ケーブルの先端に香るシナモン、そして愛

秋冬遥夏

ケーブルの先端に香るシナモン、そして愛

 緑のスウェットの腕をたくし上げて、右肩に埋められたコンセントに専用のプラグを挿す。春といえど、締め付けの悪い窓から漏れる夜風は、まだ少し冷えるものだから、僕は「さむい」と彼女にすり寄った。

「ほんと、寒いね」

「うん、さむい」

 甘えながら僕は、ケーブルの反対側にあるコネクタを彼女の首元に挿しこむ。ぴろりろん、と優しい機械音が鳴り、とびっきりの愛がゆっくりとケーブルを伝って、彼女に送られていった。

「めっちゃ、あったかい」

「そう?」

「うん、しあわせ」

 そう優しく笑う彼女を、僕はそっと抱きしめる。脳を溶かす甘い香りが、彼女のシャンプーのものなのか、それとも春風が運んできたものなのか、わからなくなった頃に、僕は寝た。彼女のおかげで、今日も優しい気持ちで眠りにつくことができた。


 6年前にアメリカのUnited Onion社が開発した、この「愛情チャージャー」は当初、虐待や育児放棄などで、親から十分な愛情を受け取れなかった子どもを対象に作られた。これがあれば児童養護施設の人間も、見える形で子ども(利用児)に愛情を注いで育てることができる。日本政府はこれを「今後福祉で大きく活躍する」とすぐに目をつけ、瞬く間に世間に広まっていった。

 そんな「愛情チャージャー」は、いつからか僕らのような恋人が使うようになった。キスとか、ハグとか、セックスとか。そういった愛情表現のひとつに「愛情を注ぐ」という行為そのものが加わったのだ。目に見える愛。そのおかげで僕は、彼女と過ごす夜が、毎日楽しみでならなかった。


 よれたベッドシーツに、雑に放り投げられた下着とケーブルが、眩しい朝日に照らされて美しかった。昨日も彼女と一緒に眠れたんだって、そう考えては安心した。リビングには朝の情報番組に真剣な目線を向ける彼女の姿。いつも通り、シナモンを振りかけた食パンを、温めた豆乳で流し込む。そんな仕草一つひとつが愛おしいから、僕はあからさまな寝返りをうった。

「あ、やっと起きた」

「う、うん」

「シナモンパン。あるから、よかったら食べてね」

 僕はまだ眠った体を起こして、顔を洗って、歯を磨いて、彼女に抱きついた。サテン生地のパジャマがさらさらで、肌触りがいいから、ずっと離れられなかった。

「これじゃ、動けないよ」

「じゃま?」

「うん、めっちゃ邪魔」

 彼女はそう優しく笑って、机にあるシナモンの入った瓶に手を伸ばす。その瓶にもケーブルが繋がっていた。愛を送るのは、彼女の右肩。彼女は僕が夜にたくさん送った愛を、いつも翌朝、シナモンに与えてしまうのだった。


 どうしてシナモンなの、と聞いたことがあった。そのときも彼女は豆乳を飲みながら、そりゃ好きだからでしょ、と笑っていた。好きなものに、愛情を注ぐ。間違ってはいない。それでも、なんとなくモヤっとするのは、僕がシナモンに嫉妬しているからなのだろう。

「ねえ、シナモンになにか、思い出があるの?」

「ま、まあ、そうだけど」

「そっか」

 もしかして、ひょっとして。彼女はシナモンで「違う恋」に落ちたのではないか。自分の勘がそう脳に訴えていた。きっと、その相手は僕のような不器用な人じゃなくて、シナモンなんかを料理に使う、できる人。最近、本屋にある雑誌コーナーではよく「料理男子」なんて言葉が並んでいる。きっと彼女はそんな魅力的な男性に職場かなんかで出会って、心を奪われてしまったのだ。

 シナモンなんて使う人の、何がいいのだろう。そんな人間は、きっと小手先の技でしか人を愛さない。タジン鍋を使い野菜の水分だけでカレーを作って、アヒージョにはプランターで育てたローズマリーをふんだんに入れる。休日にはボルシチかなんかを洋楽を聴きながら煮込み、背の高いホテルの最上階で彼女を抱く……僕の嫉妬の矛先は、いつの間にかシナモンじゃなくて、そんな「ボルシチ男」に向いているのだった。

「ごめん、少し散歩してくる」

「なんで急に」

「なんか、そういう気分」

 そんな会話だけ玄関に置いて、僕は家を後にした。その後、50メートルくらい歩いて、架空の「ボルシチ男」に嫉妬してる自分が情けなくなった。ちょっと散歩したら帰ろう。そして彼女の作ってくれたシナモンパンを食べよう。そうガードレールに誓って、バカらしくなった。


