治の財布の中身は、本当に帰りの電車賃が残るだけとなっていた。

「特殊作戦群に行きたいんだろう。並みの覚悟じゃ、到底無理だ。立派だよ、立派」

 あるいは、これは褒め殺しに近いものだったかも知れないが、治と同じく、お調子者の気がある上原は用意していた通りに治を持ち上げた。

「まず、これから空挺レンジャー課程に行く。そのあと、選抜試験に合格しなきゃならないけどな」

 弱いところを見せるな、という山本のアドバイスに従って、自信たっぷりに治は語った。自信のないそぶりは、見せないようにしろとも教えられていた。

 ――同窓会は二十一時半に散会となった。会場となったホテルは、道路を挟んで山下公園を望む場所にある。

「じゃあな、気を付けて帰れよ」

 星華を駅まで送るという役割を治に割り当てて、山本と上原は、早々に二次会に消えた。ともかくも、治は二人に心のなかで手を合わせて感謝するばかりだった。

「ちょっと歩いて行かないか」

 という誘いに星華は頷いて、広い道を渡り、山下公園のなかに進んだ。

「同窓会、楽しかったわぁー。来てよかった。本当に」

 と嬉しそうに口に出す星華は、同窓会の席で結構ビールやその他のアルコールを消費していた。成人以来、休日の外出時にそれなりに酒は嗜むようになっていた。というより、傍から見て、その吞みっぷりに、治たちはやや驚かされた。実は、彼女の母親からして、ボトルワインを数本は軽く空けるくらいの酒豪で、現役CA時代には、合コンの席でお持ち帰りを狙う下心丸出しの男どもを何人も討ち取っていたのである。そのDNAは、どうやら娘に受け継がれているようだった。

 治にとって、小学生の時には考えられないような状況だった。星華と同じ職業で、しかも二人並んで歩いている。道行く人には、当たり前のカップルに見えるだろうと思った。そして、周辺の状況を確認し、人がいないことを確認した。――今こそ!

 治はタイミングを確認して、星華の前にいきなり進んで面と向かった。

「いいか、現在の自衛隊では、男女の比率は圧倒的に女が少ない。全体の六パーセント程度だ。つまり、女の圧倒的売り手市場。天辺にもとうの昔に虫がついていても、全然不思議ではない。となれば、下手な小細工は不要! 『海戦ノ要訣ハ先制ニ在リ』。正面から攻撃しろ」

 これが山本のアドバイスだった。治は、これに従った。但し、自分なりの解釈を交えて。

 その時、星華はアルコールで感覚が鈍っていたためか、治の動きの意味が分からなかった。次の瞬間、治は星華の上半身を抱き寄せた。一瞬して、星華は知覚し、そして反応した。

「角田くん、やめて」

 星華は、治の上半身を突き離そうとした。だが、治はその力に抗して、強引にキスに及んだ。

「小学生の時から、好きだったんだ」

 世界共通的に求愛を意味する行為のあとで、治は星華の体を離した。少し離れて狼狽し、押し黙った星華に、治は懸命に説いた。「でも、お前はあの時はいいところのお嬢様で、中学は別々になったから、縁がないと思って諦めた。でも、こうして同じ仕事になって、おれでもお前の力になれることが分かったんだ」

 押し黙ったままその場から去ろうとする星華の腕をつかんで、治は語り続けた。

「おれ、特殊作戦群に挑戦する。お前に相応しい男になるよ。だから、おれと――」

 肝心な最後の一言を告げる前に、星華は答えた。

「ごめんなさい。わたし、今は――」

「好きな男が他にいるのか? 空自とかに……」

 それには答えず、うつむき加減のまま星華はつかまれた左腕を右手で自由を取り戻した。

「そうじゃないけど。ほんとうに、ごめんなさい。まだ、わたしパイロットになる途中だから」

 やっといい残して、星華は治を残してその場から逃げるように立ち去った。駅までの途上、そして京浜東北線の下り電車に乗ってからも、自分が置かれた境遇に頭が混乱していた。

 ――土肥原さんと……角田くん。

 これを三角関係と称すると、窓の外をうしろに飛び去る家々の照明を眺めながら、少しして理解した。女子高故に入隊前は恋愛からはやや縁遠い生活だったし、入隊後もパイロットになるため、意図して男性とは距離を置いていた。しかし、ここに来て急に二人の男に挟まれた形になって、星華はどうするべきか分からなくなってしまった。

 一方、取り残された男の方も、準備していたセリフの一部が不発になってしまったことに、不満を抱いていた。

 ――どうするよ、おい。

明白に拒絶されたわけではないが、かといって(半分以上は覚悟していたが)OKを貰えたのでもない。暫くは、今後の取るべき作戦が分からない。

 星華に気が付かなったことが、一つあった。霞が関でも横浜でも、自分を狙っているデジタルカメラがあったということを。

 

     Scene#6 浜松基地再び


 休暇明けの朝、浜松基地の女子用隊舎の玄関には、ちょっとした人だかりができていた。なにごとかと思って玄関の掲示板に貼られていた紙を見て、星華は真っ青になった。A3サイズの紙に二枚のフォトがペーストされている。下の余白には次のようにコメントが記されていた。

「A飛行幹部候補生の華麗なる男性関係!」

 忘れもしない、片方はGWの初日に土肥原信彦との食事が終わって、ステーキハウスから二人で出て来る場面である。そして、もう片方は小学校の同窓会の終了後、会場となった横浜のホテルの玄関で角田治と並んでいる場面である。写真週刊誌を思わせる紙を見ながら、星華は顔から高速で血の気が引いて行くことを感じていた。

「あぁら、羨ましいですわねぇ」

「ほーんと、オキレイな飛行幹部候補生ともなれば、男の方が放っておかないんでしょうしぃ」

「お盛んですことぉ」

 背後で聞こえよがしに囃し立てるのは、タカビー三人衆――宇山・寺田・佐川である。

 夢中で紙を取り外し、くしゃくしゃに丸めて持ち去った星華だが、天然な彼女も、これを機に、漸く周りの女子がどういう目で自分たちを見ているか、実感するようになった。

 災難は、玲子にも降りかかってきた。その日の夕方、訓練と夕食を終え、女子隊舎の浴室で汗を流して出て来ると、脱衣所で自分の着替えが入っているはずの棚のなかに、上下のアンダーウェアが入っていないことに気が付いた。

 ――まさか……

 なんどか、狭い棚のなかを確かめたが、二組の下着はそこから消えていた。これには、さすがの玲子も顔色を変えた。星華と違って、天然な性格とは少々異なっている玲子は、瞬時に他の女子隊員のジェラシーが具体的な形で攻撃になっていると察した。彼女の下着二組は、その夜、ズタズタに引き裂かれて、隊舎の廊下に放置されているのが見つかった。

