「一日一善」を決めた日の話

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

「一日一善」を決めた日の話

 明日から一日ひとつ、褒められたことをしようと決めた。


 そういう生き方がしたいなと、僕は真っ青な顔の男を眺めながら思った。

「お前……なんだ!?」

「僕ですか? まあ、この界隈ではそこそこ有名な……この手の仕事の者です」

 目の前の男自身が築き上げた大企業、その本社社屋の裏路地。僕はターゲットである彼の額に、銃口を突きつけていた。男がコンクリートの地面に尻餅をついて、ガクガク震えている。

「俺を殺す気か」

 僕はというと、その真ん前にしゃがんで拳銃を彼の額にぴったりくっつけていた。

「まあ、そうですね」

「ふざけるな!」

 怒鳴りつける彼に、僕はぐいっと銃口を押し付ける。途端に、男は強気な態度を引っ込めて「ひい」と情けなく喉を鳴らした。

「やめてくれ。金なら出す」

「お金ならもう、別の方から貰っているんですよ。あなたが恨みを買ってしまった方から。心当たりあります? それとも、ありすぎて誰だか分からない?」

 前金を受け取っている以上、失敗はしない。男は目をひん剥いて、震える声を絞り出す。

「やめてくれ……」

「やめますよ。この仕事で終わりにするつもりです」

 僕は銃口を押し付けたまま、嘆息を洩らした。

「僕ももう三十を超えましてね。結婚とか子供とか、そういう幸せな家庭に憧れが強くなってきてるんですよね」

「そうじゃなくて……」

 男が身じろぎする。僕は逃げられる前にと、引き金を引いた。プシュッと静かな音が鼓膜を擽ったかと思うと、直後、男の額に穴があく。男の体は弾け飛ぶように仰け反って、背中から倒れた。僕は姿勢を動かさず、拳銃も掲げたまま、のんびりと言葉を零していた。

「ぼちぼち金も貯まってきましたし、いい加減こんな仕事から足を洗いたいと思ってるんです」

 正直、こんな生活にはうんざりしていた。もうこの仕事とは決別し、そっと身を潜めて、ゆくゆくはこの街から離れて田舎で静かに暮らすのだ。

「これからは日の当たるところで平穏に暮らしたいんです。だから、こんな仕事もこれでもう最後にしようって」

 男の額から赤い直線が垂れ流されて、コンクリートに着地して、黒く滲んでいく。

「あっ、そうだ。これからは『一日一善』なんてどうでしょうか」

 どうだろう、とても人殺しのイメージとはかけ離れた心掛けではないか?

「たくさん人を殺しちゃった分、いい事しないと地獄行きですもん。これからは毎日人に優しくして、相殺しないとね」

 僕のお喋りは、とっくにひとり言になっていた。


 *


 最後の仕事をした翌朝は、酷い雨模様だった。目を覚ました僕は、窓の外の灰色の景色をしばし睨んだ。今日から僕は殺し屋から足を洗う。その再スタートの日は晴れやかな青空が良かったなあと口の中で呟いたが、すぐに考え直した。これくらいの土砂降りの方が、過去を洗い流せそうな感じがする。

 雨の音を聞きつつ、僕は昨日の自分の宣誓を思い出した。

「一日一善」。血を流していた男は、僕のあの誓いを聞いていてくれただろうか。聞いていてほしかったけれど、多分間に合わなかった。

 フィクションだったらああいうとき、最後まで話してから、とか、相手の言葉を引き出してから、とか、タイミングよくやるものだ。人がひとり死ぬ瞬間は、作品の見せ場になるからだろう。引きつけるような長台詞で、センセーショナルに描かれる。

 けれどもう長いことこの仕事をして過ごしてきた僕は、もういちいちドラマチックな演出なんてしていられない。これから死ぬ人間の最期を飾り立てるより、まだ生きる僕の仕事の精度が優先だ。