 その日は駅前のパン屋で、ヨコヤマと苺のタルトを食べていた。ヨコヤマとは高校のサッカー部からの付き合いで、強面な見た目とは裏腹に「甘いものが好き」という共通点から、今でもこうして月に1回ほどのペースでスイーツを食べる仲である。

「甘いね」

「そうだな、あめえな」

 あ、そうだ。そうこぼした彼は、思い出したように「愛情チャージャー」を取り出して、それをタルトに挿した。

「ヨコヤマって本当にスイーツ好きだよね」

「まあな」

「でも、タルトに使って大丈夫なの? ほらヨコヤマ結婚してるじゃん。奥さんに使うときに、なくなっちゃうんじゃないかな、とか」

「いや俺、愛が多いから。ぜんぜん余裕」

 タルトを口いっぱいに頬張る彼は、とてもかっこよく見えた。愛を少量しか作れない僕とは違って、彼はたくさんの愛を色んなものに注いでいる。そう思うとなんとなく自分は、ダメな人間だと感じてしまった。

「最近みんなすごいよね、愛」

「どゆこと?」

「ほら、愛犬とかにとどまらずさ。推しとか、韓国アイドルとか。そういったものにたくさん愛を注いでる人とかもいて」

「たしかになあ」

 聞いているのか、いないのか。わからない返事をして彼は、ごくりとコーヒーを流し込んだ。

「オレのかあちゃんも、最近注いでたよ。タイのBLドラマだっけか。そんなのにひたすらケーブルを繋いでる」

 そっかあ、と相槌をうつことしかできなかった。もう時代は変わったのだ。少子高齢化の進む現代では、ひとりの女性をひたすらに愛している僕の方がマイノリティで「変わりもの」なのだろう。

 ましてや、彼女がシナモン(やボルシチ男)に愛情を注ぐことも、ひとつもおかしなことではない。そんな現実をタルトと一緒に胃に入れて、お店を出た。前を歩くヨコヤマに、世界に、置いていかれる気がして、ならなかった。


 郊外のアウトレットパークには、春色のカーディガンやセーター、セットアップなどが並んでいて、見ているだけで心が踊る。試着室のカーテンが揺れて現れるのは、花柄のワンピースを着た彼女。どうかな、なんて頭をかく仕草がとってもかわいくて――僕は彼女に出会った春を思い出した。


 それは、僕にとって初めてのデートで。僕は彼女に会える日をカレンダーに印をつけて、心待ちにしていた。ラブソングではバカにしてた感情を、小さなポーチに入れて。ずいぶん早く待ち合わせ場所についてしまった。

「おまたせ、待った?」

「いや……いまきたところ」

「そっか、よかった」

 彼女は慣れた様子だった。僕はこんなにも緊張していて、震えた手をポケットに隠しているのに。となりの彼女はやけに落ち着いていて、最近あったかくなってきて気分がいいよね、なんて空を仰いでいる。

「……そうだね、あったかい」

「うん、ほんとにそう」

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 そういって僕らは、水族館に向かう。足取りは弾むのに、会話は弾まない。そんなアンバランスさが、僕らの関係性を表しているんだと、そう考えては面白くなった。


 ハンマーヘッドシャークに「かわいい!」と目を光らせる彼女が、魅力的で仕方なかった。はじめは恥ずかしくて魚ばっかり見ていた僕も、温かい熱帯魚コーナーを抜けたところで、緊張が解けて、彼女を見ることができた。サメに夢中な彼女。それに夢中なバカな僕。それでも水面のように、激しく心が揺れうごくのは、そこに恋があるからなのだろう。

「サメ、大好き」

「なんで?」

「だって、かわいいじゃん」

 どこが、という言葉はその時は飲み込んだ。そしてよく見てみると、特徴的な頭に、まあるい目をつけながら泳ぐハンマーヘッドシャークは、地球に迷い込んだの宇宙人みたいで可愛い気もしてきた。


 その後は、目の光る深海魚と睨めっこをし、クラゲと恋心を漂わせ、群れるマグロを見続けて目が回ったので、館内に併設されたカフェで休んだ。

「なに、これ?」

「ペンギンのしっぽ定食、だって。面白いね」

「海老フライだよね」

「そうだね」

 そう笑いあった僕らだったが、結局「ペンギンのしっぽ」は食べず、カレーの中をご飯のイルカが泳ぐ、通称「ドルフィンカレー」を頼んだ。かわいい、と写真を撮る彼女が愛おしいものだから、いつも食べるカレーより甘く感じた。