「思い知らせてやるわ!」

 という三人衆の合意は、こうして二人に向けられる現実の刃となったのである。

 

     Scene#7  習志野駐屯地


 レンジャー養成課程は、空挺教育隊の空挺レンジャーに限らず、最初は体力調整、つまり基礎体力の強化から始まる。

「お前ぇの根性、そんな程度かァ!」

 悪役レスラーか肉食獣のごとき表情で角田治の耳元で絶叫したのは、空挺団から空挺教育隊の支援に来ている大林一曹である。治にとっては特科大隊の先輩陸曹であるが、同時に「デーモン大林」あるいは「特科のコブラ」と呼ばれて恐れられている要注意人物でもある。その昔は、飲みに出た夜の千葉市街で、絡んできたヤクザを逆に締め上げて、組の金バッジを取り上げたという武勇伝を有している。要するに、腕力プラス強面なのである。なお、彼が陸曹候補生の時、富士山麓の東富士演習場でたっぷり鍛えてくれた陸曹教育隊助教が治の父、当時の二曹角田慶次郎だったので、その息子に少々「恩返し」をしてくれるという本音が見え隠れしていた。治が最初に大隊に配置になった時、大林一曹は、初対面で「おい、おめえ、カクケイの息子だってな?」と、因縁ありげな挨拶をしてくれたのだった。

「レンジャー!」

 なにをいわれても、学生にはこの答えしか許されていない。かがみ跳躍という、小銃を両手で頭上に支え、両足を交互に前に出し、跳び上がるのである。営庭では二けたの訓練生たちが治と同様のかがみ跳躍で絞られていた。既に顔面に汗が吹き出し、両目に流れ込んで痛みを加えている。既に体力を消耗した者も出ている状況だが、止めればより厳しい叱責にさらされる。浴びせるなかには、小松二曹も顔を連ねていた。

 ――なんでおれ、あんなこといっちまったんだろう……

 つい初恋の星華の前で、見栄を張った結果がこれだった。だが、もう引き返せなかった。宣言通り特殊作戦群に行くか、彼女を諦めるか、二者択一なのである。もっとも、宣言が実現したところで、星華が彼のものになる保証は、今のところ存在しないのだが。


     Scene#7  静浜基地上空――事故


 離陸までは、少し心に引っかかるものがあった。地上で気になることは、幾つもある。治が嫌いであるわけではない。習志野で再会して以来、時々メールやショートメールもやり取りして来た。小学校の同級生で同じ職業ということから、親近感は感じていた。治から、GWの末に「来週から空挺レンジャー課程が始まる」と伝えるメールが届いていた。その末尾で、「勝手なことをして済まなかった」という詫びも付け加えられていた(治にとっては、これも作戦の一部だが)。星華は、その部分には触れずに「来週からがんばって」とだけ返事をした。一方、信彦からは連絡がない。きっと、税理士試験の最終科目受験に向けて、全力投球しているのだと思えた。

「どうしよう――わたし、どうすればいいの……」

 という思いは、あれ以来、常に付きまとっている。誰かに相談したくても、性質上、相手が簡単に見つからない。ケイが近くにいれば相談相手になったかも知れないが、遥か彼方の美保基地であり、玲子に相談しても、「教育中でしょ。気を散らすべきじゃない」と、たしなめられて終わりだと思われた。

 GWの休暇明けから、課程は第三段階の計器飛行訓練に入る。従来とは逆に、教官が前方座席、学生が後部座席に座り、訓練に入ると後部座席のキャノピーの下には蛇腹状のフードが設置される。上空で訓練に入ると、フードがキャノピーを内側から覆い、学生の視界を遮断する。外が見えない状況で、計器だけを頼りに予定のコースを飛行しなければならないのである。悪天候や夜間のように、地表の地形地物を見てフライト出来ない状況を想定した訓練だった。

 T―4は、豊橋市上空で予定の位置に達した。一切の雑念を払うように、星華は一度深呼吸した。レシーバーからは、下川の命令が聞こえて来た。

「フードクローズ。始めるぞ」

「ラジャー。フードクローズ」

 蛇腹状のフードを右から左へ、右手で動かした。これで、後部座席からは外部が見えない。星華は、改めてスティックを握る右手の感触を確かめた。

 ――集中しなきゃいけない。

 自分にいい聞かせた。今は、異性関係のことなんか、考えている余裕はない。

高度は25エンジェル、つまり25,000フィート。メートルに直すと、7,625である。これから北北西に進んで木曽御嶽山南山麓、西南西に方向変換して甲府市、南下して富士市上空を経由、浜松基地に帰投するフライトプランだった。この飛行を計器と時計だけで正確に実施しなければならない。夜間や悪天を想定した訓練だった。既にTー7で経験済みだが、速度と高度は大きく違う。秒単位の飛行管理を誤ると、最悪の場合、地上と激突である。もちろん前部座席には教官が搭乗しているが、いざという時は助けて貰えると思って飛んでいたら、ピンクを突き付けられるのは確実である。

「高度、ファイブエンジェルに上げます」

 次の基準点は木曽御嶽山の南山麓にある小秀山で、標高は2,000メートル近い。

「ライトターン、エイティフィフ」

 速度計と高度計、そして時計が正しければ、現在位置は小秀山上空であり、次は中央アルプスを横断して、甲府市上空を目指さなければならない。前席のガブリンは沈黙を保っている。

 ――どうか、コースを外れていませんように。

 と星華は心のなかで祈るばかりだった。

「トリム、忘れるな。トリム」

 一度、下川の声がレシーバーから聞こえた。スティックの最上部に、前後左右に動かせる小さな突起がある。これをトリムと呼び、右手親指で操作するが、機体の微妙なバランスを調整する役割がある。以前、星華はこの操作を誤ったことがあり、それ以後も忘れる傾向があったので、下川としては、

「これ以上やるなよ、ピンクを出すぞ」

 という意味なのだろう。

 ――分かっております、教官。

 と思いつつ、「ラジャー」とだけ答えた。

 ――富士市上空に到達したはずだった。

「リバー、#4ポイント、富士市上空です」

 星華は、マイクに声を送り込んだ。リバーというのは下川のTACネームである。

「OK。フードオープン」

 その声を聞いてから、星華は閉じた時と逆の手順でフードを下ろした。機体前方の下方向に駿河湾が見える。もう間もなく海上に出ようという地点だった。現在位置は、富士市上空に間違いなかった。

「いいだろう。浜松に戻るぞ。RTBだ」

「ラジャー。RTBハママツ」

 復唱した星華は、大きく胸をなでおろした。計画通りのルートを飛行できたのだった。

 ――わたし、ここまでできた。

 という満足感が沸き上がって来る。少し気が緩んだのか、飛行前の考え事が、ふと再び頭をもたげた。

 ――土肥原さんと角田くん……どうしよう。

 土肥原の誠実な為人は分かっている。自衛隊を辞めても、自分を一生大事にしてくれそうだった。でも、土肥原と同じ人生を選ぶためには、今日まで耐えて来た教育のすべてを捨てなければならない。この空を、夢を捨てなければならなかった。