 だがもうそんな血腥い生き方は終わり。今日から僕は、善良な市民だ。

 布団から出て、歯を磨き、着替えを済ませる。朝食の準備をし、食べ、そして傘を持って出かけた。なんてことはない、ただ買い物に出かけただけである。

 大雨の中、傘を広げて街を歩く。コンビニで食べ物や日用品を買って、店舗を出て、また傘を広げた。

 僕の後ろに続いて、店から老婆が出てきた。白い髪をちょんと縛った、細腕の老婆である。

 彼女は傘立てを覗き込み、数秒ほど固まった。首を傾げて傘立ての周りをうろつき、また固まる。背筋が曲がっているせいもあるのだろうが、煙る雨の中でよたよた歩く老婆は、やけに小さくか弱く見えた。

「一日一善」。僕は今こそと、老婆に話しかけた。

「なにかお困りですか」

「あの、傘がないの」

 雨の音にかき消されそうな、霞んだ声が答える。

「この傘立てに入れてからお店に入ったのに、なくなってる。アジサイの模様の、白い傘。お気に入りだったの」

 他の客が間違えて持っていったか、或いは盗まれてしまったか。いずれにせよ、老婆は傘を失った。

「家はすぐそこなのよ。でもこの雨の中はつらいわね」

 老婆が頬に手を当ててため息をつく。

「このコンビニで傘を買えばいいのでは?」

 僕が今出てきたコンビニを振り返ると、老婆は一瞬口を閉じ、俯いて、そして首を横に振った。

「それはどうしてもだめなの」

 どんな理由なのかは分からないが、老婆はこの雨の中、傘を新調するつもりはないという。もしかして、お金がないのだろうか。年金暮らしで節約しながら生活しているとか。これほどの雨でも新しい傘を買わないくらいだから、よほどの理由があるのだろう。

 僕の頭の中で、「一日一善」の四文字がぐるぐる回る。困っている人が目の前にいるのだ、チャンスではないか。僕は自身の黒い傘を傾けた。

「もしよければ、僕の傘を使ってください」

「そんなの申し訳ないわ」

「おばあちゃんが新しい傘を買わないなら、僕が新しく買えばいい」

 老婆は落ちくぼんだ目を丸くして遠慮したが、その際に肩が軒の外にはみ出し、肩にぽたっと落ちてきた雫に驚いて跳ね上がった。老婆は困ったように灰色の空を見上げると、再び、僕の方に向き直った。

「そうだわ。よろしければ、あなたの傘に私を入れて、家まで送ってくださる?」

「えっ」

「すぐ近くだから、時間は取らせない。あなたの傘は大きいし、それに」

 老女はくすぐったそうにはにかんで、僕に微笑みかけた。

「もう少しだけ、あなたと話したくなってしまったわ。親切にしてもらえて、嬉しかったの」

 老婆の無垢な微笑みが、僕の胸にぐっと刺さる。

 これが「善」の反射か。人を殺してばかりきた僕は、この純粋な表情がやけに懐かしく感じた。こんな清らかな感情はいつ以来だろう。

「ではおうちまでお送りしましょう」

 僕と老婆は、間に傘を挟んで土砂降りの中を歩き出した。

 水溜りを踏んで、住宅街に向かう。

「アジサイの模様の傘はね、夫からの誕生日プレゼントだったの」

 雨の音が老婆の声を掠れさせている。

「私の誕生日は梅雨でね。傘も、アジサイの柄も、時期にぴったりで素敵だったわ」

「そうだったんですね。では、紛失してさぞショックだったことでしょう」

「ええ。大切にしてたのに」

 老婆は寂しげにぽつんと続けた。

「以前ね、夫の会社に傘を届けに行ったの」

 老婆が傘の向こうの天空を見上げている。

「朝までは晴れていたのに、夕立が急に襲ってきた日。自分もアジサイの傘を差してね。折角だから、傘を置いていくだけじゃなくて、一緒に帰りたいと思って彼が仕事から上がってくるのをこっそり待ってみたりして」