「ねえ、ササキさん」そう名前を呼ぶ。

「なに?」

「ケーブル、繋いでいいかな」

「私に?」

「うん」

 しばらく下を向いて黙っていた彼女だったが、顔を赤くして、いいよお、と返した。その表情にキュンとして苦しかったから、僕は水を飲んで冷静を保った。海水の味がした。

「わたし、こういうのはじめて」

「僕も、そうだよ」

「そっか、嬉しいな」

 彼女は若干、愛に怯えている様子だった。はじめて炭酸を飲んだ子どもみたいな、ピュアな気持ちが透けて見えた。そして思えばその時も、愛を送るのは僕だけで、彼女から僕に送られることはなかった。

「ねえ、4階はアマゾンコーナーなんだって!」

 パンフレットを眺めて目を輝かす彼女。

「アロワナ見たい」

「あろわな?」

「うん、アロワナ。わたしがいちばん好きな魚」

 カレーの最後のひと口を掬って、しあわせだと思った。がんばって生きていたら、こんなに良いこともあるんだと感動していた。


 アウトレットパーク中央にあるフードコートに入るとき、彼女は僕のことを好きじゃないのかな、なんて考えた。思えば、水族館だけじゃない。いつだって愛を送るのは僕だけ。ましてや、僕のあげた愛は翌朝、シナモンに注がれてしまう。

「ねえ、ケーブル繋いでいい?」

 サンドウィッチを食べながら、僕は聞いた。はじめて繋いだあの頃と同じように。ときめいて、優しくて。そしてさみしかった。

「ごめん、今は無理」

「そっか」

「うん、ごめんね」

 うまく笑えない彼女は、ソイラテも喉を通らなくて、むせていた。なんだか辛くなった。僕ばかりが彼女を無駄に愛しているようで。サンドウィッチの中のトマトが、こぼれて、落ちる。ここまでか、と思った。私と彼女の素敵な毎日もここまでか、と。


 結局、その日はなにも買わなかった。春色のカーディガンも、花柄のワンピースも、買う気分ではなかった。サンドウィッチに入っていたベーコンの味を舌に残らせたまま駐車場に戻る。その途中、となりで彼女が転んでしまった。

「大丈夫?」と手を貸して。

「大丈夫だから」と彼女はひとりで立った。

 今日の彼女はなんだか冷たい。そこに温度があるわけじゃないけれど、なにかを隠すようにひんやりとしている。

「ねえ、僕。なにかしちゃった?」

「ううん、なんでもないの」

 膝をはたく彼女の首元が覗いて——そこにはケーブルが繋がっていた。彼女は自分の右肩から、自分の首元へと愛を注ぐ。それは「愛の誤用」と呼ばれ、国が声を上げて注意してしている行為だった。

「それ……」

「え?」

「愛の誤用、だよね」

 彼女は少し間を開けてから、うん、とだけこぼして俯いた。これをしていたから、僕が愛を送ることを避けたのだと合点がいき、かなしくなった。誤用をしていることよりも、それを今まで内緒にされていたことが、なんだか許せなかった。

「誤用、しちゃダメじゃん」

「ごめんなさい」

「なんでよ。なんで、しちゃったの」

「ごめんなさい」

 それからも彼女は、ごめんなさい、の一点張り。謝罪するだけのロボットとなってしまった。僕は昔からロボットやメカに弱くて、そんな心を失った彼女も嫌いになってしまいそうで怖かった。


「愛の誤用による被害者が、ここ数年間で増え続けている傾向にあり……特に10代から20代の若者の誤用が問題視されています」

 アナウンサーの読み上げるニュースが突き刺さる朝だった。いつだって情報番組は事実だけを心なく述べる。その裏には彼女のような辛さと戦っている人が山ほどいるというのに。

 キッチンを見れば、しんどい、と言いながら今日も誤用を続ける彼女の姿がある。しんどいならやめればいいじゃない。そう言っても喧嘩になるだけだから、いつからか言わなくなった。

「ねえ、今日も誤用してるの?」

「う、うん」

「そっか」

 彼女は明らかに元気じゃなくなっている。彼女の内側にある何かが、シンプルなものに作り替えられている気がして。僕は心から涙が滲み出て、仕方なかった。

「ねえ、僕。辛くなってきた」

「なんでよ」

「ササキさんが辛いと、僕も辛い。そういうものなの」

 彼女は、そっかあ、と笑いながら今日も豆乳を飲んでいた。やめてほしかった。愛の誤用も、やさしく笑うことも。ぜんぶ、やめてほしかった。


 死にたい、と彼女はよく言った。ストレスを溜めて、それを解消するために始めた「愛の誤用」。いけないことだってわかってるのにしてしまう自分が、よくわからず、そして許せない様子だった。