 一方、治は昔の友達であって、いきなり唇は奪われてしまったが、それはなぜか怒り切れない気持ちがあった。同じ職業だから、もし仲が進んでも自衛隊を辞めろとはいわないと思われた。でも、今一つ「同級生」の一つ上のなにかを持てているかというと、それも断言できなかった。

「おい、なにをしている。リクエストRTB」

 ガブリンに促されて、星華は我に返った。

 ――いけない。わたし、フライト中だった。

 自分を叱ってから、浜松管制塔を呼び出す。だが、浜松基地の管制塔は、

「現在、浜松周辺はダウンバーストの兆候あり。着陸は危険。着陸を静浜へ変更せよ」

 と返答して来た。どうやら、朝の時点のブリーフィングと異なって、天候が急変したらしい。ダウンバーストは航空機を強圧で地面の方向に押し付ける強力な下降気流である。過去、何度も重大な航空機事故の原因となっていた。

「真夏でもないのにダウンバーストか。止むを得ん。静浜に降りろ」

「ラジャー。静浜にリクエストします」

 静浜基地は、同じ静岡県内にある基地で、大井川の北岸にある。滑走路のある基地としては、空自では最小の基地だった。自分にとっては、航空学生試験の会場でもあった。富士市からは約40キロメートルの距離であるので、到達まで数分しか時間がない。

「シズハマコントロール、チェッカースリーワンワン、リクエストランディングインストラクション」

「チェッカースリーワンワン、シズハマコントロール、付近に雷雲が接近中。注意して接近せよ」

 西から急速に天候が下り坂に入っている模様である。進行方向にはグレーの暗雲が見えていた。

 駿河湾上空で、前方に静浜基地のある陸地が視界に入った時だった。

 星華たちのTー4を閃光、そして衝撃が襲った。

 ――なに?

 という驚きに続いて、それが機体への落雷だということに気が付くのに数秒かかった。次に頭に浮かんだのは、マニュアルにあった計器のチェックだった。だが、計器盤に目を走らせて星華は、瞬時に血の気が失せた。

 ――だめ、高度100フィート、速度3ノット。

「教官、インストルメントアウト! インストルメントアウトです!」

「分かってる!――シズハマコントロール、デクアリングエマージェンシー! インストルメントアウト! デクアリングエマージェンシー!」

 通常、飛行中に航空機が被雷しても、搭乗中の乗員は、ファラデー原理により被害は発生しない。だが、現代の航空機にとって必須の電子機器は別である。時と場合によっては、高圧電流である雷が、それらを損傷することがある。意味するところは、イコール操縦不能である。

 静浜基地で、非常事態を告げるサイレンが鳴り渡った。

「配置に付けー!」

 各隊長の号令と共に、基地業務群に属する施設隊や衛生隊に属する消防車や救急車といった車両や対処関係の人員が、墜落事故に備えて走り出した。

「アイハブ、いつアンコントロールになるか分からん!」

 下川の声が必死の響きを帯びていた。

「ユーハブ!」

 星華は、操縦を下川に渡した。だが、操縦系統もエンジンも電子機器のコントロールを受ける。無事に着陸できる可能性は、下川にも非常に低くなったように思える状況だった。

「ベイルアウト、ベイルアウトしろ!」

 レシーバーから伝わって来る下川の声は、既に絶叫の域に達していた。

「しかし、教官!」

「急げ、こいつは海に落とす!」

「ラジャー、ベイルアウトします!」

 復唱した星華は、座席の頭上にある赤い環状のベルトに手を伸ばし、下に引いた。次の瞬間、後部座席のキャノピーが爆砕され、座席のロケットモーターが点火した。強烈なGが星華の身体を襲い、縦方向に全身を圧縮する。

 後部座席が射出されたTー4は、急速に左にひねり込んだ。このまま基地を目指せば、基地周辺に被害が及ぶかも知れなかった。それを避けるためには、時間がないことを承知の上で急旋回し、海面に降りるしかない――下川は短時間で判断した。だが、この決断は、彼自身が脱出する時間がほとんどないことを同時に意味した。

 落下傘降下しながら、海面に突入するT―4を目の当たりにして、星華は呆然としていた。彼女の目にも、教官がベイルアウトする場面は目に入らなかった。フードオフして、一〇分も経過していない時点での出来事だった。


     Scene#6  浜松基地


「本日の聴取はこれで終わります。居室に戻って結構です」

 四方よもという名札を付けた浜松地方警務隊の二尉が告げた。事故とは分かっていても、一応は警務隊が、事件性の観点から捜査しなければならない。そのための事情聴取だった。

「帰ります……」

 うなだれたまま、声に力もなく、星華は立ち上がって一礼し、捜査に使用された部屋を出た。空幕長から防衛大臣に事故速報が飛び、空自事故調査委員会のメンバーも浜松基地に到着して、事故当事者となった星華や、31SQ関係者、浜松・静浜基地の関係する人員に、次から次へと無数の質問を浴びせかけた。

 海面に着水した星華は、幸い怪我一つなく、浜松救難隊のUH―60Jに救助された。だが、浜松基地に戻ってから前席の下川が脱出できず、そして殉職したことを改めて知らされて、まず衝撃を受け、続いて大きな罪悪感が沸き上がって来た。

 ――わたしを脱出させるために、教官が……

 立ちすくむ彼女にとって、事故の記憶を甦えさせる事情聴取や調査は、酷の一言に尽きた。その日の三食はほとんど絶食状態になり、タカビー三人衆ですら、その落ち込みように、からかう気を起こさなかった。

 警務隊の捜査も、事故調査委員会の調査も終わらない内に、下川「二佐」の部隊葬の日がやって来た。会場となった31SQが使用する第一格納庫には、祭壇が設けられ、生前の武骨なままの下川の正面からの写真が拡大されて飾られていた。司会による開式の辞に始まり、航空教育集団司令官の弔辞や弔電の披露、献花といった式典の流れは滞りなく進んだ。中部航空音楽隊の演奏する葬送曲が流れるなか、遺族、集団司令官、航空団司令といった順番で、参列者が祭壇に献花をしていった。学生の番となり、第一種制服の星華は最初に立ち上がった。遺族の前で一礼し、祭壇に向かう。涙は、なんとかこらえていた。だが、遺族の前で愕然となった。未亡人らしい喪服姿の女性の膝に、まだ幼い男児がまとわりついていたからである。きっと、父親の死がまだ理解できないに違いない。星華の礼に、未亡人は口元を抑えつつ、頭を下げて礼を返した。

