モノ忘れ探偵とサトリ助手【日記】

沖綱真優

日記

『日記の整理……ですか』

にしても奇妙な依頼ですが、暇ですし行きましょうか』


 依頼を厳選するほど多忙でもなく金に余裕もない。理解はしている。

 正木興信所、いわゆる私立探偵である正木善次郎の助手、中島健太はしかし、依頼を軽々に受ける雇い主を止めなかったことを、悔やむ羽目になる。



 *



 日記蒐集家、大山寺陸朗だいせんじろくろう

 隣県山間部の村には耕作放棄地が広がり、突如として現れた三階建てコンクリートの箱は、それだけで異様だった。

 依頼の手紙に同封されていたチケットで支払い、タクシーを降りた。

 窓の少ない檻のような直方体。

 建物の周囲に塀などはなく、入り口から数メートル道路側にある細長い門柱だけが案内だった。


 大山寺日記博物館。


 すでに主は鬼籍に入り、甥である長宗樹ながむねいつきが継いだという。

 今回の依頼は、弁護士業の合間の道楽だと手紙に記されていた。


「お待ちしておりました。中へどうぞ」


 長宗は背の高い男だった。

 上背だけでなく、全体的にがっしりとした造りで、仕立ての良いスーツを着こなしてなお、頭よりも体を動かす仕事と言われる方がしっくりくる。

 地毛か染めているかは不明だが、黒髪は艶も量も若々しく、三十代でも通りそうだ。

 弁護士名鑑によると五十代前半、主に企業法務を手掛けている。いわゆる顧問弁護士だ。


 長宗に招き入れられ、正木と健太は建物の中に入った。

 そこは本の森だった。

 広い吹き抜けの部屋には、受付のカウンターもなく、中央に一段高くなった絨毯敷きのスペースがあるだけで、コンクリート打ちっぱなしの床面の上に本棚が置かれ、ぎっちりと本が詰められている。

 四方の壁面すべてに、二階以上の高さがある木製の棚が設られていた。上に行くほど奥ゆきを減じる段状の設計で、壁面全体が本棚である割には、さほど圧迫感がなかった。

 森の中の木漏れ日のような明かりが、壁面最上部と天井の窓からこぼれ落ちているためだろうか。

 本棚に手が届くよう壁沿いに作られた、階段というにはランダムな板場のためだろうか。


「この奇妙な空間で、我々はいったい何をすれば良いのですかな」


 正木探偵が尋ねた。


「蔵書、市販のものも含めてすべて日記ですが、目録作りを手伝っていただきたいのです」

「見たところ、整理されているようですが」

「見た目はね。並べただけですよ。ご覧の通りの量だ。叔父も蒐集に夢中になりすぎて、ほとんど目を通していないようでして」


 当初マンション暮らしだった大山寺氏は、日記集めのため一軒家に移ったが、そこも手狭になり田舎に保管用の建物を造った。容れ物ができれば、今度は埋め尽くしたくなる。

 蒐集の速度は上がり、読むどころでは無くなったという。


「そうですね……少なくとも十冊は、目を通して内容をこちらに記入していただけますか。もちろん歴史的に貴重な資料も多いですから丁重に扱って、持ち出しや写真はご遠慮願います」


 棚番号、書物番号、内容と感想、記入者名などと印刷された用紙を挟んだバインダーとペンを長宗は手渡し、別室で仕事がありますので、と部屋から去った。


 正木は、フロアにある市販本が入った本棚をぐるり回って、


「わさび菜日記、ういろう日記、のまずくわず……」

「ちょっと……いえ、かなり違いますね。お腹空いてるんですか」

「本屋に入るとトイレに行きたくなる類と一緒にしないでください」


 ふたりは手近な本をパラパラ捲った。

 市販本である平安、鎌倉期の日記文学だけでなく、江戸時代も終わりに大店の主人が残したという日記の写しや、あるご婦人の手による戦時中疎開先での苦労を綴った日記があった。夫人の日記は孫が自費出版したものらしい。


「……こっちの壁面にあるのは、個人の日記帳でしょうか」


 こちら側の壁面にあるのは、ほとんどがノートだった。

 同じ人物の字で昭和六十年から平成十二年と書かれたノートが並んでいる。毎年一冊の日記を書き続けた男性の日記だった。

 革製カバーの付いた分厚い背表紙には『三年分の日記帳』とある。立派なガワに負けぬ日記だろうか。白紙が多い気がするな、と健太は触れもせずに思った。


 纏まった冊数どころか最初の数ページしか埋まっていない、三日坊主の日記も収集対象だったようで、つまり日記というその日その日の雑多な感情を書き残した手記であれば何でも良かったようだ。


