曖昧3センチ

清泪(せいな)

そりゃぷにってコトかい?

 創作論なんてものは、有名作家のA先生と有名作家のB先生が同じ様な作風なのに語ることはまったく反対、ってのがよくある話で。


 大体は成功した人が自分の成功体験に基づいて語ってるか、成功しなかった人が希望的観測で語ってるか、だと偏見ながらに思っている。


 僕が好きな作家先生は、

「エンターテイメントというのは消化物で炭酸飲料のように刺激はあっても読んだ後は何も残さないぐらいが丁度良いんだ」

 と作品のあとがきに書いてらしたけども、Twitterで創作アカの人が、

「読んでる最中は爽快感で進めるが読み終わった後に何も残らない作品はクソだ。それを商業化する編集者も持ち上げる読者も目が腐ってやがる」

 と呟いたらそこそこのいいねやリツイートを頂いてらした。


 結局のところ大半の創作論なんて、俺が思う創作について、なだけであってエッセイなどと違いはわからないし、日付でも付けたらそれは日記とも区別がつかないだろう。


 創作においてのお作法なんてのもそのぐらいの曖昧さがあって、何々賞に輝く有名作家様も「」の中に。をつけてセリフを終わらせるし、ミステリーなどを書く人気作家の中には段落なんて知ったことかと文章をぶっ続ける人だっている。

 それこそ応募要項に事細かくあったのならまだしも目くじら立てて指摘して回るなんて、もしかしたらナンセンスなのかもしれない。

 とはいえ、僕自身も若い頃はケータイ小説などを読んで、皆さん御存知と言わんばかりに突然当たり前のように出てくるアイスコフィンに、

「いやいやいや、これ描写も何も無いじゃないですか。どんな形でどうやって出てきたかもわからないですよ、これじゃ名前呼んでアイスコフィンという何かわからないものがぶつかっただけじゃないですか」

 と、ツッコんでいたけれど、もっと自由に書かせてあげれば、かつて天才だった彼は売れっ子作家にでもなってたかもしれない。


 なので、創作なんてアレがいいコレがダメなんてガタガタ言ってないで自由にやったらいいじゃない。

 という話に落ち着けたいのだけれど、型破りというものは型を知ってこそ華になるのだと歌舞伎役者が語っていたのを思い出す。

 セオリーだとかそういうのはやはり大事だったりするのは、そういう提示もされていない暗黙のルール的なものの上に則って書かれたものの方が読みやすかったり楽しみやすかったりするし、その上でこそ型破りや変化球が楽しかったりするのだ。

 だから他人の成功体験なんて自分に重ならない話だとて、そこから共通認識のルールなどを知って生かしていくことも無意味ではない、むしろ有意義なものと言えるだろう。



 ところで、ここまで書いておいて言ってしまうのだけれど、この創作論はフィクションかもしれない。

 僕は。

 私は。

 あるいは、俺は。

 誰かの創作論を想像して書き起こしたものだ。



 ということにした方が面白いだろうか。

 いや、やはりノンフィクションということで正直に自分の感想です、と書いた方が面白いのか。

 まぁ、好みの話だろう。


 という曖昧な物事の話。

 それが僕の創作論であり、創作テーマである。



 とかいう〆の一言書いとけば、らしい、と言えるんじゃなかろうか。




 2022年 3月29日 火曜日


 

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