一凛の花を手に、星華は祭壇の正面で改めて星華は恩師の遺影を見上げた。下川に受けた、余りにも厳しい教育の日々が頭のなかに蘇る。

「もう、いや」と思わされたことも再三あった。でも、同期の何人かが挫けて去っていくなかで、自分は飛行幹部候補生として生き残り、這い上がることができもした。成層圏の空が、パイロットの夢が、日に日に近くなっていた。単なる叱責や罵声でない、確かな導きだったのだ。

 ――その教官を、わたしは死なせてしまった……わたしを生き延びさせるために。

 花を置きながら、自分の両肩にかかる重みに、気持ちがことさら沈み込んだ。

「構え!――撃て!」

 教官操縦士仲間の小田桐一尉が指揮する儀仗隊が、祭壇の前で弔銃を三発発射する。空包から発される銃声が、格納庫内に響き渡った。これが、部隊葬の再終幕だった。

 厳かに閉会が宣言された。このあと、霊柩車を全員で見送る次第になっている。

 席を立って移動を始めた星華に、

「天辺さん――ですね」

 近くから女性の声がかけられた。振り向くと、さっきの未亡人と思われる人物だった。

「下川の妻です。初めまして」

 星華は改めて一礼した。そのあとで、

「申し訳ございません。その節は――本当に申し訳ございません。下川教官には、熱心に指導して頂いたのに」

 その詫びに、下川の妻は、

「いいえ、主人はあなたのことを『これまでの候補生より、教えがいのあるやつだ。きっと立派に育ててやる』といっておりました。それは、楽しそうに」

 ――わたしを気遣ってくれているのだろうか……

 そう思うと、それ以上返す言葉もなくなった。

「あの、天辺さん」

 正面から、下川の未亡人は夫の教え子を見つめていった。

「いうのは酷かも知れませんが……夫の死を無駄にしないで下さいね」

「はい」

 それだけ答えるのがやっとだった。彼女が、幼子を連れて次の場に去ってくれたことは、星華の救いになった。

 やがて、出棺の時が来て、故人の遺影を両手で体の前に持った未亡人が、霊柩車のなかに入った。三階建ての航空教育集団司令部の玄関から浜松基地の北門まで、基地で勤務する職員・学生のなかの最大限の者が、道脇に整列し、霊柩車の出発に備えている。クラクションが鳴らされ、集団司令官の号令が発された。

「敬礼!」

 その列のなかで、星華も挙手の礼で故人の霊を送りながら、未亡人の言葉を思い返していた。

「これまでの候補生より、教えがいのあるやつだ。きっと立派に育ててやる」

 下川は、妻に向かってこう語ったという。きつい態度とは裏腹に、教官は星華に大きな期待をかけてくれていた。

 ――教官……ありがとうございました。

 もう、涙をこらえることはできなかった。恩師の死は、人生で初めての経験になる。それは、これまでのいかなる試練より、客室乗務員の夢を諦めざるを得ないと知った日のそれより、遥かに重かった。

 霊柩車が北門を出て、姿を消した。解散の時が来た。

 だが、遂にこの時、星華はその場に膝をついて、両手で顔を覆って泣き出してしまった。その声が、付近にも聞こえていた。近くにいた31SQの女性基幹隊員が見かねて、

「大丈夫ですか?」

 と声をかけ、漸く彼女は泣き声を落とし、立ち上がった。

 だが、数メートル離れた位置で、同期の玲子は、飽くまで冷めた視線を星華の方に向けていた。

 ――

 原因究明の完了しない内に、教育は再開された。

 ブリーフィングののち、以前より重い足取りでエプロンに向かった星華は、代わって教官となった小田桐一尉に、別のT―4の前で敬礼した。

「天辺候補生、同乗します。よろしくお願いいたします」

「――しっかりな」

 その返答は、小田桐なりの思いやりのつもりだった。同僚を失った心の痛みは、小田桐にもある。だが、表に出そうとはしなかった。今は、飽くまで一教官操縦士として、候補生を導くのみ、と心を決めている。

 GRDがタキシーを許可した。滑走路の端に到達する。風向は270度。風力8ノット。コンディションは良好。離陸。だが……

『チェッカースリーワンワン、どうした? チェッカースリーワンワン!』

 管制塔が早口でまくし立てた。星華のT―4は、滑走を開始したものの、V1、つまり離陸を中止できる速度で制動をかけ、滑走路の端で停止したのである。通常、このような場合にはエンジントラブルが疑われるので、発火に備えて消防車がサイレンを鳴らせながら、滑走路に向かって走り出した。

「おい、天辺! どうした、トラブルか?」

 後部座席の小田桐がマイクを通じて確認してきた。だが、星華からは答えがなかった。

「だめなんです。――アクセルラダーを踏もうとしたら、急に、なんだか怖くなって」

 T―4から降ろされて、飛行群の隊舎に戻された星華は、小田桐の前でうな垂れながら答えた。小田桐は、一度彼女を落ち着かせてから、離陸を中止した経緯を問いただしたのである。

 ――やはりか。

 そう考えざるを得なかった。教官の死、そして自らも墜落に近い状況を経験した心理的衝撃は、星華を深く捕えていた。椅子に座って、顔を下に向けている星華に向かって、小田桐もどういういい方をすればいいか、直ぐには分からなかった。

 ――どうしてくれるか。

 その日の消灯前だった。 

「……藤堂さん」

 ただ一人の女子の同期は、星華の顔を正面から見つめた。

「分かっているとは思うけど、立ち直るのも、だめになるのも、あなた次第よ。あなた一人の力次第」

 その声には、思いやりより、冷やかさが感じられた。玲子は続けた。

「聞いて。私の父のことだけど、かつて飛行群司令の時、初めて部下を失ったの。墜落事故で」

 まだ玲子の子供の頃だった。記憶のなかの父・護は、帰宅後も家族に背中を向けていた。自分が直接原因を作ったわけではなかったが、航空部隊指揮官としての責任は、逃れられないものだった。自責の念に堪えながら、部隊葬や遺族への援護の処置、故人の死後の手続き、事故に関する行政上の対応等、昼間は多忙を極めた。疲れて帰宅すると、妻や子供たちに背を向けて、自室へこもった。

「だけど、父は自分の力で立ち直った。それしかない。地上のスタッフや僚機はあっても、空の上では、最終的には自分の力が頼り。私たちが選んだのは、そういう世界」

 娘も知らないことだったが、それ以後だった。

「常にベストを求めよ」

 を、藤堂護が座右の銘とし、部下にも要求するようになったのは。かつて部下だった神崎司令は、それを継承したのだった。

 星華は、言葉もなかった。あるいは、慰めを期待していたのが、裏切られたのかも知れない。

「自分で立ち直りなさい。でなければ、諦めるしかない。パイロットの道を」

 それだけいうと、玲子は居室の外に姿を消した。ドアの閉じる音を、星華は孤独のなかで聞いた。

 スマホを取り出そうとして、思い止まった。土肥原には、助けを求められなかった。彼は現在、税理士試験を控えて、追い込みの真っ最中であるはずだった。邪魔はできない。そして、助けを求めたら最後、退職と結婚を強く望まれて、自分の未来も道が狭まることになる。

