真夜中の夢

棚霧書生

真夜中の夢

 夜よ明けないで。日が昇れば僕はまた……。朝が怖くて眠れない、明日を迎えたくないから眠りたくない、僕はただただベッドに横たわっていた。ふいに、グォオン……とどこかで重たく海の底に沈み込むような唸りがする。

「鯨が鳴いてる……」

 まるで鯨の鳴き声のようなそれは眠気のようにいつのまにか耳の中に忍び込み、僕をどこかへと引きずり込んだ。


 ゆったりとしたテンポのピアノの音で僕は眼を覚ました。腰が少し痛い。僕は自室のベッドではなく、どこかの施設の座席に座ったまま眠り込んでいたらしい。

「……?」

 薄ら暗い視界。ゆらゆらと揺れる光はろうそくに灯された火によるもののようだ。なんだか甘い香りがしている。どこか懐かしいような切ないような、そんな香りが。寝起きでぼんやりとした頭のまま僕はゆっくりと辺りを見回す。僕が座っていたのは円形劇場の客席のような場所だった。円の底にはステージがあり大きなグランドピアノが置かれている。ピアノを奏でているのは礼装の若い男性で、深い青色の髪が特徴的だ。ステージの床にはたくさんのカスミソウが置かれていて、ピアノを弾く彼の容姿とも相まってどこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 ピアノリサイタルに来た覚えはない。僕はどうしてこんなところで寝ていたのだろう。ピアノ演奏を聴きながら、記憶をたどる。やっぱり自室のベッドで寝たところまでしか思い出せない。さらにおかしなことに、僕はベッドには寝間着に着替えてから入ったはずなのに今はなぜか高校の制服を着ている。

 ポケットを探るとスマホが入っていた。が、演奏中に電源を入れるのはマナー違反だろうと思って、またポケットに戻す。客席には僕以外にもちらほらと人がいて、それぞれが座っている席はまばらになっている。ピアノの演奏が段々と佳境に入り、音に熱がこもっていく。青髪の男が最後の一音まで弾き終わる、一瞬の静寂の後、僕たちは彼に拍手を送る。

 男は照れたように笑い、立ち上がって客席にありがとうございますと繰り返し述べた。そして、深々と一礼するとおもむろに口を開く。

「皆様、“真夜中の夢”へようこそ! 私は当館の支配人、鯨井と申します。どうぞお見知りおきを。皆様との出会いに感謝します。さて、すでにご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが初めてのご利用の方のために、私鯨井から当館について少しばかりご紹介させて頂こうと思います。お付き合い頂ける方はどうぞそのまま座席にかけてお待ち下さい」

 ここは娯楽施設かなにかなのだろうか。鯨井の慣れた調子の口上に僕はそう思った。

「当館、“真夜中の夢”は皆様に現実離れした安らぎと心地よさを提供いたします。代金は結構ですので、どなた様も心ゆくまでお楽しみください」

 僕は鯨井の言葉に耳を疑う。この円形劇場だって維持するのに相当お金がかかりそうなのに、代金がいらないとは、どうやって運営しているのだろうか。

「初めての方は後ほど鯨井のもとまでお越しください。ルームキーをお渡しします。この劇場の階下はゲストルームとなっていて、お一人様に一部屋ずつお貸ししております。もちろん料金は頂きませんし、宿泊日数も問いません。好きなだけご滞在ください。生活に必要と思われるものは一通り各お部屋の方にご用意しておりますが、なにか不足がありましたら鯨井までお申し出ください」

 僕はいよいよ訳がわからくなってきた。鯨井の話を信じるとするならば、ここは無料の宿泊施設ということになる。しかも劇場付き。そんな場所が本当に存在するのか……僕は知識を総動員して過去にそのような話を聞いたことがないか思い出そうとして、ちょっと上を向いた。そして僕はこのとき視界に飛び込んできたものによって、ここが現実に存在する場所ではないと確信する。

 視界いっぱいに広がる星空。暗闇にびっしりと釘のように打ち込まれた星々はどこか冷たい光を放っている。円形劇場には天井がなかった。雨が降ることが一切想定されていない造り、こんなの建築物としてありえない。一方で壁はちゃんとあって、EXITと緑色に光る表示の下に普通の片開きの扉が一つとそのちょうど反対側に観音開きの大きな二枚扉がある。

 僕は席から立ち上がって、空と扉と鯨井を順番に目玉で追って、しばらく動けなくなる。

「君、初めての人?」

「うわっ!?」

 僕は突然、知らない男性に話しかけられた。たぶん僕の父親と同じくらいの年齢であろうその人は、細い縁の眼鏡をかけていて、人の良さそうな雰囲気を醸し出していた。

「ごめん、脅かす気はなかったんだ。でも、なんだか困ってるみたいだったから……。ここはとてもいい所だよ。君もきっと気にいる。会社もないし、労働もない。面倒な上司や同僚だって……、あっ、君はまだ学生さんかな。でも若いうちに“真夜中の夢”に来られたのは素晴らしいことだよ。ここは私たちを痛めつけるものは、なにもないからね」