「先生、どこから始めましょう」

「めいめい好きなように、ということでしょう。適当にやりましょう」

「こんなので日当と交通費いただいて良いんですかね」

「道楽、らしいですからね」


 正木は健太から離れて、逆側の壁面の板場をひとつ登り、腰掛けてファイルを一冊引き出した。パラパラ捲って、何か気になる文言でも目に入ったのか、そのまま読み始めた。

 健太は手元のバインダーを見て、ふぅん、と気のあるような無いような息を吐くと、壁面の棚をぐるり眺め、「あれか、」と呟いた。



 *



「そろそろできましたか」


 長宗が部屋に戻ってきた。

 コーヒーを乗せたワゴンを押して絨毯敷きの段差に来ると、腰掛けてさっさと飲み始める。


「キリの良い処で終わりにしましょうか。お疲れでしょう。コーヒーをどうぞ」

「あぁ、いただきますよ。君、君も終わりますよね?」

「……」

「中島くん」

「え?あ、降ります、降りまっわっ」


 健太は板場から落ちそうになり、慌てて棚を掴んだ。しばらく俯いて呼吸を整えると、苦笑いを作り、長宗の待つ段差までやってきた。


「バインダーいただきますよ。コーヒーと交換ですな」


 長宗はいうと、健太に右手を差し出した。

 健太はバインダーを渡そうとして、自分の手が震えていることに気づいた。


「どうか、されましたか?」

「あの、あの手記を……いただけませんか」

「おや、何か気になるモノを見つけましたか。こちらに記入は……」


 ごまかせないと意を決した健太に対し、長宗は表情を変えないままバインダーを取ると、パラパラ捲った。


「特に書いていただいていないようですが」

「そういう事ではなくて」

「では?どういう?」

「ひとの、名誉に関わることです。あれが、無実の証明に……お願いします。譲っていただけませんか」


 頭を下げた健太に、長宗は、


「無実の証明、なるほど」

「では、」

「では、中島健太くんの身内は、犯罪者ということですな」


 そう言って、にぃと笑った。


「な、なにを……」

「無実を証明したい、つまり、現時点において彼もしくは彼女は、犯罪者だ。

 そういう事でしょう。

 ご存じでしたか?正木さん」


 コーヒーを啜っていた正木を振り返り、浴びせるように言う。


「このコーヒーは熱すぎますな。猫好きの猫舌には飲めませんよ。

 さて、君、お暇しましょう。

 長元さん、謝礼は振込で結構ですよ」

「先生、でも、」


 健太の視線の先で、敬愛する雇い主は頭を掻いた。一本指。

 示すのは。


 コーヒーカップを置いた正木に大股で近づいて、健太は手を差し出した。

 正木は健太の手を取り、立ち上がる。


「この仕事をしていれば、罪を犯した者と知り合うのは普通のことです、長峯さん」

「支払いは、今すぐ現金でも、もちろん構いませんよ、長山さん」



 *



「日記とは、ある時点での『人』そのものです」


 その日その日の出来事、心情を細かに書き記した日記からは、行動原理、感情の起伏といった人となりから、家族、交友関係、活動範囲など、その人物本来の姿が見えてくる。

 誰かに見せる前提で書いていない飾り気のない本心。

 子どもの頃の三行日記ですら、家族や友だちの秘密が含まれている。

 例えば、官僚である父親の家庭内暴力。

 例えば、遺産相続に関する親族の揉め事。

 例えば、友だちが変質者に襲われた話。


「私が見ていたファイルには、印刷された日記が綴じられていました。タイトルはズバリ『不倫日記』」

「それは……でも、匿名でしょう」

「ところが、最後のページに、『関係解消しました。これは消します。今後はこちらで』と、別のSNSへのリンクがありましてね」

「本人は、日記すべてをアカウントもろとも消去した。他人に保存されているとは考えもしない……」

「長井本人が見つけるのか、今回のように雇われた誰かが見つかるのかは分かりませんが、脅迫のネタですね」

「雇われた者が強請るのなら、長久は儲かりませんよ」

「動向を見張り、強請った事実をネタに強請るのでしょう。あくまで『道楽』ですから、別に外れでも構いません」

「でも、先生はご存じだったのですか」

「噂話程度ですがね」


 さる有名な賞を取った小説が、件の日記博物館所蔵の日記を元に書かれたという。無名の小説家は日記の中にあった物語を盗作し、自身の小説として発表した。すべてを盗んだわけではないが、一部であっても大問題だ。

 長宗は、発表からしばらく経ち、作品が売れた頃に事実を突きつけた。

『支払いは一度だけでいい』が『印税の何割か』を要求したという。


「昔の映画やドラマなら古い日記はドラム缶で焼きましたが、引っ越しや結婚などが急に決まって整理もせずに古紙回収に出してしまうのでしょう。

 買い取るといわれれば、業者は迷いなく売りますよ」

「……僕を罠にかけてどうしたかったんでしょう?」


 健太は正木を見る。

 正木も健太を見た。


『アレはフェイクです』


 正木の無言の助言がなければ、健太は余計なことを口走っていた。


は無実だった』


 バインダーの用紙に、前の人がやり残した仕事のように、棚番号とノート番号が記されていた。

 開いたノートにはメモが挟まっていた。


『俺は無実だ』


 それから、日付と名前。

 伝え聞いた、父親の名前と同じだった。


 健太の出自は、健太と叔父以外知らないはずだ。

 なぜ正木の側にいるのかは、健太しか知らない。正木すら。

 奴は何を知っている。誰をどうしたいんだ。


 いつの間にか、健太の視線は下がっていた。

 正木善治郎の腕が上がって、優しく肩を叩いた。


「考えることは大切ですが、悩みすぎてはいけません」

「そうですね。楽しく生きないと……」


 そういう世代ですから。

 健太は敬愛する雇い主に向けて、笑った。

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