 ――まだ、そこまでは……

 思い切ることもできなかった。

「お母さん? わたし」

 スマホで実家に電話をかけると、母が出た。両親は、既に墜落事故のことを承知していた。娘は、事故のあとの自分の心境を率直に母に訴えた。そして、

「わたし、もう、どうしたらいいか分からなくて……」

 と、救いを求める言葉を口にした。

「辞めたいの、あなたは?」

 母は、直截的な聞き方をして来た。妻の傍らでは、夫がやきもきして耳をそばだてている。なおも、母はきつさを感じさせる言葉を口にした。娘には、どう答えたらいいか分からなかった。

「逃げて来るなら、家には入れません。いい? 逃げて来るなら、ですよ」

 スマホを右の耳に当てたまま、娘は声を失っていた。そこで、我慢し切れず妻の手から夫が電話機を奪い取った。

「星華、もういい。帰って来なさい。お前は十分やった。これ以上、苦しまないでいいから」

 だが、そこで再び強引に妻が電話に戻った。

「逃げてはいけません。今逃げたら、あなたは一生負け犬になります。辛さから逃げないで」

 そして、母は一方的に通話をオフにした。その直後、

「お前、なんだってあんなことをいったんだ! 星華は、苦しんでいるというのに」

 怒りの形相で詰め寄る父に対して、母・真由里は、少しもひるまずに応じた。

「試練のない人生はありません。私だってそうでした。あの子のためを思えばこそ、です」

 彼女は記憶していた。ジュニア時代に何年も続いた、シップ内の些細なミスも徹底的に追及される熾烈にも思えた先輩たちからのしごきの日々を。そして、そこを乗り越えなかったら、社内で「メデューサ」とか「テッポウユリ」とか「尼将軍」と綽名される、のちの自分はあり得なかったことを。

「今、あの子は成長するか、ダメになるかの瀬戸際です。私は、自分の娘を信じています」

 最初に「お母さんのような客室乗務員になりたい」と、娘が小学生の頃に口にした時以来、夢を実現するためには妥協はあってはならないという自分の信念のままに、英才教育を施した。そして、星華はそれに挫けず着いてきた。娘の、夢に向かって進む力の強さを、母は信じていた。

「信じてあげましょう。私たちの娘です」

 妻の言葉に、不満は残ったが、「そこまでいうなら」と、夫は承知するしかなかった。

 ――電話を切られた娘の方は、呆然となっていた。期待した慰めはなかった。ただ、「今逃げたら、一生負け犬になります」という、母の台詞の一部分が、耳のなかでリフレインしていた。

 ――どうしたらいいのよ、もう、どうしたら……

 翌日の土曜日、重い眠りから星華は目覚めた。目が覚めて、点呼に出ても、思いは変わらない。出口が見えそうになかった。配られたパンの朝食を前にしても、食欲が湧かなかった。

 ――本当に、もう辞めてしまおうか、そうすれば、少し楽にはなれるかも。月曜日に、小田桐教官に……もう、わたし、操縦桿スティックを握れない。

 辞めてもどうするか、具体的な考えは思い浮かばない。でも、楽になりたい。そういう思いが先に立った。休日に基地に残っている者は、ほとんどいない。皆外出している。玲子も、同じだった。一人、WAF隊舎を出て、星華は教場へ向かおうとした。隊舎にいたくなかった。

「夫の死を無駄にしないで下さいね」

 下川一尉の未亡人の言葉が、思い出される。とてつもない重荷だった。席を立とうとした時、放送が聞こえて来た。

「天辺飛行幹部候補生、面会者あり。北門面会所へ」

 WAF隊舎当直の声だった。

 ――誰かしら、今頃。こんなところまで。

 つい昨晩、両親とは電話で話したばかりだった。いくら父が心配していたとはいえ、翌朝直ぐ、迎えに来るとは思えない。考えても、心当たりがなかった。ただ、隊舎を出て、広い基地内を歩きながら、

 ――もしかしたら……

 と心当たりが一つ浮かんだ。数日前、誰でもいいから苦しさを打ち明けたいと思って、知っている人間に送ったメールが一つあった。まさか、彼が……

 北門警衛所の裏側にある面会所――通常、部外者等が来隊して、隊員と面会する時に使用される――のドアを開けて星華がなかに入ると、果たして、その人物はそこにいた。

「角田くん!」

 私服姿で、ややくたびれた表情の角田治が、そこに待っていた。

「どうしてここに……」

 星華は、いい終わることができなかった。治が、それを制して先にいいたいことをいってしまったからだった。

「墜落事件のことは、つい昨日知った。――昨日の朝まで房総半島で想定中だったんだ。天辺、お前のことが、ちょっと心配になって、来てみた」

 想定、つまり実戦を模した訓練の間に、スマホを見るなんてことはもちろんできない。習志野駐屯地に戻ってから、治は星華の苦境を初めて知ったのだった。そして、休養日の今日、新幹線に飛び乗って浜松までやって来たのである。治は続けた。

「多分、気持ちがぐらついているんじゃないかと思ったんだ」

 星華が、なにをいおうか、考えている時、治は前回の横浜の時と同じように、星華の両腕に自分の両腕を添えた。

「辞めるなとか、どうしろとか、おれには単純にいえない」

 少しして、上半身を離し、治は星華の目を見つめて続けた。

「だけど、お前が今辞めたら、多くの人の夢が失われるんだ」

「多くの人の夢……?」

「うん。これまで、多くの人の世話になっただろう。その人たちの夢だ」

 一瞬、星華は、その言葉に背中を突かれた気がした。忘れていたことだった。自分が今日、ここにたどり着くまで、多くの人の手助けがあった。水野班長、加藤区隊長、神崎司令――そして下川一尉……そうした人たちが、わたしのために力を尽くしてくれた。

 水野二曹は、修了式ののち、最後の場で星華たち三人に、いったのだった。

「私にも、パイロットの夢がありました。でも、健康上の理由で挫折したのです。――教え子には、絶対そういう夢を捨てる目に遭わせたくなかった。だから、嫌われるのを承知で厳しい指導を行ったのです」

 加藤二尉もいった。

「忘れるな。お前たちの背後には、航空学生の夢が砕けた何十人かがいる。お前たち一人一人が、自分の夢と同時に、そいつらの夢をも担っているんだ」

 神崎一佐は、精神教育で述べた。

「夢だけでは飛べない。だが、夢のない者も飛べない。そして、多くの地上勤務者の夢に支えられて、初めて飛行機は飛ぶのだ。諸君は夢を代表し、また夢を無駄にしない責務がある」