 面映ゆげに語る彼女は、さながら恋する乙女のようである。僕もつい、頬が緩んだ。

「仲がよろしかったんですね」

「ええ。でもね、夫はその日とうとう、仕事を終えてはこなかった」

 老婆がふうと、小さく息をつく。

「会社の裏の倉庫で首を吊っていたの」

 僕は思わず、絶句した。てっきり幸せな惚気話だとばかり思っていたのだ。老婆はちらりと、僕に目を向ける。

「もう十五年も前の話よ。だから私の傘も、新しく買ってもらうことも叶わないの」

「そうでしたか……」

 不思議と、人殺しの僕でもしんみりした気持ちになった。散々他人の命を奪ってきてなんなのだが、表の社会の死生観というのは、裏社会で見る死とは違って感じられる。よかった、僕にもまだ人情が残っていたようだ。

 老婆がひとつ、まばたきをした。

「こんなこと言ったら戸惑わせてしまうかもしれないけれど、あなたね、亡くなった夫にどこか似ているの」

 彼女はにこりと、僕に向かって目を細めた。

「ちょっと気だるげで、そのくせお節介で、とっても優しいところ」

「そう、でしょうか」

 老婆の柔らかな声が、僕の胸にちくりとした罪悪感を与えてくる。優しいなんて、僕にはいちばん似合わない言葉な気がする。しかしなにも知らない老婆はこくこくと頷いていた。

「ええ! 話せば話すほど、若い頃の夫を思い出すわ。本当のこと言うとね、あなたと話したいと思ってしまったのは、そのせいなの」

 僕は呆然と、雨で煙った道の先を見つめた。昨日仕事をしながら思い描いたような暮らしは、まさにこんな日常だ。人に優しくして、穏やかに暮らしたい。

「僕は……」

 雨粒が頬をかすかに濡らす。

「僕なんかと、旦那さんを一緒にするのは、旦那さんに失礼です」

「えっ?」

 老婆が聞き返してくる。僕の呟きは、雨の音で聞こえなかったようだ。

「一日一善」。毎日ひとつ、誰かに優しくする。

 自分がなぜそんなことを思い立ったのか、改めて考えてみた。

 多分僕は、そうすることで、たくさん人を手にかけたその罪を償える気がしていたのだ。残りの人生毎日、善を積んでいけば、多少は返済できるのではないか。

 小さな善行の積み重ねで、これまでの殺人を帳消しにできるとは思っていない。今更真人間になれるはずがない。

 それでも、少しばかりは、許されたいと思ってしまう。だからせめてもの、「一日一善」。

 遠くを見つめる僕に、老婆は不思議そうに唸った。

「うーん、なんだか難しい顔をしてるわね。事情は分からないけれど、あなたはとても優しい人だと思うわ」

 なにも知らないくせに。僕はちらりと、横目で老婆を睨んだ。だが老婆の方は、あどけなく微笑んでいる。

「こんなおばあちゃんのこんな我儘に付き合ってくれるんだもの。あなたは優しい人よ」

 傘に当たる雨粒が、ボタボタと音を弾ませる。

「一日一善」、これをこなしていけば、毎日こんな優しい気持ちになれるのか。もしかして僕はまだ、やり直せるのか?

 なんだか漠然と、未来に希望が見えた気がした。

「ありがとうございます。あなたが思うような人になれるよう、頑張ります」

 雨の中、静かな住宅街を歩いていく。周囲に人はいない。こんな大雨だ、大概の人は屋内にいる。傘から大粒の雫が滴り落ちる。右手にさげたコンビニの袋に、雨粒が当たる音がする。地面の水溜りに輪が生まれては、消える。

 老婆の足に合わせて、彼女の向かう方へと付いていく。閑静な街を抜け、入り組んだ路地を歩き、線路の高架下へと入っていく。一時的に線路を屋根にして雨が収まり、それを潜り抜けたらまた雨に覆われる。