「そうだササキさん、シニタイ貯金、しようか」

「なにそれ」

「ササキさんがシニタイって言うたびに僕が100円貯金するの。お金が貯まったら遊びに行こう」

「別にいいけど」

 そう無機質に言う彼女に、じゃあ決まり、と返して僕は、倉庫に眠っていたブタの貯金箱を引っ張ってきて、そこに100円玉を入れた。

「僕はさ、ササキさんに生きてほしいな」

「うん」

「生きていてほしいんだよ」

 目の前のブサイクなブタが、チャリンと鳴いた。それはなんとなく僕たちを「がんばれよ」と励ましてくれている気がした。


 ブタの腹に半分くらいまで100円が貯まったある日。彼女は今日もシナモンパンを豆乳で流し込む。僕はそれを食事ではなく「作業」だと感じた。彼女の身体はもう半分機械に侵食されている。彼女はになってしまったのだ。比喩ではなく、本当の意味で。


 ニュースをお伝えします、と決まり文句で始まった朝の情報番組では、今日も「愛の誤用」について議論されていた。心理学を大学で教える教授なんかも呼んで「誤用するとどうなるのか」を解説してくれた。

「えー、愛の誤用をするとですね。人間の身体が壊されて機械に侵食され、いずれはサイボーグとなってしまいます。なのでですね。絶対に誤用はしないように、安全に使っていただけたらと思います」

 絶対にしないように、ということを彼女はしてしまっている。シナモンパンを握る手は、もう人のそれではない。朝日を反射して黒く光る、金属だった。

「ササキさん、辛くない?」

「ウウン、ダイジョーブ」

「そっか」

 大きくなる。彼女の身体は日に日に、金属片に覆われて、大きくなる。2日前まではチェ・ホンマンくらいだったが、いまはもうゴリラだ。人間のそれではない。それでも鉄屑を身に纏う彼女は、とてもかっこよかった。


 その後、アパートが破裂した。大きくなりすぎた彼女が伸びをしたのがいけなかった。天井を突き破って、穴が開いた。大家さんも、地域住民も、慌てて逃げる。そしてみんな口々に不満を漏らすのだった。

「この、クソサイボーグが」

「あれだけ誤用をするなと国が言ってるのに」

「ほんとに、モラルがないのね」

 そんな言葉を吸収して、彼女はどんどんと大きくなっていく。アパートを全壊させて、機械音を響かせるその姿は、いつか再放送で見たガンダムみたいで、すごく夢があった。

 ただちに警察がやってきて、ラケットランチャーを放つ。しかし彼女はそんなことはお構いなしだ。大きな身体を動かして、ひたすらに探しものをしている。

「ブタチャン、ドコイッタ」

「死ニタイ貯金、シテタノニ」

 サイボーグに対しては、警察も容赦ない。彼女は何発もランチャーを食らった身体を必死に動かして、瓦礫をどかしていた。そしてブタの貯金箱を見つけては、大事そうに抱えるのだった。

「ブタチャン、見ツケタ」

 辺りは火の海。まさに地獄、といった景色であった。なんども攻撃されて胸に穴のあいた彼女だったが、力強く僕を持ち上げて、肩に乗せた。そして歩いてゆく。攻撃を全て跳ね除けて、どこまでも、どこまでも。

「ササキさん、どこにいくの?」

「シナモン、食ベル」

「そっか好きだもんね。一緒に食べよう」

「ウン、アリガトウ」

 歩いている途中、彼女は、ドウシテモ、生キテイタイ、と叫んだ。手にはブタの貯金箱。僕は今になってようやく彼女の気持ちがわかった気がした。いつも言っていた「死にたい」というのは「どうしても、生きたい」と同じ意味なのだろう。彼女にとって愛の誤用は、生きづらい現代社会を生きていく武器であり、そして救いだったのだ。


 ヨシ、行クヨ。シッカリ、捕マッテテネ。という言葉を合図に彼女は、心臓のエンジンを加速させて、空を飛んだ。宙に舞って、空を切って、夢中になった。

「ねえ、ササキさん」

「ナニ?」

「僕、ササキさんのこと大好きだよ」

「フフ、ワタシモ、デス」

 サイボーグになっても、彼女は彼女で。はじめに出会ったころのように落ち着いている。暖かくて気持ちのいい空を仰ぐ姿は、水族館に行く前に待ち合わせたときのそれと変わらなかった。