 思わず両目から涙がこぼれ、星華は顔を両手で下から覆った。自分は、大事なことを思い出さなければならない場面だった。自分だけの弱さで、脱落してはならなかったのだ。

「おれたちは、夢の代表選手なんだ」

 そういって、治は星華の上半身を抱きしめた。星華は、それを突き放したりしなかった。

 ――

 月曜日の午前六時、起床を告げるラッパでベッドから起き上がった星華は、点呼が終わると、いつもと違って食堂に向かわず、その足で飛行隊の格納庫に向かった。その日の訓練で使用されるT―4が、牽引車に引かれてエプロンに運び出されている最中だった。朝日を浴びたT―4は、光の列を作っていた。国旗掲揚後、直ちに訓練を始めるためには、整備員は起床の何時間も前から集合して、その日の機体を準備しているのだ。パイロットは、その日ごとに違う機体に乗るが、整備員は各機ごとの専属となっている。「愛機」とは、現代の航空部隊において、パイロットのものではなく、実は整備員のものなのである。

 星華は、知っている整備員を見つけて、声をかけた。

「おはようございます、喜屋武きやん三曹」

 声をかけられた三十代初めの整備員は、墜落したT―4の機付長だった男である。愛機を失ったが、今は別の機体を受け持っている。喜屋武三曹は、間違えられることが多いが沖縄県出身ではなく、星華と同じ神奈川県出身だった。戦前、喜屋武家の五代前は、職を求めて沖縄から本土に渡り、そのまま川崎市内の工業地帯の住民となったのである。喜屋武の実家は、現在川崎市の郊外にあり、彼の気質も神奈川県人そのものである。同郷なので、整備員のなかでも、星華にとっては話しやすい相手だった。

「ごめんなさい、その、喜屋武三曹のT―4を落としてしまって」

「仕方ないですよ。パイロットの命には代えられません。どうにもならないこともあります」

 新しい愛機に顔を向けて、喜屋武は答えた。内心は分からない。何年も連れ添った愛機を失うことが、心の傷にならないとは思えなかったが、星華はそれを自分に対する気遣いだと受け止めた。パイロットとして、最初の教育で教えられていた。

「整備員に気を使え」と。逆に気を使われたことが、星華にはこの上なく恥ずかしかった。

 工具を手にして、喜屋武は星華に語りかけた。

「二度と墜ちないで下さいよ。おれたちゃ皆、コンマゼロで送り出しますから」

 喜屋武の得意の台詞に、星華は頷いた。

「ええ。離陸したら、必ず戻って来ます」

 喜屋武も笑って頷き返したので、星華は格納庫をあとにした。

 格納庫を振り返って、星華は、治の言葉を思い出した。

「夢の代表選手」というセリフを。

 国旗掲揚後、定刻に、32SQの全体ブリーフィングは始まった。

 31SQのベースオペレーションで、飛行群の全体ブリーフィングを終えると、次は気象ブリーフィングである。

「現在、東海地方一帯は広く高気圧に覆われ、安定しております。しかし、西から次の低気圧が接近しており、その温暖前線は、今朝0500の時点で……」

 前回の墜落は気象の急変が原因だっただけに、星華は耳をいつにも増してそばだてた。幸い、その日はダウンバーストも、雷雲も、発生しないようだった。この後は、各機ごとの教官と学生の個別の打ち合わせである。

「以上で、気象ブリーフィングを終わります」

 担当者の報告を聞いた飛行群司令は、

「よし、では各教官・学生ごと、個別ブリーフィングに移れ」

 と、締めくくりとして命じた。

 起立に続く敬礼の後、先にベースオペレーションから出て行く星華の後姿を見て、玲子は、無言の内に感じていた。

 ――立ち直ったようね。そう来なくっちゃ。

 と思いつつ。

「ハママツGRD、チェッカースリーワンワン、リクエストタキシ―」

『チェッカースリーワンワン、ハママツGRD、タキシートゥ・ホールディングポイント、ランウェイ・ジロナイン、ウインド・トゥーエイトファイブ・アット・トゥー、キューエヌエイチ・トゥーナイナナイナフォー』

 星華は、管制塔の指示に従ってT―4を滑走路の東端に進めた。

「教官、行きます」

「ラジャー」

 下川ではなく、小田桐がマイクを通じて応えた。

 ――もう怖がらない。わたしは、夢の代表選手だから。

『チェッカースリーワンワン、クリアードフォー・テイクオフ』

 コントロールが発進を指示した。

「リリースブレーキ、ナウ」

 星華は手順通り、ブレーキを解除したのち、スティックを保持したまま、スロットルを左手で操作する。前と同じ、強いGがシートに体を押し付ける。視界のなかで、滑走路が長い二等辺三角形と化した。

 その頃、次の想定に入るため、完全装備の治とその同期たちがトラックで習志野駐屯地を出発しようとしていた。


   Scene#7 K《キロ》空域


 玲子と星華のT―4は、並んで浜松基地を離陸した。そのまま二人は、コンバットスプレッド、すなわち左右5,000フィート、上下3,000フィートの間隔で二機編隊を維持して、コリドーを通過し、浜松基地から南西方向にある遠州灘と紀伊半島に挟まれたK空域を目指す。

 民間機の入らないK空域で、最終試験、つまり編隊飛行試験が行われるのである。課目は二つ。まず、一度距離を取った一機が後方から前方の編隊長機に接近して、その後方30度、左右の間隔3フィートの基本隊形に入るストレート・ジョインアップである。第二は、スプレッド。編隊長機の真下を、出力を落として右から左へスライドするのである。いずれも単純そうな機動だが、実は高度な技術とチームワーク、そして相互の信頼が要求される課目である。

「よし、チェック・スタート」

 編隊長の後部に乗る教官操縦士・浜田三佐が命じた。試験は始まった。

 編隊長機の玲子から、無線が入った。

『編隊直線集合。右側付け。進路250度。速度270ノット』

「アートミス。こちらリリィ。ラジャー」

 星華は、やや緊張して応答する。

「イメージトレーニングどおりだ。いいな。ゴー」

「ラジャー」

 前部座席にいる小田桐の一声で、星華は左手のスロットルを前に倒し、パワーを絞った。右手にあった玲子の編隊長機が徐々に前方の離れて行くのが見えた。

「行きます」

 前方に、十分距離を取って編隊長機が小さくなっているのを、星華は確認した。これから、編隊長機の右から接近し、空の上では至近距離である3フィート、約2・4メートルにまで接近しなければならない。一呼吸置いて、星華は、

 ――さあ、行こう。

 と自分にいい聞かせた。

「焦るなよ」

 星華は、小田桐の声を聞きながら、スティックとスロットル、そしてラダーを操作して、距離を詰めていく。既に、機体をどう動かすには、どれをどう動かすか、体に染みついていた。理屈を忘れてはならないが、それだけでは、飛行機は動かせないと学んでいた。