 僕はふいに顔を上げた。

「あの、おばあちゃん。おうち、近くなんですよね?」

「そうね」

「結構歩きますね……」

 違和感を口にした、そのときだった。

 パッと、目の前に水鉄砲のように吹き出す鮮血が見えたのは。

 え、と思う暇もなく、背後から声がした。

「はいはい、ナイス誘導。おばあちゃん、なかなか演技派だね。女優になれるよ」

 そして僕の隣で、老婆が目を閉じる。

 僕は自身の胸に手を当てた。手のひらがベッタリと赤く染まり、そしてあっという間に雨水に洗い流された。

 ぐらり。目の前の景色が歪んで、僕の手から、傘の柄が零れ落ちる。なにが起こったのか、まだ脳が処理しきれていない。処理する前に、膝の力が抜けた。全身から骨がなくなったみたいに、体を支えられなくなる。クシャッと、コンビニの袋が悲鳴を上げた。いつの間にか僕は、硬いアスファルトに崩れ落ちていた。

「お見事だったよ。ひとけの少ないここへ、上手く連れてきてくれたね。あとは俺がやっとくよ」

 老婆の反対隣に、つなぎの男が現れる。雨にぐっしょり濡れていて、前髪が張り付いていて顔がよく見えない。雨のせいで視界が悪い。いや、雨のせいだけではない。僕自身の意識も、朦朧としはじめている。

 つなぎの男の声がする。

「いやいや、本当にすごいねおばあちゃん。『これ』は同業者の間でも有名な仕事人でね。ちょーっと恨みを買いまくってるんだ。これを仕留めるのはひと筋縄ではいかない。それがおばあちゃんの活躍のおかげでこのとおり! あとはこの雨で証拠を消しつつ、踏切にでも置いておけば任務完了だよ」

 霞んだ視界の中、僕の傘がアスファルトに転がっているのは分かる。老婆の白い髪が、雨を受けてみるみる萎んでいく。

「驚いた、あなたが言うような冷酷な人殺し像とはかけ離れているんだもの。人違いをしたかと思ったわ」

 老婆は相変わらずの柔らかな声をしていた。

「だけど間違いないのよね? この男のこの手が、あの人を殺したのよね。自殺に見せかけるために、狭くて暗いところに吊るしたのよね?」

 老婆が確認すると、つなぎの男が笑った。

「人は見かけによらないものさ。内側に秘めているものなんて、他人からは見えないからね。彼も、おばあちゃんの殺意に気づかなかったんじゃない?」

「そうね。夫のことを話して、少しでも思い出すようならまだ救いがあったのだけど」

 老婆の目がちらりと、僕に向いた。

「でも仕方ないわね。彼はたくさん人を殺めたんでしょう。大勢の中のひとりのことなんて、覚えちゃいないわ」

 アジサイの傘。

 一瞬、映像の欠片がフラッシュバックした。大雨の中、立ち尽くす年老いた女。手に持っていたアジサイ柄の白い傘を、地面に落とす姿。膝から崩れ落ちて、両手をついてすすり泣く背中。彼女の傘が、暴風に転がされていく光景。

 否、老婆のいうとおりいちいち覚えているはずがない。だからこれは、記憶の捏造かもしれないけれど。

「ありがとう。あなたのおかげで、夫の仇を討てたわ」

 老婆の声はもう、半分くらい聞こえていなかった。ただ僕は、消えていく意識の中、思う。老婆が新しい傘をコンビニで買わなかったのは、ただ単に僕をここに誘導したかったからだったのだなと。話しながら、一緒にここまで来る必要があったからだったのだなあと。

「一日一善」。毎日ひとつ、誰かに優しくする。

 たくさん人を殺したその罪を償える気がしていた。残りの人生毎日、善を積んでいけば、多少は返済できるのではないか。

 帳消しにはできずとも。今更真人間になれるはずがなくとも。特別幸福でなくでいい。ただ当たり前の平凡な日々を手に入れてみたかった。

 だけど罪を重ねた僕には、人に優しくするという贅沢すら、一日だって叶わない。この老婆が積み重ねた空白の十五年がそれを許さない。そしてそれほどの憎しみを抱えるのは、この老婆だけでない。他にも同じように僕を憎む人が、数え切れないほどいる。

 アスファルトに広がった僕の血液が、水溜りに滲んで流されていく。雫が爆ぜてきらきらしている。寒くて冷たい。

 雨の日に、愛する人を迎えに行って、傘を差して一緒に帰る。そういうの、憧れだったなあ。

 僕は重たい瞼を、ゆっくりと閉じた。

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