 僕は彼になんと会話を返せばいいのかわからず、そうですか……とつぶやく。

「ごめん、私ばかり喋ってしまったね。とりあえず一度、鯨井さんと話しておいで」

 眼鏡の男性の言葉に押され、僕はステージにいる鯨井のところへ向かう。段々と鯨井に近づいていくと僕はあることに気がついた。鯨井はかなり背が高い二メートル以上はありそうだ。そして肌が異様に蒼白い。ろうそくの光が照らし出す彼の肌は陶器のようで、触ればヒヤリとしそうだった。

「こんばんは、咲山朝陽クン」

「どうして僕の名前を……」

「細かいことはいいじゃないですか。君は考えすぎる。まあ、だから“真夜中の夢”に呼ばれたのでしょうけどね」

 鯨井はニヤニヤと笑って、意味のわからないことばかり言う。僕は緊張していた。鯨井はきっと人間じゃない。だけど、この変な空間にいつまでもいるのは怖かった。だから僕は意を決して

「出口はどこなの?」と聞く。

 すると、鯨井は長い指でEXITと表示の出ている扉を指しながら「あそこです。出たければいつでもどうぞ」と案外あっさりと答えたのだった。


 僕は鯨井から貸し与えられた部屋のベッドで寝転んでいた。他にやろうと思えることがなかった。鯨井と別れた直後、僕は真っ先にEXITから出ようとした。が、扉を開けた先に地面は無く、暗い空が延々と続いているだけだった。近くにいた親切な人が落ちかけた僕を助けてくれなければ今頃どうなっていたか。考えるだけで恐ろしい。

 僕は枕に顔を埋めた。ふーっとゆっくり息を吐くと張っていた緊張の糸が少しずつ解けていく。

「皆、現実が嫌だったのかな……」

 ここにいる人の共通点、それがさっき僕が落ちかけたところを助けてくれた人とも話して見えてきた。その人は昔とても仲のいい友人と一緒に会社を興したらしい。だけど、経営はあまり上手くいかなかった。段々と友人との関係は険悪になっていき、資金繰りも困難を極めていた。明日なんて来なければいいと思いながら寝たら、その人は“真夜中の夢”に来ていたという。

「大人は色々あるな……」

 ぽつりとつぶやく。なんだかやるせない気持ちになってきて、このまま寝てしまおうかと眼をつぶったところで、ピンポーン! と呼び鈴が鳴った。ピンポーン! ピンポーン! ピピピピンポーン!

「いや、どんだけ鳴らすんだよ。小学生か」

「朝陽ィ! 遊びに来てやったぞ! 早く出てこいよ!」

「え!? この声は!」

 僕を呼んでいる扉の向こうの声には聞き馴染みがあった。僕はベッドから跳ね起きて扉へと駆ける。カチャン……、鍵を開け、恐る恐る扉を開いていく。

「……駿也?」

「おう! ゲームしようぜ、朝陽ィ!」

 嘘だろう。駿也がいる。目の前の男は間違いなく駿也だ。

「駿也ッ!!」

 僕は恥も外聞もなく、駿也に抱きついた。

「うえッ!? どうしたキモいぞ朝陽! 離れろって!」

「嫌だ! 離れない!」

「爆泣きじゃん、マジでなんなん?」

「う、うるさいっ! 僕に断りもなく今までどこ行ってたんだよ!」

「ええ……キモッ、お前は俺の彼女かよ」

 僕は平静ではいられなかった。だってそうだろう。死んだはずの親友に、駿也にまた会えるなんて思ってもみなかったのだから。


 僕は“真夜中の夢”に滞在し続けている。鯨井のピアノを聴いて、駿也と遊んで、たまに他の来館者の人とも話して、生活していくのに困らないからズルズルと居続けてしまう。

 たまにEXITの扉の前まで来て、立ち止まる。何回も読んだ扉につけられた注意書きをまた読み返す。

「こちらから出られますと再入場することはできません、だろ? お兄チャン何度読み返せば気が済むんだい?」

「あっ、この間の。あのときはありがとうございました」

 僕に話しかけてきたのは、ここへ来た当初、僕が扉の先へ落ちそうになったのを助けてくれた人だった。

「今になると、余計なことをしちまったのかなと後悔してるよ」

「余計なことだっただなんて、僕は思ってませんよ!」

「ここのところ、毎日出口の前まで来て悩んでるじゃないか。出たいのか? この夢から」

「正直な話、出たいのか出たくないのか自分でもはっきりとはわからないんです……」

 駿也とは別れたくない。でも、あれは駿也なのかという疑問もある。僕はいつまでもここにいて、夢を見続けていいのだろうか。

「ここから出た人っているんですか?」

「いるよ。何人かね。でも暗闇に落ちて二度と戻ってこないから、どうなったのかは俺にもわからない。現実に戻ったのかそれとも……」

 扉の先の暗闇に飛び出したところで、元の世界に帰れるのか確証はない。鯨井はいつでも出ていっていいとは言っていたけれど、僕たちが元いた現実に帰れるとは一言も明言していない。

 だけど、僕にはここでいつまでも駿也と一緒にいるのは、本物の駿也を裏切っているような気がしてならない。

 僕はEXITの扉を開け、息を吸い込んだ。目の前にはただただ暗闇が広がっている。僕は自分の心臓がバクバクと鳴っているのを感じた、そして……

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