『少し速い。――オーケー、そのまま右へ』

 編隊長機からの通信が、レシーバーを通じて星華の耳に届く。玲子の声は、冷静そのものだった。編隊長機は、微動にしない。飛行は安定しているように見えた。星華には、それが玲子の実力と、いつも冷静さを失わない強靭な心理を示しているように思える。

 ――あと100フィート。80フィート。50フィート……

 星華は、目測で編隊長機と自分の距離をカウントする。

「いいぞ、そのままだ」

 小田桐の声は、少し高ぶっていたかも知れない。

 ――こいつは、ただの小娘じゃない。今までの男子の誰より、接近がスムーズだ。

 そう実感していた。同じ思いを共有しているのが。編隊長役の玲子である。

 ――上手い。こっちも怖くない。

 そして、星華は規定とおりの3フィートのクリアランスを取って右側にT―4を付けた。そのまま、編隊を維持して、飛行を続ける。

『リリィ、セパレート。続いてスプレッドに移る』

「ラジャー」

 星華は、T―4を右にバンクさせて、玲子との距離を取った。次が、課程最後の課目となる。スプレッドは、一度二機が横に並び、そこから僚機が出力を絞って高度を下げ、編隊長機の真下を右から左へと横方向に通過するのである。

「レッツゴー」

「ラジャー」

 編隊長機から開始の無線を聞いて、小田桐が促すと、星華は応じた。航空手袋のなかで、汗がにじむようだった。スロットルを少しづつ前方に押すに従い、左前方にいた玲子のT―4が、近寄って来る。そして、両機のクリアランスは開始の時点のそれとなった。

 ――さあ。

 スロットルを絞る。ラダーを操作して、自分の高度を徐々に下げる。

『こちらアートミス。オーケー、続けて』

 玲子の声が聞こえた。編隊長機は、止まっているかのように星華の視界のなかで動かない。息は合っている。星華には、そう思えた。スティックとラダーの操作で、星華のT―4は、滑らかに玲子の下方を横に動き、そして通り抜けた。そして、出力を上げて、そのまま高度を戻す。

「アートミス、こちらリリィ。コンプリート」

『こちらアートミス。ラジャー』

 ――完璧じゃないか。

 声には出さなかったが、小田桐はヘルメットのなかで舌を巻いていた。これが、少し前に訓練事故で飛べなくなった候補生とは、まったく思えなかった。

 一方、玲子もコクピットのなかで、驚きとともに脅威さえ覚えていた。航空学生の頃から、自分のうしろを追ってくる存在だった星華が、いきなり背後に立ったような感覚を覚えた。

 ――この子は……私のあとを、少し遅れているだけなのかも知れない。

 航空学生時代、星華が体力不足で悩み、また理数系の科目を苦手としていた時には、保護者になったかのような気持ちで接して来た。玲子に、奢り高ぶった感情はなかったが、星華を自分に追いつく存在とは感じもしなかった。だが、浜松でT―4に乗って以来、急上昇を思わせる成長を見せるようになった。墜落事故と教官の殉職に遭遇して、パイロットへの道に挫折しかけたに見えたけれども、今の星華に、その迷走は痕跡すらも残っていないようだった。

「教官、ジョインアップします。RTB」

 玲子は、驚きを一時脇に置いて、浜田に同意を求めた。

「オーケー。午前はこれで終わりだ」

 二機のT―4は、試験前の隊形に戻り、浜松基地への帰路についた。

 ――空が、蒼い。

 浜松基地に向かって続くコリドーのなかを進みながら、速度250ノットの機内で星華は感じた。本当なら、CAの制服を着て、旅客機に乗って飛ぶはずだった大空を見つめた。乗客に微笑みながらサーブするためのカートを押すはずだった手で、今自分はスティックを握っている。CAより、遥かに狭き門をくぐり、真に選び抜かれた者だけがたどり着けるコクピットのなかにいた。もう直ぐだった。もう直ぐ本当のパイロットになれる。砕けたCAの夢の代わりに得た、生きる目標に手が届く。

 ――わたし、成し遂げました。教官。

 星華が報告したのは、既にこの世にいない下川だった。乙女心をズタズタに引き裂くようなセリフを平気で口にし、情愛という言葉とは縁遠いような人だった。だけれども、下川の、命を投げ捨てた導きがなければ、自分はここまで来れなかったと思えている。身体的鍛錬では、航空学生課程の時の加藤二尉の方が厳しかったかも知れなかったが、実感として一番厳しかったのはやはり下川一尉だった。

 そして、星華は左の手を右上腕部に回した。パイロットスーツの下には、自分の運命を変えた傷があった。傷を負い、それが完治しない者であると知った時は、自分の運命を呪いさえした。しかし、これがなかったら、パイロットになることもなかったのである。不思議なものだった。今となっては、愛おしささえ感じていた。


     Scene#8 浜松基地


 この日、卒業を迎える飛行幹部候補生は、合計五名だった。基本操縦課程は、最終試験に合格し、かつ国土交通省の航空従事者試験に合格した者から順に卒業が認められる。一等空曹の階級章も真新しい五名のなかには、星華と玲子も名を連ねていた。

「色々、まだまだ反省事項はあるが……」

 と、試験終了後のデブリーフィングで、もったいぶって前置きしたのち、小田桐一尉は星華に合格を告げた。デブリーフィングが終わって一人になってから、星華は嬉し涙がこぼれた。

 課業開始のラッパが基地内に鳴り響く。そして、第一航空団の営庭で、団基幹隊員と他の学生が見守るなか、卒業式は始まった。招待者席には、卒業生たちの家族も座っていた。星華の母も、そのなかにいる。娘は父も誘ったのだが、少しへそを曲げて来なかったのである。

「駆け足、前へ進め」

 先任者の玲子の号令で、五人は朝礼台の前に進んだ。

「ただ今から、卒業式を行います。団司令登壇」

 第一航空団司令・桧木将補がゆっくりした足取りで朝礼台の上に上った。檀上の団司令に敬礼したのち、一名づつ名を呼ばれる。

「航空教育集団司令部、一等空曹藤堂玲子」

「はい」

 台上に進んだ候補生に、団司令から修了証書が読み上げられ、手渡される。二人置いて、四番目が星華だった。

「修了証書。一等空曹天辺星華。右の者は、航空自衛隊基本操縦課程を修了したことを証する」

 星華は、事前に予行したとおりの動作で、証書を受け取った。そして、その場でパイロットの証である航空徽章を授与される。夢は叶った。この瞬間、星華は正式にパイロットとなった。五人全員が授与の儀式を終り、朝礼台の前に戻って、再度団司令に敬礼した。