 大きな積乱雲の一歩手前で止まって、彼女は世界を見下ろした。ちっぽけなものが広がっている。人やビルも、病院も、彼女の問題も、ここから見たら全部どうだっていいことだと思えた。

「シナモン、食ベタイ。ドコイッタ」

「なにを探してるの?」

「パン屋サン。アップルパイ、パン屋サン」

 アップルパイの売ってるパン屋。それを聞いて僕は、頭の端っこに眠っていた思い出が動くのを感じた——そうだ、昔にもそんなことが。


 それはまだ僕と彼女が付き合ってないころの話。ヨコヤマとよく行く駅前のパン屋に、彼女を連れて行ったことがあった。彼女はアップルパイを、僕はチョココロネを食べた。舌もこころも、甘くて幸せだった。

「ねえ、このアップルパイひと口食べてほしい」

「いいの?」

「うん、いいよ」

 僕は、ありがとう、と言ってアップルパイをちぎった。そして代わりに、チョココロネのチョコが多いところを彼女にあげた。そのとき、恋に落ちた音が口に触れた。美味しいものを食べたときに「あなたにも食べてもらいたい」なんて思ったら、それはもう恋なのだ。


 サイボーグな彼女は、パン屋の近くの道路に降り立った。警察もそれを待ち構えて、一斉にランチャーを乱射する。しかし彼女はそれをもろともせず、ブタをお店の前に置いた。精算をしよう、というのだろう。

「アップルパイ、クダサイ。タクサン」

「か、かしこまりました!」

「アリガトウ」

 店員さんはお店にある分の全てのアップルパイを持ってきた。そして彼女はおもむろに「愛情チャージャー」を取り出して、そのアップルパイひとつに刺すのだった。ケーブルの先端に香るシナモン、そして愛。それはどうしようもなく優しくて、ちっぽけな恋愛の形。それでもこれが、僕たちの生き方なのだと、今なら胸を張って言えた。


 少し前にシナモンに嫉妬している自分がいたことが恥ずかしくなった。彼女をシナモンで恋に落としたのは、他の誰でもない。紛れもなく自分だったのだ。不器用な彼女のことだから、きっと僕に愛を送るのが恥ずかしくて、ずっとシナモンに注いでいたのだろう。

「ササキさん、ごめんね。想いに気づかなくて」

「イイノ、ゼンゼン」

「僕、浮気すら疑ってしまった」

「イイノ、ゼンゼン」

 今度は彼女は、肯定ロボットになってしまった。それが面白くて僕は、ひたすらに笑った。ロケットランチャーの爆破音をかき消すように、たくさん笑った。そして家に帰ったらボルシチを煮込んでやろうと、そう思った。


 今日もヨコヤマとモンブランを食べていた。場所はもちろん、駅前のパン屋。名前を『イッヒ・リーベ・ディッヒ』という。あれから僕は、駅前に寄ることがあれば、このパン屋に欠かさずに足を運んでいた。

「モンブラン、僕いちばん好きなんだよね」

「なんだ、意外だな」

「そう?」

「オレは、甘いもんは全部好き」

 ひとつに決められないあたり、彼らしいと思った。だからこそ、色んなものにケーブルを繋いで、たくさんの愛を振りまいているのだろう。

「ねえ、今日はケーブル繋がなくていいの?」

「あ?」

「いつも、ケーキに繋いでるじゃん」

 彼はモンブランを口に運んで、言ってなかったんだっけか、と笑った。

「オレさ、色んなものに愛を注いでたら、嫁ちゃんに浮気を疑われちまってさ。ケーキとかに繋ぐのはやめたんだわ」

 頭をかく彼を見て、愛の扱い方は、みんな一筋縄にはいかないのだと感じて、おかしくなった。


 窓の外を見ると、あいにくの空模様。今ごろ彼女はクリーンセンターで焼却処分を終えて、やさしい灰になっている頃だろう。

「ねえ、ヨコヤマ」

「あ?」

「水族館、一緒に行かない?」

 なんだよ急に、と彼は笑った。別に理由なんてない。強いて言えば、彼女と食べ損ねた「ペンギンのしっぽ」を食べたくなっただけだ。

「アロワナ見たい」

「あろわな?」

「うん、僕がいちばん好きな魚」

 彼女の真似をして、そう言ってみた。僕の行き場を失ったケーブルはいま、モンブランに繋がっている。

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