シルクロード 🚍

上月くるを

シルクロード 🚍




 墨汁のドラム缶をざあっと流したような粘っこい真っ暗闇に、飾り気のない二文字が赤く浮かび上った瞬間、ユキヤは飛行機の座席の腰をヘナヘナとくずおれさせた。



 ――敦煌とんこう



 これまで何度となく見慣れて来たこの文字が、いまさらこれほど目に沁みるとは。

 おれもまだまだ甘いな……微苦笑を伴う自嘲を悟られないよう欠伸のフリをする。


 

      🛬



 まったく今回の旅はついていない、この国で定刻に飛行機が飛ばないことは珍しくないが、丸三日も待たされたのは、ツアーコンダクターとして初めての経験だった。


 いくら食は広州にありといえど、三食とも同じメニューでは、さすがに閉口する。

 そのうえ白夜の街には人があふれ、甲高い広東語の喧騒はホテルも例外ではない。


 上得意の歴史研究会三十余名さまの不満が最高潮に達しかけたとき出発の知らせが届いたのはよかったが、軍用機しか用意できないと通訳に言われてガクゼンとした。


 それでもなんとか会長に頼みこんで、一同、荷物を持って飛行場へ急いだものの、その軍用機のオンボロさときたら、絵に描けば継ぎ接ぎを当てたいくらいで。(笑)


 まあまあと宥めて着席してもらうと、最後列の席から、控え目な悲鳴があがった。

 買い物大好き会長夫人の専属と思われる、団体中で唯一の若い女性のものだった。



 ――あの、すみません、このシートベルト、締まらないんですけど……。💦



 ええっ! 小型機の最後尾へ走ったが、どう工夫してもガチャンと嚙み合わない。

 会釈ひとつする気もないらしい中国人の客席乗務員たちは平然と眺めているだけ。


 そうこうするうちガタイのいいパイロットが乗りこんで来て有無を言わさず出発。

 かわいそうに若い女性は、壊れたベルトを手で押さえて舞い上がるしかなかった。



      🐫



 そうした顛末の末にようやく到着した敦煌だったので、正直、プロとしてあってはならないエモーションが、旅慣れた胸にセンチメンタルな雨粒を降らせたのだろう。


 苦労した分というわけでもないだろうが、以降の行程は比較的スムーズに運んで、莫高窟ばっこうくつの見学はもとより、夜光杯や翡翠が人気の観光土産店めぐりも上々だった。


 もちろん、太平洋戦争終結から半世紀足らずだった当時にありがちなアクシデント(たとえば、シルクロードを南下する列車内で「食事のたびに特別車両から一般車両を通って食堂車へ移動する、傲慢な日本人のお先棒を担ぐなんて、あんた、それでも中国人なの?!」と女性車掌が男性通訳に詰め寄るなど)はあるにはあったが……。



      🗾



 けれど……いまのユキヤは思う。

 侵略したんだから、当たり前だ。


 現在のウクライナ問題は複雑にすぎ、一概にロシアの非ばかり断定できかねるが、七十余年前の日本はたしかに中国へ侵略して、幻の満洲国まで築きかけたのだから。


 それにしても、このちっぽけな島国から出て行って、あの広大な大陸を奪い取ろうとはまさに正気の沙汰ではない、当時の日本人はみなオカシクなっていたのだろう。


 いや、当時だけではない、地下深く潜って敗戦の嵐をやり過ごしていた負の大樹の芯が徐々に地下茎を育み、地上に芽を出し、堂々の生態系活動を再開している……。


 

      🍇



 ところで、敦煌空港で感涙を抑えたとき、ユキヤは妻との間に葛藤を抱えていた。

 家を空けてばかりの仕事が愛し合っていた夫婦間に微妙な亀裂を生じさせていた。


 その時期をやっと乗り越えるとコロナが流行し、旅行業は開店休業状態に至った。

 直前に管理職に昇進したユキヤは、在宅のオンラインで部下に指示を出している。


 おかげさまでというと叱られそうだが、愛犬・ルルと妻との三人暮らしはいたって心地よく、最高級品の夜光杯を月光に透かせて、王翰の涼州詩を口ずさむ夜もある。



 ――葡萄美酒夜光杯 

   欲飲琵琶馬上催 

   酔臥沙場君莫笑 

   古来征戦幾人回

                          


 やがて定年退職を迎えた暁には、妻とふたり、今度は気楽な旅人として、オンボロ軍用機に難渋したころとは様変わりした敦煌を訪ねてみたい……それがひそかな夢。



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