「以上をもちまして、卒業式を終了します。団司令降壇」

 司会が、卒業式の終わりを宣言した。

「円陣組むぞ。円陣」

 男子学生の一人が、声を挙げた。五人は、証書を片手に肩を組んで、コールを口にした。

「✖✖期、ファイトオー、ファイトオー、ファイトオー!」

 後方に並んでいる団職員と学生たちから、拍手が沸き上がった。儀式は終わり、人々は解散する。

「お母さん!」

 呼ばれた真由里は、明るい服装で来賓席にいた。娘から呼ばれて、母は立ち上がり、娘に駆け寄った。

「来てくれて、ありがとう。見て、修了証書」

「おめでとう」

 明るい声で今渡されたばかりの薄黄色の紙を見せられた母は、娘を祝福した。

「お母さんのおかげよ」

「私は心配していなかったわ、あなたが途中で挫けるなんて。あの電話の時も」

「ううん、それだけじゃないの」

 それは単に、教官の殉職により、訓練で行き詰った時、帰ることを禁じられたからではなかった。中学生の頃からのCA修行が、多くの場面で自分に力を与えてくれたことを、娘は実感していた。

「小さなことを疎かにしていては、CAになれません」

 ことあるごとに、母が娘にいい聞かせていたことは、パイロットへの道でも生きた。操縦系統を初め、多くの計器と機外の状況、地上との交信等、パイロットは多くの動作を同時並行的に行わなければならない。毎日、多くの掃除や料理といった家事の手伝いをさせられるなかで、自然と今、なにを優先して、どうやれば最も合理的に行えるかを考えるようになっていた。そういう考えを持ち、行動に結びつけることが、パイロットとして操縦を行う上で、大きな助けとなったのである。

 二人で並んで、格納庫の辺りを歩き、星華は自分が乗ったT―4を初め、母にとっては初めてとなる空自の基地内を具に説明して回った。

「サイズは違うけど、エアラインと同じようなところね、格納庫は」

「入っているのは、同じ飛行機だもの」

 本日卒業した他の候補生も、同じように招待者を案内している。なかには、既に妻子のいる者までいた。三十分ばかり、浜松基地内を見て回った母は、帰路につくことにした。

「お父さんは、まだ……?」

「相変わらず、ご機嫌はあまりよくないわ。暫く、放ってしておくしかないわね」

 父は、娘が初心貫徹したことを、実は喜んでいないようだった。本当のところ、父は娘をパイロットどころかCAにすらしたくはなく、できれば経済学部か商学部に進学させて、自分と同じ道を歩ませることを夢見ていたからである。

 営門で、親子は笑って別れた。

 その日の午後、星華には、一つしなければならないことがあった。

 ――もう、税理士試験は、終わっているはず。

 それは、もう確かめてあることだった。今は、もう相手にショックを与えないで済むと、星華は思った。スマホでメールの宛先を、土肥原信彦に選んだ。

『今までありがとうございました。でも、わたしは、もう空を捨てられません。どうか、立派な税理士になって下さい』

 そうメールを送り、そして連絡先から信彦の名を削除した。それから少しの間、星華は気分が落ち込んだ。返事は、送られて来なかった。

 引き続き、浜松基地で約八週間の戦闘機操縦基礎課程を修了し、星華たちは戦闘機の種類ごとにF―15JとF―2Bに別れ、前者のグループは宮崎県新田原基地、後者のグループは宮城県松島基地に赴任することとなった。F―15Jの希望が通った星華は、新田原基地の教育飛行隊に赴任を命ぜられた。

 でも、その前に、彼女には行くところがあった。


     Scene#9  習志野駐屯地


 習志野駐屯地は、落下傘降下訓練の時以来だった。営門前でタクシーを降りた星華は、警衛隊員に身分証明証を見せて、面会するべき相手の名を告げた。警衛隊員の口から、相手が既に警衛所の面会室で待っていると答えがあった。

「角田くん」

 迷彩服姿の男は、かつての同級生の声を聞いて、椅子から立ち上がった。

「元気そうだな、天辺」

 訓練事故の直後の浜松基地以来の再会だった。星華がパイロットとして認められたように、彼も空挺レンジャー課程を修了し、迷彩服の胸に空挺徽章とともにレンジャー徽章を縫い付けている。ともに、誓いを実現していた。

 星華は、事前にショートメールでは告げていたが、改めて口にして治に知らせた。

「とうとうわたし、イーグルに乗れるの。これから、戦闘機操縦課程で新田原に行く」

 静かだが晴れやかな声で、星華は治に告げた。

「角田くんは? 以前、いってた特戦群、だったかしら、どうなの?」

 治は、頭をかいた。それは、まだめどの立たないことだったからだった。

「空挺レンジャー課程は出た。でも、まだ少しかかりそうなんだ」

 星華は、自分の目的に話題を変えた。

「お礼をいいたかったの。あなたがああいってくれなかったら、わたし挫けていたかも知れない。夢の代表選手だって」

 ――おれ、そんなこといったっけ?

 今になって思うと、それは、いささか恥ずかしいセリフだった。気持ちが高ぶっていたのかも知れなかった。

「ありがとう。お陰さまで、パイロットになれる、わたし」

 そういって、星華は席を立った。「じゃあ、わたし行くから。新田原へ」

 だが、治はその時、そのまま彼女を送り出そうとはしなかった。

 ――わざわざここまで来たんだろう。

「ちょっと待てよ」

 同じように席を立って、治は星華に近づいた。

「そのためだけじゃないだろう。ここまで来てくれたったことは」

 大胆にも、治は右腕を伸ばし、初恋の人の左腕を握った。

 星華は、黙って少し下を向いた。

「待て! 待ってくれ。直ぐにとはいえない、けど、お前のためならきっとおれは!」

 と治は興奮気味に続けた。

「きっと?」と聞き返す星華。

「きっとおれは特戦群に行く! お前に相応しい男になるから!」

 体を近づけ、星華の両腕をつかんで治は宣言する。

「……ええ、分かった」

 だが、二人だけの時間は、突然そこで終わった。次の瞬間、面会所の扉が開き、外で盗み聞ぎしていた小松たち治の同僚がなだれ込んで来たのである。小松二曹に加え、大林一曹、梅木一曹たちである。いずれも、空挺レンジャー課程で、治をしごきにしごいた面々だった。

「いいやがったな、この野郎!」

「オレたちが証人だ! 絶対に行けよ、こいつ」

「諦めたら落下傘なしで自由降下させるからな! 絶対にさせるぞ、コラ」

 と、治をもみくちゃにする。治は、たちまち顔から血の気が引いて行った。一番苦手とする三人に、その場を抑えられてしまったのだ。

「お嬢さん、じゃなかった、三尉殿。こいつを見捨てないように、頼みますよ」

 治を右腕で首締めしながら、小松は星華に要求した。

 星華は、

「はい」と、四人のドタバタ劇をくすくす笑いながら答えた。

 この時、二人にとって人生最後の恋が始まったのである。

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